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イラク反戦運動をふり返る(2003年1月〜04年11月) 「青年戦線」2004.12.25号

「WORLD PEACE NOW」の課題と可能性

新しい「波」といかに向きあうのか

                                ふじいえいご

 はじめに

 2002年10月、米国上下院議会は、ブッシュ大統領にイラクへの先制攻撃の権限を与える決議を採択した。それまで語られてきた「フセイン打倒を目標にしたイラクへの大規模攻撃」が、にわかに現実味を帯びるものとして迫ってきた。
 攻撃の理由は「フセインが保有する大量破壊兵器の除去」。しかし、すでにこの時期に米国政府内でも、イラク軍の弱体化や国連査察団の査察に応じてきたフセイン政権の「脅威」の減少などが報告されてきた。9・11テロに対する「アフガン報復戦争」への反対運動は、社会的影響力を持つには至らなかった。しかし、この「誰がどう考えてもおかしい」としか思えない、「テロの未然防止」を大義名分にしたイラク攻撃は、その準備の当初から大メディアのなかでも疑問や激しい批判にさらされることになった。
 2002年11月にイタリアのフィレンツェで開催された「ヨーロッパ社会フォーラム」が呼びかけたイラク攻撃反対デモは、全ヨーロッパから百万人が参加する巨大なものとなった。「9・11」はジェノバG8サミットを包囲した反グローバリゼーション社会運動の大高揚に大きな打撃を与え、しばらくは世界的にも社会運動は低調を強いられたが、この百万人デモは運動の回復を印象づけ、また、「戦争と新自由主義グローバリゼーション」が分かちがたいものであり、切り結んで運動が展開されなければならないということも明確に意識させる取り組みとなった。
 日本においては10月26日、この日に集会と「ピースウォーク」を計画していた「CHANCE!」と27日に集会を予定していた「市民緊急行動」が合流して「イラク・ピース・パレード」が開催された。「9・11」以降別々に取り組みを行ってきたグループがはじめて顔を合わせ企画された集会イベントで、六百人の参加だった。
 筆者はこの取り組みに参加できなかったのだが、故右島一朗『かけはし』編集長が語っていたデモ当日の様子が印象に残っている。
 「CHANCE!やピースボートの隊列は、沿道に『みなさん、戦争に反対ならピースサインを私たちに送ってください』って言って一斉にピースサインを掲げるのな。沿道の中にはピースサインを送り返す人も結構いて、あとプラカードもすごく工夫されている。だけど、そのあとの『団体系』の隊列はシュプレヒコールをがなるだけでさ、アピールになんの工夫もない。そうすると沿道の様子ががらっと元に戻って誰もデモに関心を示さない。あれではダメだ」
 ……警備の警官に「おまわりさん、ありがとう」とあいさつするというCHANCE!の「スタイル」に違和感を持っていた私は、その時は「ふーん」と聞き流しただけだった。
 しかし、この取り組みが一つのステップとなって後の「WORLD PEACE NOW」として結実し、日本に30年ぶりといわれる反戦運動の大高揚をもたらすとは、この時点では誰もまだ予期していなかった。

 予感│WORLD PEACE NOW1・18

 2003年が明けて、「わーるどぴーすなう? なんだそりゃ??」「イラク反戦の新しい実行委員会だってさ」「ふーん、よく分からんセンスだね」……そんな会話をノンセクト系の仲間と交わしていた。そのWORLD PEACE NOW実行委員会が1月18日に、日比谷公園で集会を開催するという。すでにアメリカ各地やロンドンなどでイラク侵攻に反対する10万人規模の集会の成功が伝えられ、日本においてもいかに「社会運動の周辺化」を突破して、イラク侵攻に反対する取り組みを「アフガン反戦」を上回るものとして成功させていくか、という模索が語られていた。
 しかし、当初から「左派」のなかで「WPN」が位置づいていたわけではない。私自身、アース・デーのような「イベント」なら行かなくてもいいか、などと考えていたし、周辺にも同様な仲間も多かった。一方で、小泉と並んで、いやそれ以上に「ブッシュ追随政策」を深めてきたイギリス・ブレア政権の内部から「イラク攻撃が開始されたら辞任する」と表明する労働党閣僚や党専従の動きが伝えられ、「もしかしたら戦争が止められるかもしれない」という空気・予感が世の中にも運動圏内部にも浸透した。周辺は開催数日前にして、一気に「WPN1・18」に向かっていった。
 集会当日、第一部の「ピース・コンサート」が昼過ぎに開始された。午前中からポカポカした陽気で、私は会場に入らず、仲間たちとダベりながら、参加者の様子を注視する。どうも、普段の集会とは参加層が違う。ブルーシートを敷いて友人たちと和んでいるレゲエ風の若者など、ヒッピー風の参加者の姿が目立っていたように思える。
 また、後の2、3、4月ほどではないにしても「集会慣れ」していなさそうな、家族連れや若者の姿も少なくなかった。「パレード」と名付けられたデモの先頭は、大音量でジョン・レノンの「GIVE PEACE A CHANCE」を流し、WPNのシンボルであるハートマークがプラカードあるいは柄につけられて鈴なりになっている。その他にも、チンドン屋風のグループやトランペットなどのホーン楽器の一団、思い思いの手製プラカードや、カラフルな横断幕の列が続いていく。
 これだけ多彩な表現のデモは初めてだ。また、これだけ問題意識を持った人がいて、それが「イベント」=集会に参加してきたことも驚きだった。一方で、アジア連帯講座や周囲の運動体の隊列(WPN用語で言う「連」)は、ゼッケンに一般的なシュプ レヒコール。どう考えても、沿道の歩行者に対しても、集会参加者に対しても「表現の訴求力」で完全に劣っている。「俺たちも今後はもうちょっと表現考えようぜ」。おなじ「問題意識」を持っていた仲間も少なくなく、会議ではそういう総括がなされた。
 この日の取り組みは、七千人の結集で成功した。主催者が目標とした「一万人」には及ばなかったが、「アフガン反戦」の際には最大二千人だったことを考えれば、飛躍的な成功だ。また、参加層の幅の広さも、イラク反戦運動のさらなる高揚を予感させるものだった。

 「反戦」の津波日本上陸! グローバル・ピース2・15

 2月に入り、ブッシュ政権のイラク侵攻の準備は加速した。2月5日に開かれた国連安全保障理事会外相級会合で、パウエル米国務長官は米情報機関が収集したというイラク・フセイン政権の大量破壊兵器開発や「テロ組織」との関係についての「証拠」なるものを公表して「イラク攻撃の正当性」を訴えたが、それはイラスト(まさにイラスト)のパネルを掲げて行うという珍妙なものだった。世界で高まる反戦運動の盛り上がりは、イラク侵攻の「正当性」を剥ぎ取っていった。それは国連においてすら、 アメリカの暴走にコンセンサスを与えることを拒否するという事態を作り出した。
 イラク侵攻のタイミングは遅れ、「がんばれば、ほんとうに戦争が阻止できるかもしれない」という予感は、ある種のリアリティすら帯びていた。ブッシュ政権の「本気」は疑いようもなく、その「リアリティ」が幻想であるという思いも一方であったとしても「こんな理不尽な戦争=大量殺人を許すわけにはいかない」という思いが、世界的に、そして大衆的に共有されていた。2月15日、世界社会フォーラムが呼びかけた「世界同日行動」に、日本でも「市民緊急行動」が呼びかけ、WPNは「協賛」という形で取り組まれた。
 夕刻前、会場の渋谷・宮下公園に向かう途中、バスの中からハチ公前広場で、戦争反対と集会への参加を呼びかける情宣活動が見える。土曜の渋谷を埋め尽くす大群集のなかに、高く掲げたプラカードも何十枚も見えた。それだけでも主催者の熱気や、反戦運動の高まりを実感させる迫力のあるものだった。「あれだけでもアピール力が違うな」。一緒にいた仲間がつぶやいた。
 宮下公園には、続々とほんとうに続々と絶え間なく人が増えていく。「溢れんばかり」というより、ほんとうに公園から人が溢れ、長方形の公園いっぱいに、そして宮下公園につながる陸橋から階段、そして公園下の歩道まで人・人・人で埋め尽くされた。デモは、先頭の隊列が宮下公園に帰ってきたとき、まだ出発を待つ人が多数いるという情景が現出した。
 沿道も、今までの私たちのデモの際のような、嫌悪感をあらわにするような人や、あるいは透明人間が通過しているかのような、冷淡な反応ではまったくなく、「ウオー! 戦争反対! 戦争反対!」と連呼する若者たちや、手を振ったりデモに数百メートルだけ紛れてくる若い女性のグループなどなど、「イラク戦争反対」の大衆的世論と反戦運動の支持の高まりを実感させた。集会は五千人の参加。しかし、その数より以上に沿道の人々とデモが一緒になって、渋谷という街全体がまさに「反戦」一色に塗 りつぶされた。
 アジア連帯講座やATTACジャパンは、おなじ時期に開催されたWTO非公式閣僚会議への抗議の取り組みや、また「2・15」が緊急の取り組みだったこともあって、充分な参加を得ることはできなかった。準備不足もあり「1・18」の総括を生かした「工夫した表現」を行うこともできなかった。しかし、自らが目撃した「大衆的高揚」と「運動への大衆的支持」に、「一人でも多く集会に人を誘うこと」と「全体の取り組みの中での独自表現のあり方」をさらに意識させることになった。
 翌日の新聞は、一面で大きく「反戦運動全世界で一千万人」と報じていた。この「世界が動いている」という実感が、また3月、4月にさらに人を動かしていったことを、後に仲間・友人となる人々から聞くことになる。

 参加者四万人超 WPN3・8日比谷野音

 そして3月8日、「WORLD PEACE NOW 3・8」を迎える。このかんあまり集会に参加しなかった人々や、反戦運動とは違う領域の人々が、この集会へ参加することを表明しているということが続々と伝えられた。「この日はスゴイ取り組みになる」。そこかしこでそんな予感が語られた。
 当日朝、会場の日比谷野外音楽堂から少し離れた帝国ホテル側の大噴水あたりで、新たに作ったアジア連帯講座の横断幕をセッティングしていると「集会の会場はここですか?」と声を掛けられる。「あっちですよ」と場所を教えると、また違う人に「すみません、会場はここですか?」と尋ねられた。「いや、あっちです」と丁重に場所を教えて作業に取り掛かると、また……。「すげー、集会に初めて来る人がいっぱいいるんだよ」「野音の場所を聞かれるとは思わないよな」。そんな会話を交わして周囲を見回すと制服姿の高校生たちや若者たち、家族連れがあちこちのベンチでプラカードを作っている。「○○子、いまどこぉ? 遅ーい」などと携帯でやり取りしている。まだ集会開始まで、1時間以上あるのに。
 この日、アジア連帯講座では新たに作った横断幕に『戦争派・小泉ヤメロ』と書かれた揃いのカラフルなプラカードを用意した。全体としてブッシュに追随する小泉への批判が弱い中で(この当時は「保守層」も含めて参加できるようにするという主催者の思惑もあったのだろう)、このプラカードはなかなかの好評を博した。仲間の数より多めにプラカードを用意し、見知らぬ参加者に持たせたりもした。
 仲間の一人が若い人と一緒にやってきた。「誰? 友達?」と聞くと「初めてデモに参加してどうしていいか分からないから、一緒に歩くグループを探しているらしい」とのこと。「ぜひ、一緒に歩こう」とその若者は、アジ連の隊列に入った。
 聞くと彼は学生。戦争に反対だが、何かしたくても大学にそういうサークルはなくどうしていいか分からないが、何もしないのもヤダ、とのこと。しかし「プラカード持ちますか?」と例のプラカードを渡すと怪訝な顔をする。「いやー、戦争は反対だけど小泉さんは支持してるんですよ」。こちらもビックリ。「でも、小泉サンは戦争を支持すると明確に言っている世界でも稀な人よ」「でも小泉さんが辞めたら次は誰もいい人いませんよ」。そうか、そういう意識の人多いだろうなぁ、と思いそれ以上は論争はしなかった。むしろ、そこで「論破」するのではなく、そういう考えの人でも参加してきている、ということの重要性を大事にしなければならないし、そこからしか「新しい運動」は生まれない、そう思った。
 日比谷野音は立錐の余地もなくなり、入場制限がなされた。司会者から、日比谷野音の周辺まで人が埋め尽くされていることが報告される。「ただいま入った情報によりますと、参加者が2万人を超えているということです!」「ただいま3万人を超えたということが伝わりました!」 とうとう全体の参加者は最終的に四万人を超えた。
 パレードがまた、それまでの運動の常識を超えた素晴らしいものだった。ハートマークのプラカードと並んで、グリーンピースが新聞広告に出した「ぬりえぷらかーど」を思い思いの色に塗ったものが目立ち、それに劣らず手製のカラフルなプラカードが林立している。また、パレード自体もトラックに巨大スピーカーを積んでラップ風に「イラクの子どもたちを殺すなー」などのコール&レスポンスやサンバを踊る隊列、ご近所さんで声を掛け合って参加したという子ども連れのグループ。先導する街宣車などなくても、みんな思い思いに「せんそうはんたい!」「No War!」と連呼する。数寄屋橋交差点の前後では、沿道から手を振る人が絶えない。あるいはコールに合わせて沿道から連呼する人々も多数いた。
 「WORLD PEACE NOW 3・8」は、日本の新たな社会運動の誕生││「日本におけるシアトル」(あくまで「日本的水準」というの意味においてだが)として記憶されるだろう。それはおそらく、現在においてよりも後世においてはなおさら。後に出会った仲間・友人たちに「3・8は参加していたんですよ。私のデモデビューですね」という人が少なくない。イラク反戦運動は、一つの「同時代的体験」、しかもそれは「9.11」のような受動的で報道を通したものではなく、主体的に自分が参加した共通体験として、語られ続けるだろう。また、それは90年代を通して低調で「縮小再生産」を続けてきた社会運動全体に新たな息吹を吹き込むことになったし、運動全体の「底上げ」に成功した。

 参加者とスタッフの衝突

 しかし、不安要因もあった。四万人の参加者という大結集に対して、警察・警備当局も大規模な規制体制を敷いて、三百人ずつに挺団をブツ切りにするという妨害行為を行なってきた。結果、最後尾がパレードに出発するまで4時間以上もかかることになった。パレードに参加しないで帰ってしまった人々は千人以上にのぼるようだ。一方でそのような「規制」=妨害行為に当然のように従う多くの参加者に、「初めてデモ に参加するんだから仕方ないか」と思いつつも、若干のいらだちも覚えた。
 またしかし、警備当局に抗議する参加者に対して、主催者スカーフを付けたスタッフが「警察の指示に従いなさい」とか、あろうことかプラカードや旗・ゼッケンに文句をつけてくるスタッフもいたということが後に伝えられた。交通整理の警官が「行け」と言っているのに、なんの権限があるのか他の隊列に「止まれー、お前ら止まれー!」と指示を出してくるスタッフもいた。
 後に当時の主催者のメンバーたちに「ああいうのは問題だと思うけれど」と言ったところ「たしかに勝手に奇妙な指示を出したスタッフもいたようだが、そんなのは主催者の意思でもなんでもない。イベントが大規模になりすぎて運動経験のない者にスタッフを任さざるをえず、確認が行き届かなかった結果だ。その責任はもちろん主催者全体にあるが……」とのことだった。「運動経験の切断」の弊害が表出したということだろうか。
 3月20日に、とうとうイラク侵攻は開始された。20日当日は、米大使館に「黙ってはいられない」と続々と人が詰めかけた。翌21日の芝公園での集会は「3・8」を上回る5万人が結集した。しかし、この時には「やはり戦争を止められなかった」という無力感、挫折感が全体に漂っていたように感じる。4月5日、米軍がバグダッドに突入したその日は代々木公園に1万6千人。4月19日は、1万人と参加者は減少していった。しかし、4月5日の冷たい猛烈な雨の中で延々と続く「戦争止めよう!」の声、叫びは「運動状況」が決して後戻りはしないということを実感させるものだった。
 また、4月19日のパレードでは、交差点で信号待ちをしている二人乗りのバイクの若者がジーッとデモを眺めている。どういうニュアンスでこっちを見ているのか測りかねたが、アジア連帯講座を指揮するスピーカーがちょうど「ブッシュを倒せ! 小泉倒せ!」という四拍子のコールを発した。すると、バイクの若者は「ウォー! 
 そうだ、ブッシュ倒せー!」と叫び、信号が青になると前後部座席の二人で「ブッシュ倒せ! ブッシュ倒せ!」と拳を振り上げて連呼しながら、長い長いパレードの列に沿ってゆっくり進んで行った。ピピーッと笛を鳴らし、そのバイクを規制しようとする警官をものともせず、バイクは「ブッシュ倒せ! ブッシュ倒せ! ブッシュ倒せ!」と連呼しながらゆっくりゆっくり進んで消えていった。
 しかし、この日偶然に参加したという仲間とおなじ職場の女性は、後に「ブッシュ倒せというコールは暴力的で違和感を感じた」と話していたという。難しいものだ。
 永遠に続くかのように思われた「イラク反戦DAYS」の第一波は、4月19日の取り組みを持って一段落した。大きな成功には、「反動」あるいは大きな反省点もつきまとう。前述したデモ規制への対応や一部スタッフの「問題」に加えて、公安警察サイドがリークしたと思われるCHANCE!一部メンバーの警備担当者との「会食」の事実も発覚した。「会食問題」への対応に各団体は時間を割かなければならなかったし、CHANCE!は「軽率で迷惑を掛けた。再発防止に努める」という声明を発したが、少なくない人々、これまで私たちと運動をともにしてきた人々からも強い不信感が表明された。この件は、後にもう少し詳しく触れるが、高揚した運動に強烈な冷や水を浴びせる格好となった。
 7月に「第二期」として再出発したWORLD PEACE NOW は、7月7日と20日、ともに渋谷・宮下公園で集会デモを行なった。両日とも七百人ほどの結集。春からの参加者もチラホラいたが、沿道からの熱烈な支持はすっかり消えうせていた。しかし、イラク問題が起こる前は、私たちにとって七百人の集会は決して小さいものではなかった。新ガイドライン反対のころは三百人も参加していれば「今日は多いね」と話していたくらいだ。そういう時代をくぐり抜けてきた者にとっては、それほど落ち込む状況ではなかったが、春から参加してきた者にとってはガッカリした向きもあったようだ。
 9・27(三千)、10・25(七百五十)、12・7(七百五十)とWPNやその他のイニシアチヴで参加者数は多少の上下はあったが、この「七百」という数字を割ることはなかった。イラク占領反対、そして浮上してきた自衛隊イラク派兵反対というテーマをそれなりの運動の自力を保ちながら、しばらく展開していくことになる。

 「小泉・リカービ会談」の真実

 閑話休題。12月3日、NHKのニュースは「イラク南部のサマワの部族の代表者が小泉首相と会談し、復興支援とそのための自衛隊派遣を要請した」という内容の報道を流した。満面の笑顔の小泉と会談したこの人物は、アル・リカービという。
 「この人物はヨーロッパ社会フォーラムで明確に自衛隊派兵に反対していた。小泉に派兵を要請するわけがない」。そんな情報がリカービ氏の亡命先のパリから舞い込んできた。リカービ氏は、元イラク共産党員で、1967年の反バース党蜂起に参加し、敗北の後亡命したという人物で(グローバル・ウォッチ編『日本政府よ!嘘をつくな!』作品社参照)、「部族の代表」というより「亡命イラク民主化運動のスポークス・パーソン」という表現のほうが正しい。
 パリからの情報によって、ATTACジャパンとWORLD PEACE NOWの仲間が、このリカービ氏との面談を試みた。リカービ氏を日本に招聘し、小泉に引き合わせたのは、佐々木昭三。酒に酔って「中東情勢は命がけなんだ」と叫びながら学生を日本刀で斬りつけて重傷を負わせた人物だ。佐々木はこの事件によって拓殖大学を追われ、現在「日本右翼の黒幕」と言われた故笹川良一が主宰していた「モーターボート振興会」の流れの「東京財団」に身を置いているという。
 反戦運動とまったく相容れないそんな人物が目を光らせているところを突破して、リカービ氏と面談しようというのだから大変だ。しかし仲間たちは、パリにいる反グローバリゼーション運動の仲間の手配を通して、リカービ氏のおつれあいの力添えを得ることができ、リカービ氏との面談に成功した。
 日本で「小泉│リカービ会談」がどのように報道されているかを知ったリカービ氏は、驚き、怒りをあらわにした。リカービ氏はあらためて記者会見を開き「私は小泉首相に騙された。私は平和的な復興の要請をしたけれど、自衛隊による復興支援など要請していない。米軍の一部として自衛隊派遣を強行すれば、自衛隊も米軍とおなじように抵抗を受けることになるだろう、と小泉首相にはっきり言った」と言明した。この記者会見とリカービ氏の立場は新聞数紙に報道されることになった。
 鳴り物入りで「サマワ現地からの自衛隊派遣要請」を演出しようとした小泉の詐欺的な思惑は、完全に破綻し、小泉は恥をかく格好になった。彼はこのとき「グローバルな社会運動の一環としての反戦運動」のその侮りがたい力を、そして「反戦運動」を 「看過できない敵」とはっきり認識したのではないだろうか。そして、この一件は、後に日本を揺るがせた「ファルージャ日本人三名人質事件」以降の「小泉 vs 反戦運動」の激闘の伏線となるのである。

 「時代は変わった」 04年3・20 雨の日比谷

 イラク開戦から一年となる2004年3月20日は、前年の「2・15」を再現する世界同日行動として計画された。日本においても、もう一度「反戦ウェーブ」の波を引き寄せる インパクトのある行動として成功させようと「十万人」の結集を目標に前年末から計画された。イラク派兵反対を掲げ「3・20前段行動」として行われた「WPN1・25」は、日比谷野音を埋め尽くす5千人の結集で成功。運動全体が「3・20」へと向かっていった。
 ATTACジャパンは、前年秋からデモ隊列の作り方を非常に工夫するようになっていた。リズミカルなコールと太鼓部隊、そして、独自のプラカードやハリボテなど、諸団体のなかでもっとも「デモ形態」を進化させたグループの一つとなり、他の参加者の注目を浴びWPNのなかでも重要な位置を占めるようになっていく。そし
て、参加動員数も飛躍的に伸ばしてきたATTACジャパンは「3・20百人動員計画」を立てる。
 そうして迎えた3月20日、天気予報の通り朝から雨が落ちていた。冷たい、そして激しい雨だった。「もしなんの責任もなければ俺だって参加しないよ」「お年寄りは無理だよ」「家族連れも難しいねぇ」。この日に向けて活発に活動してきた誰もが空を恨んだが、あきらめてやれることをやるしかない。しかし、日比谷公園に人は増え続ける。日比谷野音は傘の幅を合わせてほぼ満員となり、その周囲では組合や諸団体の集会やイベント、公園内デモが行われていた。ATTACジャパンは、目標の百人を超える百五十人の参加を勝ち取り、公園内でライブ・イベント(第二集会)を開催していた。
 また、久しぶりに若い人の参加が目立つ取り組みとなった。カッパに身を包みながら、友人同士、あるいはカップルで声を掛け合って参加したとおぼしき人々の姿は少なくなかった。日比谷公園は結局三万人の結集。「目標十万人」には届かなかったとしても「やはり時代は変わった」と再認識させるものだった。世界的にも、「2・15」ほどではないにしても、それなりの結集だったようだ。昨年と比べるとヨーロッパ勢よりもアジア各国での動きが活発だったようだ。また、3月11日のスペインでの同時列車爆破テロと、その直後の総選挙での派兵推進与党の敗北と野党の勝利による「派兵部隊引き揚げ」のニュースは、私たちに新たな展望を感じさせるものだった。
 しかし、この「3・20グローバル・アクション」を嘲笑うかのように、3月22日イスラエル軍はパレスチナのイスラム原理主義組織・ハマスの精神的指導者といわれるヤシンをミサイル攻撃で殺害する。ヤシンはこの時期、武装闘争の中断による「和平」を模索していたと言われ、イスラエルの意図は戦争の続行とさらなる挑発であることはあきらかだ。
 緊急の対イスラエル大使館行動が3月27日に行われた。3月20日の疲れも取れない状況での緊急の取り組みであるにもかかわらず、三百人を超える人々が結集した。イスラエル大使館前にこれだけの数が抗議する姿を見るのは初めてだ。ここにも、「イラク」でデモデビューした人々の問題意識の広がりを窺い知ることができる。また、若い人たちが「イラク反戦」から様々な問題、取り組みにウイングを伸ばしていることも伝えられている。かつてよりはぐっと小規模であったとしても、一つの運動層としての「イラク反戦世代」が形成されているのかもしれない。

 「邦人人質事件」の衝撃

 そして、4月8日「イラクで日本人三名が人質となり武装勢力の撮影した映像をアルジャジーラが放映する」というニュースが突然舞い込んできた。その直前にイラク・ファルージャで米人武装警備員が群衆に殺害され、遺体を焼かれたまま橋に吊るされるという事態が起き、またイスラム教シーア派サドル・グループがイラク全土で武装蜂起を開始。対する米軍の大規模な報復攻撃が始まっていた。
 その最中に人質となったのは、イラクでボランティアを行ってきたという高遠さん、劣化ウラン弾問題を取り組む今井さん、カメラマンの郡山さんの三人。アルジャジーラの映像は、まだ若い三人の怯えた表情を映し出していた。インターネット上では、ナイフを突きつけられた今井さんと高遠さんの悲鳴をはっきりと見ることができた。三人を誘拐した武装グループは声明で、日本政府に対して「三日以内の自衛隊の撤退」を要求した。そうしなければ三人を生きたまま焼き殺す、と明言していた。
 高遠さん、今井さんの住む北海道から「この二人は集会に呼んだり、いろいろ一緒に企画を立てたりしたことのある平和運動の仲間だ」という情報が入る。三人の家族は上京し、政府に「自衛隊の撤退による無事救出」を訴えた。そして、WORLD PEACE NOWは4月9日から五日間、連日の首相官邸前のアクションを行うことになる。政府に対しては「自衛隊撤退による人質の救出」を求め、そして武装勢力に対しては「三人はイラクに敵対するものたちではない。日本にも反戦運動は強力に存在する」ことをアピールするため。それは五日間で、のべ一万人を動員するものとなった。
 誰もが真剣だった。「絶対に三人を生きて救出する」という決意のもと、必死に声を張り上げ、プラカードを高く掲げ、不当な警察の規制に抗議した。警察と「衝突」状態 になり規制を突破して首相官邸に抗議を貫徹する日もあった。小泉の「自衛隊は撤退させない」という発言や三人の家族にも会おうともしない態度が、なおさら支援者の怒りをかき立てた。
 2003年の春以来の参加者、あるいはこの行動で初めて反戦のアクションに参加したという若者も多かった。また、高遠さん、今井さんの出身地の北海道をはじめ、日本各地で三人を救出しようという動きがうねりとなっていった。当初は街頭宣伝も、自衛隊撤退による三人の救出を求める署名の集まりは非常によく、「がんばって!」「小泉サンはヒドイ」と声を掛けられることも多かった。しかし、背中に冷たいものが突きつけられているような空気もどこかで感じながら。

 運動の底力││奇跡の解放劇

 小泉が「撤退しない」と明言してしまった以上、三人の生命が危機にさらされていることは明白だった。WORLD PEACE NOWの実行委員会の仲間たちは、官邸あるいは渋谷などでの街頭情宣の後、自宅で主に中東のメディアなどへ「三人は民間人で平和運動の仲間である。『民間人を殺害するな』という世論を中東で喚起してほしい」というようなメールを各所に送りつけるという「サイバー・アクション」も行った。
 ATTACジャパンの仲間は、12月に会ったリカービ氏のルートで、武装グループに接触できないか試みた。すると翌日、リカービ氏のグループを通じて、誘拐した武装グループとの接触に成功したとの報が入る。そして、またその翌日「あと数時間で解放される見通し」との情報。奇跡のようだった。しかし、奇跡ではなかった。それは、世界社会フォーラムを通じて強固に形成されてきた「グローバルな社会運動」がもたらせた解放劇だった。
 一方で小泉はなんらなすすべなく、三人の生命をまさに見殺しにしようとしたことが明白になった。また、後にイラクで武装勢力に殺害されることになる橋田信介さんの情報によると、日本政府はヨルダン政府の協力を得て「赤十字」に偽装した救出部隊を編成したが、ゲリラに見破られてその救出部隊も拘束されてしまったとのこと。まさに現場を余計に混乱させただけだった(その直後、ヨルダン政府が日本政府に債務の帳消しを求めてきたことを考えると信憑性の高い情報と思われる。救出部隊のヨルダン人がどうなったかは不明。無事を祈る)。12月の「リカービ事件」に続いて、小泉はまたも「反戦運動」と「グローバルな社会運動」によって、完全に一敗地にまみれることになった。
 「あと数時間で解放の見通し」の報が流れた11日は、官邸前アクションの三日目となる日曜日だった。その情報は、誰もがメールやインターネットなどを通じてすでに浸透していた。首相官邸前は、道路を挟んだ歩道を埋め尽くして、二千人以上の人々が結集した。対岸には居並ぶプラカードや横断幕の頭上に多くの虹の旗が春の青空にはためいていて、まさにほんとうの虹のように見えた。おそらく対岸からも、こちらがおなじように見えたことだろう。自国民の生命を見殺しにしようとした政府に対して、自分たちの行動が政府を飛び越えて三人の救出を実現した。政治的にも道義的にもかつてない大勝利に、この日の行動は解放感に満ち溢れた素晴らしいものとなった。
 しかし、その「あと数時間」がいつまで経ってもやってこない。この段階になると、ただ待つしかなかった。情報に精通しているものにとっては、「あと数時間」が信頼に値する情報であり、解放が遅れているのは、ただ米軍によるファルージャへの大規模攻撃が続いていたからに他ならないことも知っていた。しかし、それを証明する術はない。いつもより何倍も長く感じたであろう時間の中で、三人の家族たちの心労は察して余りあるものだった。反戦運動は、このとき「見殺し小泉はもうレッドカードだ」と主張するべきだったが、完全に受身に回ることになってしまった。

 「自己責任論」││首相小泉の反撃

 この状況を「機」ととらえたのは、小泉政権の方だった。かれらも三人が無事解放されるであろうことは、つかんでいたのだろう。それまで「イラクへの入国は警告を発していた」などと伏線を張っていた「自己責任」論が、まさに噴出し爆発することになる。小泉や川口外相などの談話などを通してテレビ、新聞の論調は、完全に一変したものとなり、無謀で自ら危険な土地に赴いた者になぜ税金を使って政府が面倒見なければならないのか、というほとんど国家の存在理由を否定するような論議がまかり通った。その矛先は「自衛隊撤退による救出」を政府に求めた家族たちに向けられ、集中することになった。家族たちは、三人がなかなか解放されない心労に加えて、「国に感謝しない非国民」というような罵声を日本社会全体から浴びせられることになった。家族たちは、青ざめ、いつのまにか下を向いて謝罪の言葉ばかりを口にするようになっていった。
 解放がなされるまで様々なアクションは続いていたが、街頭での空気も一変した。無視、罵声を浴びせる者、右翼はわが世の春とばかりに署名を訴える者に嬉々として絡んでくる。署名に応じるものは、小さくなりながらサインしていく。「自己責任」論など、少しでも知性のあるものには受け入れがたいシロモノであるが、この国は石原慎太郎のような者に高得票で支持を与えるような「反知性」が覆っていたのだということを、私たちはいやがおうにも思い出させられた。それはアメリカ国務長官・パウエルをして「勇敢な若者を責めるべきではない」などと言わしめるものだった。パウエルにとっては「これから戦争国家を完成させようという時期に、『自己責任』などと言ったら誰が国家に命を捧げるのだ」という感覚だったのではないか。
 4月13日、誘拐された三人が解放される映像が届いた。イスラム宗教者に囲まれて、和やかに話をする三人の姿に、解放された喜びや安堵感よりも、帰国して以降に三人がさらされるであろう「社会的抹殺」すら狙うバッシングに誰もが気が重くなった。しかし、それでも、生きてさえいれば……。

 世論二分││「4・18」の緊張

 4月18日、三人が誘拐される前から計画されていたWPN主催の反戦パレードが行われた。「三人解放」の喜び、「自己責任」バッシングの嵐、今だ続くファルージャの「包囲せん滅戦」。この日は様々な感情が交錯して特殊な緊張感を醸し出していた。千七百人のパレードは「戦争反対、占領止めよう、ファルージャ救おう」などおなじみとなった四拍子のコールにつづいて、「伝統的」シュプレヒコールを叫んだ。「自己責任バッシングを許さないぞー!」あれほど嫌われた「伝統的」シュプレヒコールを、この日は誰もがありったけの大きな声で唱和する。明確に主張したいことがあるときは「伝統的」シュプレヒコールは、やはリ一つの手段だ。
 「三人は 私たちの 誇りだ!」
 「三人は 私たちの 誇りだ!」
 パレードが通過するすぐ脇の渋谷ハチ公前では、「自己責任オフ」と称して「人に迷惑を掛けたら謝りましょう」などのプラカードを掲げた「2ちゃんねらー」たちが集っていた。
 あまりに低レベルな「自己責任」論は、また多くの反発を呼び、文化人や知識人などからの批判も多く寄せられた。リバウンドが、またリバウンドして、それ自体中身のない「自己責任」論は、「世の中の空気」として受容するものと、「あまりにおかしい」と言うものに世論を分ける格好になった。それは、私たちがどのように「世の価値観」を変革していくべきなのか、という課題を突きつけるものになったように思える。
 しかし、三人救出行動における運動の勝利、「見殺し」にしようとした者と「みんなは一人のために」の精神で行動した者たちの道義的な差は大きい。この一連の行動は戦後平和運動史に残るものとして、記憶されていくことだろう。そしてまた、「政府が市民運動に対して一敗地にまみれた」ということこそが、あの「自己責任」バッシングの本質であったことは、疑いようもない事実なのである。それにしてもどんなに卑劣で見苦しいものであったとして、権力はさすがに負けっぱなしではない、ということか。また、二度までも辛酸を舐めることになった小泉は、18日のパレードの規制に妊婦の腹をも蹴る恐怖の集団「鬼の四機」(第四機動隊)を投入する。7月4日の「VOTE FOR PEACE 7・4渋谷事件」の前哨戦はすでに始まっていた。

 無法弾圧││「7・4渋谷事件」

 7月4日、WORLD PEACE NOWは参議院選挙に向けたアクションとして「平和のための投票で自衛隊撤退の実現を」を掲げて、「VOTE FOR PEACE 7・4 」を渋谷・宮下公園で開催した。事前にほぼ全立候補者に「自衛隊派遣の是非」を問うアンケートを送り、その「立候補者の自衛隊派遣賛否一覧」を作成したりして、当日の集会に臨んだ。
 宮下公園で初めてプロのミュージシャンに演奏してもらったり、事前に大量の虹旗やカラフルな花笠、「投票箱御輿」などを準備し、集会会場は、市民的でいかにも「WPNらしい」雰囲気に包まれた。
しかし、集会の出入り口は、大量の機動隊によって威圧されるという異様さも漂っていた。主催者スタッフに「今日は必ず誰かパクってやる」と警備責任者は言い放っていた。こちらとしては戸惑うような普段以上の強烈な憎悪に包囲されながら、集会を終え、パレードに出発した。
 機動隊は、パレードのコールをかき消さんばかりに大声で伝令を発し、妨害してきた。一車線規制をいつもよりさらにせまめに規制してくる機動隊員の身体に少しでも触れると、手の平でドンと押し返してくる。WPNでここまであからさまに警察が挑発してくるのは、初めてのことだ。当然のことながらパレードの各所で抗議の声が上がり、小競り合いが発生した。その過程で三名の仲間が逮捕されるという事態にまで発展することになった。
 これは、小泉政権の一連の「敗北」に対する報復行動だったと考える。また、「一票の重さ」を、ある意味においては私たち以上に知る権力による「平和のための投票」を訴える運動への、事前弾圧と見ることもできるだろう。WORLD PEACE NOWはこの事態を「7・4渋谷事件」と命名して、反弾圧キャンペーンに乗り出した。キャンペーンは広範な支持を得、そしてあまりに無法な権力の「弾圧のための弾圧」に、運動側に好意 的な記事を書く大新聞も数紙あった。三名は、拘留期限切れを待たずに釈放を勝ち取ることができた。この弾圧事件は、WPNの運動が国家権力に正面から対決を強いられていることを広範に知らしめる結果となった。それが「吉」と出るのか「凶」と出るのか、これから運動の「量」と「質」が、さらにシビアに問われていく状況に入っていくことになるだろう。

 中間総括 ブッシュ再選と反戦運動

 10月26日、イラクを訪れていた香田証生さんが、イラクの武装勢力に誘拐されるという事件が起きる。今度の誘拐したグループは、それまで幾度も「外国人人質斬首」を繰り返してきた「ザルカウィ・グループ」だった。殺人そのものを目的にして、「斬首シーン」をインターネットに流すという残虐行為で名を馳せる凶暴極まるグループであり、イラク解放闘争の大義を汚す集団である。また、香田さんがイラクを訪れる前にイスラエルに滞在していたことも、救出を困難に思わせる大きな要因だった。
 小泉は、またも即座に「撤退しない、テロリストには屈しない」と明言。ほとんどこの時点で、香田さんの救出は絶望的だった。それでもWORLD PEACE NOWは、事件発覚の翌日から三日間、首相官邸前の抗議行動を行った。「なぜ今の危険な状態のイラクに訪れたのか」「イスラム圏を短パンで歩くなんて」と、「もはや自己責任以前の軽率さ」が語られ、世論も「三人救出」のときのような盛り上がりを見せることはなかった。それでも、仲間たちは可能な限りの手を尽くしたのだが……。
 香田さんが、星条旗の上で残虐な方法で殺害された四日後の11月4日、ブッシュは大接戦の末ケリーを下して、再選を果たした。ブッシュ51%・ケリー48%という差であった。前回の大統領選同様、オハイオ州で不透明な票をめぐって混乱が生じかけた。しかし、「アメリカを分裂させない」との美辞麗句?のもと、ケリーはさっさと白旗を掲げ、ブッシュは二期目を迎えることになった。
 結局その魅力よりも、マイケル・ムーアの映画『華氏9・11』の大ヒットに代表される空前の一大文化運動にもなった「反ブッシュ運動」に押し上げられただけのケリーは、たたかう前からブッシュに政治的に負けていたということだった。この「反ブッシュの敗北」によって、1999年のシアトル闘争以来に上り調子を続けてきたアメリカの反戦・社会運動は大きな危機に直面するだろう。それは「ケリー後押し運動」にすべてを集約したことによって、ラルフ・ネーダーに代表される「第三勢力」の努力が微塵に吹き飛ばされたことも、後々大きな悪影響を及ぼしていくに違いない。
 そして、ブッシュは再選が決定した直後の11月8日に、ファルージャへの大規模掃討戦を開始した。それは1938年の南京、1944年のワルシャワに勝るとも劣らない大虐殺戦として実行され、ファルージャという都市は、まさに「巨大な瓦礫」とされてしまった。また、攻撃の手始めにいくつもの病院・医療所を襲撃して医療スタッフを虐殺し去ったという暴挙は、後世に残る戦争犯罪として記憶されることだろう。
 世界的にも反戦運動は、無力感に覆われつつあるように思える。「あれだけ人が動いてもダメなのか」と、しばらくはあきらめにも似た気持ちが全体の空気を蝕んでいくのは、ある程度は仕方のないことかもしれない。「反グローバリゼーション運動」がクリントン政権期の「人権とグローバリゼーション」政策のアンチテーゼ、あるいはオルタナティヴとして登場したような状況と違って、ブッシュのように、ある意味極端で「矛盾のない」権力者に対するたたかいは、「戦争か、反戦か」という枠組を強いられる。それは、ナチスに対するたたかいが「ファシズムか、反ファシズムか」に集約されたように。その枠組は、「平時」の状況よりもある意味分かりやすく大勢の人間が動くことにもなるのだが、それが必ずしも「社会進歩」にすぐには結びつかな いという側面ももつ。
 この「あと4年のブッシュ」に対して、どのような抵抗運動を形成していくべきなのか。これまで以上に「数」に徹底的にこだわり、2003年春を上回るような「グローバル・アクション」をさらに作り出す必要とともに、今後は「反戦」の中味をどのように満たしていくべきか、がやはりこれまで以上に問われるのではないか。それは世の価値観の変革を意識し、常に「システム」に割って入り「攻勢する側に立とうとする」ことが求められている(ケリーの最大の敗因は、最後まで守勢に回ったことである)。抽象的だが、それは貧困層がブッシュや、日本においては石原に投票し、「自己責任」を口にするような情況の変革ということだ。そして、「世界的なオルタナティヴ不在状況」こそが、現在の世界状況とその危機を一言で要約する。左派は常に「現実政治における第三勢力」化による新たな社会的登場を先に見据えた運動作りをすることが求められているのではないだろうか。社会主義左派の背負うべき責任は大きい。

 デモ隊vs 警察││警官は獲得の対象か

 最後に昨年から、様々な形で論議を呼び、建設的な批判から揶揄・嘲笑まで含めて論じられることの多いWORLD PEACE NOWについて述べておきたい。
 当初、「警察の指示に黙々と従う実行委」「スタッフがやたらに参加者を規制する」などの批判がよく指摘されたが、一連の「問題」は基本的に大規模な取り組みとなり、大多数の「デモデビュー」の人々と警察の不当で高圧的な規制の狭間でのギリギリの努力のなかで起こった出来事であったのだと思う。一般参加者はおろか、スタッフすら運動経験がまるでない者が多いなかで、それはかなりの程度仕方のないことだった。また、社会的雰囲気に「急進的」とされるものがまるで消えうせ、また受け入れられ難い状況で警察権力との力関係を考えれば、実行委員会が不要な衝突を回避するために努力することは、当然のことでもある。そして、03年の秋以降は、「独断専行するスタッフ」の問題はかなり改善されたように思える。
 紛糾し、いまだにくすぶっている問題である「CHANCE!メンバーによる会食問題」についても、触れないというわけにはいかないだろう。
 発表された小林一朗氏の弁明を読むかぎり、彼は「ピースウォーク警備を『してもらっている』者に対する礼儀」として、「会食」の求めに応じたとのことである。それは、また「非和解的な関係であっても、相手の心を少しでも動かすことができたら」「彼らの人間性を取り戻す努力を忘れたくなかった」という思いもあったとのことだ。言うまでもなく完全に誤りである。それが警備担当者との「会食」という方法を とる発想が安易であるし、「正論を述べれば人は分かってくれるはず」という根拠のな いオポチョニズムとしか言いようがない。小林氏らが厳しい批判にさらされたのは当然のことであったし、当面は警戒と不信の目で見られることも一定は仕方のないことだろう。もし二度目の過ちが起こるとすれば、それは絶対に許されるものではないだろう。
 運動経験が切断されたところから誕生し、「既成左翼運動」の限界を肌で感じ取っていたCHANCE!にとっては、「ならば警察という巨大機構・暴力装置」といかに向き合うのか、という問いかけがあったものと思われる。それはこれまで「打倒」あるいは「せん滅の対象」としか警察組織と向き合えず、下級警察官を労働者階級に獲得する実践を提起することすらできなかった左翼運動の限界の一つの表現だったのではないか、と筆者は考える。
 小林氏らは「警察権力」と「個としての人間」の区別がないなかで「会食」の誤りを犯したが、それは「警察権力」と「労働者としての下級警察官」の区別なくひたすら「非和解的敵対」することしかなし得なかった私たちの姿の裏返しのように思える。そして、「先進国」に警官の労組が唯一存在しないない日本の異常さをどのように 克服していくか、という提起はなされて然るべきなのである。
 それは、個々の警察官と、ましてや「警備担当者」と「会食」したりすることではない。巻き起こる大衆運動の嵐によって警察組織全体を包囲することでしか、かれらが労働者階級に獲得されることもありえない。それは不当な行為に対しては徹底的に抗議・糾弾を行うことと矛盾しないし(しかしそれは下級警察官との衝突や小競り合いを目的化することでは絶対にない)、物理的に衝突せざるを得ない場合においても、殴られた者が納得してこちら側に寝返るような闘争の質を獲得していかなければならないのではないか。私たちにとって「革命」とは「資本家の暴力装置を解体すること」であり、「警察官皆殺し路線」(それは言うまでもなく誤りである)をとらないかぎり、この最も大きな難題に挑戦しなければならないのだ。その立場は、私たちの行うデモ・アクションの一つ一つに貫徹されなければならない。
 また、完全に運動経験が切断されたところで新しく運動に登場した人々に、これまでの「左翼の常識」が通用しないことは仕方のないことだ。厳しい批判にさらされ、CHANCE!は「二度と会食のようなことはしない」と表明した。そして運動経験を共有していくなかで、「7・4事件」のような事態をシビアに、しかし正面から受け止めている。しかし、いまだに運動に登場していない圧倒的多数の人々には「左翼の権力観としての警察」を語っても、まったく通用しないだろう。
 実際、「7・4事件」のあと、参加者などから「『おまわりさんありがとう』というくらいの余裕が運動の側にあってもいいのではないか」というような声が複数寄せられたりもした。こういう人々と経験を共有していくなかで、「権力観・階級観としての警察」を共有する粘り強い努力なくして、どうして社会を変革することができるだろうか。そういう人々をあらかじめ遠ざけ、あるいは一度の過ちで人を切り捨てていって、どうして「多数派」を形成することができるだろうか。私たちは「そういう社会状況」のなかで、ほとんどゼロから運動を建設していかなければならないのであり、そして革命運動とは、あるゆる意味、あらゆる領域において「獲得合戦」なのだということを肝に銘じなければならないのではないだろうか。

 試行錯誤を繰り返しながら

 WORLD PEACE NOWは「数」を追求することに徹底的にこだわった。そのために様々な努力・工夫を行なった。「WORLD PEACE NOW」という名称、ハートのロゴマーク、集
会のタイトルから呼びかけ方、集会・デモの持ち方などなど、多数の老若男女が集うことができるようにするには、どのような工夫が必要か常に議論し、考え抜こうとしている。それは「数」こそが世論の存在のバロメーターであり、そして「参加する民主主義」こそが、社会のシステムを変えていく、という信念からである。WORLD PEACE NOWがなければ、「日本にはイラク反戦運動は起きなかった」と言われるような状況になっていたかもしれない。
 社会運動の「どん底期」だった90年代は、決意した少数の活動家が各所で踏ん張り、運動を支えた。次の「新しい時代」への橋渡し役として、それは非常に重要な役割を果たした。しかし、一方で「自分ががんばればよい」「人が来ようと来まいと関係ない。主体の問題だ」というような「悪しき決意主義」にとらわれる傾向も強く見られるような気がしている。あるいは、WORLD PEACE NOWのようなあり方を模索することは、自らの自意識や「政治性」を貶めてしまうように思う活動家も多いようだ。その ようなあり方は、「正論を唱えれば人は分かってくれる」(分からないやつはダメなのだ)という傲慢な「サヨクのエリート主義」の裏返しであると言わざるを得ない。しかし一方で、「問題意識」と「行動の入口」の距離の遠さに、足踏みしている人々が今だいかに多いか、そして、「入口」さえ見定めることができたならば、街頭に登場しうる人々がいかに多いのかをWORLD PEACE NOWは実例をもって示したのだ。
 行動、経験、議論を共有しようとする粘り強い努力の過程を経ずして、「運動経験と価値観の継承」などできるわけはない。それは疲れる作業であるし、時間もかかることだ。しかし、「左翼にとっての理想の大衆」などというものが世の中に存在しない以上、この過程を経ることなくして社会変革など夢のまた夢なのであり、「多数派」 を目指すということはそういうことなのだ。革命とは社会の、人々の価値観を変革することであり、制度を変革することである。そして、試行錯誤を繰り返しながら、「多数」を獲得する努力をしようとする過程そのものが必要なのであり、それが私たちに今問われていることなのではないだろうか。

 ありとあらゆる運動分野に「WORLD PEACE NOW」をつくりだそう!


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