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   かけはし2011.1.17号

「大逆事件」100年を問う

近代史の中で「反天皇制」検証する集会


韓国強制併合
と「大逆事件」
 十二月二十三日、天皇誕生日にあたって反天皇制運動連絡会は「大逆事件から一〇〇年 反天連12・23集会」を開催した。二〇一〇年は安保改定五〇年・「韓国併合」一〇〇年にあたっていた。この年反天皇制運動は、沖縄の米軍基地をめぐる闘い、そして清算されない朝鮮侵略植民地支配と新たな位相で浮上しているレイシズム・排外主義の問題について新たな植民地主義として見据え、それと正面から対決することを共同の課題として追求してきた。
 また二〇一〇年は、「明治天皇に対して危害を加えることを謀議」したとして幸徳秋水、管野スガ、古川力作、新村忠雄ら多数の無政府主義者・社会主義者が逮捕された「大逆事件」から一〇〇年にあたっていた。「大逆事件」の公判は大審院だけの一審制であり、しかも完全非公開で行われた。翌二〇一一年一月十八日の判決では被告二十六人のうち二十四人が死刑を言い渡され(翌日、12人が無期に減刑)、二十四日には幸徳、管野ら十二人の死刑が執行された。反天連は、その後の歴史に大きな爪痕を残したこの衝撃的事件の意味を問い直すために「大逆事件一〇〇年」をテーマにした集会を「天皇誕生日」に合わせて企画した。
 豊島区民センターで行われた集会は、池袋駅から会場近くにかけて天皇主義右翼の街宣車が大音声でガナリ立て、会場前では「警備」と称して参加者を監視・威嚇する私服警官、公安警察が大量にたむろする中で、百人以上の参加で開催された。

文学者の反応に
見る事件の衝撃
 集会の報告者は池田浩士さん(文学研究)、伊藤晃さん(近・現代史研究)、天野恵一さん(反天連)の三人。池田さん、伊藤さんの話は反天連発行の『運動〈経験〉』32号に掲載されている二人の文章(池田浩士「『大逆事件』をめぐる若干の私見」、伊藤晃「大逆事件における対決の行方――池田浩士編『逆徒「大逆事件」の文学』」)をもとにしたものだった。
 池田さんは冒頭に「大逆事件」をアナーキストの問題としてのみ捉えること、あるいは「全く身に覚えのないえん罪」として批判すること、さらに「大日本帝国」という閉ざされた社会の中だけで理解することの問題点を指摘した。そして少なくとも被告たちが、天皇制の把握の仕方に関しては不十分なところがあったとしても「天皇制をなくさなければならない」とする考え方に立っていたことの意味をつかみとる必要があり、また一九〇五年に幸徳が米国にわたって「直接行動論」を唱えるようになったことを、当時のドイツ社会民主党における「修正主義論争」やローザの「マッセンストライキ」論との関係で同時代的に捉えることも重要である、と指摘した。
 池田さんはさらに「韓国併合」に対する朝鮮民衆の「義兵運動」への弾圧の中で一九一〇年に「日露逃亡犯罪人引渡条約」が作成されており、「臣民」の範疇には収まらない朝鮮民衆による天皇制国家への抵抗への恐怖が、「大逆事件」弾圧の背景として見られることにも注意を喚起した。
 その上で池田さんは、「大逆事件」と幸徳らの死刑執行に対する当時の文学者の反応を、与謝野鉄幹、内田魯庵、永井荷風などに即して語った。

「国民の天皇」
と民衆の自立
 伊藤晃さんは、「大逆事件」は自分の意思を自覚し、それを社会に伝えようとした人びとすべてが当事者だったと語った。
 徳富蘆花は彼の有名な「謀反論」という講演の中で、幸徳を「維新の志士」になぞらえ、天皇制を支持する立場から、天皇は社会主義者をも包容するべきものであってほしい、と訴えた。蘆花にとって悪いのは天皇の取り巻きたちであり、天皇は権力者たちへの反感を分かってくれるだろう、と考えていた。幸徳秋水もまた、天皇制は社会主義の実現にとって重大な障害だとは思っておらず、社会主義は社会の進化の必然的帰結だと信じていた。大逆事件の被告たちは天皇に対する「社会の迷信」を打破する必要を主張したが、一貫した反天皇論は不在だった。
 しかし無自覚ではあったとしても社会主義は天皇制の敵になっていた。一九〇一年に社会民主党が結成されて即日禁止になったのがその始まりだった。大逆事件は、徳富蘆花や当時の社会主義者が抱いていた天皇観を完全に裏切るものとなった。そして大逆事件の弾圧は社会主義運動と一般社会との完全な切断をもたらすことになった。社会主義者は「天皇への謀反人」の自覚を「多数人民」につなげていく道筋を切り開くことができなくなった。
 一方、大逆事件以後の社会主義運動の「冬の時代」は、「大正デモクラシー」の時代でもあった。「一流帝国主義」への飛躍と先進国への社会的・政治的同化への流れの中で、天皇制国家権力の弾圧体制に一定の「ゆるみ」が生じてきた。それは天皇制国家主義が生まれ変わろうとする時代であり、学校教育や社会教育を通じて天皇が「国民の天皇」になることが目指された。その時、民衆がどのような水路を通じて天皇制に向き合えるのかが問題となる。民衆が作り出そうとする共同性に対して、天皇の側は「いや、それは私が作ってやる」との立場である。そうした民衆的共同性への侮辱・愚弄に対して、人びとがそうした天皇制のあり方を「痛い」と感じられるか、自己の尊厳を天皇によって踏みにじられているという自覚を民衆が持てるか、が問われる。
 総力戦体制とは、これまで「二級市民」とされていた人びとをも「国民」に引き上げる効果を果たした。左翼の「転向」は、主観的には孤立した現実の中から民衆に近づこうと言う意図も持っていたが、それは総力戦体制の中での社会主義運動の最終的敗北に帰結した。
 戦後の象徴天皇制の下での「国民的融和」を津田左右吉、美濃部達吉らは全面的に支持した。したがって大逆事件後の天皇制をめぐる対決構造が総力戦体制の下で「国民の天皇」へと決着づけられた構造は、いまだ逆転されていない。天皇制が媒介する「国民的融和」の下での「多数人民」の現実の中から、民衆の自立的運動を再建し、人間的尊厳の回復と民衆自身の「社会的共同性」を作り出していくという強い意思を持った闘いは、依然として私たちの課題である。
 伊藤さんは、「大逆事件一〇〇年」にあたってのテーマを以上のように提起した。

明治社会主義
運動と非戦論
 天野恵一さんは、これまでなぜ自分たちが「大逆事件」について大きな関心を払ってこなかったのか、という問いかけから話を始めた。
 「戦後の象徴天皇制を問題にして運動を作ってきた時、天皇制を云々すること自体がアナクロニズムだという批判に出くわした。そうした風潮への批判は必然的に『昭和マルクス主義』の問題点を対象にせざるをえない。さらにアナーキストが天皇制を語るスタンスとしてのヒロイズムへの違和感もあった。またそうしたことから明治社会主義運動への関心も持ち得なかった」。
 「しかしそれは明治社会主義運動への誤解であった。今、明治社会主義の天皇への捉え方を論じることに大きな意味は感じない。むしろ明治社会主義運動の『不戦・非戦論』の意味について大注目を払うべき」。
 天野さんは、明治社会主義運動に大きな役割を果たしていた宗教者としての感覚、トルストイらロシアの非戦論者との交流、さらに黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)などを紹介しながら、その再評価の必要性について語った。天野さんはそのために「革命絶対化信仰」とでもいうべき考え方と決別し、「革命のメガネ」を「課題のメガネ」に付け替えることが必要だと主張した。
 時間の関係でフロアからの質問・意見交換はできなかったが、近現代史の中での反天皇制運動を総括していくための問題提起として興味深い集会となった。(K)




靖国合祀取消訴訟控訴審・大阪高裁判決
国の行為は政教分離原則に違反しており憲法違反

 【大阪】二〇一〇年十二月二十一日大阪高裁で、靖国合祀取消訴訟控訴審の判決があった。訴訟は棄却された。損害賠償を請求した原判決が支持され、合祀取消は認められなかった。控訴人側は上告する予定である。しかし、国が靖国神社に対して行った情報提供は、憲法が定める政教分離に違反していることを司法が初めて認めた。

原告主張無視
の地裁判決
 同訴訟は〇六年八月十一日に、八人の原告(途中で9人、菅原龍憲団長)により靖国神社と国を相手に大阪地裁に提起され、〇八年十一月二十五日に結審。〇九年二月二十六日に一審判決。
 原告の請求趣旨1・靖國神社と国は連帯して、原告各自に対し百万円を支払え 2・原告に対応する戦没者の氏名を、霊爾簿・祭神簿及び祭神名簿から抹消せよ、の二点である。
 地裁判決は、原告らの請求をいずれも棄却した。感情を被侵害利益として救済を求めることができるなら、他の信教の自由等の自由権を妨げる結果になるとした。これは、八八年の大法廷判決と同様である。敬愛追慕の情は概念が確立していないし、故人に対する遺族のみのイメージを法的保護の対象にはできない、とした。この訴訟での原告のもっとも肝心な主張に裁判所はほとんど耳を傾けず、原告の心情の陳述を全く聴かなかった。靖国神社の合祀は、祭神を祀るという抽象的観念的な行為であり、他者に対する強制や不利益を与えることを想定することができないものである、とした。被告である国の協力が合祀を行う上での重要な要素であったといえるものの、国は靖国神社のためだけに戦没者情報を集めていたわけではなく、合祀は靖国神社側が最終的に決定したのであるから、国の強制があったとは考えられない。原告の陳述を無視した判決であった。

人格権を否定
した高裁判決
 この度の控訴審では、結審して後、控訴人の一人(西山誠一さん)が裁判官を忌避した訴訟は形式上分離されたが、判決は二つをまとめて出された。控訴審の判決の要旨は概略以下のような内容である。
控訴人らは、遺族戦没者が合祀の対象にされたことにより、平和主義に反する靖国神社の宗教的道具状態に置かれたことで、戦没者の名誉が傷つけられたと主張した。しかし高裁は、遺族たちが祭祀への参加を強制されたわけではなく、合祀されることが社会一般の基準に照らして社会的評価を低下させるものだとは認められないとして、名誉毀損を認めなかった。
また、合祀は死者の祀り方についての自己決定権の問題だから、戦没者の自己決定権の違法な侵害とはならない、とした。祀り方の問題は、死者自身の問題ではなく、現世に残された人間の問題であり、死者の推定的意思を尊重するのが道義にかなうとしても、それを法的に尊重するのが相当と解釈はできない、とした。敬愛追慕の情を基軸とする人格権は、大部分が個人の内心の自由の領域にとどまる問題であり、内心にとどまっている限りは、法的に保護されるだけの具体的な内容を持った権利とは言えない、とした。
 他方、合祀および合祀の継続行為は、靖国神社にとっては、教義にかかわる宗教活動そのものである。私的な宗教団体である靖国神社も、他人に対する強制や不利益の付与を伴うものでない限り、信教の自由・宗教活動の自由が保障されている。靖国神社はできる限り広範に合祀することが宗教活動そのものであり、この自由を制限すれば、靖国神社の教義にかかわることだけに、その宗教活動の自由を侵害することになってしまう。控訴人は信じる宗教や方法で戦没者を敬愛追慕してきたのであり、合祀をもって遺族の宗教的人格権の侵害とはならない、とした。

靖国神社への
国の協力を認定
 国は、一九四八年に名簿や「靖国神社合祀資格審査方針綴」等の書類を靖国神社に引きわたした。一九五六年二月には、厚生省は各地方復員部長に対し通達「靖国神社合祀事務について」を発し、一九五八年末までに完了することを目途とした。各地方復員部は、靖国神社からの次回合祀要素に基づいて合祀予定者を選び、引き揚げ援護局に報告、同局はそれを審査し合祀予定者を決定して靖国神社に通報、靖国神社はそれに基づいて合祀者を決定し、合祀の祭典を行い、遺族に合祀通知を行った。厚生省は、戦没者の身上事項の調査や遺族への合祀通知について、できるだけ靖国神社に協力するように一九五六年四月に通達を発している。引き揚げ援護局や都道府県の合祀事務処理の経費は国庫負担とされ、一九七一年までこのやり方が続けられた。高裁は、靖国神社が合祀を行うについて国の協力は不可欠であったとまでは言えないにしても、国が靖国神社の行う合祀という宗教行為そのものを援助、助長し、これに影響を与える行為を行っていたといえる、認定。

次に活かせる
成果があった 
 上記のとおり、国に政教分離原則に違反する行為があったとしても、合祀自体は靖国神社が行うもので、自律的宗教行為であるというべきであり、合祀を国家の宗教行為と同視することはできない。国家の援助を受けたことを理由に、靖国神社の宗教活動の自由が保障されないとか、信教の自由が侵害され、その法的利益が侵害されたとはいえない。また、国が靖国神社に情報提供したことが合祀協力にあったとはいえ、戦没者の遺族の援護という面もあったこと、一般への公開が予定されていたものではないなどにより、戦没者のプライバシーの利益が違法に侵害されたとは認められない、とした。
 判決後、中之島中央公会堂会議室で判決報告会が開かれ、加島弁護士が判決内容を説明し、「請求から見れば敗訴だが、今回得たものは次に活かせる。そういう点から見ると、小さくない成果があった」と語った。この後、一度も欠かすことなく東京から駆けつけ裁判を傍聴したジャーナリストの田中伸尚さんのコーディネイトで七人の控訴人の意見表明があった。田中伸尚さんは、大阪で始まり、東京、沖縄と広がった靖国合祀取消訴訟は、慰霊の方法を根本から問う世紀の大訴訟だと述べた。 (T・T)


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