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    かけはし2019年6月17日号

居直りと言い逃れ繰り返すな


沖縄報告 6月9日

違法行為押し通す安倍政権の傲慢

沖縄 K・S

ウソとごまかしの政治はもう止めよ!

K8護岸を土砂陸揚げに使用するな

 安倍政権のウソとごまかしの政治がとどまるところを知らない。辺野古・大浦湾の埋め立て工事で造成されているK8護岸の形状が県に提出した当初の設計とは違う形に変更されている。ドローンの映像で明らかなように、二〇〇m余りの護岸の半ばあたりが突き出た形になっている。沖縄防衛局は「土砂の陸揚げに使用する」と明らかにした。
 沖縄県はこれに対し、@護岸を土砂の陸揚げに使用することは目的外使用にあたり、認められない、A無許可の設計変更は公有水面埋立法に違反する、と強く批判した。ところが、岩屋防衛相は六月七日の記者会見で、「K8護岸での土砂陸揚げは目的外使用には当たらず、問題はない」と答えたという。何という傲慢さ。違法行為をしていることの弁明が「違法行為ではない」という居直りなのだ。
 一事が万事。基地周辺のドローンの飛行について、沖縄駐留海兵隊、陸軍、海軍などすべての米軍司令官が「認めない」と発言しているにもかかわらず、日本政府は米軍に報道の自由への配慮を求め米軍側から「趣旨を理解した」との回答を得たとごまかす。
 埋め立て工事が始まるまで辺野古・大浦湾の海に三頭いたジュゴンは、工事の進展に伴い、餌場と静かな生活環境を失って辺野古・大浦湾から姿を消し、うち一頭は西海岸の古宇利島で息絶えて発見された。にもかかわらず、沖縄防衛局やお抱えの御用学者は「工事の影響はない」と事実に反する態度を取り続けている。
 埋立用土砂について、防衛省は当初、砕石をとったあとの岩ズリ、粘土性の細かい粒子の土の含有率はおおむね一〇%以下と言明していたが、琉球セメント安和桟橋に運び込まれてくる土砂は赤土そのものだ。
 普天間基地および嘉手納基地周辺の河川から、発がん性などのリスクが指摘される有機フッ素化合物PFOS、PFHxSなどの米軍の泡消火剤に含まれる有毒物質が高濃度で検出されている。沖縄県は、基地内立ち入り調査と結果の公表を求めているが、米軍・日本政府は応じていない。沖縄防衛局は「直ちに健康被害などがあると判断できない」と強弁している。
 与那国の陸上自衛隊の弾薬保管庫は、これまで防衛局は「貯蔵庫」と言ってきたが、隠蔽だとの住民の抗議により防衛相は「火薬庫」に呼称を変更すると発表した。ごまかしの政治をやめさせよう。事実に基づいて正直に住民判断を仰げ!

6.5

琉球セメント安和桟橋で

ゲート前と海上で果敢な行動

土砂を入れるな!海を守れ


 今週から始まった安和桟橋ゲート前での連日行動はこの日で三日目。この日担当の島ぐるみ南部に結集する南風原、糸満、豊見城、南城、八重瀬など各地の島ぐるみメンバーは、朝七時半ごろからマイク・スピーカー、プラカード、折り畳みイス、ブルーシートなどを持参してゲート前に集まった。赤土土砂を荷台に積むダンプに対し、「土砂を入れるな!」「海を守れ!」と声を上げながら、ゲート前で抗議行動を続けた。
 ゲート前の人数があまり多くないことを見てとってか、一回の青信号で赤土ダンプは二〜三台数珠つなぎでゲートに進入する。赤信号に代わってもお構いなしだ。一〇〇人以上集まった先週までの集中行動では、1回の青信号でせいぜい一台しか入れなかったのに比べて、二〜三倍のスピードだ。
 しかも沖縄県の赤土等流出防止条例によって長らく“凍結”されてきたが、四月に県の承認を得たことから、桟橋構内の赤土土砂置き場が今週から稼働を始めた。構内には運搬船に運び入れるベルトコンベアーと赤土仮置き場を専用ダンプがピストン輸送で土砂を運んだ。その結果、土砂運搬船はこの日四隻目まで登場した。
 海上では、午前に続き午後も、カヌーやゴムボート一三艇に乗ったカヌーチームが運搬船の離岸を遅らせるために果敢に行動した。

カヌーチームTさんの報告

 午前一〇時一〇分、カヌーチームは安和の海岸を出艇した。ガット台船の出港が近い。私たちは桟橋の下の台船側に待機し、少しでも出港を送らせるべく、桟橋に張ってある網に取りついた。一一時〇二分、海保が海に飛び込み、カヌーに近寄り、繋いであるロープ・紐などを外し始める。一〇分ほどして全部をほどけないことがわかると「ハサミで切ってもいいですか」と言ってくる。私は「もう少し待ってくれ、切るなら自分でほどく」と言ってゆっくりほどき始める。この辺は駆け引きだ。一〇数分粘ったが、紐が細くて自分でほどけないところはやむなくハサミで切られることになった。全体としては四〇分ぐらい粘ったという報告があった。
昼食の後、本日三台目の運搬船への積み込みが始まった。一四時から再び海に出た。午後は四〇数分粘った。午前中より長めだと思う。安和で一日に二度の阻止行動は初めてだったが、それなりの成果はあったと思う。
琉球セメント構内の赤土仮置き場を県が許可した。私は県が「あらゆる手段を持って工事を止める」と常日頃言っていることからして納得ができない。ハシゴを外された感じがする。

6.4

辺野古ゲート前座り込み

チェジュを基地の島にするな

韓国の青年がテント訪問


六月四日火曜日の辺野古ゲート前の闘いは、平和運動センターの大城悟さんを現場リーダーとして、朝昼午後三回の資材搬入に抗議して貫徹された。このところの資材搬入の目立った特徴は、大型鉄板の多さだ。土砂搬入のダンプの運行に備えて仮設道路や護岸上に敷くためだ。この日二回目の資材搬入は生コン車がズラリ。ゲート前に到着し待機する生コン車両を前に、ゲート前の座り込みは非暴力不服従の行動として根気強く貫徹された。
警察機動隊の排除の行動は、かつての問答無用の暴力的な荒々しさから、表面上、ゲート前登場から排除にかかるまでの時間を少し長く置くことやゴボー抜きにあたって一人ひとり声掛けをすることなど、ソフトなイメージを与えるが、道路交通法を排除の根拠にあげるその内容は何ら変わらない。
この日午前、チェジュ道で海軍基地に続いて計画されている第二空港に反対する運動を続けている青年、ノ・ミンギョンさんがゲート前テントを訪れた。土木技師の奥間政則さんと共にあいさつに立ち、「チェジュ島の東側、城山(ソンサン)で計画されている第二空港は空軍基地だ。カンジョンの海軍基地に続いて空軍基地ができればチェジュは基地の島になってしまう。道庁前座り込みを五カ月以上にわたって続けている。チェジュ道では辺野古の闘いに注目し連帯する人々がいる。共にアジアの平和のために頑張ろう」と述べると、テントから大きな拍手が送られた。

6.8

参院選に必勝を

高良鉄美さんを激励

八重瀬の集まりに80人

 相手陣営が早々と取り組みを進めてきたのに対し、オール沖縄側の参院選への取り組みは相対的に遅れている。その中、南部では糸満市に次いで八重瀬町でも、高良鉄美さんを支援する運動母体(未来を拓くうまんちゅの会八重瀬支部)の結成のあと「高良鉄美さんを励ます八重瀬のつどい」がもたれ、八〇人が参加した。スローガンは、参院選挙区の「平和の1議席」を糸数さんから高良さんへバトンタッチ!
集会には糸数慶子さんと高良鉄美さんが共に参加し、並んで手を取り合って掲げ支持を訴えた。
県民はこれまで、知事選挙、衆参両院議員選挙、県民投票などなんども辺野古新基地反対!埋め立てSTOP!の意思を表明してきたが安倍政権は全く聞く耳を持たない。強権でものごとを進め、県民が諦めるのを待っているのだろう。しかし、県民は決してあきらめない。逆だ。へこたれない現地での闘いを継続するとともに、日本政府が沖縄の民意を受け入れるまで、さらに団結を強め、何度でも何度でも民意を明らかにし続ける。参議院選挙は必ず勝利する。

6.8

八重瀬ピースウォーク

白梅学徒隊の足跡をたどる

 六月八日土曜日午前一〇時から「白梅学徒の足跡をたどるピースウォーク」(主催=八重瀬町ガイドの会)が行われ町内外から約四〇人が参加した。今回のコースは、県立第二高等女学校の女生徒たちが看護教育を受けた当時の東風平国民学校(現在東風平中学校)から一九四五年三月二三日の地上戦の開始後はじめに配属された八重瀬岳の第一野戦病院壕までの約三キロ。途中、白梅の女生徒たちが毎日水くみに通ったという八重瀬岳麓の山井泉、戦死者約一五〇〇人が収められた八重瀬の塔、第1野戦病院本部壕を経て、八重瀬岳中腹の手術場壕まで、二時間近くかけて歩いた。
参加者は町内だけでなく各地から、小学生の子供連れや町内の高校生たちも参加した。天候は梅雨の合間の曇り空。焼けつくような直射日光はないものの、蒸し暑さで汗がしたたり落ちる中、全員最後まで歩き通した。ピースウォークの最後は、戦争体験者の比嘉さんのサンシンと歌による、「若さる時ね 戦争ぬ世 若さる花ん 咲ちゆーさん」と歌い始める「艦砲ノ喰ェーヌクサー」で締めくくった。
当時二高女四年生で戦場に動員され、現在白梅同窓会の会長を務める中山きくさんがスタート地点の東風平中学校体育館と解散地点のうっそうとした手術場壕入り口で、合わせて約一時間にわたって自身の戦争体験を語った。(一部、ノンブル社『オキナワを歩く』の証言を引用)

中山きくさんの戦争体験を聞く

看護教育隊員としての体験語る

 一九四一年一二月八日の真珠湾攻撃があった時、私は小学六年生だった。当時は、欲しがりません勝つまでは、の軍国主義の時代。県立二高女に進学してから、英語が廃止になり、兵隊を出している農家の援農、軍の陣地づくりの手伝いなどをやっている中、一九四四年の10・10空襲を迎えた。防空壕に隠れたが、那覇が廃墟になり、戦争の真実の姿を初めて思い知らされ、生きた心地がしなかった。那覇にあった校舎もこの時焼けてしまい、それからは授業もなくなり毎日軍隊の手伝いに明け暮れた。
看護教育の話が出てきたのは翌一九四五年の二月。私はこの時四年生で卒業を目前にしていた。看護教育を受けないと卒業証書は与えないとも言われる一方、私も含め、一緒に疎開しようとの父母の誘いを振り切って志願してきた生徒たちも多くいたと聞く。三月六日に東風平国民学校にあった看護教育隊へ。三月二三日に地上戦が始まったため、八重瀬岳の第一野戦病院本部壕へ移動した。
看護教育が終ったのではなく、米軍が押し寄せてきていきなり空爆と艦砲射撃が始まったためだ。四月中旬に手術場壕へ派遣された。負傷兵は、着物はびしょびしょ、泥だらけで運ばれてくる。運ばれてきた人の中には一人も女性、子供、お年寄りがいない。手術の照明に何を使ったかというと、ローソク。手術の大半は切断。麻酔もなく「生切り」といった。この、新里堅進『白梅の碑』の絵を見て欲しい。手術壕の中の様子がリアルに描かれている。
五月の末ぐらいになると、米軍がこの東風平まで来るというので第一野戦病院を閉鎖・解散するという。それが六月四日。南部へ南部へと住民が列をなしていた。それから戦場を彷徨った。もう壕に入れない。ガマもお墓もいっぱいで、昼は藪に潜んで、夜になるとあてどもなく、あの村に行ったりこの村に行ったりした。
食べ物がなく、畑の小指大のさつまいもを生のままかじった。道路にも、キビ畑にも、アダンの中にも、おびただしい遺体が折り重なるようにいっぱい。二高女の生徒も二二人亡くなった。
今日参加している高校生など若い人たちにぜひ伝えたい。戦争にだけは歩んで欲しくない、なんとしても今の政権の戦争への歩みを止めないといけない。



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