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    かけはし2019年3月18日号

歴史から学ぶ韓国の民衆運動


3.1

関西共同行動連続講演会第1回

「3・1朝鮮独立運動から
100年、韓国の社会運動」


3.6

安和桟橋ゲート前に100人

辺野古の海に赤土土砂を入れるな

一緒に埋め立てに反対しよう

 【大阪】関西共同行動主催の今年連続講演会の一回目が二月二五日、エルおおさかで開かれた。
 中北龍太郎さん(共同代表)はあいさつの中で、「韓国憲法には冒頭に、三・一独立運動によって建国された大韓民国政府の法統という言葉が掲げられている。文在寅政権はこの運動により打ち立てられた政府を韓国建国の起源ととらえ、一九一九年の闘いと李承晩大統領の不正選挙に怒った民衆の闘い四・一九民主革命(1960年)の闘いが韓国憲法の骨格になっていると述べた。さらに三・一宣言の一節『人間を大切にする精神は新しい文明の希望の光だ』を紹介しながら、「四・一九民主革命、軍事独裁政権打倒の闘い、ろうそく革命と韓国の民衆運動は発展を遂げてきた」と語った。
 三月一日前の新聞記事では、国家の起源(建国の時期)を文在寅政権は臨時政府の樹立一九一九年四月、韓国保守系は大韓民国樹立一九四八年八月、北朝鮮政府は朝鮮民主主義人民共和国樹立一九四八年九月としているなどの解説記事が載った。
文京洙さん(立命館大学特任教授・国際高麗学会日本支部理事)が「三・一朝鮮独立運動から一〇〇年―韓国の社会運動」と題して講演した。今回はその第一回「三・一独立運動と韓国民主化運動の歴史」、第二回は三月一五日「朝鮮半島の平和と非核化の展望」で
ある。     (T・T) 

T

三・一独立運動と
その後の独立運動

独立運動は日本の植民地支配、つまり総督府・憲兵警察・土地調査事業・会社令などによる武断統治下での運動であり、朝鮮国内の秘密結社(独立義軍府:復辟主義、大韓光復会:共和制)の運動と国外の独立運動団体組織とそれによる学校設立運動が展開された。
一九一八年一一月吉林省で大韓独立宣言書(戌午独立宣言書)」、一九一九年一月高宗の死去、同年東京で留学生による二・八宣言などを背景として、三月一日独立宣言が発表された。運動は宗教家、学生、知識人が主導し、民族代表は宣言発表後自首。タプコル公園で宣言書を朗読後デモを開始。この運動はソウルから主要都市、さらに地方に広がり、農民・労働者・商人が積極的に参加した。三カ月間で七五〇九人が死亡、四万六九四八人が逮捕された。逮捕者は、農民が五六%、学生知識人が一九%だった。

 この三・一独立運動は、民族形成の決定的な転機となった。これ以後の民族運動は2つのリパブリック(民国と共和国)の起源になった。高宗は国民に人気があったが、復辟運動は退潮していった。
ひとつの流れは大韓民国臨時政府の統合と発足(1919年、李承晩、金九など)と韓国光復軍で、これは民国の基盤になった。
もう一つは社会主義運動の台頭で、中国五四運動や日本の米騒動、大正デモクラシーに影響を与えた。社会主義運動には、一九二二年コミンテルンの極東民族大会による影響が大きかった。社会主義運動と言っても、朝鮮共産党(1925〜28、党員はその後は日本共産党に加入)、六・一〇万歳運動、光州学生運動、抗日武装闘争(20年代の義烈団、30年代の抗日遊撃隊)、中国で組織された武装闘争(朝鮮独立同盟)などの流れがあり、これらは共和国の基盤になった。朝鮮独立同盟は武漢で結成され、中国内戦に参加した。

U

朝鮮半島の分断
と冷戦体制

 
朝鮮半島は、米ソ両軍により分割占領された。一九四五年二月のヤルタ会談でも朝鮮の独立が話され、ソ連はドイツ敗北三カ月後に参戦を約束し、丁度三カ月後の八月八日深夜(8月9日)に対日戦に参戦した。このソ連参戦が朝鮮半島の分断に決定的な役割を果たした。
日本は近衛上奏による終戦のチャンスもあったが、もう一度勝ってから講話する(一撃講和論)にとらわれ、一九四五年五月日本の最高戦争指導者会議、六月御前会議、七月ポツダム宣言と経過する中、戦争はずるずると引き延ばされた。
八月一五日朝鮮半島三八度線の南にいた朝鮮軍(日本軍)は米軍が、三八度線の北にいた関東軍(日本軍)はソ連軍が武装解除を担当し、そのまま分割占領となった。そして信託統治構想が出る。委任統治は植民地ということだから、当時としては信託統治(臨時政府の樹立と5年間の4大国による後見)のやり方しかなかったが、この構想は挫折した。
この過程で、親日派が復活した。

 各地の人民委員会による自治の経験に基づく独立の動きがあったが、すべて米ソに潰された。ソ連軍の平壌進駐(8・24)、米軍のソウル進駐(9・9)、そして米ソ委員会の決裂(47年)により、米国は朝鮮の戦後処理問題を国連に持ち込み、国連監視下で選挙を実施しようとするが、これをソ連が拒否。その後は、五・一〇南の単独選挙で大韓民国が成立。北は独自に選挙を実施し朝鮮民主主義人民共和国が成立した。
人民委員会の経験が最も強く残っていた済州島では、南の単独選挙に反対する住民の武装闘争(4・3事件、1948年4月)が起き、徹底的に弾圧された。

 ◆朝鮮戦争と東アジアにおける分断体制
中国革命の勝利は、朝鮮戦争の勃発に大きな影響を与えた。中国内戦に参加していた朝鮮人は帰国し朝鮮戦争に参加した。一九四九年中国革命の勝利後北朝鮮軍の南への侵攻を毛沢東とスターリンが許可している。
米軍の犠牲者三万人、南北朝鮮と中国義勇軍三〇〇万人の犠牲、一〇〇〇万人とも言われる離散家族。
この戦争で、東アジアの冷戦体制が確立した。社会運動は人的にも思想的にも全滅し、韓国では、植民地権力を継承する反共体制がつくられ、反共イデオロギーが草の根レベルで定着し、社会運動は崩壊した。
日本では、植民地主義の未精算のまま反共冷戦体制に編入され、警察予備隊(50年8月)、単独講和・日米安保(52年4月)を経て、戦後民主主義・平和主義が台頭し、六〇年安保闘争を経験する。

◆冷戦体制の産物としての日韓条約
日韓条約第二条で、大日本帝国と大韓帝国との間の一九一〇年八月二二日以前の条約は無効、日韓請求権をあいまいにした「日韓請求権および経済協力」により、五億ドルは独立祝い金として支払うことで、請求権問題は完全かつ最終的に解決されたとした。
日本では、この五億ドルにより韓国は高度経済成長を達成したと言われているが、この時期に韓国に入ってきた外資は四〇億ドルで、その半分は韓国のベトナム戦争参戦による見返りだった。
さらに欧米は一〇億ドルを出している。当時の日本大衆のエネルギーは、戦争被害者のエネルギーであり、李承晩ラインに対する反発、戦後の在日に対する反発が強く、植民地支配に対する反省の意識は弱く、初期の日韓条約交渉日本側首席代表の久保田貫一郎(外務省参与)は、植民地時代に日本は良いこともしたと発言(韓国近代化論)。一九世紀末からの日本は欧米の圧力とよく戦い、アジアにとってよいことをしたという意識が根強くあり、日韓条約はこのような時代につくられた。
韓国では、新植民地主義反対、つまり歴史問題として激しい反対運動が闘われた。

V

分断体制(新植民地主
義)克服を目指して

 
日本では冷戦後の他者認識に変化が起きた。細川非自民連立内閣の所信表明、河野談話(93年)、「村山談話」の「痛切な反省」・「心からのお詫び」(95年)、日韓パートナーシップ共同宣言(98年)、日朝平壌宣言(二〇〇二年)などがその現れ。しかしその後バックラッシュが起き、歴史修正主義・国家主義が勢力を広げ、今や「改憲勢力が参議院でも三分の二超」。

 韓国民主化運動の出発点は、李承晩政権を倒した一九六〇年四月学生革命だ。この四月革命では、政権の不正選挙に反対する馬山の中学生・高校生が立ち上がり、大学生に広がった。学生運動は日韓条約反対闘争・朴正煕憲法改悪阻止闘争の大きな勢力として台頭した。そしてこれを基盤に七〇年代の民主化運動がつくられていく。
学生・野党・宗教界(都市産業宣教会)・都市の底辺労働者(金臺壱の焼身自殺)・YH貿易女子労働者たちがこの運動を担った。

◆80年代の民主化闘争を担った「運動圏」の時代へ
八〇年代民主化闘争は光州事件を契機とし、社会運動が急進化した。朝鮮戦争により完全に壊滅した社会運動が、よくぞここまで復活した。
光州事件は決定的な意味を持った。それまでの運動は政府にお願いする運動だった。分断克服運動としての新しい民主化運動の勢力は「運動圏」とよばれる。
朴政権後の新軍部といわれる野蛮な軍事独裁政府を米軍が支えていることが大衆的に明確になった。光州市に市民を弾圧するため空挺部隊を移動させる許可を米軍が出したからだ。七〇年代までは韓国市民は米国大好きだったが、光州事件後反米民主主義に変わった。ということは、北と共鳴するようにもなったということで、「運動圏」のこの潮流をNL派(主思派・民族派)という。「運動圏」のもう一つの潮流はマルクス主義で階級対立は非和解的とするPD派。「運動圏」の他に、中産層(金融・出版・言論・教育・公共部門)の台頭が見られる。労働運動七・八月大闘争(87年)を闘い、民主労総が結成され、生産点(製造業・運輸業)での組織労働者の勢力が飛躍した。

コラム

誰のための祝日か

 平成天皇の退位により、皇太子の新天皇即位を奉祝するという口実で四月二七日(土)から五月六日(月)までが一○連休になるという。この連休は、祝日法が定められた一九四八年以降、最長のもの。また、新天皇が公に即位したことを示す「即位礼正殿の儀」が行われる一○月二二日も今年に限り祝日にする法律も先の参院内閣委員会で共産党以外の賛成多数で可決された。
 働きすぎの日本人という視点から考えれば休日が増えることは決して悪いことではないが、この一〇連休に関しては、その動機が不純極まりない。その趣旨とやらは、「皇室典範特例法を踏まえ、天皇の即位に際し、国民こぞって祝意を表するために、即位の日及び即位礼正殿の儀が行われる日を休日(祝日の扱い)とする」とあるが、非正規雇用労働者、母子家庭、傷病者などの社会的弱者のことは、まったく切り捨てた連休だと言い切れる。特に山谷、寿、釜ヶ崎の日雇い労働者は深刻だ。
 週刊東洋経済の記事によれば、「前例のない『GW10連休』、交差する期待と不安」というタイトルで、「観光業界は歓迎も、株価の変動リスク高まる」として、銀行などの金融機関が一斉に連休に突入するため、振込などが連休明けに集中し、膨大な取引になる可能性が高く、システムの負荷が一気に高まるリスクが想定されると書いている。また、和号の改元により事務手続きの負担増加が見込まれるとも記している。ネットニュースでも「【悲報】天皇即位の10連休決定でレストラン悲鳴/市場も銀行も止まって客も激減『良いことなし』『潰れる』」の見出しが踊っていた。さらに医療機関も休みとなれば救急外来が増加し、医療現場もパンクすることは間違いない。つまりこの連休は、社会的にも経済的にも国民の負担を強いる天皇即位奉祝に名を借りたアベ政権による人気取りの祝日なのである。
 企業や金融機関の負担増は政府追随による自業自得だとしても問題は、二○○○万人を超えるともいわれる非正規雇用労働者の生活である。時給、日給で生活の糧を得ている人々にとってはまったくの死活問題だといってよい。旅行だ、観光だという余力はまったくないだろう。食べるだけで精いっぱい。企業活動が停止すれば、自動的に仕事にあぶれるのは目にみえている。
 母子家庭や子育てをしながらの労働者もそうだ。保育施設が休みとなれば仮に仕事があっても出勤できないのは必至だ。
 政府は、医療については「救急対応や外来患者の受け入れに向け自治体が必要な体制をとれているか確認し住民に周知する」とか、保育については「連休中に保育施設へ万全を期す」と発言しているが、全て人任せであることが伺いしれる。
 先に記したように保育施設のみならず、幼稚園、学校も休みになることもあたりまえ。教育関係者によれば、夏休みの四分の一にあたるゴールデンウィークの一○日にわたる連休は、学習習慣を欠如させる可能性もあると指摘している。
 ここで改めて考えてみれば日本の祝日の多くは、戦前の皇国史観にそって制定された祝日が名前を変えて継続していることがわかる。建国記念の日の二月一一日は紀元節、春分の日と秋分の日は、それぞれが春季、秋季皇霊祭、一一月三日の文化の日は明治天皇の誕生日、そして一一月二三日の勤労感謝の日は新嘗祭といった具合である。
 天皇のおこぼれによって国民の祝日があるとすれば、それこそ民主主義とはいえないだろう。五月一日のメーデーこそ祝日にするべきである。(雨)


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