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佐久間誠さん(鉄建公団訴訟原告団事務局長)に聞く @ かけはし2006.11.13号

分割民営化の前に、激しい国労つぶしの攻撃

北海道で3万人が1万3千人に削減された


 国鉄1047人解雇問題は、闘う闘争団が闘ってきた鉄建公団訴訟の9・15判決以降、今年二月に1047連絡会が発足し各争議団の団結の下に、解決に向けた局面を切り開くために総力をあげた闘いになっている。原告団中央協議会事務局長・鉄建公団訴訟原告団事務局長の佐久間誠さんに、国鉄民営分割化との闘い、4党合意との闘い、闘う闘争団の結成、鉄建公団訴訟、そして今後の闘いの展望を聞いた。なお、佐久間誠さんは二〇〇三年と〇四年の世界社会フォーラムにも参加され、「かけはし」に寄稿文をいただいた。(編集部)

冬こそ道民の
足を守る国鉄

――佐久間さんが働いていた名寄はどのような気候・風土ですか。

 名寄は旭川と稚内の間の内陸部にあります。鉄道の要衝、分岐点として宗谷本線・名寄本線・深名線を抱え、かつては国鉄の街と言われていた。農業と林業が北海道の中では基幹産業だ。もともと駅には貨物部門もあって、切り出した木材を加工してそれを列車で運ぶということが結構あった。それでいっしょに栄えてきた。炭鉱はすべて閉山になってしまった。炭鉱はあまり産業としてのイメージがない。国鉄職員千人を抱えていた。今や、それが十分の一程度になっている。
 陸上自衛隊がいて、今は「自衛隊のマチ」に取って代わられた。名寄は盆地だから寒暖の差が昔は七十度と言われて、マイナス三十五度からプラス三十五度と激しい。雪も積もります。一日に五十センチ程、どんどんと降ることがシーズン中に三、四回くらいあって春を迎える。

――冬になると雪対策がたいへんですか。

 こちらではちょっと降ると交通機関が麻痺する。いま車はスタッドレスタイヤになって、道路の除雪も発達している。もとは冬に強い国鉄だった。道路だとちょっと吹雪いてしまうと、警戒線が見えなくなる。吹雪になったら視界ゼロになってしまう。鉄道は非常に強かった。冬こそ道民の足を守る国鉄だった。

――分割民営化の前は鉄道を作っていくという方向にあったのですか。

 美幸線(美深町―仁宇布間)を終点まで通すためにレールを運んできて途中まで作りかけていたのが、分割民営化が始まるというのでやめてしまった。運ばれたレールはさびつき、沿線の人たちもがっかりした。
 
――一九七四年に、国鉄に採用されましたね。
 
 就職で結構悩んだんです。最終的には国鉄の方が安定しているので選んだ。たまたま学生時代にアルバイトしていて、まだ受かっていない臨時雇用員だとかが受ける試験をいっしょに受けた。当時のアルバイト先の駅長の采配もあった。臨時雇用員になってから受ける、社内の鉄道マンとして基礎的なことを学ぶ通信教育がある。それを職員になる前に手続きして受講していた。採用の時には、鉄道一般とか、経理とかは既に受かっていました。
 一九七四年四月に、旭川鉄道管理局・名寄保線区・名寄保線支区に準職軌道掛として発令され、同年十月、同職場で軌道掛として職員の発令を受けました。
 
――仕事は何をしていましたか。
 
 一九八〇年に重機保線掛としてマルタイ(自走で軌道の高低を水平に保つため、枕木の下に砂利をつき固めして行く大型機械)の運転・操縦や側雪処理機(線路内外の雪を飛ばす機械)の運転などに携わってきました。
 保線はレールにかかわる保守です。線路に出てくる木や雑草なども除去し、環境を良くする。レールの高低を直したり、路盤を整える。夏だと路盤が弱いところなんかはレールが張り出す。その発見が遅れれば、列車は脱線転覆する。当時、気温が二十五度を超えると要警戒をしながら、検査班から連絡が来れば、それを直した。レールを冷やすためにバケツで川から水を汲んでかけたこともあります。
 本当はレールとレールの間(継ぎ目部)に、軌間があいているのです。それを遊間整正と言って、レールをどんづいて先に送ったりして調整する。気温が上がると、どこにも行きようがないぐらい目が詰まってしまう。それで一番弱い所が外にグニャと出てしまう。
――組合は職員になると同時に入ったわけですか。スト権ストはどうでしたか。
 
 そうですね。試用期間が過ぎたら、自動的に入るというのが当たり前のことだった。みんな国労でした。一九七五年にスト権ストで一週間くらいストをやりました。レールがさびついた。列車は来ないし、ホームの端に腰を下ろし話たりしていた。当時私の職場ではスト破りとかはなかった。みんな統制とれていたから、ストライキに入るといえば、機関が指導しストに入るから、あまり特別な意識はなかった。うちはストライキなんだという感じでした。

民営化の前に
労務管理の強化

――そして分割民営化攻撃があるわけですが、どのようにやられたのですか。
 
 一九八五年十月の名寄保線区の管理者を除く職員数は、百四十一人であり、全員が国労組合員でした。しかし、「分割・民営化」を前に、「職場規律の是正」と称して、ワッペンやバッヂ着用、着替え時間などに対する「現認」と処分をはじめ、年休取得に対する「理由」確認など、管理者の攻撃が激化してきました。
 当時名寄保線区に配属されていた神野区長は、大学を卒業後、支社採用で名寄に来ていましたが、当然現場の仕事はわからず、もっぱら組合つぶし、労務管理を専門に行いました。
 名寄保線区の職場では、以下のような管理強化が一方的に行われました。

(1)現場協議制度により確立された既得権の剥奪、備品以外の冷蔵庫(昼時に飲む麦茶などを冷やすため使用)や、テレビ(保線関係は風、雨、雪などの気象状況や事故等による列車遅延などを把握するために配備されていた)などの電気製品の撤去(85年3月)
(2)安全内規の一方的変更(@10条5項 作業責任者の任務の定時通話を10時、13時、15時に変更するA列車見張り員の配置について、第2種見張りは列車の現場通過10分前を5分前に変更するB32条2項4号のマクラギの積載は下台含めて5段を削除する)を有田支区長が帰りの点呼で通告(85年8月19日)
(3)作業出発前に始業点検・暖機運転として行っていた自動車の点検・アイドル時間(夏季20分、冬季30分)の一方的廃止(85年9月9日)
(4)名寄保線支区作業班にあった組合掲示板の撤去(85年12月17日〜18日以降、同時期に保線区管内の深名北支区作業班、美深支区作業班の掲示板も撤去)
(5)バッヂ・ワッペン着用の個人チェック(84年11月以降)

 われわれは保線職場だったので、身体洗浄時間というのがあったのです。時間内入浴時間です。当時は、列車も糞尿を垂れ流しする車両が多く、貯留式のものは少なかったんです。そうするとわれわれは線路を直しに行ったら、列車が通り、糞尿が垂れ流されるたびに、飛まつを浴びるんです。同時に保線作業だから、汗はかくし、ズボンなんか塩をふいていた。それぐらいハードな仕事なんです。
 枕木には防腐剤が入っているのでそれを交換すると木屑がつき、顔なんてこすると注薬にかぶれて、目がパンダみたいになってしまう。仕事は相当重労働でした。それから外気温が三十度を超す時期が続くわけです。軌道の中は砂利を敷き詰めているので、倍くらいの温度になる。ひどい時は軌間内に蜃気楼が見えた。
 そういう所で働いているから、作業後には風呂に入るのは当たり前でした。それだって、旭川鉄道管理局と国労旭川地本が取り決めてやっていた。それをあの当時は比較的汚れない東京の田町電車区のものを放映して、「やつらは働きもしないで、時間内に風呂まで入っている」という攻撃のキャンペーンがはられた。
 当時、国労名寄支部青年部が「分割・民営化反対」と書いてダンボールに貼ったポスターを街頭に掲示したところ、名寄保線区長が通勤途上にカッターナイフで切り落として歩いているところを組合員が目撃するなど、常軌を逸した行動が見られました。こうした区長の行動と歩調を合わせ、現場管理者の職員に対する労務管理が強化され、命令と服従の職場状況がつくられました。

安全管理の保守
保安要員がいない

――当局と国労とで現場協議制があったと思いますが、どのようなものでしたか。
 
 レール交換作業、砂利散布作業、ポイント交換などはかなり時間も、人手も要るものです。どういう手順で作業をやるか、そういうことを現場段階でスムーズにいくように話をしたり、旭川管理局までいかないでも現場段階でやれる小さな決め事は現場の労使で話し合って取り組んでいた。それが現場協議制度です。
 
――現場協議制が民営化されてなくなってしまったので、安全管理がおろそかになっているとも言われていますが。
 
 現場協議制がまったくないというわけではない。いまは団体交渉でやられており、ただ、多数組合が合意したら、少数組合も従わざるをえないということにされてしまっている。要求はいくらでも上げるけれども、それは満たされない。基本的には、保守・保安要員がいないことが、安全管理ができなくなっている最大の要因だと思います。
 
――民営化によって、北海道の国労組合員は何人解雇されましたか。
 
 トータルで言うと、全国十万人首切りと言われている。道内では約三万人の職員だったのが、分割民営化では一万三千人の基本要員に設定され、一万七千人の削減です。解雇された一〇四七人のうち約五百人が北海道です。人材活用センターから清算事業団にいく過程の前の段階でやめていった人が大勢いたわけです。

国労組合員の
採用はわずか

――昨年の郵政民営化の攻防の中で、政府は「サービスは絶対落とさない」と答弁していた。国鉄民営化の時も同じようなことを言われていたのですか。
 
 分割民営化が始まる前は、長大路線は残すんだと言っていた。ところが、私の管轄でいうと、名寄本線や深名線はたちまち廃止され、残ったのは宗谷線だけで、全部バスに変えられた。その意味では当時約束したことは全然ウソっぱちでした。サービス低下はさせないだとか、運賃だって上げないと言っていたが、運賃はどんどん上がった。バス転換になることによって、また運賃が高くなった。だから、学生も年寄りも高負担を強いられるようになった。
 同時に、北海道は雪が降っても鉄道の駅だと必ず駅員がいて、ストーブで暖がとれた。ところがバス停は暖房がないから、寒いなかで何時間も待つしかない。バスだって採算性が悪くなれば間引き運転になるだろうし、ますますひどくなる。北海道の鉄路は大正時代に逆行してしまったと言われるくらい悲惨な状態です。
 
――あらかじめ北海道や九州で廃止線を決めていて、「余剰人員」だとして解雇したのですか。
 
 最初に、JR発足の時に基本計画が出されて、適正(?)人員が定められた。例えば北海道だと一万三千人、欠員三百人くらいでスタートした。それから差別と振り分けで、最終的に道内に採用された要員の中で再配置された。基本的には会社ごとの独立採算制だから、儲からない路線は、廃止の道を辿らざるを得なくさせられた。
 
――駅務とか保線はほとんど国労組合員ですね。国労だから採用しないと不当な扱いを最初から受けたのですか。

 分割民営化の直前に、組織脱退攻撃が全国的にかけられた。インフォーマル組織をつくり、国労をつぶすという手法です。名寄保線区職場でも、インフォーマル組織・名神会(名神会=当時区長は「神野」といい、名寄の「名」と区長の「神」をとったものと考えられる)がつくられた結果、一九八六年十月には職員数百三十七人中、国労組合員は百十九人となり、十八人が国労を脱退して全施労に移りました。「分割・民営化」が強行された一九八七年四月には、名寄保線区の管理者を除く百二十一人の職員中、国労組合員は八十五人となり、鉄道労連は三十六人となっていました。
 国労を抜けた者は採用になるわけです。抜けないで国労で採用になったというのはわずかです。国労の採用率は四八パーセントくらいです。   (つづく)


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