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                           かけはし2006.2.13号

社会変革のための民主的、複数主義的、人間的な枠組と戦略にむけて(1)

ピエール・ルッセ

 このレポートはフィリピンの進歩的グループの活動家教育セミナーでの報告「社会変革のための民主的、複数主義的、人間的な枠組と戦略に向けて」を文章化したものである。「インターナショナル・ビューポイント」誌370号(05年9月号)所収。

 はじめに

 テーマが非常に広い範囲にわたるので、以下の報告は図式的かつ部分的にならざるをえない。最初の三つの章は、ヨーロッパの経験、より正確にはフランスと南ヨーロッパにおける経験を中心にしている。ここでは一九六〇年代から七〇年代のヨーロッパの新しい革命的左翼がどんなものだったか、そして現在のヨーロッパのラディカル左翼がどのように異なるかを感じ取っていただきたい。私はラディカル左翼の二つの世代を比較するが、これらの世代はフィリピンの同様の世代とほぼ対応しているかも知れない。

 第三章では、このセミナーの中で述べたいくつかの「緊急の課題」を取り上げる。ここでは、もう一度ヨーロッパの文脈から論じるのではなく、私たち、つまりヨーロッパの側から、フィリピンの闘争の歴史に何を学ぶことができるかを見ていく。

 私の報告は確かに、一つの地域(南ヨーロッパ)の一つの国(フランス)の一つの世代(1968年5月の世代であり、フィリピンでは1970年1―3月の闘争に参加した世代に対応している)の経験を反映したものである。しかし、誰も一つの世代の全体を代表して、あるいはその中の一つの傾向を代表して発言することはできない。この報告は私の個人的な経験をも反映している。たとえば、私はアジアの革命(ベトナム、中国、フィリピンなど)に深く影響されたが、私の同志たちの多くはラテンアメリカの革命に影響されていた。いずれにせよ、このセミナーでは自分たちの立場で自由に発言することを求められているので、そのようにする。

第一章  六〇年代半〜九〇年代半まで

 A 背景

 ヨーロッパでは一九六〇年代半ばに、新しい(複数の)革命的左翼が形成された。そのラディカル性は、時代背景を考えれば容易に理解できる。

b インドシナ戦争を中心とする国際的背景と、米国の空前規模の軍事的エスカレーションに対するベトナム人民の抵抗。一九六八年は、ベトナムのテト攻勢、チェコの「プラハの春」、フランスの学生のバリケードとゼネスト、メキシコの学生の決起……によって闘争の世界的な性格を象徴する年だった。

b ヨーロッパの状況。南ヨーロッパには依然として独裁政権が存在していた。ギリシャでは軍大佐が政権を握っており、スペインのフランコ、ポルトガルのサラザールの二つのネオファシスト政権が存在していた。一九六〇年代後半の急進化は学生だけでなく、労働者階級(の青年)も巻き込んでいた。フランスでは一九六八年に学生のバリケードが、この国の歴史上最大のゼネストへと続いた。

b 政治的背景。一九六〇年代のヨーロッパにおける青年の急進化は、しばしば言われているように「文化的」な性格を持っていた(「ウッドストック」に表現された)だけでなく、非常に政治的に自己を表現した。ヨーロッパの多くの国で、急進化した青年の間でもっとも一般的に言及されていたのは社会主義、共産主義、マルクス主義だった。彼ら・彼女らはマルクス主義の名において、主要な伝統的労働者政党、つまり社会民主主義政党や親モスクワ派の共産党に異議を唱え、これらの政党の改良主義を非難した。

 この時代のヨーロッパの「新左翼」はこの背景の中で形成された。その中でいくつかの新しい潮流が生まれた(その中にはさまざまなマオイスト潮流も含まれる)。それはまた、古いが少数派だった潮流(種々のトロツキスト潮流やアナーキー的共産主義潮流を含む)にも新しい生命を吹き込んだ。

 B 時代の革命的精神

 新しい革命的左翼潮流の大部分はイデオロギー的に明確に定義されていた。マオイストは国際共産主義運動が中国を中心に再編されることを期待していた。トロツキストは第三インターナショナル内のスターリストに対する闘争、つまり左翼反対派に体現された闘争の子供だった。たとえ一時的にせよ組織の強化に成功した政治党派は、何らかの資質を表現していた。マオイストはしばしば、未組織のセクター(たとえば移住者)の組織化を支援する能力を示してきた。トロツキストは労働者階級の組織されたセクター(労働組合)に働きかけること、また、民主主義的で反官僚主義的なマルクス主義を提起するという点で優っていた。

 イデオロギー的ラベルは何かを意味していた(マオイストは中国にアイデンティティーを求め、トロツキストは第三インターナショナルの左翼反対派にアイデンティティーを求めた)。しかし、当時すでに、そうした「ラベル」は組織の政治的性格について多くを語ってはいなかった。
 マオイストにも、われわれが「マオ派スターリニスト」と呼ぶ党派から「マオ派自然発生主義者」と呼ぶ党派まで非常に異なるタイプの党派があった。
 トロツキストにも非常に異なるタイプがあった。われわれ自身、「より正しいトロツキスト」を自称する党派から「ゲバラ主義的トロツキスト」と呼ばれることもあった。これは不名誉なことではなかった。なぜなら、われわれはチェを愛していたからである。多くの組織はマオイストでもトロツキストでもなかった。

 私たちはすべて、新しい革命的左翼に属していた。私たちは既存の社会民主主義や親モスクワ派の共産党とは異なっていた。それは綱領の問題だけではなかった。それは日常的な実践にも表現された。
 改良主義者とは違って、革命的な活動家はしばしば強制的に警察へ連行された。私たちの中の何人かは、何度も投獄された。組織が解散命令を受けることもあった(私の組織は2度解散命令を受けた)。また、私たちはいくつかの国への入国を拒否されたため(とくに米国)、それを考慮しながら移動しなければならなかった。私たちは非合法の政党とも関係を持っていた(ピレネー山脈を越えたバスク地方とスペインはフランコ独裁体制の支配下にあった)。したがって私たちは彼ら・彼女らを危険にさらすことがないように適切な手段を講じなければならなかった。
 私たちは軍隊内の徴募兵の間で秘密の兵士委員会を組織した(これは私の組織の「特技」だった)。学生地区やショッピング街では毎週のようにファシスト集団との戦闘があった。われわれの事務所は常時警備体制を取っていなければならなかった。われわれは武装闘争に関わっていないが、将来に備えるために過去および現在の武装した革命の経験を研究した。実際、われわれの同志の中でも、ラテンアメリカの同世代の同志たちは軍事独裁体制下で武装闘争に参加した。彼ら・彼女らは壊滅させられ、われわれは、まだ可能だったときには彼ら・彼女らが脱出するのを支援しなければならなかった。

 こういうことをやや詳しく述べたのは、私の世代の活動家が政治活動を始めたのが「革命的精神」の時代であり、その当時には革命的であることは 何か非常に具体的なことを意味しえたことを示すためである。それはまた、歴史が私たちが期待していたのと異なる展開を示したことがわかった時点で、私たちが当時直面した問題を理解するのに役立つだろう。

 C 選別の過程

 一九六〇―七〇年代の革命的左翼は、一九七〇年代半ば以降も存続できるかどうかを試す四つのテストをくぐってきた。長期にわたる厳しい選別の過程が続いた。

1.最初のテスト、学生から階級へ。最初の問題は一九六八年五月の直後に明らかになった。新しい革命的左翼は学生を基盤にしていた。持続性を確保するためには、労働者階級に根を張る必要があった。そしてそれは容易なことではなかった(フランスではわれわれは親ソ派の共産党によって物理的に排除され、経営者によって解雇された)。これに成功した組織はそれほど多くない(主に一部のマオイスト、トロツキスト、アナーキストの組織である)。

2.二番目のテスト、短期的展望から長期的展望へ。一九六〇年代末には、私たちの大部分は階級闘争が四―五年の間に決定的に激化すると考えていた。そう考える多くの理由があった。しかし、一九七〇年代半ばには、歴史は予想したようには進まないことが明らかになった。ヨーロッパでは情勢は「平時に戻る」傾向にあった。ギリシャ、スペイン、ポルトガルにおける独裁体制の終焉は、最終的には、統制された「民主主義への移行」をもたらした。

 いくつかの組織は、遅れてではあれ、この新しい情勢に適応することができた。いくつかの組織はそうすることができなかった。いくつかの組織は国家や資本に対する(さらには改良主義的左翼に対してさえ)「私的な戦争」に関与し、多くの犠牲をもたらした。これは特にドイツやイタリアのような、ファシスト的右翼が国家機関に深く浸透していて、非常に活発に挑発的な活動(爆弾の埋設など)を行っている国で顕著だった。フランスでは「マオ派自然発生主義者」の潮流に属している有力な組織の一つが解散を決定した。

3.三番目のテスト、戦略の再評価。「新左翼」のどの潮流も、そのビジョン、綱領、戦略の全面的な再評価なしには存続できなかった。この点は重要であり、後で、私が属している潮流の一九八〇年代における討論の過程との関連で詳しく述べる。

4.四番目のテストは、存在そのものに関わっている。一九八〇年代半ば以降、ヨーロッパの革命的左翼にとって状況は非常に困難になった。革命的左翼はソ連・東欧ブロックの解体とその後の資本主義的グローバリゼーションによって生み出された新しい情勢に直面しなければならなかった。
 われわれの組織のような、ずっと前からスターリニズムを批判してきた党派でさえ、階級間の力関係の不利な方向への変化の影響を被った。ブルジョアジーは全面的な攻勢に立っており、私たちは文字通り流れに抗して泳いでいた。これは私の世代にとっては初めてのことだった。
 一九九〇年代半ばには、反グローバリゼーションの反乱の最初の兆候と共に、情勢は改善しはじめた。しかし、この間に私たちは重大な後退(メンバーの減少)を経験し、多くの組織が消滅した。

 その最終的な決算として、一九九〇年代半ばには、残った革命的左翼は非常に弱くなっていた。一九六〇―七〇年代の活動家の大半は、政治活動への参加を完全にやめたか、周辺的にのみ関わっている。敵対的になった者もいる。多くの有名な活動家が嬉々として社会的エリートに加わった。しかし、何万人もの活動家にとって、過去の経験の何かがまだ残っている。数百人あるいは数千人の経験を積んだ活動家たちが、「新しい」社会運動の発展を始めとするさまざまな大衆運動の中で依然として重要な役割を果たしている。
       (つづく)


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