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    かけはし2019年4月15日号

朝鮮半島平和と非核化の展望


3.15

関西共同行動 文京洙さん連続講演会 第2回

3・1独立運動から100年―韓国の社会運動

 【大阪】連続講演会の二回目は、三月一五日エルおおさかで開かれた。「3・1独立運動から100年―韓国の社会運動」と題した文京洙さん(立命館大学特任教授、国際高麗学会日本支部理事)の講演の続回講演として行われた。一回目は、三・一独立運動とその後の独立運動・分断国家の成立と朝鮮戦争及び日韓条約・民主化運動と光州事件までの歴史だった。二回目は九〇年代以降の市民運動がろうそく革命に上りつめていく流れの「朝鮮半島の平和と非核化―どう展望するか」と題した講演だった。

1 韓国の民主化運動

  80年代

 朝鮮戦争が勝者のいない状態で休戦し、痛み分けで一層分断が深まった。韓国では草の根のレベルからの反共で、ゼロからの再出発だった。分断を克服するための最初の闘いは学生による一九六〇年四月革命だった。南北の分断は非常に強固で、親米反共は変わらなかった。この点は、分断国家を経験したドイツやベトナムとは大きく異なる。それから七〇年代には、徐々に民主化運動が生長し、女性労働者の闘いも展開され、学生・野党・宗教家などの社会運動のあり方が大きく転換していく。その決定的な契機は軍が市民を虐殺した一九八〇年の光州事件だった。光州事件は、それまで韓国の民衆が抱いていた親米意識を完全に転換させた。韓国軍の指揮権を持っている米軍に若者が反発。市民と学生は、今までのやり方ではダメだと考えるようになる。米軍施設への爆弾事件や放火事件が起き、韓国は世界で最も反米の国に変わっていく。この事件の事実糾明は未だに完全には明らかになっていない。
この事件がもたらしたもう一つのことは、八〇年代のマルクス主義の復活だった。この運動圏といわれる急進的社会運動の二つの潮流、NL派(主思派、金日成派)とPD派(非和解的階級闘争派)は、六月民主抗争(一九八七年六月)といわれる、全国三八市郡で巨大な民主化要求デモを主導した勢力の半分を占めていた。この闘いにより、直接選挙制度の改憲案が国民投票(賛成九三%)で成立、またその後の全労協(後の民主労総の母体)の結成(一九九一年)につながっていく。新憲法下での大統領選は、運動側の金大中・金泳三候補の一本化が出来ず、再び新軍部政権の盧泰愚大統領の誕生を許した。

  90年代以降

 八〇年代は、三低景気(ウオン安・原油安・国際金利安)の中で韓国経済が成長し、製造業労働者の賃金水準は、一九九〇年は一九八一年の三倍超に上昇し、しかも労働者が多様化した時代であり、そのことが民主化運動に反映される。一九九一年四月のデモで大学生が白骨団(私服警官)に虐殺され、労組委員長が獄中で不審死をとげる事件を契機に五月闘争が展開され、抗議の焼身自殺など一〇数名の自殺者が相次いだ。金芝河は運動圏を激しく非難。政権転覆を方針とする運動圏の運動は市民の支援を得られず、運動から離れていく人が増えたことで、運動圏の影響力は衰退していった。
分厚い中間層が生まれ市民運動が台頭する。託児所・貧民地区の再開発、不許可住宅の撤去問題、医療福祉、地域児童センター、オモニ学校、信用組合、生活協同組合、生産共同体運動、公的扶助制度など多様な課題を担う住民の自発的組織が大都市を中心につくられる。九〇年代は市民運動の時代とよばれる。その代表が、「国民の自発的な参与により国家権力を監視、具体的な政策とオルタナティブを提示」を掲げた参与連帯の結成だ(一九九四年九月)。参与連帯は運動圏の社会運動とは一線を画し、保守政治家の落選運動や企業監視の一株運動も展開した。
一九九二年金泳三政権、一九九七年には金大中政権と文民政権が誕生し、二〇〇二年には参与政権といわれる盧武鉉政権が誕生した。金大中政権は、新自由主義政策でIMF事態を乗り切ったが、グローバル化の中で国民の所得格差は拡大し、ワーキングプアが急増した。盧武鉉政権は、先の二政権の新自由主義政策を継承しながら、社会的企業や社会の構造改革といった市民運動の課題を政府自らが担い、根本的に社会を変えようとした。インターネットでつながった若者の支持が急速に広がった。盧武鉉政権の社会的就労政策はグローバル化に伴う社会的リスク構造に市民社会と行政・企業が協同して対処する革新的な枠組みと注目され、「社会的企業育成法」や「協同組合基本法」の制定につながっていく。やがて、グローバル化の進展の中で中間層は衰退していく。盧武鉉大統領弾劾訴追案が国会で可決し、政権が折り返し点に差しかかった〇五年頃から市民運動が危機を迎える。

 ローソク革命

 意思疎通のやり方が変わり、情報の伝達はマスメディアと共にSNSによる水平的メディアが大きな役割を果たした。最初のローソクデモは、二〇〇二年米軍装甲車輌が女子中学生をひき殺したことに対する大規模な反米デモ。二〇〇八年には、BSE(狂牛病)の危険を考慮しない米国産輸入牛肉全面開放に反対するデモ。二〇一七年のロウソクデモは四度目の大規模デモで、政治変革に結びついた初めてのデモだった。四度目のデモは、二三回で計一七〇〇万人が参加した。祝祭・チング革命・家族革命と言われたほど、全世代の多様な階層の人々が参加した。この六〇年代からの運動を集約するような連続したデモのうねりは、グローバル化で社会が壊れてしまったことを象徴していたとも言える。
このデモについては、SNSなど水平的メディアとともに、保守言論を支配していた垂直的メディアとしての朝鮮日報・中央日報・東亜日報が朴ゲート事件で朴槿恵政権を攻撃し始めたことが大きい。朴政権やその側近が国政を独り占めしていることに対する怒りが頂点に達していた。

2 南北・日米関係

冷戦後の
北朝鮮
一九九一年南北国連同時加盟。一九九四年NPT脱退、同年七月金正日体制へ、一〇月米朝枠組み合意。一九九〇年代半ばは苦難の行軍といわれた。二〇〇〇年金大中・金正日首脳会談。二〇〇二年日朝平壌宣言。二〇〇三〜〇七年核問題をめぐる六カ国協議。二〇一一年金正恩体制へ。あの若さで政権は持つのか? と疑われていた。米国のみならず研究者の間でも、北は崩壊するだろうとみられていた。二〇一六年三〇年ぶりに党大会を終え、核開発と経済発展並進路線を確定し、政権は意外と強靱で安定していると思われるようになった。朝鮮半島では、核がなくても戦争は可能だ。火星一五号がつくられ、核武力完成宣言を北が発してから、米国はティラーソン国務長官訪朝を経て北朝鮮との対話路線に転換する。

盧武鉉政権後
の韓国保守
政権は、それまでの政権の太陽政策の成果を否定したが、現在、北朝鮮は、南北統一路線を後退させ、安全保障面で米国と対話する、経済は日韓と協力し改革開放路線で行く、というように政策転換をした。二〇一八年四月党中央委員会総会で、経済建設に総力集中する方針を決めた。韓国文在寅政権は二〇一八年八月一五日光復節の「新ベルリン宣言」で、「韓国は全てをかけて戦争だけは阻止する。・・・誰も大韓民国の同意なしに軍事行動を決めることはできない」と述べた。
南北首脳会談では、核のない朝鮮半島の実現という共通目標を確認し、朝鮮半島の終戦と平和協定の締結を目指す、敵対行為の中止、非武装地帯を平和地帯に、民族経済の均衡的発展に合意した。文在寅大統領は平壌で一五万人の北朝鮮市民を前に演説し、北は後戻りできないことを印象づけた。米朝ハノイ会談では、米国の交渉の前提が変化し、非核化前提基調から同時並行基調に変わった。米国は核施設の検証を争点にし、北はこれに同意し閾を高くした。米国は寧辺の核施設+アルファを要求したといわれるが、それは平壌郊外の山陰洞ミサイル研究団地のことか。合意が延期になったのは、米国内の状況を考慮すると、下手な妥協はできないというボルトン提案があったからか。
北は、国連制裁決議一一件中民需経済と人民生活関連の五件の解除を要求したというが、石油精製品輸入や石炭輸出は実質的にはかなり厳しい制裁だ。北の労働新聞に「会談がうまくいかなかったのは、安倍政権が邪魔したからだ。悪辣な島国の奴らは天罰を免れないだろう」という文句が掲載されているが、その意図は?

  質疑応答

@韓国労総と民主労総の違い。【韓国労総はご用組合として出発したが、民主化運動の中で民主化された。政労使のテーブルに民主労総は参加せず、韓国労総は参加している。経済社会労働委員会については、双方とも対立している】
A PD派とNL派の間に内ゲバはあったのか。【同じ組織内でかなり厳しい制裁はあったようだが、他党派に対する内ゲバはない】
B主思派は北のどこに惹かれるのか。【彼らは五〇〜六〇年代に反共教育を受けている。北なら親日帝派の清算を徹底したに違いないという、リアリティなしの幻想があり、依然として北に対する共感がある。
C文政権は金正恩の独裁体制をどう見ているか。【わからない。文在寅大統領の家族は朝鮮戦争のとき、米軍の助けで脱出している。大統領になった時最初に訪問したのは米国だった。韓米関係が第一だったが、今は戦争阻止が第一。北が改革開放していくと、天安門事件のようなことも起きるかもしれない。その時韓国社会はどう対処するか、という問題はある】
(T・T)

3.25

福島原発事故収束作業で殺された!

未払い賃金支払い拒否し
労災認定も認めぬ企業

 【いわき】三月二五日、東京電力福島第一原発の収束作業に従事しそこで亡くなった労働者の遺族による訴訟への支援行動が行われた。
 行動は公判前ミニ集会、傍聴、公判後の支援集会として行われ、福島原発労働者相談センター、全国一般小名浜支部、郡山連帯労働組合、東北全労協、全国一般労働組合全国協議会、全港湾労働組合小名浜支部、東京労働安全衛生センター、等が駆けつけた。訴訟は亡くなった原発労働者猪狩忠明さんの遺族が、東京電力、一次下請の宇徳、二次下請けのいわきオールを相手として起こし、公判が福島地方裁判所いわき支部で行われた。

過労死ラインの
長時間労働
故猪狩さんは福島第一原発構内で約五年八カ月に亘り構内作業車両の整備作業をしていたが、二〇一七年一〇月二六日昼休み後、作業現場到着直後全面マスク防護服のまま体調不良に陥り亡くなった。猪狩さんの勤務状況は、朝四時台にいわき市内の自社に出勤した後、同僚と共に福島第一原発へ向け出発し到着後、そこで夕方まで作業しその後自社に戻りまた午後六時まで仕事というものであり、平均時間外労働時間が月一二二時間、死亡直前半年平均が一一〇時間に及ぶ、明らかに過労死ラインに達する長時間労働であった。そして廃炉作業現場で構内作業車両の整備納品等という、過酷な業務を約五年八カ月間担っていた。
東京電力は直後に、作業との因果関係を否定する病死発表を行った。一次下請宇徳へ聞き取りを行っただけの無責任対応であった。この発表に納得出来なかった遺族が、福島原発労働者支援センターに相談し、一緒に労働実態を調べ、労働組合に加入し、いわきオール・宇徳・東京電力への会見申し込み、そして福島労働基準監督署へ労働災害認定申請等を実施してきた。
二〇一八年一〇月死亡について労働災害との認定がなされた後にも、いわきオールは労働組合を通じての未払い賃金の支払いを拒否し、交渉にも応じていない。そして東京電力・宇徳も遺族との会見を拒否している。
訴訟に於ける原告の公訴事項は、賃金の未払い部分の支払い請求および、東京電力・いわきオール・及び東京電力の緊急医療体制の不備・東京電力が事実関係についての調査もしないまま、作業との因果関係を否定する発表をしたことによる、遺族の精神的苦痛である。未払い賃金とは、労働基準監督署が労働時間と認めた、いわき市内所在の「いわきオール」から福島第一原発への移動時間等である。
また緊急医療体制の不備とは、故人が作業現場で倒れてから防護服着用のまま現場に放置された疑惑も存在するなど、亡くなるまでの事実関係に曖昧な点が数点存在することを根拠としている。次回の公判を五月一九日に控え、「福島原発労働者相談センター」は「福島第一原発過労死責任を追及する会」の結成を決定し、加入を呼びかけ、そして「遺族を支援し、ともに闘う大集会」の開催を決定している。
「追及する会」へ加入しよう! 五月大集会へ結集しよう!

 「追及する会」への加入要項は、個人年一口2千円、団体年一口5千円会員、
連絡先FAX
0246―27―0448となっている。
また五月大集会はいわき労働会館にて、一九日一四時からの開催となっている。
(浜西)



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