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 ワールドカップと労働者階級              かけはし2006.7.10号

W杯の資本主義的神聖同盟を断固として拒否せよ


 W杯サッカー大会が全世界の関心の中で行われている。すでに競技が始まりもしないうちからW杯の熱風が高まり、地球村を吹きまくった。あらゆる大衆メディアがW杯にオールインしている。もちろん、このようなわき目もふらず一心不乱の流れに対する批判の声がないわけではないけれども、民族主義と商業主義の絶妙な結合の前に、大衆は無気力なだけだ。

大衆化とプロ化の歴史


 近代的サッカー競技は19世紀後半、英国で発展した。産業革命期の長時間労働から解放された労働者たちは週末や休日の余暇としてスポーツ活動を楽しむことになったが、サッカーは労働者の居住地域で信徒を確保しようとする教会の宣教活動を通じて、または労働者たちの自発的な余暇活動の一環として大衆化した。
 英国プロ・サッカー、プレミアリーグの名門チームであるアースナルはウルリッチの兵器厰の労働者たちのサッカーチームだったのであり(アスナールとは兵器の倉庫という意味)、マンチェスター・ユナイテッドはランカシャー、ヨークシャーの鉄道労働者連盟の発足によって象徴されるスポーツの制度化は、サッカーに内在した階級性の脱却過程だった。
 他方、英帝国主義の拡張過程にサッカーは結合した。全世界に広がっていた英国の資本家、技術者、軍人、宣教師たちは、世界各地にサッカーが広がることにおいて決定的な役割を果たした。サッカーの世界化というW杯現象は生来的に帝国主義および資本主義と緊密に結合していた、というわけだ。
 また8時間労働制とレジャー文化の広がりは労働文化運動の活性化をもたらしたが、逆にスポーツと文化の大衆化は新たな市場の創出へとつながった。集団的運動や文化は個人主義的、資本主義的消費へと転換された。これは特に第2次世界大戦以後、労働組合運動の制度化ならびに労働者階級の脱政治化と緊密に連動して展開された。
 特にプロスポーツを通したスポーツの資本主義的商品化はエリート主義を媒介として、選手それ自体を商品として仕立てたばかりでなく、大衆を受動化させ、主体的活動としてのスポーツというよりは受動的客体として見るスポーツの領域を商品化させ、大規模な市場を創出することに成功した。
 このような意味において労働文化運動の衰退と労働者階級の個人主義化=破片化は互いに相まって進められるとともに、労働運動の制度化を完成させた。特に、この過程でスポーツは商業的大衆文化とともに集団的主体としての労働者階級を破片化させる都合のいい仕組みとして作動し、資本主義的市場の拡張や資本主義体制の安定化において決定的役割を果たした。

FIFAと官僚主義


 4年ごとの、世界の人々のサッカーの祝典を取りしきっている国際サッカー連盟(FIFA)は1904年に設立されて以来、百年の歴史の中で、すでにそれ自体として超国籍の独占資本化した官僚主義の組織だ。少数の特権官僚らの長期独裁は、国際連盟を含む国際スポーツ界の慣行であり、形式的民主主義の前では選手や大衆は将棋盤上の駒、それも「歩」であるにすぎない。
 前任のFIFA会長フアン・アベランジェは24年間(1974〜98年)、長期執権をした。よしんば会長は無報酬の名誉職とは言うものの、莫大な権力を振り回しつつ膨大な蓄財をなしてきたことで非難されてきた。現会長のジェフ・ブラッターもまた事務局長出身の官僚として新たな官僚独裁を築きあげるとともにW杯やFIFAの資本主義化の流れを一層強化している。
 FIFAは05年の予算で8・74億スイスフランの収入に加え2・14億スイスフランの収益を記録した。また今回の06年W杯を含め03〜06年の会期に16・4億ドルの収入と1・44億ドルの収益を予想している。すでにFIFA自体が、サッカー人らの国際的非営利機構と言うよりは大変な権力と、それによる利権やさまざまな収益事業を通じておびただしい利潤を搾取するひとつの超国籍独占企業そのものだ。

「資本の宴」へと転落


 W杯はスポーツの理想よりは利潤の論理によって資本主義的に変形されてから、すでに久しい。したがってW杯と直接、結びついているナイキ、アディダスなどの超国籍スポーツ独占資本にとってW杯は最大の超過利潤を搾取することのできる絶好の機会だ。そればかりか間接的に関係する産業やマス・メディアにとってもおびただしい利潤を保障してくれる装置だ。
 全世界的には今回のW杯に数百億ドルが注ぎ込まれるだろう。国内的にも02年W杯の興奮を目撃した国内資本もまたW杯のマーケッティング費用として1兆ウォン以上を使うものと予想される。大部分の企業は消費者大衆の「賭博の心理」や「タダ乗りの心理」を活用したカネ稼ぎに没頭するとともに、W杯は「資本の宴」へと転落した。
 スポーツの資本主義的商業化に決定的な役割を果たしているのが、まさにそれ自体として独占資本化したマス・メディアだ。彼らは一方では、しばしば感情に流され理性を見失いがちな大衆心理を利用して資本主義的市場を拡張する傍ら、イデオロギー的に大衆を武装解除する効率的機構として機能している。

「赤い悪魔」の性格と限界
 
 02年以来、「赤い悪魔」(レッド・デビル、韓国チームのサポーターの呼称)現象についての論争は続いている。W杯の肯定的な面や個別主体たちの自発性を強調する立場は、02年のW杯は大衆の自律的参加の空間を作りだし、彼らの欲望を噴出させた驚異の体験の空間であったし、社会の進歩をもたらした側面もあった、と主張する。
 だが批判的観点からは、「赤い悪魔」現象であらわになっている感情むき出しの愛国心、勝利への絶叫、体制順応と政治的無関心、個人の主体性を抑圧する群衆心理などはファシズムの病理的現象だと規定される。ひたすら民族の同質性を強調する非理性的民族主義は民族の構成員内部に存在する多様性を抑圧し、ただただ排他的な愛国主義(ショービニズム)と結合した疑似ファシズムの温床となる。
 このような「赤い悪魔」現象についての論争は、論理自体よりは「赤い悪魔」のそれ以降の言動によって、現実にその性格が決定された。いわゆるノサモ(ノ・ムヒョンを愛する会)がそうであったように、「赤い悪魔」はもはや新たな世代の主体となることに失敗した。

02年韓日大会の神話は崩壊


 02年を飾った「赤い悪魔」は、大衆の自発性または自己組織化の過程で制度化の論理や資本の誘惑におしつぶされるとともに、部分的になお存在していた意外性、衝撃性を完全に失った。すでに数十万人に達している会員を組織的に管理することは不可能になり、自らも認めた指導部の官僚主義が定着するとともに制度化は完成された。
 また資本とマス・メディアの誘惑、それに伴った莫大な利権は独裁時代のさまざまな御用団体とさして変わらない歩みを繰り返している。むしろかつての御用団体が体制への迎合を脱却しつつ変身しているこの時期に、新たな形態の御用団体へと変身した。さらに、最近の「赤い悪魔」の分裂やソウル市庁前での応援の問題で資本間の代理戦に突入するとともに、「赤い悪魔」現象は02年の神話の中から資本の調整に伴う無差別的動員の形式へと形骸化した。

ボールに刻まれた神聖同盟

 W杯は全世界の老若男女または民族にかかわりなく30億の人口が楽しんでいるサッカーの祭典だが、その背後には超国籍独占資本、帝国主義、スポーツ官僚主義や煽情主義的マスコミの神聖同盟が、その資本主義的祝典から利潤を搾取している。
 労働者階級の自己解放の展望が不透明で、政治的対案が不在の情勢の中で、W杯のように資本主義化されたスポーツに対する抵抗は無気力とならざるをえない。エリート・スポーツの対案として提起された大衆体育あるいは生活体育もまた資本主義的個別化や制度化のワナの中でその色を失い、多くの場合、もっぱら「観る人」としての受動的客体へと転落する疎外の過程に追いやられた。
 サッカー自体を楽しむことの何が問題なのかという反問も可能ではあるけれども、華麗な妙技や集団的雰囲気と興奮の中でなされる人間疎外や自害行為についての根本的苦悩や問いかけがないかぎり、また華麗なサッカーに散りばめられた資本の隠密のコードを読み取り抵抗しないかぎり、資本の奴隷状態から解放されるのは難しい。
 今回のドイツW杯でも、サッカー競技のほかに買売春、フーリガン騒動、民族問題などの社会問題が全面的に露出するだろう。サッカーをサッカー自体として楽しみたいサッカー・ファンの極めて素朴な願いは冷酷な現実と、その裏側に隠された本質を意識的に無視するときにのみ存在する蜃気楼にすぎない。このような現実を打破するための闘争は、W杯の華麗な外様にさえぎられた資本主義的神聖同盟を断固として拒否することから出発する。(「労働者の力」第104号、06年6月9日付、ウォン・ヨンス/編集委員長)


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