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「ソ連崩壊と新しい社会主義像」時潮社所収 

ソ連邦の崩壊とトロツキズム

国富 建治


                                 
(1)はじめに――「過渡期」の逆行的清算

 一九八九年十一月にベルリンの壁が崩壊し、年末にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒された。同年夏のポーランドにおける「連帯」主導政権の成立によって拍車がかかった東欧「労働者国家」圏のなだれをうった崩壊は、一九九〇年には東西ドイツの資本主義的統一、一九九一年にはソ連邦の最終的崩壊へと帰結した。
 それはまさに歴史を画する「革命的」大変動であり、スターリン主義の決定的な破産と崩壊を刻印するだけではなく、一九二〇年代のスターリン主義の思想・体制的成立の過程から、孤立の中でこの官僚独裁体制に対する長期にわたる理論的・実践的批判を繰り広げてきたトロツキー派の陣営に対しても深刻な課題を提起するものであった。
 東欧の労働者人民は、スターリニスト官僚体制によって奪われていた「自由と民主主義」を求めて闘いにたちあがり、官僚の一党専制権力の解体を導き出した。それは官僚の国家機構そのものであった「党」によって指令される中央集権的な「計画経済」のメカニズムにとってかわって、利潤の追求を動因とする資本主義的市場経済を全般的に導入する結果となった。「計画」とは非効率・停滞ならびに政治的独裁であり、「市場」とは効率、繁栄、民主主義であるという命題が多くの人々によって受け入れられていった。現在、「市場の失敗」が明らかになり、旧東欧「労働者国家」群の多くでかつての政権党が政権の座に復帰したり、議会内で第一党として伸長している事実はあるが、それは資本主義的市場経済の論理を承認する枠組みを前提にしたものである。
 トロツキー派(第四インターナショナル)は、スターリニスト官僚独裁体制の打倒が「政治革命」という表現をとって、「堕落した労働者国家」における労働者民主主義を再生し社会主義に向けた新しい前進を切り開くことに希望を抱いていた。そしてそうした立場から官僚体制に対する「自由と民主主義」をめざす闘いを「政治革命の萌芽」として支持してきたのである。しかし、そうしたトロツキー派の展望も現実において裏切られた。
 官僚体制の民主化の闘いに立ち上がった民衆は、「社会主義」につながるすべてのものを嫌悪し、西欧的議会制民主主義の価値観に同化するとともに、市場を通じた弱肉強食の自由競争のみがこの「民主主義に至る道」だと確信した。それはスターリニスト官僚体制の打倒が「政治革命」としてではなく、資本主義の復活の指向性を持った、「資本主義から社会主義への過渡期」の清算として現れたことを意味する。この点をどう総括するかが、トロツキー派にとって問われることになった。

(2)「過渡期」の概念

 周知のようにトロツキーにとって、現実のソ連邦はあくまで「過渡期」の社会体制であった。一九三〇年代のソ連において「社会主義の勝利」を呼号するスターリン派の公式見解に対して、トロツキーは彼のソ連論の集大成ともいえる「裏切られた革命」(一九三六年)の中で次のように述べている。
 「その時代としてもっとも進んでいる資本主義の生産諸力の社会化を基礎として形成されるはずであったような社会をマルクスが共産主義の低次の段階と呼んだとすれば、技術、生活用品、文化の面で今日なお資本主義国よりずっと貧しいソ連には、この規定は明らかにあてはまらない。したがって、矛盾だらけの今日のソヴェト体制は、社会主義体制ではなしに、準備的な体制、もしくは資本主義から社会主義への過渡的な体制と呼ぶほうが正しい」(1)。
 トロツキーにとって、社会主義の第一のメルクマールは決して生産手段の所有形態ではなかった。主要な生産手段の国有化はそれだけで「社会主義の達成」を保障するものではない。彼にとって根本的な問題は、その社会が資本主義で実現されたよりも「高度の労働生産性」を手中にしているか否かであった。そしてこの点でソ連は、資本主義の最高の発達水準からはるかに遅れた貧しい社会だった。こうした社会が「社会主義」であるはずがないというのが、トロツキーの終生変わらぬ確信だったのである。それはマルクスの思想にも忠実なものだった。
 大藪龍介は「過渡期」と「社会主義」を同一視する論理(「中国型」ないし「ユーゴスラビア」型の「過渡期社会主義」論)を批判して「過渡期」を「社会主義」それ自体ではない「社会主義への過渡期」として明確化する必要性を強調している(2)が、私もそれが正しいと思う。
 ここで「過渡期」の性格について、さらに突っ込んで考えてみなければならない。もともと「過渡期」という概念には一個二重の意味が込められている。すなわち一国におけるプロレタリア革命と労働者国家の建設は世界革命の完遂に向けた過渡であるということが第一。第二は、資本主義的生産関係の廃絶はただちに社会主義社会の成立を意味するものではなく、前者から後者に向かう相対的に長期の移行期間を必要とするということである。この第一の視点を忘れて、それぞれの労働者国家の下でどこまで「社会主義的変革」が達成されたかを論議するのはまったくの「一国社会主義」論にほかならない。
 よく知られていることではあるが、マルクスは「ドイツ労働者党綱領評注」(「ゴータ綱領批判」、一八七五年)の中で、「資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者への革命的転化の時期か横たわる。それにはまた一つの政治過渡期が照応し、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外の何者でもありえない」(3)と述べている。通例「社会主義」として理解されているいわゆる「共産主義社会の低次の段階」は、この「革命的転化」の一時期をふくむのだろうか。つまり「社会主義社会」を「政治過渡期」である「プロレタリアートの革命的独裁」の段階をふくむものとして描きだすことが妥当なのだろうか。私は妥当ではないと考える。基本的に階級間の対立が止揚されている社会主義社会においては、いかなる意味でも「独裁」は必要としないからである。すなわち、この「革命的転化」の時期を、社会主義そのものではない「社会主義への過渡」としてより明確に位置づけることが必要なのである。
 ところでこのマルクスの「過渡期」=移行期の考え方は「プロレタリアートの革命的独裁」が資本主義の長期的な包囲の下で存続するということを前提にしたものではない。「ゴータ綱領批判」におけるマルクスの「旧社会」から「新社会」への移行についての提起は決して一国的視野でたてられたものではなかった。逆に言えば世界的な規模でブルジョアジーの階級支配を打倒した後でも、「新しい社会」への移行には「革命的転化」の一時期を必要とする、ということを彼は主張しているのである。それを明示的に語っているわけではないとしても、そのように理解すべきだろう。強大な資本主義の包囲を前提とした上での一国、あるいは数カ国における「新社会」への移行を、マルクスは想定していなかったからである。

(3)ロシア革命――トロツキーと「市場」問題

 一九一七年のロシア革命を勝利に導いたボルシェビキが突き当たった難題は、ヨーロッパ資本主義の「周縁部」とも言える後進的・農民的ロシアで最初のプロレタリア革命が勝利したということと、その革命が生産力的に圧倒的に優位な資本主義の包囲による孤立の中で、社会主義に向かう「過渡期」を切りひらかなければならない、ということの中にあった。その点はロシア革命についてグラムシが「資本論に反する革命」といみじくも評したように、マルクス主義者の想定していない事柄だったのである。[マルクス自身は「ザスーリッチへの手紙」(4)の中で、ロシアの農村共同体が「ロシアにおける社会再生の拠点である」ことを指摘しているが、共同体がそうした機能を果たすためには「あらゆる方面からそれにくわわってくる有害な諸影響をとりのぞき、そののちに自然成長的発展の諸条件をそれに確保してやらねばならない」という限定をつけてのことであり、前資本主義的共同体が「資本主義の包囲」の中で社会主義社会の原基形態に発展する可能性を主張していたわけではない]。
 レーニンをはじめとするボルシェビキ指導者が(スターリンを含めて)、ヨーロッパ社会主義革命が短期のうちに勝利しないかぎりロシアは社会主義に向かって進むことができないだけでなく革命権力を維持することさえ不可能であると考えていたことはよく知られている。当時のボルシェビキにおいて、それがいかに共通の認識になっていたかについては、トロツキーが『ロシア革命史』の付録「一国社会主義論」の中で詳述しているとおりである(5)。
 しかしヨーロッパのプロレタリアートが短期のうちに資本主義を転覆して革命ロシアと結合しえないことが明白になり、干渉戦争と内戦が必然化した「戦時共産主義」からの脱却が革命権力の防衛と生産の回復にとって不可欠になったとき、ボルシェビキは「市場経済」の現実に国際的にも、国内的にも適応することが不可避であるという選択を行った。いわゆるNEPの導入である。それは必然的だった。
 従来のトロツキーに対する多くの評価は、「農民の役割を過小評価」し、農民の犠牲の上に工業化を加速させることを主張して事実上NEPを清算するものであったという批判や、トロツキーらの工業化路線はスターリンの「超工業化」という官僚的冒険主義を先取りするものであったというものである。「戦時共産主義」期における「労働の軍隊化」の提唱者としてのトロツキーのイメージとだぶらせたこうした批判はしかしまったく根拠がない。その反対にトロツキーこそは、一九二九年以後のスターリン派による「経済的冒険主義」や、ブハーリンらの自然発生的「市場万能」論の傾向を超える内容を提起していたのである。
 なによりもトロツキーはすでに一九二〇年初頭の段階(すなわち戦時共産主義のただなか)において、食糧の強制徴収から「食糧税」方式の導入という、一年後のNEPを先取りする先駆的な政策提起を行っていた。また一九二三年の共産党第十二回大会で「工業についての報告」を行ったトロツキーは、農業製品と工業製品の価格間の「鋏状格差」の是正に注意を喚起し、工業における生産復興のテンポの拡大、節約・合理化による労働生産性の増大によって工業製品の価格を下落させ、また農業生産物の輸出を拡大して工業投資に必要な資金を獲得するとともに、国内農産物価格を上昇させて農民の負担を軽減し、国営工業と農業の関係を改善する「労農提携」(スムィチカ)の方向性を打ち出した。それは、まさに「市場による調整」を通した計画化の策定、市場のテストを経ることによる労働生産性の前進を図ろうとするものであった(トロツキー『社会主義と市場経済』大村書店、『トロツキー研究』3号「特集 ネップと社会主義建設」柘植書房、などを参照)。
 NEPによる生産復興が軌道に乗って以降、一九二五年頃からトロツキーは世界市場との相互依存関係の意識的な強化による工業発展――労働生産性の飛躍的拡大の道を模索するようになる。一九二五年に書かれた『社会主義へか、資本主義へか』(6)でトロツキーは次のように述べる。
 「わが国の成功のおかげで、われわれは世界市場に進出した。すなわち世界的な分業のシステムに入り込んだ。しかもわれわれは資本主義に包囲されたままである。こうした状況の中では、わが国経済の発展テンポこそが、世界資本の経済的圧力と世界帝国主義の軍事的・政治的圧力に対するわれわれの抵抗力を決定するのである」。
 「われわれが列挙した社会主義経済の優位性は、国内の経済過程においてその効果を発揮するだけでなく、世界市場が切り開く可能性に基づくことによって著しく増大するのである。われわれはこれまで、この後者については、主としてそこに潜む経済的危険性という見地から見てきた。しかし、やはり資本主義市場は単にわれわれにとって脅威であるだけではなく、巨大な可能性をも切り開くものなのである。……社会主義経済が世界市場に引き込まれることによって新たな危険性が生み出されるとしても、その世界市場はまた――社会主義国家の貿易が正しく規制されている限り――この危険性に対抗する強力な手段をも切り開くのだ。世界市場を正しく利用することによって、われわれは、比較係数を社会主義に有利なように変化させていく過程を著しく促進することができるのである」。
 「わが国が世界市場に『根を張る』場合の戦争や封鎖の危険性に関する論拠はあまりにも空虚で抽象的である。あらゆる形態での国際的な交易がわが国を経済的に強化するかぎり、それは戦争や封鎖の際にあってもわが国を鍛える。……世界的分業を無視することはできない。われわれはただ、世界的分業の諸条件から生じる資源を巧みに利用することによってのみ、自国の発展を最大限に促進することができるのである」。
 これは、森田成也氏の言うように「一国社会主義」論による孤立主義的な「自足的社会主義」の幻想をきっぱりと批判する「世界市場との結合発展戦略」であるとともに、それと不可分のものとしての「世界革命との結合発展戦略」を内包する提起であった(7)。
 世界市場との有機的な結合を射程に入れたトロツキーの戦略は、孤立主義的な「一国社会主義」論と全面的に対決するものであったことはもちろんだが、プレオブラジェンスキーらの他の左翼反対派の理論家たちともその理論的位相を異にするすぐれたものであったと私は考える。
 市場による「計画」の意識的調整と労働生産性の向上というトロツキーの過渡期経済の建設に関する立場は終生変わることはなかった。「ソヴェト経済での貨幣の役割は縮小していないばかりでなく……さらに徹底的に発揮されなければならない。資本主義と社会主義のあいだの過渡的時代は、全体として見れば、商品流通の縮小ではなく、反対にその異常な拡大を意味する」と『裏切られた革命』のなかで喝破したトロツキーにとって、計画は「未完成の作業仮説」であり、ソビエト民主主義と市場をテコに吟味され、検証され、調整されるべきものであった。官僚制的指令経済システムが、およそ「計画」の意義を台無しにするものであったのと対比して、トロツキーのアプローチの有効性は明確であろう。
 こうしたトロツキーと左翼反対派の立場は、工業化を通じてプロレタリアートの社会的地位を強化し、プロレタリアートと農民の同盟を強化することで、富農や新生ブルジョアジーと結び付いた共産党内の支配的官僚層と闘い、ソビエト民主主義を強化するとともに、世界革命の新たな攻勢に備えようとするところにあった。トロツキーの永続革命論は徹底してこの世界革命の展望から過渡期の建設を推し進めようとするものであり、先に述べた過渡期にかかわる二つの視点を統一しようとするものにほかならなかったのである。

(4)トロツキーと官僚制の分析

 トロツキーら左翼反対派の一掃と、スターリンの排他的全一支配の確立は、ロシア革命によって成立したプロレタリアートの革命的権力が変質したことの紋章であった。反マルクス主義的な「一国社会主義」論は、この官僚独裁を飾りたてるイデオロギー的化粧となった。
 官僚制の本質について、反対派共産主義者の中で最も鋭い分析を先駆的に行ったクリスチャン・ラコフスキーは以下のように述べている。
 「ある階級が権力を奪取するとき、この階級の一部が権力それ自体の代理人となる。こうして官僚制が発生する。プロレタリア国家では、資本家的蓄積が支配党の党員に許されていないので、この分化は最初は機能的なものであるが、やがて社会的なものとなる。自動車を所有し、住みよいアパートと定期的な休暇を所有し、企業の最高賃率を得る共産党員の社会的地位は、炭鉱で働き、月に五、六十ルーブルを稼ぐ共産党員と同じ地位にあるとはいえないと私は思う。……その第二の結果は、以前は全党あるいは全階級が自ら処理していた機能のあるものが、党や階級から、いまや権力者、すなわち一定の人々の手に移っていることである。かくて革命的階級闘争の当然の結果であった統一と連帯は、いまや階級と党のさまざまな集団の間の均衡維持、共通な目標への従属化を目的とする一切の行動体系を通じてのみ維持されることになる」(「党と政府機構の堕落の原因についての手紙」、一九二八・八)(8)。
 このラコフスキーの主張は、それまで「反革命」の主要な危険を、富農やブルジョア層の圧力を直接に体現するとされていた党内「右派」――ブハーリン、ルイコフ、トムスキーら――に見ていた反対派の議論を転換させる契機になった。ロシア革命を脅かす最大の危険は、左翼反対派がそれまで「官僚主義的中間派」と見なしていたスターリンらの党中枢機構そのものの中にある。P・ブルーエは大著『トロツキー』の中でラコフスキーの見解について以下のように要約している。
 「厳密な意味での労働者階級は根本的に変化してしまい、その前衛分子の一部を失ってしまった。官僚制は『ひとつの新たな社会的カテゴリー』となり、このカテゴリーはきわめて高度な重要性をもつ『社会学的現象』であるにもかかわらず、まだ研究されていない。……広範囲な自立性をもち、党と国家の中枢機構を、したがってソヴィエト組織の総体を絶大の権力をもって指揮する勢力として、官僚制の存在を考慮することなしには、いかなる状況分析も可能ではないし、いかなる展望も描くことはできない」(9)と。
 官僚機構の独立した機能とその社会的性格についてのラコフスキーの主張は、「右派」に体現される富農やネップマンの利害を通して資本主義的反革命の水路が切り開かれると考えていた反対派の認識に一石を投じるものとなった。それまでロシア革命の「テルミドール」はすでに既成事実になったとする「民主的中央集権主義」派に対して、トロツキーらの左翼反対派は「テルミドール」はなしとげられたのではなく歴史の前方における可能性として存在するにすぎない、としていた。一九二六〜二八年における左翼反対派の熾烈な闘いは、まさに「テルミドール」の危険からロシア革命を救い出すものとして展望されていたのであった。この際「テルミドール」は、ロシア労働者国家の社会的経済的基礎を転覆するブルジョア反革命の同義語として認識されていた。しかし実際のところ、革命によって成立した労働者国家の基礎の上に、スターリンらの党機構によるボナパルチスト的独裁という形をとって「テルミドール」は実現されていたのである。トロツキー自身が、「テルミドール」の概念規定の修正をふくめて、この論争の総括を行ったのは一九三五年になってからである(10)。
 トロツキーは、スターリンを全能の「司祭」とするこの官僚独裁体制を労働者権力に対する政治的反革命とみなしたが、それが十月革命がうちたてたプロレタリア独裁の社会経済的基礎に対する「社会的反革命」として完結したものであるとは考えなかった。支配的官僚は新しい搾取階級――官僚的ブルジョアジーといったもの――となり、プロレタリア独裁の国家は転覆された、という一部の主張に対してトロツキーは厳しく批判した。
 「労働者国家は明らかに消滅したという主張は、マルクス主義の方法論論上の立場ともっとも主要な部分とあいいれない。プロレタリアートの独裁は政治的転覆と三年間の内戦という手段を通じて樹立された。社会についての階級的理論と歴史的経験のいずれも、平和的方法によっては、武器を手にした壮大な階級戦なしには、プロレタリアートの勝利は不可能であることを明らかにしている。だとすれば感知されないような『漸進的』なブルジョア反革命がどうして考えられるだろうか。今日まで封建的反革命であれブルジョア反革命であれ、いかなる場合でもそれが『有機的』に起こったことはない。これらの反革命は軍事的外科手術を必要とした」(「ソビエト国家の階級的性格」、一九三三・一〇)(11)。
 ソビエト国家についてのトロツキーの分析は、官僚の支配は「階級的搾取」ではなく「社会的寄生」である、という主張と、反革命の社会的完成は「軍事的外科手術」を必要とする、という主張を基礎としていた。しかし同論文の中でも「官僚体制が一層の発展をとげれば、それが新しい支配階級の発端になりうる」と指摘することを忘れなかった。
 「テルミドール」規定を転換し、すでにそれが「歴史のはるか後方にある」既成事実であるとした一九三五年二月の「労働者国家、テルミドール、ボナパルチズム」においても、トロツキーは「ソ連邦は、その社会的基礎と経済的傾向において、いまなお依然として労働者国家である」としている。その上でさらに「ボナパルチズムの政治体制と社会主義的発展の要求との間の矛盾は、国内的危機の最も重大な源をなしており、労働者国家としてのソ連邦の存在そのものに対する直接の危機である」こと、「スターリニスト的政治体制の不可避的な崩壊は、ボナパルチズムの廃棄がプロレタリア前衛の意識的行動として起こる場合にのみ、はじめてソヴィエト民主主義の樹立に導くであろう。それ以外のすべての場合には、スターリニズムのかわりにファシズム、資本主義的反革命しか起こりえないであろう」と、まさに今日を予見したかのごとき警告を発している(12)。スターリニスト官僚専制の崩壊が、プロレタリアートの意識的な行動の産物として起こらなかった結果として、今日の旧ソ連邦においては復古主義的民族主義、「資本主義的反革命」に向かう傾向が大きく発展しているのである(いまだそれは完成した形をとってはいないとはいえ)。
 『裏切られた革命』の中で、トロツキーはより厳密な提起を行っている。
 「ソヴェト体制を過渡的または中間的と呼ぶことは、資本主義(『国家資本主義』をも含めて)や社会主義というものの完璧な形での社会的カテゴリーをしりぞけることを意味する。しかしこの規定自体もまったく不十分で、今日のソヴェト体制からは社会主義への移行しかありえないような誤った観念さえ呼びおこしかねない。実際には、資本主義への後退も完全にありうるのだ」。
 トロツキーは現実のソビエト連邦について「資本主義と社会主義との中間にある矛盾した社会」という定義を与え、「資本主義への後退」の可能性についてさらに要約的に次のように述べている。
 「F累積された矛盾がいっそう増大すると、社会主義に到達する可能性もあるが、資本主義へと後退する可能性もある。G資本主義へ向かう途上では反革命が労働者の抵抗を粉砕しなければならないであろう。H社会主義へ向かう途上では、労働者が官僚を打倒しなければならないであろう。究極的には問題は国内の戦場ならびに世界の戦場での生きた社会的勢力のあいだでのたたかいによって決せられる」(同上書)。
 ここでトロツキー自身、「過渡期」の不安定性、それが社会主義へ向かっての前進も資本主義へ向かっての後退もともにありうる体制である、と注意深く述べていた点について再度想起する必要がある。いまわれわれは、ソ連・東欧におけるスターリニスト官僚独裁の崩壊の中で、トロツキーが提起した一つの可能性――「資本主義への後退」を目のあたりにしている。そしてこの事態は、「国内の戦場ならびに世界の戦場での生きた社会的勢力のあいだでのたたかい」によって究極的に規定されたものであることも確かである。「国際階級闘争」の一サイクルが終焉し、労働者の階級闘争が後退と敗北を続けている現状が、この世界的事件の背景にある。
 同時にそれは、ロシア革命後七十年以上を経ても、ソ連・東欧において存在した社会システムが「資本主義や社会主義というものの完璧な形での社会的カテゴリー」に属するものではなかったこと、すなわちこの官僚専制体制が新しい「階級的支配関係」や独自の「社会構成体」の成立を意味しない、語義通りの「過渡的体制」であったことをも証明したのである。

(5)「資本主義への逆転」の軽視――第二次大戦後のトロツキー派

 トロツキー死後の第四インターナショナルの論争は、多くの場合このスターリニスト官僚専制の性格とその進化をめぐって展開された。そして「労働者国家」がすでに「国家資本主義」にその階級的性格を転換したという主張を一貫して批判してきた第四インターナショナル主流の見解は基本的に正当なものであったと私は考えるが、同時に「資本主義への後退の可能性」をふくんだこの「過渡期」の体制について、やや機械的な理解――トロツキーが「今日のソヴェト体制からは社会主義への移行しかありえないような誤った観念」として批判したそれに通じるような――があったのではないか。
 私自身のことをふりかえってもそうであった。かつて「過渡的」(transitional)という言葉の正確な意味に疑問を感じ、手元にあった英英辞典を引いたところ最初に「おたまじゃくしは卵と蛙の間のtransitional form である」という文例が出ており、それで納得してしまったという経験を筆者は持っている。この場合「過渡的形態」としてのおたまじゃくしは一方通行的に蛙になりうるだけであって、死ぬことはあっても卵に逆行することはありえない。もっともトロツキー本人も「過渡期」を蝶のさなぎに例えている。しかし、さなぎも青虫や卵に逆行することはないのであって、この点では後退の可能性を内包した過渡期の比喩としては必ずしも正確なものではない。
 一九八〇年に第四インターナショナルの戦後における代表的な人格であったエルネスト・マンデルが来日したとき、彼は講演会でソ連社会の特徴づけとして「資本主義から社会主義への移行が『凍結』されたもの」という表現をしていたが、この「凍結」という言葉も一方通行的ニュアンスが強くふくまれたものである。もし解凍されたら「社会主義への前進」が再開される、ということがその表現の中には含意されているからである。
 こうした現実のソビエト社会・経済についての「社会主義への前進」という視覚からするある種の肯定的・楽観主義的見方は、マンデルの経済学の中にも少なからずまとわりついているように私には思える。
 「ソビエト経済は、非資本主義的生産様式と根本的にはなおブルジョア的分配様式との矛盾した結合によって、特徴づけられる。このような矛盾した結合は、資本主義を超越したが、しかしまだ社会主義に到達していない経済体制、資本主義と社会主義のあいだの過渡期……を通過する一つの体制を指示している」。ソビエト経済について、それがすでに「資本主義を超越した」という主張は、商品、貨幣、利潤についての非資本主義的性格という分析にまで貫かれている。
 「国有工業によって生産された生産財は、その総生産量だけでなく、さらにその正確な分配が計画によってあらかじめ決定されるから、その商品としての特性を失った」。「貨幣は過渡期においては生き延びるとしても、資本主義経済においてそれを特徴づける一連の基本的諸機能を失う。それは与えられた市場条件内でも自動的に資本に転化することをやめる。というのは、生産手段の私的取得が禁じられる(工業)か、あるいは厳しく制限される(農業、手工業および商業)からである」「利潤はまた金融上の蓄積源泉として重大な役割を演じる。しかし、この役割もまた純粋に技術的な役割である。ソビエト体制は、なんらの構造変化もなしに、将来、利潤概念そのものを廃止し、そして全生産部門の売上高税のスライディングスケール制度によって、蓄積を調達することができるだろう」(13)。
 マンデルは別の著書で「ソ連においては普遍的な商品生産が存在せず、価値法則はもはやここを支配していない……大規模な生産手段や労働力が売買される市場は存在しません。それゆえに、生産手段も労働力も、いずれも商品ではなくなっています」(14)と語っている。
 マンデルはここで「普遍的商品生産の不在」や「価値法則が支配していない」ことを積極的な要素として語っているのだが、この問題点については後述したい。ソ連邦の社会の「非資本主義的性格」(これ自体はもちろん正しい)を強調するマンデルの論調には、その矛盾した二重的性格を分析の基本に据えたトロツキーとの力点の置き方の相違があるように私には思える。
 マンデルは「二つの生産様式の中間の過渡期にある社会の生産関係は、まさにその一般的な混成的性格のゆえに、ある生産様式から他の生産様式への移行に必要とされる社会革命と同じタイプの激動を必ずしも経過することなく、自然に分解し、さまざまな方向に発展していくことが可能です」(15)と述べているが、その「自然な分解」とさまざまな「発展方向」には、「資本主義への後退」のベクトルは想定されていないように見える。なぜならその著書の別の場所では、「ソビエト連邦における『冷たい』過程を通じた(あるいは毛沢東主義者やベトレーム、その他の一部理論家たちが主張する『宮廷革命』を通じた)資本主義の漸次的復活は、西ヨーロッパにおける一連の改良を通じた資本主義の漸次的消滅と同じく、等しく不可能なことです。これが可能だと信じるのは、トロツキーの適切な一句を借りれば、『改良主義のフィルムを逆回しにする』ことです」と語っているからである。
 こうして「過渡期」から資本主義への「有機的」逆転現象は、戦後のトロツキー派の理論においては基本的な展望の外にあったのである。

(6)「国際的力関係」と「過渡期」の分解

 それでは「過渡期」としての労働者国家において、「資本主義の復活」が現実的には日程には上りえないとした戦後の第四インターナショナルの認識は、どこからもたらされたものだろうか。その最大の論拠は、帝国主義ブルジョアジーとプロレタリアートとの世界的な「力関係」の変化、という判断にあったろう。
 第二次世界大戦の勃発直後、トロツキーは「戦争におけるソ連邦」(16)で、戦火の中から照らしだされるソビエト連邦と世界革命の運命について以下のような予測をたてた。
 「もし、われわれの予測どおりにこの戦争がプロレタリア革命をよびおこすならば、それはソ連邦における官僚の打倒、そして一九一八年よりもはるかに高い経済的ならびに文化的基礎の上でのソビエト民主主義の再生へと不可避的に導くに違いない」「しかしながら、もし現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの退歩をまねくとすれば、そのとき他の可能性がある――すなわち、独占資本主義のより一層の衰退、その国家との癒着の強まり、そしていまだ民主主義が残存しているすべてのところでの全体主義体制の確立である」「類似の結果が以下のような場合にも発生するであろう――すなわち先進資本主義国のプロレタリアートが権力を獲得した後、これを保持しえないことを証明し、ソ連邦におけるようにその権力を特権的官僚にゆずりわたすときである。そのときわれわれは、支配階級になる能力がプロレタリアートには先天的に欠けていたことのなかにあるということを認めざるをえないだろう。そのとき、現在のソ連邦はその根本的な諸特徴において国際的規模の新しい搾取体制の先駆であったということを、過去にさかのぼって確定しなければならなくなるだろう」(一九三九年九月二十五日)。
 対馬忠行は、トロツキーのこの不吉な「予言」を、ソ連邦が「国際的規模の新しい搾取体制の先駆」であるとする自説に援用した(17)。確かに、第二次大戦は資本主義中枢でのプロレタリア革命の勝利を生み出さなかった。しかし同時に、トロツキーが予想した最悪の展望たる、プロレタリアートの決定的敗北と「民主主義が残存しているすべてのところでの全体主義体制の確立」をもたらしはしなかった。むしろソビエト連邦は第二次大戦の「勝利者」としてその国際的地位を強化し、東欧諸国を官僚的労働者国家として自らの支配圏内に組み込み、中国革命を先頭に、朝鮮、ベトナムの北半部においては帝国主義の植民地支配から独立した民族解放闘争が共産党の主導下に新たな労働者国家を樹立した。
 世界的な「生きた社会的諸勢力の闘争」は、ソビエト連邦に資本主義を復活させることも、またソ連邦の官僚を「新たな搾取階級」に転化させることも妨げたのである。
 第二次大戦後の世界情勢の展望を、ブルジョアジーにとって不利な、プロレタリアートにとっては有利な力関係の形成としてとらえた戦後の第四インターナショナルは、その力関係がソ連国内の官僚と労働者人民の間にも貫徹されるととらえ、その結果「ソビエト・テルミドール」を根拠としたスターリン主義体制の衰退と没落が確実に始まっていると主張した。一九九六年二月に死去したミシェル・パブロが執筆した第四インターナショナル第五回大会(一九五八年)のテーゼは述べている(18)。
 「一九四三年以来、とりわけ中国革命の勝利以来の革命勢力の世界的台頭およびソ連邦を世界第二の大工業国たらしめた計画経済のめざましい成功によって特徴づけられる国際情勢ならびにソ連の国内情勢における根本的な変化は、ソ連官僚の権威と権力の客観的基礎をうちこわした。/国際的な力関係が反資本家階層に有利に進展したのに平行して、ソ連邦内部の力関係も、プロレタリアートには有利に、官僚には不利な方向に進展した。この進展によって官僚独裁に対して大衆の圧力は着実に増大し、最初はただ経済の領域において、次にしだいに政治の領域において、官僚主義的独裁は、大衆に重大な譲歩をすることを余儀なくされたのである」。
 多分に自然発生主義的な展望が内包されているとはいえ、少なくとも一九七五年のベトナム革命の勝利(ないしは七九年のニカラグア革命)に至るまで、こうした国際的力学は貫徹していたといえるだろう。このような「世界的力関係」の下で、ソ連邦や東欧諸国における「社会的反革命」は現実のものとはならなかったし、重工業中心の外延的な生産力の拡大をテコに労働者人民の生活水準の向上は、たとえ恐るべき官僚的浪費と政治的自由の圧殺を伴いながらではあっても着実に進んでいたといえるからである。労働者の社会・経済的諸権利も、官僚の政治支配の独占を代償として発展していた。そのことは、賃金以外のさまざまな社会的給付や休暇、年金、厚生施設の問題をとっても理解できる。ただトロツキーが社会主義への「過渡期」の発展の決定的指標としていた「労働生産性」の問題について、マンデルがソ連では「労働の工業生産性でさえ今日、イタリアやイギリスの平均値近くにまで上昇しています」(19)と述べているのは完全な過大評価だろう。
 しかし、政治の領域における官僚とプロレタリアートの力関係の転換という評価は、スターリニズム支配下の長期にわたるプロレタリアートのアトム化と階級的政治意識の解体を考慮に入れない誤りだったと言わなければならない。東欧諸国では、ポーランドでの労働者の反官僚闘争の持続を例外として、一九五六年のハンガリー、一九六八年のチェコスロバキアの闘争がソ連軍隊の介入によって文字通り粉砕され、社会主義的民主主義にいたる萌芽が解体されていった。これら諸国では、労働者人民の民主主義を求める闘いは、労働者の階級としての闘いの不在を基礎にして、西欧的「議会制民主主義」への願望としてしか表現されないことになったのである。
 一九七〇年代後半以後、ソ連・東欧の官僚支配体制の相対的安定を支えてきた国際的力関係も大きく変化した。一九七九年暮れから始まったソ連邦のアフガン侵攻の敗北は、ソ連にとっては第二次大戦後初の軍事的敗北であり、そのもたらした影響は、たんに軍事費の重圧による経済的危機の加重だけではなく、ソ連邦官僚支配の政治的・社会的・イデオロギー的統合力の衰退を決定的に加速した。
 二度にわたるオイルショックをくぐりぬけ、ME・情報化革命による技術革新で新しい産業構造への転換をなしとげた西側資本主義陣営と、ソ連・東欧との技術水準、労働生産性の格差は飛躍的に拡大した。西側においては労働組合運動への資本の側の攻撃の強化、労働組合運動の戦闘力の衰退が一様に進み、労働者階級の帝国主義国家への統合も促進された。多かれ少なかれ西側労働者階級の階級的政治意識の根底を形作っていた「社会主義思想」への不信もこの時期に一挙に深まった。
 ゴルバチョフは、政権発足当初、経済加速化戦略によって、西側との技術水準における「鋏状格差」を是正することで、危機に陥った官僚支配体制の弥縫を試みたが、それはもののみごとに失敗した。チェルノブイリ原発事故はゴルバチョフ改革の出端をくじき、その破綻を刻印する紋章となったのである。こうしてゴルバチョフは、国際政策における帝国主義との対抗関係を放棄するとともに、いわば無展望のままに政治体制そのものの抜本的手直しを行うことを余儀なくされた。そこには第二次大戦後ソ連邦が打ち立てた東欧の労働者国家への軍事・政治・経済的バックアップを放棄することもふくまれていた。ゴルバチョフの「国際的名声」の高まりは、ソ連邦を取り巻く国際的力関係の悪化と逆比例したものになった。
 こうした状況の中で、スターリニスト官僚体制の危機の深化は、官僚的労働者国家におけるプロレタリア民主主義の復活=政治革命へと向かうのではなく、「資本主義への逆転」のベクトルとして働くようになった。
 一九九一年八月の保守派官僚の軍事的一揆が失敗し、ソ連邦の解体が現実のものとなった時点で、第四インターナショル統一書記局はトロツキーと第四インターナショナルの歴史的なソ連論の基本的な正当性を確認した上で、以下のような反省を行った(20)。
 「しかしわれわれは今日、『われわれは正しかった』と言って自己満足にふけることはほとんどできない。われわれが一九九一年に明らかになったようなソ連邦での事態の進展を予期しえなかったことは否定できない。したがって同時に、過渡期社会と社会主義建設についてのわれわれの理論を今日的なものにするために、思考の前進を開始することこそがふさわしいのである。
 (a)経済的成長の低下と、そこからもたらされるあらゆる社会的結果に示されるソ連における体制危機の『質的飛躍』を認識する点で、われわれは遅れてしまった。この飛躍が一九七〇年代末にかけてなされたものであることは疑う余地がない。
 (b)同時にわれわれは、官僚的独裁がソビエトプロレタリアートの階級意識にもたらした長期的影響、プロレタリアートのアトム化、そこから導き出されるきわめて深刻なイデオロギー的・道徳的危機、そして官僚体制の亀裂が生じたときに、こうしたことがそこから発生する力学にどのような影響を与えるかについて重大な過小評価を行っていた。
 (c)われわれはまた、世界プロレタリアートのかなりの部分、とりわけ東欧諸国とソ連邦のプロレタリアートにとっての、社会主義への信頼性の全般的な危機の政治的反響を認識する点で遅れていた。……」。
 「この点からして、一九五六年のハンガリー、一九六八年のチェコスロバキア、一九八〇―八一年のポーランドと同様な、東欧とソ連の大衆への政治方針は成立しがたくなった。独裁体制の解体は、社会主義と同一視される体制の拒否、資本主義市場と結び付いた解決策の幻想的追求をともなったものになっている。この転換は、世界革命の後退というより広範な状況の中で引き起こされている。一九七九年のニカラグア以降、勝利した革命はなかったし、どの帝国主義国においても一九八〇年代には長期のゼネストは起こらなかった」。
 この第四インターナショナル統一書記局決議は、「ソ連邦の歴史的総括についてのわれわれの分析を深め、われわれの任務を定義する理論的・政治的作業が必要である」ことを強調し、それが以下の諸点をカバーすべきことを提起している。
 「(a)過渡期における政治権力の制度化は、直接民主主義の機関と代議制民主主義の機関を結合し、性や諸民族の平等を保証する機関を結び付けるといったやりかたでなされるべきこと。
 (b)国家的専制や市場と貨幣の専制に対置される経済発展の『第三のモデル』の実践的内容。フェミニスト的な、また民族的な側面をふくんだ生産者と消費者の民主主義のモデル。エコロジー的要請を考慮に入れた、異なった地域的レベルでの社会主義的計画の形態のより詳細な定義。市場メカニズムの利用の形態と、その限界の厳密化。異なった所有形態の結合についての討論。大衆の消費需要と、平等を拡大する手段についての討論。
 (c)ソ連邦と中欧での民族問題の矛盾に満ちた力学についての全面的な再考。諸国家と諸民族の解放、ならびに民族国家の拘束的枠組みの克服という二重の要求に対する一貫性をもった綱領的回答の詳細化。
 (d)この戦略の国際的な側面」。
 同決議はまた、こうした理論的・政治的作業の具体化がおのずから「経験主義」的性格を持たざるをえないこと、(旧)ソ連の労働者や社会主義者の、全世界のマルクス主義者との討論を通じた一歩一歩の結論によってかちとられていく必要があることについても注意を喚起している。そして「ここ何十年間におけるわれわれの理論的具体化の不十分性の理由の一つが、一九四〇年代以来、われわれの思考がソ連邦におけるいかなる政治的実践とも切断されていたことにある」と述べ、こうしたギャップが克服される条件がすでに成立していることについても触れている。
 このような反省の上にたった、不十分性を克服するための理論的作業は、まさに「経験的」に、そして旧スターリニスト体制の下での「資本主義化」の矛盾に対する闘いと結び付きながら、現にいま展開されつつある。

(7)トロツキー派の理論的反省――マンデル理論を中心にして

 一九九六年七月にアムステルダムで、エルネスト・マンデルの没後一年を記念して、新しく設立された「エルネスト・マンデル研究センター」による国際セミナーが開催された。この中で、第四インターナショナルの旧ソ連・東欧問題についての代表的理論家の一人であるカトリーヌ・サマリ(パリ第9大学教授、邦訳書に『ユーゴの解体を解く』柘植書房がある)は、「エルネスト・マンデルの過渡期の概念」と題してマンデルの「ソ連論」の批判的再評価を行った。
 彼女サマリはマンデル理論の主要な批判的総括点として、まず「十月革命の成果の過大評価」を挙げる。たとえばマンデルはソ連邦の「労働者国家」的性格を強調する際に、「完全雇用」が実現されていること、あるいは多くの賃金外の「無料サービス」が存在していることを指摘した。しかし、その「完全雇用」の裏にあった劣悪な労働条件や、「無料サービス」の質の劣悪さに十分な注意を払うことはなかったのではないか、とサマリは述べる。[この「過大評価」については、先に引用したマンデルの諸著作の随所に散見されるものである]。
 そして支配的官僚層の集団的「階級意識」といえるものが、過渡期社会の社会主義的発展を阻止することにあったとサマリは述べ、この点をマンデルは軽視していたというのである。
 トロツキーは、「ソ連官僚はその仲裁・調整機能、もろもろの社会的等級の保存に対する配慮、私的目的のための国家機関の利用の点で他のあらゆるたぐいの官僚――とりわけファシスト官僚に似ている」が「他のいかなる体制の下でもソヴェト官僚以外の官僚が支配階級からこれほど大きな独立をかちとったことはなかった」と述べた。すなわち労働者国家の「支配階級」たる労働者階級からの徹底的「独立性」をトロツキーは批判的に捉えている。そしてトロツキーは、「ソヴェト官僚は官僚以上のなにものかである」ことを認め、「生産手段は国家に属している」が「国家は官僚に『属し』ているようなものである」と痛烈にその特質を指摘したのである。そして「こうした関係が勤労者の抵抗にもかかわらず、あるいはその抵抗もないままに固定化し、常態となり、適法化されるとするならば、究極的にはプロレタリア革命の社会的獲得物は完全に失われてしまうことになるであろう」と喝破したのだった。しかし一九三六年の時点で、トロツキーは「今それについて云々するのは少なくとも時期尚早である」と注意深い限定を付けたのである(21)。
 トロツキーがこの分析を行ってから五十年以上たった後になっても「時期尚早」ということはできなかっただろう。明らかに国家と官僚、官僚と勤労人民の間の「この関係」は「固定化し、常態とな」っていた。その時、この官僚に「所有」された国家をどのように規定すべきか。サマリはこの「労働者国家」の「反労働者的性格」を強調すべきだったと述べる。この「反労働者性」が資本主義の復活に対する労働者の抵抗能力を弱体化させると同時に、官僚層の資本主義への傾斜を強めさせたと彼女は主張する。その意味でそれは「反労働者的労働者国家」であった。
 確かに一定の時期まで、官僚層の利害は非資本主義的性格を持った「国家所有」経済と緊密に結び付いていた。しかし、一九七〇年代半ば以後の西側資本主義諸国との生産性ギャップが急速に拡大し、官僚体制がより高度な「集約的生産形態」への転換を実現しえないことが明白になるにつれてこの関係は転換を開始したとサマリは述べる。
 こうした技術格差の進行の中で、官僚は経済の国際的開放に乗り出し、その結果として膨大な債務を抱えることになった。資本のネオリベラル的攻勢、西側の高金利政策、IMFなどの国際金融機関の介入は、官僚の利害に新たな性格を付与するものとなった。従来、「非資本主義的国家所有」を源泉としていた官僚の特権は、それとは異なるものとなっていき、むしろ資本主義の復活に抵抗するのではなくそれに便乗しようとするノメンクラトゥラ層が生み出されてくることになった。サマリは「ソビエトタイプの社会の官僚が非資本主義的生産様式の基礎のもとで自身の特権を安定化させることができるのは、経済成長という条件がある場合だけである」と主張する。この条件が失われたとき、官僚層は容易に、その特権を維持するため「資本主義の復活」と結び付こうとするのである。
 サマリは、さらにマンデルにおいては、労働者階級の「能力」に対する彼の「楽観主義」が、ソ連・東欧における労働者の闘争の敗北と、その経験の断絶・欠如がもたらす否定的影響を無視させる結果になったこと、ソビエト型社会の危機それ自身が、労働者の集団的闘争の発展にとっての困難を拡大したこと、国際階級闘争の後退がソ連・東欧の労働者の意識に果たしたマイナスの影響を列挙したうえで、「商品・市場」についてのマンデルの機械的で主意主義的なアプローチの問題点についても論を進めている。
 この「過渡期社会」における「商品・市場」問題についてのマンデルと戦後の第四インターナショナルの限界については、さらなる吟味が必要だろう。
 たとえばマンデルは、ユーゴスラビアの「社会主義的市場経済」を批判しつつ、「労働の非プロレタリア化は、ただ単に生産手段の私的所有と経済の官僚的管理の廃止を必要とするのみならず、さらにまた商品関係および労働の社会的分業の廃絶をも必要とする」と語る。それは確かに一挙には実現されえない過程が問題なのだが、そのことはこの過程を無限に延期する口実にはならないと彼は主張する。「商品関係の廃止はすべての者に対して基本的財貨とサービスが豊富に保障されないかぎり達成されえないという理由で商品関係の廃止を遅らせることを主張するのはまったく非論理的である」(22)と言うのだ。これは逆に言えば、ユーゴスラビアのような孤立した過渡期社会においても、国際的・国内的市場関係の活用ではなく、商品市場関係の止揚に向けて一歩踏み出すことに重点が置かれなければならないということを意味する。
 彼はこうした観点から過渡期社会における「混合経済」という考え方を否定する。すなわち主要工業部門の国有化と他の重要な工業部門における私的経営の維持とからなる「混合経済」は、「国有化の範囲が縮小されれば、真に安全な『混合経済』ではなくて、根本的には資本主義経済である」(23)からだ。
 マンデルは先に引用したようにソ連邦における国有工業によって生産された生産財は、すでに商品としての性格を失っていると、肯定的に述べた。そしてわれわれはスターリン主義体制下においては労働力市場が存在せず、消費物資も基本的に市場関係に規制されて生産が行われていたわけではないことを知っている。そしてマンデルの理論によれば、これは官僚的で恣意的・指令的方法でなされていたものの、基本的に否定的な現象であったわけではない。なぜなら過渡期社会から社会主義社会への発展には「商品=貨幣関係の消滅を発展・強化すること。より多くのサービスと消費財が貨幣との交換ではなく必要の充足という原則によって配分される」ことが他の多くの条件と結び付いた一つの不可欠の条件とされているからである(24)。
 過渡期社会における「市場関係」を、いわば「やむをえないもの」として捉え、市場を計画のための「調整」機能として積極的に活用することに否定的なマンデルが、官僚制的な指令経済に対して対置するのは「労働者管理に基づく民主主義的な計画化」の戦略である。
 「市場社会主義」の立場に立つA・ノーヴの『実行可能な社会主義の経済学』(The Economics of Feasible Socialism )をめぐって「ニューレフトレビュー」誌で展開された論争におけるマンデルの「民主主義的計画化」の主張について、伊藤誠氏は『現代の社会主義』の中で次のように述べている。
 「このようなマンデルの論評は、マルクス派の伝統的な社会主義論に依拠し、かつてのドッブやスウィージーの見解にくらべても、市場と計画をより対抗的な経済形態とみなし、分権的な労働者自主管理の連合により計画経済をすすめることが先進諸国においてこそ、いまや可能であり、望ましいことであると主張するものになっている」(25)。
 「市場と計画」を対抗的に措定して、「市場的」なものを原則的に否定するマンデルの方法論が、実はトロツキーの主張と異なるものであることが想起される必要がある。この点ではトロツキーの市場についてのより現実的な接近の方法に立ち返らなければならないと私は思う。
 マンデルが、「市場社会主義」を筆鋒鋭く批判したのは、それがスターリニストの指令経済の非効率性を、市場での競争原理を採用することによって改革しようとしたテクノクラートたちの利害に発するものであったからだろう。サマリも一九八八年には「政治システムのラディカルな批判ぬきにスターリニズムを拒否する官僚的計画の改革者たちは、きわめてすみやかにいつわりの代案の理論化におちいった。それは官僚的計画(と国家全体主義)か、さもなくば市場(と自由)の合理性か、というものだ。また多くの人々は、市場は自主管理を強化し、調整的基準を不必要にすると仮定している」と批判していた(26) 。
 「市場社会主義」論が一党独裁体制とノメンクラトゥーラシステムの枠内での「体制内的改良」として登場し、それが容易に「計画」そのものの清算へとおちいる力学を内包していたことへの批判としては正しい。しかしマンデルらの「官僚制的指令経済」と「市場社会主義」への批判が、市場そのものの原則的否定の上にたった「自治的労働者管理と民主主義的計画」を対置するものであったことの抽象性がいま問われているのである。その意味で、サマリのマンデルへの批判的評価は、この間の経験の実践的総括の上にたった彼女自身の自己批判であるともいえる。
 「市場の合理性」を無視したソ連経済の本質的な「非資本主義的性格」は、官僚支配の恣意と非効率の基盤でもあった。価格計算を考慮の外においたこの「計画」という名の、無計画的な指令経済は、経済の実態を当の官僚自身の目からも覆い隠し、システム総体の機能不全に導いたのである。この点でまさに「市場」を媒介とした「消費者主権」ぬきには、「民主主義的計画」の「民主主義」自体が形成されていかないということを、いま改めて確認できる。それはまた「お上」に依存しない勤労人民の自治を支える公共的モラルを内発的に陶冶していく上でも不可欠なのである。

(8)おわりに――「社会主義再生」に向けたトロツキズムの貢献

 いま「資本主義」に向けた「過渡期社会」の逆転は、ネオリベラリズム的資本主義の攻勢の中で、旧ソ連・東欧の民衆の多大な犠牲と、社会の崩壊とも言うべき混乱を伴いながら進行している。東欧では「魚からスープをとることはできるが、スープから魚を作ることはできない」ということわざがささやかれているという。つまり「資本主義は『社会主義』を生み出すことはできるが、『社会主義』から資本主義をひねり出すことはできない」という意味である。旧ソ連・東欧で「ノーマルな資本主義」への移行が相対的にスムーズになされるという幻想は崩壊した。いまその崩壊のつけを西側の帝国主義も「東側」の民衆も支払わされている。旧ユーゴの内戦や、「東側」での旧スターリニスト政権党を中心とする「左翼の復活」は、この困難さの例証である。この「逆転的過渡期」の混乱は、旧「労働者国家圏」が西側と同様の階級的搾取関係をもった「国家資本主義」体制ではなかったことを示すものともなっている。
 しかし、その「困難さ」がどれほどのものであったとしても、旧ソ連・東欧の「社会主義をめざす過渡期社会」への再々逆転が、今日の世界的な階級闘争の力関係の下では生じえないこともまた明白であるように見える。「東側」における「左翼の復活」は、基本的に資本主義的市場経済への移行のベクトルを前提とした上で、その「社会民主主義」的規制を綱領的立場にしたものである。ロシアの民主主義的社会主義派であるカガルリツキーの言うように「社会主義思想はふたたび人気を得つつあるが、しかし新しい社会主義の計画も運動も、今の社会には存在しない。社会主義の誕生はずっと先の問題なのである」(27)。
 他方、中国、ベトナムでは共産党の一党支配を前提にした上で、国際資本への「開放」を急速に推し進め、「社会主義市場経済」の名目で、社会・経済関係の「資本主義」化が発展している。この中で新しい資本家が形成されているとともに支配的党官僚層の「資本家」への転身も見られる。中国、ベトナムが東アジア型「開発独裁」政権の特徴に接近しつつあるとも言える。今後の展開をいまはっきりと予測することはできないとしても、次のことは言えるだろう。トロツキー派は、中国における民主主義の展望を国有計画経済の防衛を前提にした「政治革命」に置いてきた。しかし私は、いま中国の新たな革命が、ネオリベラリズムに対決する国際的な社会主義運動の再生と結合した「新しい社会主義革命」によってのみ可能である、と考える。それは論理的には中国「労働者国家」規定の再考につながるものとなる(ベトナムやキューバの問題については、ここでは私としては留保する)。
 トロツキズムは、ソ連の「過渡期社会」としての分析、官僚支配の矛盾とその崩壊の必然性の解明に代表される「一国社会主義」としてのスターリニズム批判の理論と実践において先駆的役割を果たしてきた。トロツキズムは、スターリン派のマルクス主義の歪曲に抗して、孤立の中でマルクス主義の正当性を防衛し、発展させてきたことを自負することができる。しかし、トロツキズムもまた「ソ連・東欧の崩壊」の中で大いなる試練に直面している。それはスターリニズムの包囲によるものではなく、社会主義運動の信頼性の喪失と、階級闘争の世界的後退を背景にしたものである。
 トロツキー派が、その歴史的遺産を出発点として、資本主義の危機とネオリベラリズムの攻勢の中で、労働者民衆の国際的抵抗の闘いを社会主義の新たな再建に向けて発展させるべく貢献していくことができるかどうか――スターリニズムの崩壊という客観的条件をトロツキズムにとって主体的な「可能性」としていくために、「開かれた討論」が不可欠である。(一九九六年九月)


(1)トロツキー『裏切られた革命』(岩波文庫)
(2)大藪龍介「岩田社会主義経済論の批判的検討」、『カオスとロゴス』3号(ロゴス社)
(3)マルクス『ゴータ綱領批判』(岩波文庫)
(4)マルクス『資本主義的生産に先行する諸形態』(国民文庫版)所収
(5)トロツキー『ロシア革命史』6(角川文庫)
(6)トロツキー『社会主義へか資本主義へか』(大村書店)
(7)森田成也「トロツキーと一国社会主義批判の政治経済学」、『思想』一九九六年4月号(岩波書店)
(8)湯浅赴男『トロツキズムの史的展開』(三一書房)より重引
(9)トロツキー「労働者国家、テルミドール、ボナパルチズム」、『トロツキー著作集一九三四―三五下』(柘植書房)
(10)ブルーエ『トロツキーA』(柘植書房)
(11)トロツキー「ソビエト国家の階級的性格」、『トロツキー選集9』(現代思潮社)
(12)トロツキー「労働者国家、テルミドール、ボナパルチズム」
(13)マンデル『現代マルクス経済学W』(東洋経済新報社)
(14)マンデル『マルクス主義と現代革命』(柘植書房)
(15)マンデル同前
(16)トロツキー「戦争におけるソ連邦」、『トロツキー著作集 一九三九―四〇下』(柘植書房)
(17)対馬忠行『トロツキー選集9』解説(現代思潮社)
(18)国際革命文庫『スターリニズム』(新時代社)
(19)マンデル『マルクス主義と現代革命』
(20) United Secretariat of the Fourth International “The Soviet Union after 19 August 1991" “INTERNATIONAL MARXIST REVIEW No.13" Spring 1992
(21)トロツキー『裏切られた革命』
(22)マンデル『労働者管理・自主管理・評議会』序文(柘植書房)
(23)マンデル『現代マルクス経済学W』
(24)マンデル「資本主義と社会主義の間の過渡期社会に関する10のテーゼ」、『官僚論・疎外論』(柘植書房)
(25)伊藤誠『現代の社会主義』(講談社学術文庫)
(26)Catherine Samary “Plan,Market,and Democracy --The experience of the so-called socialist countries" IIRE,1988 


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