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(『インターナショナル・マルクシスト・レビュー』Vol.2 no.3 1987年夏号)

イスラム原理主義の復活

サラー・ジャーベル


 【解説】

 第四インターナショナル・レバノン支部出身の同志サラー・ジャーベルのこの論文は、パーレビ体制を打倒した「イラン・イスラム革命」のイデオロギーとして大きな注目を集めたイスラム原理主義への根本的批判をめざすものとして二十年以上前に執筆された。中東におけるアメリカ帝国主義の重要な戦略的同盟者だったイラン・パーレビ王政打倒の大衆的な闘いを背景に登場したホメイニのイスラム復古主義体制をめぐって、その反米帝の主張をどのように評価するかについて、当時、第四インターナショナルをふくむ左翼勢力内部で大きな論争が起こった。その頃いまだ第四インターナショナルの隊列の中にいたアメリカ社会主義労働者党(SWP)など一部の人びとは、イラン「ホメイニ革命」を、その反米主張のゆえに積極的で進歩的なものと主張していた。しかし、ホメイニのイスラム原理主義体制は、スターリニストのツデー党や第四インターナショナル・イラン支部(社会主義労働者党)など左翼勢力に対する徹底的な血の弾圧を加えることによって、その反革命的・反労働者的性格をたちまちのうちに明らかにすることになったのである。
 二〇〇一年九月十一日のアメリカにおける大規模テロと、ブッシュ政権の「報復戦争」の発動は、アフガニスタンのタリバン政権に対する評価をふくめて「イスラム原理主義」についてのさまざまな言説をふたたび引き起こしている。日本の革マル派などは、イスラム原理主義者の「聖戦(ジハード)」をほぼ全面的に賛美する驚くべき変質と堕落を遂げている。二〇〇一年十月末に開催された第四インターナショナル国際執行委員会での九・一一テロに関する論議の中で、ジャーベル同志はこの論文の「イスラム原理主義」批判が依然として有効であることを強調し、今日の情勢の中でこの論文を再検討することを要請した。
 中東・イスラム世界での革命の展望を考察していくためにも、ぜひ討議の素材としていただきたい。(平井純一)

【「インターナショナル・マルクシスト・レビュー」への掲載にあたっての筆者前書き】
 以下の論文はもともと一九八一年の初頭に書かれたものであり、フランス語版『カトリエーム・アンテルナシオナル』第6号(一九八一年10−12月号)に最初に掲載された。しかし私は、この内容は六年たった今でも適切であると考えている。それにはいくつかの理由がある。
 第一に、残念なことではあるが、イスラム原理主義の復活は、今でも中東における政治的展開の最も重要な特徴の一つである。本論文は、この現象を簡潔に説明している。それは、関係する社会の社会的構成体といった構造的・歴史的要因、経済危機、民族ブルジョアジーのあらゆる進歩的役割の磨滅や組織された労働者運動の破産によって説明されている。本論文は、イスラム原理主義の高揚を、破裂する「バブル」のようなものではなく長期的現象であると見なしている。
 さらに、ここで示されている構図をきわだって修正するような大きな政治的変化はなかった。しかし幾つかの事柄については言及に値する。例を挙げれば、エジプトにおける一九八一年十月の原理主義者によるサダトの暗殺は、中央政府とこの国のイスラム主義運動全体との関係を顕著に悪化させた。その結果、エジプト・ブルジョアジー――あるいはその支配的分派――の、本論文で概括されているような原理主義運動との関連でのひとりよがりの自己満足感は、より対決的なアプローチにとって代わった。レバノンにおいては、一九八二年のイスラエルの侵略によって悪化した情勢は、ラテンアメリカで見られるような規模でのかつてない経済危機と結びつき、シーア派社会内の原理主義運動の急速な成長をもたらした。それはここに概括した全般的現象に対応するものであるが、イランの運動と特別な関係がある。
 第三に、ここで提起されている多くの問題は、とりわけイラン革命との関係で、革命的マルクス主義者の間で当時、大きな論争となった。ホメイニ指導部の本質的に反動的な、しかし矛盾に満ちた性格といった、ここで押し出されている諸問題は、後に確認されることになった。この論文は正確にこの体制の二つの重要な特徴を指摘して、ホメイニ体制の動向が不確かなものであると主張している。
 第一に、石油収入が、通常の資本主義の経済的条件の下では考えられないような自律性の余地を新政権に与えるということである。第二は、原理主義諸勢力と彼らに引きつけられる社会階層がきわめて多様であり、それが「これまでのところはホメイニの権威によってのみ維持されている、競争的で敵対的な複数性を含んだ諸権力の表面的な統一」の発展を伴う要因であると示していることである。
 それ以来、この文章が書かれた時から数カ月後に起こったバニサドルの追放から最近のラフサンジャニ派とモンタゼリ派の闘争にいたるまでのイラン政権の内部闘争は、この提起を確証している。現在の情勢を考えれば、ホメイニの死は現在の危機を拡大するだけであろうことは言うまでもない。もともとのこの論文は、フランス語版には発表されなかった一つの予測を含んでいた。それは次のように述べていた。
 「アヤトラ(ホメイニ)にとってはきわめて遺憾なことに、一九七九年の革命が軍を解体しなかったということなら、軍は権力を獲得することになるだろう。これは、イランがまったくバラバラになってしまうという可能性を考慮の外に置く」。これは、イラン・イラク戦争の長期化によっていっそうその正しさが立証された。
 本論文は、イスラム原理主義とファシズムとの関係という不可避の問題を提起している。原理主義運動が、その社会的基盤、その政治的イデオロギーの性質、その乱暴な反共主義と全体主義といった点で、トロツキーが概括したファシズムの特徴と多くの共通点を持っていることは確かである。しかし、われわれが原理主義運動を単純なファシズムの変種に切り縮めることができない三つの主要な要素が存在する。
 歴史的に言って、ファシズムはボナパルティズムの極端な形態を利用し、同時に再生産の諸条件を改善(もちろん資本家の観点から)し、大資本の統治の道具となることによって、大資本とつながっていた。ファシズムが権力の座についた諸国では、それは帝国主義の危機の全般的条件の中で資本主義的生産力の新たな拡大の余地を創出した。この点から見れば、原理主義運動は現実にはファシズムよりも後進的なものである。
 反革命の中で、ブルジョアジーの同盟者という役割を越えて進み、自らの権力獲得を目指す時、原理主義運動は、実際には国家と私的資本を代表する現存ブルジョア支配に対して闘いはじめる。この十年間の原理主義の高揚は、弱体化した労働者階級の運動の代わりをするものとなった。したがって大資本の代表は、それをより少ない悪として選び、彼らと同盟関係を結ぶ必要はなかった。したがって原理主義者は、われわれがイランにおいて見ているように、ブルジョアジーの支配的部分の支持によって権力を獲得することができたわけではなかった。
 実際には、原理主義運動が親近感を持っていたブルジョアジーとは、「伝統的」ブルジョアジーのみであった。つまり、前資本主義的生産様式との連続性を代表する支配階級の一部であり、低価格の輸入消費物資を売る人びとをふくむ、国内市場向けの小規模生産者と結びついた商業資本である。これはプチブルジョアジーにきわめてふさわしいものである。彼らは、彼らの量的・質的購買力を犠牲にして民族的産業資本を優先することを望まないからである。歴史的・現在的に、支配階級のこの部分の相対的重要性は中東社会全般の特徴の一つである。事実、初期の時代からイスラムはメッカの上流商人と結びついていた。イスラム運動のこの特有の姿は、彼らが、資本主義発展の時計を逆にまわそうとする特別の反動的ユートピアに対して、ファシズムよりもさらに忠実であるということを意味している。イスラム独裁は、決して生産諸力の進歩をもたらさず、その後退、あるいは最善の場合でも停滞を引き起こすことになりそうである。
 ここでは矛盾に満ちた一連の結果が作りだされる。原理主義運動の権力のための闘争が、主要に帝国主義と結びついた大「民間」資本に対決するものである時(これはリビア、シリア、アフガニスタンにおいてはあてはまらない)、またこの闘争が、労働者運動がまったく不在ではないとしても非常に弱く、したがって反共主義が原理主義にとって相対的に二次的な側面をなすようなところで行われるものである時、そのポピュリスト的側面が前面に出てくる。革命家たちが、大衆闘争でイスラム原理主義とバリケードの同じ側に自らを見いだし、「共通の敵」に対して彼らととともに闘うという事実に直面するのは、ここから導かれることである。これはファシズムの場合では考えられないことである。エジプトでの暴動は、その一つの例であった。しかしもちろん、こうしたタイプの情勢の結果として原理主義者によって提案されるいかなる妥協も、左翼のすべての部分に対して、道徳的かつ物質的に重大な危険を提示する(イランやレバノンでそうであるように)。
 原理主義イデオロギーの性質は、彼らの政治的闘争が提起する戦術的諸問題の複雑性を深めることになるだけである。創設者の民族主義的・人種差別的スローガンに基づいたイデオロギーを生み出すファシズムとは対照的に、原理主義運動は当然のことながらあらゆる新しい教義を拒否し、イスラム教に基づく何世紀もの歴史を持つイデオロギーを支持する。原理主義は、ファシストイデオロギーや、さらにマルクス主義イデオロギーとも異なり、ムスリム社会の外部からもたらされたものではなく土着のものだと見られている。この思想の政治的・宗教的あいまいさは、ファシズムに対する闘いで必要なものと同様のイデオロギー闘争を行うことを困難にする。この問題は、イスラムでは政治と宗教を分離するのが困難であることによって、いっそう難しくなる。この点で、そしてとりわけ運動のポピュリスト的側面が前面に出る時には、マルクス主義者のイデオロギー的戦術はトロツキーのファシズムに関する著作よりは、レーニンの宗教に関する著作に基づいたものであった。レーニンは「宗教に対する労働者党の態度について」と題する論文で次のように述べている。
 「このような条件のもとでは、無神論の説教は無用でかつ有害な結果になる場合がある――遅れた層をおじけづかせないためとか、選挙で落選しないためとか、等々の俗物的な考慮の見地からではなく、階級闘争のほんとうの進歩の見地から見て、そうなのである。階級闘争は、現代の資本主義の事情のもとでは、キリスト教的労働者を社会民主主義へ、そしてさらに無神論へと進ませるうえで、むきだしの無神論の説教よりも、百倍もすぐれている」。
 「マルクス主義者は具体的情勢を全体として考慮にいれ、いつでも無政府主義と日和見主義とのあいだの境界線(この境界線は相対的、可動的、可変的ではあるが、しかしあることは確かである)を見いだすことができなければないし、無政府主義者の抽象的な、口先きだけで、実際は空虚な『革命主義』にも、また宗教との闘争に尻込みし、こうした自分の任務のことを忘れ、神への信仰と和解し、階級闘争の利害によって導かれるのではなく、人を傷つけまい、反発させまい、おじけづかせまい、というちっぽけな、みじめな打算によって、『世は持ちつ持たれつ』というすこぶる賢明な処世方針等によって導かれるブルジョアやブルジョア自由主義的インテリゲンチャの俗物的態度や日和見主義にも、おちいらないようにしなければならないのである」(一九〇九年五月、邦訳は岩波文庫版『カール・マルクス』所収)。
 結論として、今日のイスラム原理主義の復活に対する唯一の真の解毒剤は、たとえそれが外部からのものであったとしても、労働者の階級意識の大衆的な強化なのである。プロレタリアートの革命的闘争は、原理主義者の蒙昧主義に比べてはるかに強力で普遍的である。

…………………………………………………………………………………………………………【本文】

 二十世紀の最後の四半世紀の開始を刻印したイスラム原理主義の復活に対するあらゆる早まった一般化は、それが取った形態の広がりと多様性によって釘をさされている。ポーランド労働者のカトリシズムとフランコ主義反動を、スペインとポーランドの農業の歴史の共通した様相や、それぞれのカトリシズムの政治的・イデオロギー的内容を分析することのないまま同一視することは完全な誤りである。
 同様に、ムスリム聖職者の運動の復活と、エジプト、シリア、チュニジア、トルコ、パキスタン、インドネシア、セネガルなどの政治運動を、またパキスタンのジアウル・ハク軍事独裁とリビアのカダフィのそれとを、あるいはイランのシーア派聖職者による政権獲得とアフガニスタンのゲリラといったそれぞれに異なった多様な現象を同一化することは、初歩的な分析上の注意として、禁じられていることである。同じ運動の異なった部分の発展であるエジプトとシリアの「ムスリム同胞団」のように、表面的には同一のものとして現れる底流での現象も、それぞれの異なった当面の目的によって規定された政治的内容と機能の違いが存在している。天上界の事柄や日常生活の問題については合意があるとしても、また類似したないしは同一の宗派や組織形態であったとしても、ムスリム運動は本質的に政治運動であり続けている。かくしてそれは、きわめて地上的な社会・政治的利害の表現なのである。

●政治的宗教

 イスラム教にとって政治への介入などというものはなかった。イスラムと政治はつねに不可分である。イスラムは語の原義的な意味において政治的宗教である。かくして、ムスリム諸国において宗教と国家の分離を要求することは、政教分離以上のものである。それは公然たる反宗教である。そのことは、トルコのケマル主義(訳注:第一次大戦後のオスマン・トルコ帝国の崩壊を受けて、トルコ共和国の初代大統領として「近代化」を推進したムスタファ・ケマルの政治理念)を例外として、イスラムの地におけるブルジョアないしプチブルジョア的民族主義の主流のどれも、政教分離を求めなかった理由を説明するのに役立つ。宗教と国家の分離という、他のどこでも民主主義的課題の基本だったものが、ムスリム諸国、とりわけ中東においてはあまりにもラディカルであったため、プロレタリア独裁ですらそれを完遂することは困難な課題であるだろう。それは他のどの階級にとっても、自らの展望の中には入ってこない。
 さらにムスリム社会の民主的諸階級は、全体として自らの宗教に挑戦することにはほとんど利害関心を持っていない。実際のところ、二十世紀においてイスラム教は、これらの社会の時代おくれになった封建的あるいは半封建的階級構造のイデオロギー的接着剤だとは認識されてこなかった。それはむしろ外国のキリスト教徒(あるいは無神論者)の抑圧者によってあざけりを受けた民族的アイデンティティーの基本的要素と見なされてきたのである。二十世紀において外国の直接支配に従属させられなかった唯一の社会がトルコであったのは偶然ではない。ムスタファ・ケマルも彼の同類の中でたった一人の存在であった。彼の主要な闘争は、植民地や帝国主義に対するものではなく、世俗的権力と霊的権力の結合(カリフ)であるスルタンに対するものであった。他方、ナセルのようにラディカルなブルジョア民族主義者は、帝国主義に対する彼の主要な闘いにおいてイスラム教に依拠することに利害を持っていた。それは彼が左翼と右翼の双方から同時に自らを守る上で簡単な方法であった。

●原理主義:完結した綱領

 民族主義的潮流のイデオロギーの多くの要素の一つとしてのイスラム教は、たとえそれが原理主義的であったとしても、ここで述べる議論の主題ではない。特定のイスラムは、諸潮流がそれを主張するうちに時世に迎合してきた。より一般的に言えば、われわれは民族、コミュニティー、さらには宗派さえものアイデンティティーを形成し、主張する手段としてのイスラムと、それ自身が目的であり、完全なグローバルな目標であり、特有の完成した綱領であると見なされているイスラムとを区別する。
 一九二八年にムスリム同胞団の創設者であるハッサン・アルバンナは「コーランは憲法である」と宣言した。ここでわれわれが関心を持つイスラムとは、他の諸要求、改革、闘争を超えて絶対の原理にまで上り詰めたイスラムであり、それはムスリム同胞団のイスラム、「ジャマーティ・イスラミ」のイスラム、ウラマのさまざまな諸結社のイスラム、その組織された表現がイスラム共和党であるイランのアヤトラの運動のイスラムである。こうしたさまざまに異なった運動の共通分母がイスラム原理主義である。それは、イスラム回帰の願望であり、一つの民族に限定されず、全世界ではないとしても全イスラム民衆を包含するイスラム的ユートピアへの大望である。この精神をもって、一九七九年にバニサドルはベイルートの日刊紙「アン・ナハル」で「アヤトラ・ホメイニは国際主義者である。彼はイスラムを一国で建設しようと願うイスラム的スターリニストと闘っている」と述べた(原文のまま!)。この「国際主義」は、上述した諸運動が彼らのもともとの国境を越え、おたがいに密接な関係を維持しているという事実によって同様に表現されている。彼らはすべて狭い意味での民族主義を拒否し、民族主義的潮流を――彼らがイスラム信仰を宣言していたとしても――ライバルと見なしている。敵ではないとしてもである。彼らはイスラムの名において外国の抑圧者や国民の敵にに反対するが、「民族」を防衛するためではない。かくしてホメイニにとっては、アメリカは「帝国主義」というよりは「大悪魔」である。なかんずくサダム・フセインは「無神論者」であり「不信心者」である。ここで問題になっているすべての運動にとっては、イスラエルは「パレスチナの地のシオニスト強奪者」というよりは「聖なるイスラムの地のユダヤ人強奪者」なのである。

●プチブルジョア運動

 さまざまなイスラム原理主義潮流が指導する一定の闘争が、進歩的ないし民族的・民主主義的な客観的意義を持っていたとしても、彼らのイデオロギーや綱領が本質的かつ定義上、反動的なものであることは依然として明白である。七世紀のキリスト教時代を忠実に模したイスラム国家を建設しようとする目標が、反動的ユートピア以外のなにものかであるのか。十三世紀前の古い秩序を復活させようとするイデオロギーが、著しい反動以外のなにものかであるのか。彼らが指導する闘争がその国のブルジョアジーのすべてあるいは一部の結集をもたらそうとも、愚かにもイスラム原理主義運動をブルジョア的なものであると定義しないなどというのは誤りである。同様に、彼らがたまたまその同じブルジョアジーとの衝突を引き起こしたからとといって、彼らを革命的だと規定するのも誤りである。またイスラム原理主義運動は、その綱領とイデオロギーの性質からいっても、彼らの社会的構成やさらには創設者の社会的出自からいっても、プチブルジョア的である。
 彼らは、大資本の代表に対してもプロレタリアートの代表に対しても、帝国主義国家に対しても労働者国家に対しても、等しく憎悪の念を向ける。彼らは、自らを脅かす産業社会の二つの極であるブルジョアジーとプロレタリアートに敵対する。それは『共産党宣言』に描かれたプチブルジョアジーの分派に対応している。
 「中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがって彼らは革命的ではなく、保守的であり、なおそれ以上に、彼らは反動的である。なぜなら、彼らは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである」(邦訳文:岩波文庫版)。
 プチブルジョア・イスラム的反動は、ムスリム社会の「伝統的知識人」、すなわちウラマ(イスラム教法学者)たちとその同類、ブルジョアジーの「有機的知識人」の下層、プチブルジョア出身で現状に止まるよう運命づけられた人びと、とりわけ教師や事務職員たちの間に自らのイデオローグと組織カードルを見いだす。イスラム原理主義は、上昇期にあってはおもに大学などの「知識人」養成センターからメンバーを獲得する。そこでは彼らは、仮定的でとらえどころのない未来よりは、その社会的出自によって左右されているのである。

●社会的基盤

 イスラム原理主義的反動が自らを大衆運動として構成することができた諸国、あるいはいま帆に風を受けている諸国は、中産階級――『共産党宣言』の定義によれば、小工業者、小商人、手工業者、農民――の比率が高い。しかし、イスラム原理主義のあらゆる噴出は、中産階級の一定の層を動員するだけではなく、資本の原始的蓄積と窮乏化の影響の下で中産階級から新たに排出された他の諸階級の一部をも動員する。こうしてきわめて最近になってプロレタリア化されたプロレタリアートの一部、とりわけ以前のプチブルジョア的位置から資本主義によって投げ出された亜プロレタリアートのすべての部分は、原理主義的煽動の受け皿となり、その中に引きずりこまれやすい。
 これらがイスラム原理主義の社会的基盤であり、その大衆的基盤である。しかしこの基盤は、ブルジョアジーが自らの綱領の下に結集するようなやり方で自動的に宗教的反動の下に結集するわけではない。イスラム的なものをふくめて、大衆の宗教的感覚がどのようなものであれ、こうした感覚と、現世のユートピアとしての宗教への帰依との間には質的な飛躍が存在する。大衆の感覚を麻痺させるところから、オートメーションの時代の魅力的な選択肢になるためには、この大衆が自らを神に委ねる以外の選択肢が存在しないという状況が真に必要である。少なくとも、イスラムがこうした選択にとってただちに適切なものであるというのは明白ではない、と言うことができる! 事実、イスラム原理主義は、それが解決する以上の問題を提起する。十三世紀もの歴史を持つ市民法典を実施するという問題以外にも、それを完璧になしとげるという問題が存在する。この法典はローマ法よりも数世紀新しいが、それは古代ローマよりも実質的により後進的な社会が生み出したものであった(アラブの生活様式がヘブライのそれと広く共通点を持っているように、コーランは多くの点で旧約聖書に示唆を受けている)。
 言い換えれば、最も正統的なイスラム原理主義者は、現代社会が提示する諸問題に回答することができない。それは、解釈の熟達という単純な問題による。この熟達なくしては解釈は完全に勝手気ままなものになり、したがって解釈学者の間での終わりのない不一致の源泉となるのである。したがって解釈者の数だけのイスラム教解釈が存在している。ムスリムを団結させるイスラム教の核は、プチブルジョアの緊急の要求を決して満足させることができない。それが霊的要求を満足させうるか否かにかかわらずである。イスラム原理主義それ自身は、それが結集する社会的階層の願望にとって最もふさわしい綱領では決してないのである。

●中産階級

 上述した社会的基盤は、その政治的分散性によって特徴づけられる。先に行った『共産党宣言』からの引用は、中産階級が固定した態度を持っていることを描いたものではなく、たんに彼らがブルジョアジーと闘うようになった時の闘いの真の内実を叙述したものである。中産階級がブルジョアジーと闘う以前は、彼らは封建制との闘いにおいてブルジョアジーの同盟者であり、歴史の逆転を求める以前は、彼らは歴史の前進に貢献した。中産階級は、なかんずく民主主義革命と民族的闘争の社会基盤である。
 ムスリム社会のような従属的・後進的社会においては、民族的民主主義的革命が完成されないかぎり中産階級はこの役割を保持する。彼らは、こうした任務を自らの旗に刻み込んだあらゆるブルジョア指導部(プチブルジョアの場合にはなおさら)の最も熱烈な支持者である。中産階級は、優位にたったブルジョアジーのボナパルティズムの疑似的卓越性を支える社会的基盤である。(実際、彼らはあらゆるブルジョアボナパルティズムの社会基盤である。)したがって、民族的・民主主義的任務を引き受けるブルジョアないしプチブルジョア指導部が、これらの課題を完遂する点で限界に到達し、彼らが信頼を失い、中産階級の広範な層が彼らから分裂して、別の道を求めるのは必然である。
 もちろん資本主義が社会的改良の道を開くように見えるかぎり、また彼らの存在条件を改善するかぎり、中産階級は既成秩序に疑問を投げかけない。政治や情熱が欠落している場合でも、彼らはブルジョア秩序の「サイレント・マジョリティー」としての役割を果たす。しかしひとたび社会の資本主義的展開が全体重をもって彼らにのしかかれば――国民的・国際的競争の重圧、インフレーション、債務――中産階級は、既成権力に対する反対勢力の巨大な貯水池になる。彼らはすべてのブルジョア的統制から外れ、よりいっそう恐るべきものとなる。困窮したプチブルジョアの激怒と暴力は、他に比類のないものだからである。

●反動か革命か

 そうした時でも、資本主義社会によって踏みつけられ、民族的・民主主義的ブルジョア・プチブルジョア指導部に幻滅したプチブルジョアジーに開かれた唯一の道が、必ずしも反動的選択であるわけではない。少なくとも理論上は、別の選択の道がつねに開かれている。彼らは、反動か革命かという岐路に直面する。実際、『共産党宣言』が予言したように彼らはブルジョアジーに対する革命闘争に参加することができる。
 「かれらが革命的であるとしても、それは、自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、プロレタリア階級の立場に立つために、かれら自身の立場を捨てるのである」(邦訳:岩波文庫版より)。
 しかし『共産党宣言』が描かなかった後進的・従属的社会では(注1)、中産階級はプロレタリアートの指導部の下で自らの立場に立つためには彼ら自身の見解を放棄する必要はまったくなかった。まったく反対に、プロレタリアートが彼ら中産階級を闘争に引きつけることができるのは、その保護下での中産階級の願望、とりわけ民族的・民主主義的任務を取り上げることによってであった。しかしプロレタリアートが中産階級の信任を獲得するためには信頼しうる指導部を持たなければならず、それは政治的かつ実践的レベルで自らを証明しなければならない。それとは逆に、プロレタリアートの指導部の多数派が民族的・民主主義的政治闘争の領域において不信を買うならば(その多数派としての位置を維持する一方で、労働組合におけるその役割のゆえに、あるいは対抗的指導部の欠落のゆえに)、また既成秩序に関する政治意思の欠如という罪を確証することになれば、あるいはさらに悪いことに既成秩序を支持したりすれば、中産階級はプチブルジョア反動に耳を傾け、彼らの訴えを聞く以外の選択を持たないことになるだろう――それがイスラム的反動と同様に得体のしれないものであったとしてもである。

●幾つかの例

 イスラム原理主義が地盤を獲得したすべての国、とりわけエジプト、シリア、イラン、パキスタンにおいて、先に述べたすべての条件が存在している(注2)。これらすべての諸国では、中産階級が置かれている諸条件はここ数年で著しく悪化している。これらの諸国の一部は石油を輸出しているが、石油価格の大幅な値上げの影響は中産階級の大多数に歯止めのないインフレーションをもたらしただけであった。さらに、これら諸国においてブルジョア・プチブルジョア的民族・民主主義指導部は全般的に信用を失った。ここに挙げた四つの国では、これらの指導部は国家権力のテストを経験した。彼らはすべて、自らの民族・民主主義的綱領を実現しようとする中で、歴史の一定の時点において、自らの周囲に中産階級の統一に近いものを創り出した。一部の諸国、とりわけエジプトおよびナセルが巨大な影響を持っていたエジプトの影響下にある諸国では、この方向に大きく進んだ。こうした民族主義者たちは長期にわたって権力の座にとどまり、依然としてとどまっているところもある。彼らは軍隊という手段によって権力に上り詰めたからである。
 民族主義者が文民政権を構成したイランとパキスタンでは、軍部がただちに彼らを一掃した。いずれにせよ、ブルジョア国家の枠組みと限界の下での民族・民主主義綱領の完遂に向かう途上での進歩の広がりは、先述した四つの国ではいまや大きく削減されたか、ほとんど存在しなくなっている。モサデグの経験が短期に終わったイランにおいても、アメリカの顧問が補佐したシャー(イラン王政)が、ロビスピエールとボナパルトの双方の役割を演じる疑似ビスマルク的方法でそれを引き受けた。他方、この地域全体における労働者運動の注目すべき政治組織はスターリニスト組織であるが、彼らは人民の闘争への裏切りの長い歴史と支配階級への妥協によって完全に信用を失っている。
 かくしてここ数年、先述の四カ国で中産階級の不満が表現されはじめた時、どの労働者組織も、どの民族ブルジョアやプチブルジョアの組織も、それを利用することができなかったのである。プチブルジョア的イスラム原理主義反動への道が掃き清められた。それとは対照的に、民族ブルジョアジーやプチブルジョア官僚機構の啓蒙的専制主義が、中産階級の広範な部分に石油の富からの利益を与えることができたアルジェリア、リビア、イラクでは、イスラム原理主義を統制することができた。

●反動的ブルジョアジーへの支持

 イスラム原理主義はエジプト、シリア、イラン、パキスタンで同様に前進したが、その前進の形態と広がりは、その政治的内容や機能とともに、国ごとに大きく異なっている。シリアにおいては、原理主義運動はバース党ブルジョア官僚機構の堕落したボナパルティズムに対する主要な対抗者であり、それに対して死をかけた闘いを挑んでいる。彼らは統治グループの中の数少ない懺悔派(アレヴィ)を獲得した。シリア原理主義運動の綱領の極端で完全に反動的な性質は、自ら権力を獲得する可能性をほとんどゼロにまで切り縮めている。それは、こうした綱領に基づいてバース党独裁体制を打倒するに必要な勢力を動員することを不可能にさせている。経済的・政治的問題がシリアと同じように困難をきわめる国で、同様のことを思い描くことはさらにできない。こうしてシリアの原理主義運動は、シリアの有産階級(ブルジョアと地主)との協力を非難されている。彼らは、有産階級の先兵以上のものではないし、それ以外でありようがない。
 同様にエジプトにおいても、原理主義運動が自律的に権力を獲得する可能性はきわめて限られている。その相対的影響力はシリアよりもかなり小さい。これらの諸国では、原理主義運動は進歩的体制に対する長期の闘いを強めてきたが、このようにしてその反動的性格はきわだってきた。エジプトの経済的諸問題の広がりが原理主義運動を作りだしている。体制側の目には、原理主義運動は大衆運動の内部の理想的な「第五列」であり、とりわけ左翼に対する効果的な「抗体」である。エジプトの原理主義運動が左翼の得意な領域――民族問題や社会問題――で左翼と競っているのを見て体制側が困惑しないのは、そのためである。この地でのイスラム反動のいかなる成長も、左翼の成長を比例的に減少させている。エジプトブルジョアジーがイスラム原理主義に対して取る態度は、深刻な社会危機に直面したあらゆるブルジョアジーが極右やファシズムに対して取る態度と類似している。
 パキスタンは、原理主義運動がおもに反動的体制の下で自らを打ち固めたという点で、エジプトとは区別される。したがって彼らは、長期間にわたって民族的・民主主義的綱領の一定の要素を要求し、かくして既成秩序に対する信頼しうる反対勢力を構成することができた。しかしこの長い期間を通じて、ブルジョア的民族・民主主義の傾向自身も反対派であった。それは原理主義運動よりも、より信頼しうる、したがってより影響力のある存在だった。彼らは、ブットがすばらしい歴史的近道を取ることによってナセル型の発展段階を飛び越え、自らの矛盾にはまりこむことで急速に大衆から遠ざかり、原理主義運動が支配する極右の領域を開放することを必要とした。パキスタンには、重要な最左派勢力が存在していない。
 ブットの破産はあまりにもはっきりしていたため、原理主義運動は彼に対する広範な大衆運動を動員することになった。それは、この動員によるブットの打倒がもたらす「無秩序」の機先を制し、クーデターを起こすためであった。ジアウル・ハクの反動的ブルジョア軍事独裁は、原理主義運動の同情を獲得するために、イスラム的改革に向けたその構想を機会主義的に装った。現在ジアウル・ハク体制は、故ブットの党(人民党)をふくむ、体制に対するあらゆる「進歩的」反対派を中立化させるために原理主義運動をあてにしている。
 以上の三つのケースの中で、原理主義運動は反動的ブルジョアジーを支持する以外のなにものでもないことが立証された。イランの場合は異なっている。

●イラン:永久革命の逆転

 イランにおける原理主義運動は、帝国主義が支援したシャーのきわだって反動的な政権に対する長期の厳しい闘いを通じて形成された、シーア派聖職者の原理主義的傾向によっておもに代表された。イランのブルジョア民族主義とスターリニズムの嘆かわしいまでの歴史的破産はあまりにも有名であるため、ここでは触れない。しかし、この歴史的環境の例外的なまでの結びつきのゆえに、イランの原理主義運動はイランにおける民族民主主義革命の二つの緊急の任務――シャーの打倒とアメリカ帝国主義との結びつきの切断――の唯一の先鋒部隊となった。この情勢は、ここで問題になっている二つの任務がイスラム原理主義の全体としては反動的な綱領と完全な調和をなしていたため、それだけいっそう可能になったのである。
 こうして、イランの社会危機がシャーの革命的打倒の前提条件を創出するにまで深まり、中産階級の彼に対する感情が怒りの興奮状態に達したとき、ホメイニに人格化された原理主義運動は、悲惨な境遇にたたき込まれた中産階級と亜プロレタリアートの巨大な勢力を、体制に対するむきだしの攻撃に導くことに成功したのである。それは非武装という彼らの決意からいえばほとんど自殺的なものだったが、神秘的運動のみがそれを可能にした。イランの原理主義運動は、イランにおける民族民主主義革命の第一段階をなんとかして遂行した。しかし、直後にその原理主義的特徴が優勢になった。
 ある意味でイラン革命は、逆転した永久革命である。それは民族民主主義革命として出発し、プロレタリア指導部の下で社会主義的変革の道を取ることが可能だった。原理主義者のプチブルジョア指導部はそれを妨げ、反対に反動の方へ押しやった。一九七九年の二月革命は一九一七年の二月と驚くほど似通っていた――二つの同一の出発点は、対称的に逆の進展をもたらした。十月がロシア民主主義革命の完成を可能にしたのに対し、原理主義指導部はイラン革命の民主主義的内実を裏切った。
 ボルシェビキは、憲法制定議会選挙のために闘った後で、それをすぐれて民主主義的なソビエト権力に置き換えた。アヤトラは、彼らもまたその要求のトップに置いていたが日の目を見ることを認めなかった憲法制定議会を、反動的な戯画であるムスリム「専門家会議」に置き換えた。二つの革命のこの共通の要求の運命は、その指導部の正反対の性格を能弁に集約するものであり、したがってその発展の方向性を集約するものである。イランの二月の過程で出現した組織の民主主義的形態に関して言えば、それらはイスラム指導部によって利用されてしまった。「ショーラ」(訳注:イラン革命の中で現れた労働者評議会)は「ソビエト」からはるかに隔たっていた! ボルシェビキのプロレタリア国際主義がロシア帝国内の抑圧された諸民族の解放を可能にさせた民族問題については、アヤトラのイスラム的「国際主義」は、ペルシア帝国内部の抑圧された諸民族への血塗られた弾圧の宗教的口実に転化した。二つの革命における女性の運命については、よく知られている通りである。
 原理主義者のイラン指導部は、一つの点で民族民主主義綱領への忠誠をとどめていただけである。それはアメリカ帝国主義との闘いである。しかし彼らは、自らの独特の方法でこの闘争への忠誠を続けた。ホメイニは、敵を帝国主義ではなく「西側」と描きだし――「大悪魔」ではなかったとしても――赤子を産湯とともに流すことを呼びかけた、あるいは産湯を流す前に赤子を流すよう呼びかけたのである。彼は「民主主義」をふくむブルジョア革命のすべての政治的・社会的成果を、憎むべき「西側」のものとした。そしてマルクス主義さえも工業化された「西側社会」の産物として見なす(正しくも)一方で、イランと帝国主義との間の主要なつながり――経済的つながり――を無視した。米大使館事件が遂行された方法は、イランになにものももたらさなかった。結局のところそれは高いものにつき、アメリカの銀行を利したのである。イランの原理主義独裁のその後の進展がどうなろうとも、それがすでにイラン革命の発展にとっての主要な障害物であることはすでに明らかである。
 さらにこの展開は、きわめて疑問が多い。上述した状況の例外的な組み合わせを越えて、イランと先に考察した三カ国との間には根本的な違いが存在する。イランは自立的なプチブルジョア原理主義国家権力という「ぜいたく」を享受している。その石油の富は、支払いと予算の健全なバランスの保障である。しかしその代価をどれほどで、それはいつまで続くのか。原理主義権力の二年間の収支決算は、すでにそれ以前の年月と比べるとまったくマイナスである。他方、原理主義「綱領」の不調和、その「綱領」を自己流に主張し、自らの独自性に応じてそれを解釈する社会階層の非常な多様性は、競争的で敵対的な権力の複数性に転化する。その表面的な統一は、これまでのところホメイニの権威によってのみ維持されてきたのである。

●危険な敵

 イスラム原理主義は革命的プロレタリアートの最も危険な敵の一つである。共産主義インターナショナル第二回大会で採択された「民族・植民地問題についてのテーゼ」が述べるように、その「反動的・中世的影響」と闘うことがいかなる状況の下においても決定的に必要である。イランのように原理主義が一時的に一定の民族民主主義的課題を引き受けたところでも、革命的共産主義者の義務は、闘う大衆に対して彼らが及ぼしている神秘化と非妥協的に闘うことである。そうしなければ大衆は確実に代価を支払うことになるだろう。共通の敵に対して闘う中で、革命的共産主義者は、勤労大衆に対して彼らの闘争のあらゆる反動的逸脱を警告しなければならない。こうした任務における失敗は根本的欠陥となるだけではない。それは革命的共産主義組織の日和見主義的逸脱をもたらしうるのである。
 イスラム原理主義がもっぱら反動的外観をもって登場した場合でも、革命的共産主義者は原理主義への闘いの中で、戦術的慎重さで武装しなければならない。とりわけ彼らは、闘争を宗教的領域に引き入れようとする原理主義者の罠に陥ることを避けなければならない。彼らは、この闘いを民族的・民主主義的・社会的領域に断固としてとどめなければならない。革命的共産主義者は、イスラム原理主義者の影響下にある大衆の重要な部分をそこから分離させうるし、分離させなければならないこと、そしてプロレタリアートの闘争に獲得しうるという事実を見失ってはならない。そうすることで、革命的共産主義者は民主主義綱領の基礎的要素である政教分離をはっきりと主張しなければならない。彼らは無神論を脇に置くことができる。しかし政教分離は決して無視できない。そうでなければ彼らは、マルクスをモハメッドに置き換えるよう願うことになってしまうのだ!

(注1)マルクスとエンゲルスの一八五〇年の著名な「共産主義者同盟への回状」において、プチブルジョアジーの役割についての異なった記述が見られる。彼らのプロレタリアートへの結集が構想されていないとしてもである。
(注2)チュニジアとレバノンでは、社会の顕著な「西欧化」が、イスラム原理主義の前進を不利な立場に置いている。それはまさに現実である。この地域全体における労働者運動の諸組織はスターリニスト組織であるが、彼らは民衆の闘争への裏切りと支配権力との妥協の長い歴史によって完全に信用を失っている。                 


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