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    かけはし2019年1月14日号

戦争取材の意義と「自己責任」論


12.26

ジャーナリスト守る環境を作れ

安田純平さん囲みシンポジウム

 二〇一八年一二月二六日、東京・文京区の文京区民センターで「安田純平さん解放とジャーナリズムを考える〜戦場取材の意義と『自己責任』論」と題する緊急シンポジウムが開催された。雑誌『創』編集部と新聞労連など複数の団体が呼びかけた。
内戦下のシリアで二〇一五年に行方不明になったフリージャーナリストの安田純平さんは、二〇一八年一〇月二五日午後、無事日本に帰国した。一方で、「安田さん生存」の一報が流れると、ネット上には「自己責任論」がわき上がりバッシングの嵐が吹き荒れた。当事者を吊るしあげるような間違った非難は過去何度も繰り返され、そのたびにジャーナリストらが精力的に反証を試みてきた。本集会もその一環として開かれた。

 吹き荒れた
デマ宣伝

 午後五時三〇分。会場前には入場を待つ参加者の長蛇の列があった。「他の利用者の迷惑になるから」と会場職員が主催者に整理を促す。全員に整理券を配布し六時には予約者から入場。その後当日券を求める来場者が入場した。次々と座席が埋まっていく。
午後六時半に篠田博之さん(雑誌『創』編集長)の司会で開会。まず安田純平さんが発言した。
「二〇〇三年に私が拘束された時、現場にいたのは一般人や市民であり、『テロリスト』ではなかった。もし『テロリスト』と烙印を押されれば、その人たちに対しては何をしてもいいということになる。つまり殺すことも許される。だから自分はテロリストと呼ばなかった。自分は人殺しをするわけにはいかないからだ」。
「『人質』になったのは今回が初めてだ。二〇〇四年のイラクでの出来事はたった三日間拘束されただけ。だから人質とは言えない。「私が何度も人質になっている」など巷にはデマが広がっている」。「日本政府が金を出したという主張をしているのは、シリア人権監視団だけ。真偽は不明だ。そもそも支払いを証明するような公的な機関がない。自己責任論を振りかざす人たちは、事実などどうでもいいと考える人たちであり、そういう人には何を言っても通じない」。安田さんは堰を切ったように説明を続けた。

 「生きることは
迷惑をかける」

 共同通信社でカメラマンとして働いてきた原田浩司さん(現編集委員)がマイクを握った。原田さんは一九九六年の「在ペルー日本大使公邸占拠事件」などを取材。現在は同社で部下のいない部長職に就いているという。安田さんは帰国直後の会見で、まず「謝意」を示した。海外のメディアは安田さんが謝ることに疑問を呈したが、この「謝意」は実に便利な言葉で、「ごめんなさい」と「ありがとう」という意味を持つ。そして世論は、この言葉に納得したと見るべきだろう。
原田さんは安田さんの対応を評価した。そして「人間は生きていること自体で、いつも誰かに迷惑をかけている。謝意は本質的な問題ではない。私は、ゆるくて大らかな社会をめざしている」。原田さんは自身の信条を明るく簡潔に語った。
ジャーナリストの綿井健陽さんに順番が回った。綿井さんは三年前のこの会場でのシンポジウムに言及。「あの時も今日のように満員だった。こういう事件が起きた時にだけ、ジャーナリストは注目される。今年だけでも約八〇人のジャーナリストが死んでいる。トルコでの死者が最も多い。しかしそれ以上の数の地元の人々が、戦乱の犠牲になっている」と指摘した。

御用政治学者の
低俗さを批判

 テレビキャスターの金平茂紀さんが口を開いた。「安田さんが帰国した時、私は外国で取材していた。自己責任論はそもそも高遠さんらボランティアが拘束されたときに始まった。当時私はワシントン支局にいた。日本では非国民扱いのバッシングがあったが、アメリカではこんなことは起きない」。「バッシングは現政府を支持する人たちの声だ。
三浦瑠麗(るり)? 何ですか、あの政治学者は。不愉快です。ああいう人物を起用するメディアもいったい何なのか」。
金平さんは、眉間に皺をよせながら批判を続けた。「大手メディアが戦場に行かず、フリーに行かせる。そして出来高払い。こういう構造を打ち砕くべきだ。こういうことを言うと僕は叩かれるが、大手メディアも危険を冒して行くべきだ」。「排外主義がはびこっている。この空気は何なのか。日本主義ともいうべき現象で、他国のことはどうでもいい。自分達には関係ないと思っている」。金平さんはこの日もやはり、日本の大手メディアの現状を嘆いた。
中東ジャーナリストの川上泰徳さんは、「排外主義が蔓延するなかで戦争が遠くなっている。新聞社やテレビ局は責任を持たない。そんななかで国家の情報統制に勝つのがジャーナリストだ。市民のために伝える。伝えるために活動する。今の中東の情勢は日本の未来かも知れない」。と語った。

 戦争は最大の
取材対象!

 アジアプレスの野中章弘さんは、ジャーナリストの原則的な立場を、以下のように主張した。
「紛争地へは隣国から不法入国する。これが当たり前の手段だ。国家を監視し、隠そうとしていることを暴く。それがジャーナリストだ。だから国家の勧告やコントロールに従わないのだ」。「安全な戦争などない。ロバートキャパ、沢田教一、そして登山家もそうだ。命を危険にさらす。『自己責任論』は、そんな仕事を知らない人の単なる感想に過ぎない」。「戦争は最大の取材対象だ。リスクを冒すからこそ多くの人の命が救われる。防弾チョッキはかえって目立ち標的になる。単独で行動する方が安全なのだ。私の周りにはジャーナリストを気取っている人は一人もいない」。野中さんは感情を排し、終始静かでゆっくりとした口調で論じた。
新聞労連委員長の南彰さんは、朝日新聞の記者。昨年九月に委員長に就任した。「私たちは、『安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して 』という声明を出した。(※)ジャーナリズムの挑戦をどう支えていくのか。フリーも組織も、どう支えあっていくのかが課題だ」。
休憩の後も問題提起が続いた。効率的な集会運営のために、事前に配布された質問用紙を回収し、パネラーが順番で応える形式を採った。

 日本政府は何
もしなかった

 予想通り安田さんへの質問が多かった。「髭を伸ばしているのはなぜか、いつも黒い服を着ているのはなぜか」。「ミスを犯したというが詳しく教えて」「一番つらいことは」「これからどうするつもりか」などが出された。全員への質問には、「救出のために日本政府はどう動いたのか」など。これに対し、川上氏は、「結論として日本政府は動いていない。身代金も払われていない」との見方を示した。綿井さんは「なぜ解放までに三年もかかったのか。安田さんだから耐えきれたが、今後同じことが起きたらどうするか。仲間のジャーナリストたちはどうするのか」と問いかけた。
原田さんはここ数年、沖縄に通い続けていると紹介し、「沖縄の光景は米軍がイラクでバグダッドを占領した時と同じだ」と断言した。金平さんは「現政権が信用できない。それが一番の問題だ。自国民を救わない政府って何ですか。とにかく安田さんが戻ってきた。これからも一緒に取材していきたい」とエールを送った。

ジャーナリスト
守る体制を!

 「社会の空気が冷ややかだ」と切り出したのは野中さんだ。「大学生五〇人に身代金について聞いたところ、支払うべきと答えた者は三人に過ぎなかった。沖縄に犠牲を強いて平然とし、若者は集会にも来ない」。「日本国民であることを誇れない政府だ。社会の冷めた空気がここ一〇数年で進んでいる」と述べた。
南さんは「自分たちジャーナリストは弱い存在であるとしっかり認識したうえで、周囲のバックアップ体制を作るべき」と提起した。「ジャーナリズムは分裂すべきではない。市民とともに支え支えられる体制を作っていくべきだ」と締めくくった。
演壇に上がった七人以外にも、会場には著名な文化人や作家、フリーランスの姿があった。総勢五〇〇人という聴衆の数に、今回の事件への関心の高さがうかがえる。ホール後方の物販コーナーは、書籍を買い求める人でごった返していた。 (佐藤隆)

※2018年10月25日、日本新聞労働組合連合(新聞労連)が中央執行委員長・南彰氏の署名で発表した声明。内容は同労連のHPを参照のこと。

BS1スペシャル

「隠された日本兵のトラウマ〜陸軍
病院8002人の『病床日誌』を視て

大門健一

 この八〇〇二人という数字は、日中戦争から太平洋戦争と続く八年間に、千葉県の国府台陸軍病院に送られてきた精神を病んだ兵士の数。しかし、日本軍と政府は日本軍には一人も精神を病んだ者がいないと内外に公言してきたが故に、すべては秘密裡に進められたし、「病床日誌」というカルテもすべて闇の中に葬り去られようとしていたのである。したがって、家族もまた今回初めて見たのであり、多くの人も今回初めて真相を知った。
 冒頭のナレーションで「戦争は人を壊す」という言葉が流れる。「戦争は人間の殺し合いだ」ということは知っていても、この記録を観て「戦争は人を壊す」ということを初めて実感した人が多いと思う。私もそのひとりだ。

むしばまれた兵
士たちの精神
記録は日中戦争時には、中国の北支から病院に送られて来た兵士が多い。それは、北支の広大な占領統治区を少ない軍隊で守らされ、長大な輸送路を守ることを強制された結果、狙い撃ちにさらされ、無差別攻撃を受けるという緊張と恐怖が兵士にストレスやトラウマを与え、精神をむしばんでいったのである。さらに上官による暴力がそれに拍車をかけ、「誰のために、何のために戦っているかわからなくなり、精神的な病気を深く進行させたのである。そのため、眠っている時に幻視、幻聴に襲われ、さらに悪感に襲われる。全身がけいれんし、まさに映像は「人間が壊れていく姿」を写し出していく。日中戦争の初めには六〇〇人であった数が年々増え、ついには一〇〇〇人を超す。
太平洋戦争が始まると、病院に送られて来る兵士は、ニューギニアなどの南方方面の兵士が多くなる。ひとつは艦砲射撃や空襲による恐怖が原因であり、ひとつはマラリアによって脳がやられ、神経障がいを引き起こす。また上官によって人を殺すことを命令され、その中には自分の娘や子どもの年頃の者もいたという。こうした場面に直面した者は、だれでも精神を病んだという。自責の念も発病する大きな要因だということがわかる。
さらに、夜通しの行軍、それに対する襲撃は疲労、不安、恐怖も合わさって精神を病む兵士は一挙に増大する。しかし、南方から送り返された兵士は、ごく一部で圧倒的多数は戦場に見捨てられ、殺されたという。ニューギニア島から病院に連れてこられたのは五八人で、二〇万人のうち一八万人が戦場で、なんらかの形で生命を落としたことをみればそれは明白である。悲惨という他はない。
また、病人ではないが多くの兵士が「自分だけが生き延びた」ことで自分を責め続けているという記録が報告されている。これも特に日本軍の中に他国より例が多いらしい。
また、一九四四年〜四五年に向かって戦局が悪化すると政府と軍部は数合わせのために、内密で障がい者を戦場に送ったという記録も残っているという。日本軍の悪質な戦争政策はここにも凝縮している。
戦争の恐怖のために、年少兵に自殺した兵士が多かったという記録もある。これも病気の重要な一部である。自殺が下級兵士に多いのは、上官の暴力をはじめとして、多くの矛盾と圧力が下級兵士に集中したことの証明。理由もない私的制裁というのは日本軍特有の体質であり、病人を増やした一因であることがわかる。
精神を病んだ兵士に対しては眠ること以外に薬はなく、なんの科学的根拠のない電気治療は、苦痛を強制するだけだったらしい。太平洋戦争の後半には送られて来る病人は三倍になったが収容する施設はなく治療というより、国民から隠すことが目的化された。
そのため病気になった兵士は戦後も故郷にも帰れず家族のもとに帰れば、就職もできず、施設も介護もシステムもないまま、せいぜい国立療養所に入れられ、生活保護もなく貧困のまま投げ出され、差別を受け続けた。
まさに「戦争は人間を壊す」のである。このフィルムがなければ、多くの事実は闇の中に消えていただろう。



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