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    国際革命文庫15

「日本革命的共産主義者同盟小史」


第一章  創生期  ― 「反逆者」の発刊と「日本トロツキスト連盟」の結成
第二章 大衆運動へ  ―  学生の大衆的左傾化とトロツキズムの浸透 
第三章 最初の試練 ― 安保闘争と左翼中間主義とのたたかい ―
第四章 労働者の中へ ― 加入活動の時代 ―
第五章 同盟の再建 ― 急進的青年運動の中での苦闘 ―
第六章 勝利をめざして  ―  労働者階級の革命的多数派へ ―


第一章 創生期 ― 「反逆者」の発刊と「日本トロツキスト連盟」の結成

一 「連盟」結成の前後

 一九五七年一月二七日、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の前身である「日本トロツキスト連盟」が第四インターナショナル日本支部準備会として結成された。その前年の五六年三月、内田英世・富雄兄弟を中心とする群馬政治研究会の手によって創刊された『反逆者』が「連盟」の機関紙となった。
このとき、はじめて日本にトロツキズムと第四インターナショナルの旗を掲げた独立した組織が独自の機関紙をもって登場したのである。
「連盟」結成を直接に担ったのは、『反逆者』を軸に結集した内田英世・富雄、太田竜、黒田寛一ら数名のメンバーであった。『反逆者』は群馬という一地方の思想同人的なサークルともいえるグループによって発行されはじめた新聞ではあったが、それは最初からトロツキズムと第四インターナショナルの立場から編集され、このもとにいくつかのトロツキスト・グループが結集し、「連盟」結成が準備されたのである。
この五六年三月の「反逆者」の創刊から五七年一月の「連盟」結成によってはじまった日本における「新しい共産党をつくる」ための運動は、国際的にも国内的にも戦後の新たな情勢の展開を背景にして明らかに歴史的必然性をもっていたということができる。
一九五〇年前後から五五、六年にかけての時期は、国際的にも国内的にも戦後の帝国主義の危機と革命的動乱の一時期が終息させられ、ひとつの転機を迎える過渡期にあたっている。そして、まさにこの時期にその後『反逆者』→「日本トロツキスト連盟」の流れに結集してくるトロツキスト・グループが形成される。相互にまだばらばらで連絡もついていない状況ではあったが、この五〇〜五五、六年にかけて五つのトロツキストグループが存在した。
それは山西英一の社会党への「加入活動」によって形成された三多摩の社会党内グループ。日本共産党の「五十年分裂」に端を発し、「国際派」の流れから出てくる内田英世・富雄の兄弟を中心とする群馬グループと西京司・岡谷進を中心とした関西グループ。社会党青年部への「加入活動」とその失敗のあとに「独立活動」へのイニシアチブをとっていく太田竜とそのグループ、そして黒田寛一とそのグループであった。
この五つのグループがさまざまの契機と時期的ズレを伴いながらトロツキズムと第四インターナショナルの立場に接近してくるなかで、太田のイニシァチブのもとに『反逆者』を軸にして「連盟」への結集がはかられていく。ただ五七年一月の結成の時点で参加してくるのは太田とそのグループ、「反逆者」グループ、黒田グループのみであった。
したがって、結成大会に出席しているのは、内田英世・富雄、太田竜、黒田寛一と学生が一人か二人という五、六人のメンバーであった。
関西グループが結集してくるのは「連盟」結成後の五七年三月以降であり、山西の指導下にあった三多摩の社会党グループは「時期尚早」として結成に反対であり、これに結集してこなかったのである。
この「連盟」結成にいたる経過を当時の情勢との関係においてもうすこしくわしくみてみよう。

 周知のように、日本で最初に自覚したトロツキストとしての活動を開始したのは山西英一である。軍部独裁の鉄の枠のなかで一切の大衆運動が絞殺され、批判的精神をともなったあらゆる思想活動が窒息させられていた戦時中から、トロツキーの諸文献の翻訳に手がつけられていた。
そうして、一九四九年から五二年までのあいだに『裏切られた革命』、『ロシア革命史』『中国革命論』、『次は何か』などの邦訳が刊行されていく。この時期はちょうど戦後史の重大な転換期にあたっていた。第二次大戦後の帝国主義の危機と革命的動乱の一時期は終息させられてしまったあとである。
それは、一つには「反ファッショ人民戦線」の政策によって英・米・仏帝国主義との協調政策をとってきたスターリニストの路線によって混乱させられ、下から労働者階級が重大な打撃を与えられたことにある。他方では、四七年のトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランをとおして、軍事力と経済力をフル動員したアメリカ帝国主義のイニシァチブのもとに戦後の資本主義世界の再建がはかられていった。つまり、アメリカの経済援助によって、いわば上からヨーロッパと日本の戦後における革命的闘争の高揚は鎮静させられてしまったのである。
この点で、日本共産党の「解放軍規定」による二・一ゼネストの裏切りは明らかにスターリニストの国際的路線によって規定されたものであり、ヨーロッパにおける共産党の入閣によって資本主義の復興がはかられていく過程と対応していた。
たしかに、ヨーロッパとアジアにおける帝国主義の危機と疲弊は植民地後進国革命の未曾有の高揚のなかで東欧と中国を世界市場から切断し、「社会主義」陣営の拡大をもたらすことになった。これは第二次大戦後の世界情勢を規定する根本的な変化である。この新たな変化は一方で労働者国家ソ連を国際的孤立から脱却させた。同時に他方では、「一国社会主義」の上に君臨していたクレムリン官僚支配の基盤を掘り崩すことにもつながっていったのである。とくにユーゴと中国の革命がスターリンの指導と支配の枠をこえ、それと衝突しながらすすめられたことは、まさに「非スターリン化」の萌芽的あらわれにほかならなかった。とはいえ、この段階ではもちろんまだ国際共産主義運動はクレムリン官僚の一枚岩の統制下にあったし、「非スターリン化」という言葉さえ聞かれはしなかった。チトーの位置は明らかにまだ「異端」にすぎなかった。それにもかかわらず「非スターリン化」への胎動はすでにはじまっていたのである。
各国共産党の場合はもうひとつの側面から、すなわち大衆的にテストされることをとおして、それは進行していった。戦後のヨーロッパと日本における階級闘争の高揚期に圧倒的影響力をおよぼしたスターリニストのもとから労働者大衆は離反しはじめていた。
とくにドルの援助による資本主義経済の再建と復興が軌道にのりはじめてからは大衆運動も後退局面に入りつつあったし、労働者階級にたいするスターリニストの影響は決定的に衰退した。かわって社会民主主義が資本主義の復興に支えられ、それと歩調を合せて抬頭してきた。
こうして、ヨーロッパと日本の戦後革命が敗北させられ、資本主義経済の再建復興がすすむなかでドルと核の傘によるアメリカ帝国主義の反共軍事網が全世界にはりめぐらされていった。このなかで一九四九年の中国革命の勝利をひらいた戦後のアジアにおける植民地革命の高揚の波も「朝鮮戦争」を境にして封じこめられてしまったのである。
日本においても、アメリカ帝国主義の経済的・軍事的バックアップのもとにブルジョア支配は安定をとりもどしつつあった。四八年にドッヂ・プランが出され、レッド・パージの嵐のなかで、民間だけでなく官公庁・公企体においても「定員法」による大量人員整理が強行された。二・一ストの敗北後、日本共産党指導下の産別は崩壊し、反共民同がこれにとって代りつつあった。
このようななかで、五〇年に日本共産党は「コミンフォルム批判」をめぐって「所感派」と「国際派」に分裂していった。この不毛な分派闘争は大衆的影響力を決定的に衰退させただけでなく、敵のレッド・パージ攻撃に手を貸してさえいた。かくして産別が崩壊するなかで、朝鮮にたいする米帝の侵略を支持し、国際自由労連へ一括参加を推進しようとする反共民同の手によって「総評」が結成された。
だが、こうしたなかで四七年の新憲法下第一回の総選挙で第一党に進出した社会党も民主、国協、自由の三党と連立して「片山内閣」を組閣するが、傾斜生産方式を継続し、合理化によって企業再建をはかろうとするブルジョアジーの忠実な代理人としてふるまうことしかできなかった。労働者人民の期待と幻想をになって成立しながら、もう一つのブルジョア政府でしかなかった片山内閣はわずか半年足らずで崩壊し、つづく芦田内閣も昭電疑獄でつぶれ、四八年十月には第二次吉田内閣が成立する。このもとでレッド・パージとドッヂ・プランの強行、朝鮮戦争と単独講和とつづき、ドルと核の傘の中でのブルジョア支配の安定が固められていくのである。
この過程で社会党も大きな打撃をうけたあと、さらに五一年の「講和条約」をめぐって左・右に分裂する。

 以上のような情勢を背景にして、トロツキーの邦訳と紹介の努力をつづけてきた山西英一は、一九五〇年になってようやく第四インターナショナル国際書記局(以下IS)と連絡がとれた。そして、五一年秋に社会党が左・右に分裂したあと、ISの方針にそって左派社会党に加入し、五三年から五五年にかけて三多摩を中心にトロツキストグループを形成し、一定の成果をあげる。
さきにのべたような、労働者階級の運動が大きく後退させられ、前衛的指導の崩壊状況と共産党の分裂といったなかでは共産党への「加入活動」は問題にならなかっただろう。労働者階級の左傾化の動きは左派社会党のうちにかろうじて表現される以外にない状況にあった。このなかで三多摩を中心にしたグループは二十人くらいの「研究会」を組織して、トロツキーの著作を読みつづけていたし、また「社会党三多摩支部ニュース」をとおしてトロツキストの立場からの情勢分析や国際問題についての解説を提起しつづけた。
しかしながら、それにもかかわらず労働者運動は全体として壊滅的打撃をうけたあとであり、高度成長の軌道にのって労働者階級が新たな戦闘力を回復していくのはさらに後であった。そしてまた、日本の労働者階級が五五、六年から安保闘争への時期にかけて戦闘性を回復していくとき、日本の左翼の政治的分解と流動はまず最初に「全学連」に組織された学生運動をとらえたのであった。
この点で、トロツキズムは、最初、全国的大衆運動としての全学連運動の内部に潮流形成のための大衆的基礎を獲得するのである。したがってまた、それは日本共産党の党内闘争を媒介にしたのであった。これがちょうど『反逆者』から「連盟」結成にはじまるトロツキストの「独立活動」の開始と一致したのであった。

 だが、のちにトロツキストの潮流形成を媒介するこの日本共産党の党内闘争はすでに「五十年分裂」のときにその胎動を開始していたといってよい。
すでにのべたように、結成後に参加してくる関西グループを含めて「反逆者」→「日本トロツキスト連盟」の流れには四つのグループが結集してくる。このうち群馬グループと関西グループは日本共産党の流れからでてきた部分であり、その点で大衆運動と党=組織活動の経験をもっていたのはこの二つのグループだけであった。
だが、この二つのグループはそれぞれ異った役割りを果すことになる。この二つのうち、群馬グループは、日本共産党の六全協後、党中央が旧国際派の復党を呼びかけた際、復党しなかったが、関西グループは共産党に復帰している。この違いは、群馬グループが六全協以前にスターリニズムの枠から脱却しトロツキズムの立場を獲得していたのにたいして、関西グループの場合は、六全協後の混乱と共産党の再建過程で彼らが学生を中心とした大衆運動への影響力を拡大し指導的地点を獲得していくのとあわせて、急速にトロツキズムに接近していくのである。
前者は「早すぎた」ためにかえって地域における大衆運動との結びつきを欠いた、というより正確にいえば、その後の共産党内部の党内闘争と政治的分解の過程に党の内部にあって介入する地点をもてなかったのである。
したがって、彼らのその活動は外側から働きかけるということにかぎられたし、また思想同人的サークルのような性格を強める結果になる。この点、後者はトロツキズムの立場を獲得していったのが六全協後であったといういわば「立ち遅れ」が逆に共産党への「加入戦術」をとらせるのに最も好都合な効果を発揮するのである。
以上のような事情から群馬グループが「独立活動」への指向を強くもっていたのは当然であった。

 戦前、治安維持法違反で逮捕された経験をもつ内田英世・富雄の二人は戦後ただちに日本共産党に所属して活動をはじめるが、「五十年分裂」の際に「国際派」として除名される。そこで二十〜三十人の群馬国際派グループとして活動をつづけ、グループの機関紙として『建設者』という新聞を発行する。
そのうち、経済学を専門的に勉強していた内田英世は五二年に発表されたスターリンの『ソ同盟における社会主義経済の諸問題』に疑念をいだき、やがて「スターリン論文批判」を書く。そのとき対馬忠行の『スターリン主義批判』をとおしてより一層確信を強め、対馬と連絡をとる。その連絡を介して太田竜が来訪し、山西英一贈呈のトロツキー『次は何か』を持参する。このときはじめてトロツキーを読み、その後『中国革命論』その他をとおして急速にかつ決定的にスターリニズムから離反し、トロツキズムの立場に接近する。こうした経過のなかで、スターリニズム批判をよりはっきりさせたグループの手によって『建設者』につづく『先駆者』という新聞が発行される。彼の「スターリン論文批判」はそれに掲載された。
この時期は「非スターリン化」がより一層はっきりしはじめていったときである。
まず五三年二月のスターリンの死につづいて、六月には東独において反官僚闘争が爆発した。それはソ連軍の武力弾圧によって敗北させられたとはいえ、労働者国家圏における政治革命の最初の火花であった。
これは、その後、「ベリア事件」にはねかえって、スターリンの死の直後、二月〜六月にかけて急速に進展しつつあった内政の改革と外交面における宥和政策に「反動的」な退却をもたらすことになった。再びスターリン時代に逆戻りするかにみえた。しかし、歴史は一定のジグザグを経ながらも決定的に後戻りすることはできない。
ソ連国内における工業化の進展、その結果としての工業労働者の増大と都市化の進展、さらに東欧、中国革命による労働者国家圏の拡大とソ連の孤立からの脱出。
これらは明らかにスターリニスト官僚支配の基礎となっていた諸条件に大きな変化をもたらした。
かくして、スターリン死後のジグザグは相乗してクレムリン官僚をゆさぶりつづけ、ついに五六年二月に開かれたソ連共産党二十回大会における「スターリン批判」、さらに六月のポーランド・ボズナニにおける官僚支配にたいする労働者の反乱、十月のハンガリア革命へとひきつがれていった。
この五六年二月の「スターリン批判」直後、三月にトロツキズムと第四インターナショナルの立場にはっきりたって『反逆者』が創刊される。こうして群馬のグループは、旧国際派グループの機関紙として出していた『建設者』にはじまり『先駆者』にひきつがれていく活動の延長上にトロツキズムの立場にたった『反逆者』の創刊に踏みきっていくのである。その過程でグループの数も二十〜三十人くらいから六〜七人へとしぼられていく。

 この「反逆者」グループを三多摩の社会党グループと結びつけつつ「独立活動」へのイニシアチブをとるのが太田竜である。
太田は山西英一と対馬忠行の影響下に五二年からトロツキストとして活動を開始する。
まず社会党青年部への「加入活動」を行い、はじめのうちは「最初の成果は青年部から生まれるかのような様相を呈した」と太田自身は書いている。だが、五三年十月には太田は社会党青年部の活動から高野派によって排除された。そのあと、五四年頃から「独立活動」を提起するのである。
太田はつぎのように書いている。
「社会党加入活動の経験を基礎にしてトロツキストの独立活動をはじめなければならぬという問題がK(太田)によって一九五四年に提起された。山西氏はこれに反対した。五四年十一月、東京で開かれたアジア社会党会議にオブザーバーとして出席したLSSP(セイロンのランカサマサマジャ党)のコルビン・デ・シルバと山西氏、Kの間でこの問題に関して短時間の討論が行われた。だが、ここでも事態になんらの改善も与えられなかった。Kは社会党を脱退して、独立のトロツキスト活動を組織するためのイニシァチブをとった」と。(太田が五八年夏の分裂後組織したトロツキスト同志会 ― 後に国際主義共産党 ― の機関誌『永久革命』第五号(五八・一二・二九)の「日本トロツキスト運動の諸段階」より)
こうして太田は「独立活動」を主張するが、社会党内で一定の大衆的影響をもちはじめていた三多摩グループの参加をえなければ、それは困難でもあった。ところが「山西氏は執拗に独立活動の必要を否定し、あるいはその時期尚早を力説した」(前掲『永久革命』第五号)という。
だが、その後も、「連盟」結成まで太田はIを通じて三多摩グループに働きかけ、「独立活動」へ踏み出すよううったえつづけるが、結局、このグループは結成に参加しなかった。
この太田と山西・三多摩グループとのあいだの「独立活動」をめぐる対立は、情勢の評価や組織建設のテンポについての意見の相違だけでなく、その背後にあった第四インターナショナルの分裂という事態にも関係していた。
当時、第四インターナショナルは、パブロやジェルマン(マンデル)を中心とした国際書記局多数派とアメリカのSWPを中心にした国際委員会(IC)派(キャノン派)とに分裂していた。
第四インターナショナルは、五一年に開かれた第三回世界大会において、ユーゴと中国の革命によって大きく切り開かれた大戦後におけるプロレタリアートに有利な新しい世界情勢の転換を評価する「テーゼ」を採択した。そして、このパブロによって起草されたテーゼによって第四インターナショナルを全体として政治的に再武装し統一させるとともに、組織戦術としての「長期加入戦術」をうち出した。
だが、その後この「テーゼ」のもっていた大きな欠陥を含めて(その内容はここでは省略する)、インターナショナル内部に意見の対立が発生し、分裂にまでいたる。最初はフランス支部の共産党への加入戦術をめぐってISとフランスのランベール派とのあいだに対立が発生し(五二年)、やがて五三年春から夏のアメリカ(SWP)内部の対立とからんで、秋にはインターナショナル全体の分裂に発展する。
ところで、五〇年からとられていた山西と国際書記局との連絡は主として中国支部のメンバーであり国際執行委員であったペン(彭述之)を介して行われていたのである。そして、インターナショナルの分裂という事態のなかでランベール派を支持したペンは、国際執行委員会多数派から実質的に排除され、反パブロの立場をとるにいたる。そのため、山西とインターナショナルとの関係はペンを介してICと関係をとることになった。
これにたいして、五四年以降、太田は当時のIS(パブロ派)と連絡をとることになる。
ともかく、このような事情を背景にして、山西・三多摩グループは太田の提起する「独立活動」への参加を「時期尚早」として拒否しつづけた。そのため、一年以上、太田は具体的な動きをすすめることができなかった。
ところが、五六年に入ると情勢は急速に展開しはじめる。前年には国内において、保守合同、左・右社会党の合同、六全協による共産党の合法面への復帰がなされ、その後の相対的安定期へむけた政治支配体制が確立される。また国際的にも、五四年のバンドン会議のあとをうけて「冷戦」から米・ソ平和共存体制へ移行しつつあったし、さらに二月のソ連共産党二十回大会の「スターリン批判」から六月のボズナニ暴動、十月のハンガリア革命へと情勢は急展開していく。
すでにのべたように、この情勢のなかで三月に『反逆者』が創刊される。太田は別個に『レーニン主義研究』を五月に創刊する。そして、その年の夏、太田は「ISからの最初の連絡を受け」とったのである。
五六年八月二一日付の太田のIS宛の手紙には、日本におけるトロツキスト勢力の現状についてつぎのように報告されている。
「(イ) 社会党東京都連グループ五名(都連執行委二名)『研究資料』五百部、不定期刊。
(ロ) レーニン主義研究グループ六名、同情者二名含む(二名は共産党細胞と弱い接触あり)、理論誌『レーニン主義研究』百部。
(ハ) 反逆者グループ、正式メンバー四名(一九五一年の日共反対派) 機関紙『反逆者』四百部」と。
(イ) の社会党東京都連グループというのは、おそらく三多摩を中心とする社会党グループであると考えられる。(ロ) の「レーニン主義研究」グループというのは太田のグループのことである。
最初のうち、太田はほぼ単独で『レーニン主義研究』を出しながら、群馬グループと三多摩グループをそのもとに結集しようと努力する。ところが、七月か八月頃になると、『レーニン主義研究』の発行をやめて、『反逆者』を軸に結集する方向を追求する。
ただ三つのグループのあいだにはいろんな点で意見の対立があったが、太田はその意見の対立を含みながら「独立活動」への準備をすすめていく。
同年の九月十八日付のISへの手紙にはつぎのように書かれている。
「レーニン主義グループと反逆者グループは八月二九日付のISの手紙(これがISからの最初の手紙であり、独立活動と支部結成の必要を示唆した内容のものであろう ― 引用者)を支持している。そこで、この二つのグループはその手紙の見解にもとづいて統一の準備をすすめている。そして、多分十月六か七日に会合をもって統一するだろう。社会党グループには、その手紙を支持するのはわずか一人か二人だけである。残りの部分はそれに反対である。
社会党グループの正式の会議は九月末に開かれるだろう。」と。
この太田のIS宛の手紙によると、まず前二者のグループが統一し、その後、社会党グループの参加をまって日本支部を結成するというのが最初の構想であったことがわかる。
その見通しについても、「最終的には年内には日本支部を結成することができるだろう」というテンポで考えられていた。それにむけて社会党グループを参加させるためにも、この点についての教育的内容のISの手紙(=テーゼ)を早急に送るように、くり返し要請している。
こうして、五六年十月十日付の手紙にはつぎのようにある。
「われわれは十月七日、三つのグループの代表者会議をもち、そこで第四インターナショナル日本支部準備会を結成しました。
われわれは基本綱領草案、規約草案を決定し、この草案を各メンバーの討論にかけることに決定しました。準備会の決定機関は各グループの代表者から構成される代表者会議であり、そのメンバーは反逆者グループの内田英世、レーニン主義研究グループの栗原登一(太田)、社会党のIの三名です。また、代表者会議は日常の支部準備会の活動を処理するために、仮書記局をもうけ、そのメンバーとしてKほか二名を指名した」と。
ついで、十二月二二日付のISへの手紙ではつぎのように書かれている。
「機関紙の発行。支部準備会は『反逆者』を支部準備会機関紙とすることに決定しました。一月からは月二回、六百部の線で発行します。
社会党グループの問題。準備会に参加している社会党員は現在一名のみです。社会党グループの多数は支部結成に熱意がありません。彼らはメンバーが十名やそこらでは支部を結成するのは早いとか、その他いろいろな理由をならべたてていますが、とにかく支部結成の問題、ISの書簡等もまじめに討論する様子が見えません。」
「われわれは次のように考えます。現在、支部結成に賛成しないメンバーは除外して、つまり社会党グループの大多数は除外して、支部準備会に参加しているもののみで支部を結成する以外に方法はない。われわれは一月二七日に支部準備会の会議をひらき、そこで支部結成の段どりをつけるつもりです」と。
しかし、このあと、Iは三多摩グループの会議をへて、「支部準備会」には加わらない。そこで、太田はこの間に黒田寛一と連絡をつけ、そのグループを結集させていく。
黒田との関係は太田の方から連絡をつけるのである。この点については、『黒田寛一をどうとらえるか』に収録されている、吉沢功司編の「黒田寛一年譜」によるとつぎのように書かれている。(これは黒田自身の書いたものからの引用によって構成されている。以下の黒田に関する引用は全て同様である。)
一九五六年「九月下旬、トロツキー『裏切られた革命』と手紙が太田竜から送り届けられる。この本の内容は五七年一月以後、黒田の頭脳に流しこまれる」
さらに、「十月九日、黒田と太田が日本における共産主義運動のボルシェヴィキ化について討論」とあるから、二人はこの段階であっているわけであるが、それは太田が「準備会を結成した」といっている「十月七日の会議」以後であったということになる。
黒田の年譜によると「(五七年)一月一七日、”日本トロツキスト連盟”結成のための準備会……一月二七日、日本トロツキスト連盟(第四インター日本支部準備会)が太田、黒田、内田英世らによって結成される。……内田の個人紙だった<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川、[文字化け始り]遠山正ら加入」と書かれている。

 以上の経過からみて、五六年十月以降、何度かの準備会議が開かれたあとご五七年一月に「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成されたといっていいだろう。その間、Iを含めて三多摩グループは一人も参加せず、内田英世、太田、黒田の三つのグループによって結成されたのである。
そして、「反逆者」→「日本トロツキスト連盟」→「日本革命的共産主義者同盟」の流れが、その後、日本共産党内の政治分解をとおして全学連の多くの学生ガードルを獲得し、学生中心であったとはいえ、日本においてはじめてトロツキズムと第四インターナショナルが大衆的基礎をもった同盟建設への一歩を踏み出したのである。

二 各グループの形成

山西−三多摩グループ

 すでにのべたように、日本で最初に自覚したトロツキストとしての活動を開始した山西英一は、トロツキーの邦訳、紹介の活動をつづけると同時に、早くからそれを直接に青年労働者、知識人のなかに持ちこむ活動に着手していった。
彼自身がトロツキズムのうちに真の革命的マルクス主義とボルシェヴィズムの伝統を見い出し、トロツキストとしてのその後の活動を日本で開始するにいたる経過は『ロシア革命史』(昭和四十九年の改版三版)のあと書きにかかれてある。
「当時、ヨーロッパの大都市には日本から留学した多くの学者や教授たちがいたし、帰国したときにも、日本橋の丸善の書棚に本書(『ロシア革命史』)があるのを見てびっくりしたのを覚えている。だから、ロシア史研究の学者や評論家たちで、本書をみたり、入手したひとはたくさんいたはずである。それにもかかわらず、それらのひとたちをおいて、一介の英語の教師にすぎなかった私が大戦中にロシア革命に関するこの最高の古典を邦訳し、同時にトロツキーについての隠された真実を日本に持ちこむという思いもかけない役目をつとめることになったのはいったいなぜか?」と。
彼は、一九三一年に、ロシア十月革命にひきつけられ社会主義に興味をもちはしめた一青年として日本を発ち、ちょうど一九二九年にはじまった金融恐慌が暴発的な勢いで世界を呑み、全体が未曾有の混乱の只中に叩きこまれていたヨーロッパにおもむいた。そこで、金融恐慌がまきおこした政治的社会的混乱のなかで、あらゆる「理性も常識も麻痺させてしまう想像もできない危機感」のうえに革命か反革命かがカミソリの刃のうえでしのぎをけずっており、「秒読みにはいっているという現実の不安が一般市民の意識に巨きくのしかかっていた」ドイツの情勢を目撃したのである。そして、その危機の情勢を前にして、混乱を助長することしかできないスターリニストの影響下にある大衆にむけて火を吐くような警鐘を乱打しつづけ、実にわかりやすく明解な分析と展望をうちだしつづけていたトロツキーの活動に衝撃をうけ、目覚めさせられたのであった。
「それまで自分は嘘のイメージに踊らされていたことをいやというほど思い知らされて、身が縮むほど恥かしい思いがした。同時に、地球が半分欠けたほど、世界史に大きな穴がぽっかり開いていることに驚き、それを知らないでいる日本の人たちを遙かに思って、大変なことだと居たたまれない焦燥を感じた
「頻発する右翼のテロ下の日本のニュースはロンドンにも極度に緊迫した危機感を伝えた。革命的騒乱が起ったとき、もしも本書が多くのひとたちに読まれているなら、決定的相違が生まれ、恐るべき混乱が避けられるかもしれない。ドイツ革命の悲劇の真実とともに、世界史的な真実に目隠しされているあの極東の日本にこの本を何としても持ちこまねばならない。私は固く決心した。私かフランスを去る日、フランスにいたリョーヴアもリョーヴアを通してトロツキーも、それを強く望んでいた」
そして、トロツキーの諸著作とパンフレット類が持ち帰られた。
「ほんとうに仕事に取りかかったのは、大戦が激化した一九四四年六月二十五日だった。工場動員や空襲や燈火管制に脳まされながらも、戦後思想の混乱を思い、いつ爆死するかもしれないことを恐れ、これだけはなんとしても日本語に残さねばならぬと考えて、乏しい燭火のもと、凍る指先でペンをすすめたりして、訳出したのであった」と書かれている。
こうして、戦後まもない時期から彼の邦訳によるトロツキーの諸著作の紹介がつづけられ、一九四九年から五二年までのあいだに『裏切られた革(尸、『ロシア革命史』、『中国革命論』、『次は何か』などの諸文献が刊行された。しかし、戦後であったにもかかわらず、これらの本が出版されるときの事情はまだまだ非常な困難と障害のもとにあった。
「トロツキーにたいする共産党シンパのひとたちの反感は ― 最初私自身がそうだったように ― 非常に強く、その方面の事情に詳しい温厚なF教授は、初めて本書が出ることになったとき訳者の実名を出すのは危いからやめよと強く注意されたほどだった」と、当時のトロツキーについてのタブーがなおどんなに厳しいものであったかを想わせる事情にふれている。
その後、彼は五〇年にISと連絡をとり、五一年の第三回世界大会の方針にそって左派社会党に入党し、加入活動を開始する。
やがて三多摩を中心に「研究会」を組織し、ー定のお響力をおよばしていくようになる。こうして、五三年末頃からは山西、Iらの三多摩支部内における活動が成果を生み出しはじめていた。山西英一とたえず連絡をとり、トロツキーの活動と業績、スターリニす卜による偽造された歴史の数々について話を聞き教えをこいながら、三多摩での活動の中心をになったのはIである。
Iがトロツキーの話をはじめて聞かされたのは、当時、彼のいた職場の組合で依頼した荒畑寒村の話によってであった。だが、そのときはただ耳にその名をとどめた程度であった。
その後、五一年秋の社会党の左・右への分裂の際に、三多摩を中心にして左派社会党の再建活動に動きはしめる。この過程で都職労グループをとおして山西英一を知り、たびたび自宅を訪問し、いろいろと教わり、貴重な示唆をうけていたのである。その当時は、まだ社会党(左派としても)の地域支部などはなく、本部直属の「三多摩職域支部」という形で「支部」を認めさせ、そこを拠点に三多摩地域の各市ごとに支部を建設し、やがて三多摩支部協をつくりあげ。彼はそこの書記長となる。そしてガリ版ずり四頁の新聞「社会党三多摩支部ニュース」を発行しはじめる。それは千部くらい印刷され、三多摩全体の党員の手に配布された。
その内容は、すでにトロツキズムの立場と見地から書かれ、当時の情勢にぴったりマッチした活動家むけの解説や方針が掲載されたものである。五三年八月二十日付の「三多摩支部ニュース」には、「官僚独裁の墓掘 ― 東独事件」という小論が掲載されているし、その後のニュースにも「社会主義建設の五ヵ年計画」や革命直後の「中国問題」などについて書かれている。また五四年三月十三日づけの同紙には「海外ニュース解説」という欄がもうけられ、「ベリア裁判とベルリン会議」という短いがすばらしい解説が掲載されている。
こうした活動の背後で、三多摩を中心にして、すでに五三年後半には「国際共産主義運動とトロツキー」を研究しようという研究グループがIを中心的指導者としてつくられている。それは、一時期、三多摩だけでなく新宿の地域まで含めて二十人くらいのグループになった。
最初、そのグループによって五三年十月に「教育資料」 1「世界政治とスターリン主義 ― コミンターンの誕生からドイツプロレタリアートの悲劇まで」が社会党三多摩支部の正式の機関決定として五百部印刷・配布され、社会党の数人の議員の手にまで届けられている。これは山西英一の手によって書かれたものであり、現在、『国際革命文庫』2の「国際共産主義連動史 ― コミンターンの誕生からドイツ・プロレタリアートの悲劇まで」に収録されているのがそれである。
ある意味で当然のこととはいえ、これが出された反響は大きく、蜂の巣を突ついたような議論がまきおこって、問題になった。
そこには公然とトロツキーの名が出され、トロツキズムヘの手引き晝として書かれており、第四インターナショナル創設についての指摘で終っているのである。この点は、「国際革命文庫」2として出版しなおすときに手を加えられたわけではなく、最初書かれたものがまさにそのような内容で展開されていたのである。問題になったのは当然であった。
そのため、それにつづけて出していく予定で準備されてい「人民戦線からソ連共産党十九回大会まで」( 2)、「スターリンの死以後」( 3)、(グループの)『総括・討論、引用論文抄録』( 4)はついに出すことができなかった。
しかし、その後すぐに、パンフレットそのものはグループ内部の「研究資料」として「日本社会党(左)有志の研究会」の名で発行されている。
6は「スターリンの囚人収容所の生活とフォルクタの大ゼネスト=ブリギッテ・カーランント女子」が出され、その中には「手記とわたくしたちの立場/労働者はクレムリン政策の批判を恐れなくてはならぬか」といった論文も収録されている。こうして「第三中国革命とその結果」( 7)、「レオンートロツキーの『永久革命論』序文」( 8)、「一九三九年トロツキー/今日のソ連の性格」( 9)、「E・ジェルマン/ポズナンの暴動 ― ソヴィエト国における革命的高揚の新たな段階」( 10)が五六年五月から同年九月までのあいだに、ガリ版刷りできちんとしたパンフレットとして出しつづけられている。 10のE・ジェルマンのそれは「日本社会党有志/国際政治研究会」の名で出されているが、驚くべきことにその表紙に目次と一緒につぎのような説明が書かれている。「E・ジェルマンはベルギーの革命的マルクス主義者で、第四インターナショナルの理論的指導者である。ことにソ連、東欧諸国、中国の問題の権威であって、輝かしい論文によってこれらの国々の発展をたえず分析解明している。この論文は第四インターナショナル機関誌『第四インターナショナル』(国際機関誌のこと)九月号から訳出したものである」と。もちろん、これは公然と配布されたものではなく、非売品として会員(当時のグループ)に(会員頒価五十円で)渡されていたものである。
五三年末ころから、この三多摩グループの活動が大きな成果を生み出していた事実について太田自身も無視したり抹殺することはできず、彼自身つぎのように書いている。
「五四年初頭に重大化した造船疑獄とそれによって生まれた政治危機のなかで、トロツキストは三多摩支部の中のヘゲモニーを確保し、大胆に革命のコースを党内に提起した。五四年中の三多摩ニュース、組織綱領草案討論のための参考資料(五四年六月)、合同問題について(五四年八月)などの諸文献は加入活動としてはすぐれた仕事として評価しなければならぬ」と。
こうして山内・Iを中心とした社会党三多摩支部の「加入活動」は一定の成果をあげながら安保闘争のころまでつづいている。また五七年はじめには『雄叫び』という社会党内分派機関紙が出されている。しかし、これは社会党大会にむけて臨時に出されたものであり、二〜三号で終っている。

内田兄弟と群馬グループ

 『反逆者』に結実した群馬のトロツキスト・グループの形成にあたって中心的な位置をになったのは内田英世・富雄の兄弟であった。
内田富雄は戦前昭和一八年の暮に反戦活動(戦前のあの厳しい弾圧のなかで日本帝国主義軍隊の基地でビラまきを行った)を問われて、治安維持法で逮捕され、半年間、荻窪警察署に留置されたあと巣鴨刑務所に拘置された。巣鴨では寓本顕治、神山茂夫、西沢降二(ぬやまひろし)、それにソルゲ事件のマックス・クラウゼンなどと一緒だったという。巣鴨刑務所が焼失してから府中豊多摩の刑務所に送られ、そこでは志賀義雄、中西功などとも一緒であった。
兄の内田英世もやはり昭和十九年一月二十六日に近衛軍隊にいて逮捕されている。
彼は後に「近衛連隊で逮捕されたのだから確実に死刑だろうと思った」と語っている。彼は代々木(渋谷区歌川町)の陸軍刑務所(そこは江戸時代からの牢であったという)に入れられ、吉田田茂とも一緒だったという。
当時はまだ二人とも共産党との組織的関係があったわけではなかったが、治安維持法によって逮捕、投獄されたのであった。
こうした事情から終戦を迎えるとともに、共産党員としての活動を開始したのはいうまでもない。内田富雄の方はさきの事情からすでに『獄内委員会』の活動に参加して、事実上、共産党員としての活動を開始していたのである。
ただしかし、敗戦の色も次第に濃くなってきた昭和二十年頃ともなると、看守や取り調べにあたった検事の側から、戦局の行方と戦後どういうことになるのかといったことなどについて、政治犯である彼らに逆に聞いてきたり、はては兄、内田英世の作になる『革命歌』を絶讃して、一緒にスクラムを組み四股を踏みながら高唱したともいう。
こういう状況だったから、八月十五日以後、釈放までの期間にすでに志賀義雄、中西功らは例の『解放軍規定』の観点からGHQへ日参しはじめていたという。それにたいして、彼(富雄)は遅くまで戦時下の日常生活の中にいた分だけその点にはじめから疑問を抱いていたし、苦々しくも思っていたという、
このあたりに官僚と大衆運動派のちがいがすでにあったといえなくもない。
しかし、やはり一つの決定的な転機となったのは二・一ストの敗北と戦後革命の流産、それにつづく「コミンフォルム批判」を契機とした五十年分裂による日本共産党の混乱であった。このときの日本共産党の分裂そのものについては、ここでは割愛せざるをえないが、はっきりしていることは当時の全学連指導部を含む日本共産党内の戦闘的な部分は「国際派」〔当時の諸分派は、主流派の所感派(臨時中央指導部)に対して反対派は全国統一委員会派(宮本、春日(庄)など)、団結派(中西派)、国際主義者団(野田弥三郎派)、統一協議会(福本和夫派)、中間派(神山派)などであったが、宮本らを中心とする全国国統一委員会派が反対派の主流をしめたし、彼らもそこに所属した)の側に立ち、官僚的な党中央の誤った指導にたいして批判を集中し反対していたということである、
これにたいして、党中央を官僚的に纂奪した「所感派」は、この「国際派」に結集した部分、わけても全学連の戦闘的学生党員にたいし、このときも「トロツキスト」のレッテルをはって誹謗仲陽するとともに、それを囗実にして除名処分や細胞解散を強行していったのである、
だが、もちろん、この段階では全学連の学生党員を含めて「国際派」に所属した党員のうちにはトロツキストはいなかったし、またトロツキーのものを意識的に読んでいた党員もいはしなかった。それどころか国際派の活動家自身が彼らに投げつけられる「トロッキスト」のレッテルを罵倒と誹謗のことばとしてのみ受けとり、それの不当であることを主張し、抗議し、現代のトロツキズム=チトー主義として相手に投げ返してさえいたのである。
要するにどちらも、ともにモスクワと北京、すなわち国際共産主義運動の権威に拠りどころを求めて争い、その正当性を主張したのであったし、お互いに相手を「トロッキスト」呼ばわりしていたのである。
だから志賀義雄が「当来する革命における日本共産党の基本的任務について(草案)」にたいして提出した「意見」において、「草案にはトロツキー主義にたいする批判はあるが、チトー主義についてはすこしも言及されていない。現在の段階では、トロツキー主義は千トー主義として諸国の共産党の陣列にあらわれている。それは世界支配をめざす帝国主義の謀略とその国のブルジョア民族主義の影響によるものである」といって「所感派」を批判した。これにたいして反論する徳田球一もまた「元来、チトー主義はトロツキー主義から発生したものであって、現在これらはすべて同様にあつかわれている。現在、党内においてチトー主義となるべきものは同志志賀のような態度の傾向からであるといわなければならない」といって批判を返すのであった。つまり、民族主義的傾向のゆえに批判されていた「チトー主義」と「一国社会主義」に反対して国際主義を強調してきたトロツキズムがともにモスクワから槍玉にあげられているというだけで、相手を攻撃する砲弾になったのである。
これを見ても、このときの対立と分裂は決して本質的なところでの思想的・路線的対立ではなかったし、また真面目な国際共産主義運動の再検討などおよそ問題にもならなかったということがはっきりしている、
この「五十年分裂」がおこったとき、内田英世は群馬県の中毛地区委員会の書記から県委員会の書記をやっており、弟の富雄は前橋地区委員会から伊勢崎地区委員会に移り地区委員長をやっている時期であった。そのため伊勢崎地区は彼の指導のもとに一時期「国際派」が多数を占めたが、中央からの官僚的テコ入れによってくつがえされ、彼らは除名されてしまう。このとき二十人から三十人くらい残った群馬国際派グループの機関紙として「建設者」という新聞を発行していた。そして、すでに「別党コース」という考えをおし出してユニークな立場にあったが、その段階ではまだ漠然としており、「全国統一委員会派(宮本派)の方が正当の中央委員会だ」という程度の主張で、まだけっしてトロツキズムの立場に立っていたわけではない。
内田英世は関西のグループよりも一足早くトロツキズムの立場に接近する。その最初の契機は、五二年に発表されたスターリンの『社会主義経済の諸問題』にたいする彼の独自の立場からする疑問と批判であった。彼はもともと経済学について専門的な勉強をしてきており、戦前、大学に在学中から当時まだ残っていた日本資本主義論争の余燼のなかでマルクス経済学の研究を深めていた。そのため、スターリン論文が出されたときも、ある程度正確な批判的視点をもつことができた。
こうして、次第にスターリンの理論体系にたいする批判にまですすむなかで、さらに独自のグループが群馬につくられ、「先駆者」という機関紙が出される。それに「スターリン論文」の批判が掲載された。
そうしたころ、たまたま隅然に伊勢崎の書店で対馬忠行著の『スターリン主義批判』(一九五二年五月一日発行)を入手(五三年五月四日)する。それをとおしてスターリンのいう「社会主義」と、嶌のマルクス主義の立場からする社会主義とが根本的にちがうということに確信を抱き、対馬と連絡をとる。
そのころ対馬忠行は『資本論』・『ブータ綱領批判』・『反デューリング論』などを基礎に、社会主義社会における「労働証書」の問題についての研究をつづけていた段階であり、『スターリン主義』批判は彼自身「いわば習作であって、まだ未整理の段階のもの」といっている。これと五六年に出される『クレムリンの神話』にいたるまでのあいたに、労働証書の問題についての対馬自身の研究も一定の結論に達し、またトロツキーの著作も読む機会をえた。トロツキーのものは、最初、戦前に青野季吉によって邦訳された『わが生涯』(それは『自己暴露』というとてつもない表題で出版されている)を読み、その後、『裏切られた革命』と『ロシア革命史』をも読む。その過程で山西英一とも連絡をとるが、彼はその理論研究の傾向からしても「ソ連論」についてトロツキーの「堕落した労働者国家」という規定についてははしめから反対で、ソ連=「国家資本主義」説をとる。
そして、彼はマックス=シヤハトマンと連絡をとり、そのルートをとおしてトニー・クリフを知るのである。こうした立場で対馬忠行は「オールド・ボルシェビキ」という雑誌を出し、「イスクラ協会」という形で少数のグループを組織していた。
内田英世は最初にこの対馬と連絡をとるのであるが、彼との連絡をとおしてやってきたのは太田竜であった。そのときやってきた太田を通じて、トロツキーの『次は何か』を山西英一から贈呈される。贈られたその本の裏表紙に《一九五三年八月八日、山西氏より贈らる》と記入されてあり、また彼が読後の感激を詩と短歌の形でその本のトビラに書きつけたものが、『反逆者』の一号と二号に掲載されている詩と短歌である。
ともかく、このような経過をたどって内田はトロツキズムに傾斜していくのである。

太田竜と「レーニン主義研究」グループ

 太田自身によると、すでに五二年からトロツキスト運動を開始している。彼は、最初、哲学の勉強をしており、田中吉六などの影響を強く受けていたという。その後、山西、対馬の影響によってトロツキズムに接近していったと思われる。
太田はつぎのように書いている。
「山西氏は左派社会党三多摩支部に加入して活動をはじめた。五二年にはIとKらが山西氏の指導下に社会党内で活躍しはしめた。Iは三多摩で、K(太田)は青年部で」と(前掲『永久革命』第五号)。
社会党中央本部の青年部に活動の場を移すまでは、彼は千葉の社会党青年部で小川豊明氏らとともに活動しており、『前進』というガリ刷りのパンフレットを出していた。
五二年からは中央の青年部で活動を始めた。
その社会党青年部の活動について太田はつぎのように書いている。
「最初の成果は青年部から生まれるかのような様相を呈した。五二年十二月に社会党青年部有志の手で発行された『若い同志』の一号には、“平和運動への疑い”、“ソ連はどこへ行く”、“エジプトの危機とプロレタリアート”などの明らかにトロツキスト的な方向を示す諸論文が掲載された。五三年に社会党青年部機関紙『若い群列』のなかで、もちろん社会党の枠の中でではあるが、スターリニズムにたいする一定の批判が展開されるにいたった。同紙十三号の“東独六月革命と社会民主主義の立場”、“ソ連は平和勢力であり得るか”、十四号の“ブルジョア連立政権かプロレタリア政権か”、“高野実氏への公開質問状”などがそれである」と(前掲『永久革命』第五号)。
当時の主要な政治問題には、国際的にはスターリン死後の東独「六月暴動」やベリヤ事件をも含んだソ連外交政策の評価をめぐる問題があり、他方では勝利した中国革命の前進と朝鮮における「休戦協定」、インドシナからの仏帝国主義の撤退を背景にした新たな展開をみせる国際情勢全般についての評価をめぐる問題があった。また国内的には、五二年の講和・安保両条約の発効後の再軍備・破防法等をめぐる政治闘争の高揚を背景にして政治的再編がすすむなかで、“重光首班”問題に中心的にあらわれた民族革命と社会主義革命の社会党の綱領論争があった。さらに総評大会における高野実の平和勢力論と第三勢力論をめぐる問題があった。
このような諸問題に直面しつつ、社会党青年部内の彼の活動は一定の成果をあげるかにみえたが、左派社会党内部の高野派を剌激し、五三年月月に彼は青年部の活動から排除された。
「これらの論文は左社内部の高野派を鋭く剌激した。彼らはトロツキストの見解を反ソ反共と曲解してこじつけ、このようにしてトロツキストを排除するにいたった」(前掲『永久价命』第五号)と太田は書いている。
こうして社会党青年部から高野派によって排除されたあと、五四年頃から第四インターナショナル国際書記局と連絡をとりつつ、「独立活動」の問題を提起しはじめる。
太田は、この「加入活動」の失敗を総括して、それを「独立活動」の欠如にもとめた。
「この時期にトロツキストが百%トロツキスト的な出版物を持っていなかったことが、これらの諸問題の計論を通じて左社内部のヘゲモニーを高野派に完全にひきわたすための条件となった。なぜなら、独立トロッキス卜機関紙がないために、我々はたとえば暴力革命、ソヴィエト政府、労働者国家擁護などの原則的立場を党内で打ち出すことができず(もしそうしたら直ちに党そのものから排除されるであろう ― 原文のまま)、それゆえに高野派的中間主義を左から批判する余地を非常に狭められていたからである。独立機関紙でなくとも、せめて社会党左翼分派機関紙でも当時我々の手で発行することができたなふば、我々は左へ進みつつあった労働者を完全に高野派的潮流に凝結せしめることを部分的にもせよくいとめ、一定のトロツキスト勢力を社会党内につくりあげることができたであろう」と(前掲『永久革命』第五号)。
こうして太田は「独立活動」への準備を開始するが、三多摩グループが「時期尚早」としてこれに反対していたため、その手がかりがつかめないでいた。たが、五五年の末には「日本労働者解放同盟」という組織をつくったことか報告されている。
一几五五年十月九日付けマリー・ワイスに宛てた手紙にはつぎのように書かれている。
「私ほか五名のものは去る十月二日(五五年)東京で会議を開き、日本労働者解放同盟をつくりました。そのメンバーは十名です、この中には私のようなトロツキストが三人、準トロツキストが七名います。凖トロツキストというのは、彼らがソ連を堕落せる労働者国家ではなくて資本主義国家であるとし、ソ連官僚をブルジョアジーであるとしていること、永久革命論に批判的であって、いわゆる労働者と農民の民主的独裁という思想のカラをつけていること、トロツキズムを革命的プロレタリアートとの思想そのものとみとめたがらないことなどの特徴をもっているからです。しかし、私は彼らに革命的第四インターナショナルとの連絡を密にする方向を承認させました。こうしてできた日本労働者解放同盟はさし当り宣伝団体として活動することになりました」とある。
ここにある「準トロツキスト」グループというのは、社会党青年部で活動しているころから太田が対馬のところに始終出入りしていたことから考えても、またその思想傾向からしても、対馬の組織していた「イスクラ」グループのうちの何人かであると思われる。
太田が黒田と会うのは一年後であるし、「反逆者」グループでもない。
これは、しかし、すぐに崩壊してしまうし、最初からどの程度しっかりした「組織」としてつくられたのかも明瞭でない。
ただ五六年五月に『レーニン主義研究』を創刊していったとき、一人か二人のメンバーがいたことは確かである。

黒田グループ

 里田は四七年に「青年共産同盟(民青の前身)に加人」するが「活動せず」、「漠然とながら四七、八年頃からマルクス主義者になろうという意識をもつ」のであり、「この年(四八年)以降、マルクス主義の占與のパンフレットを読みはじめる」。
当時の青年、学生で少なくともなにか真面目にものを考え、社会の在り方や自分の生き方を考えようとするものはすべてマルクス主義にひかれていったし、共産党に入っていったのである。彼もまたそうした青年の一人としで「マルクス主義者」になり、とくに「哲学」の分野で思索を重ねていくのである。それ以来、里田の問題意識と課題は「戦後日本唯物論(一九四六〜五〇年)がたとえ試行錯誤的であれ創造し獲得した真正なものはなんであるかを戦後の三大論争(主体性論争、技術論論争、価値論論争)を通してとらえかえし、そうすることによって同時に自己自身の立脚点と主体性をも唯物論的に確立すること」すなわち、「唯物論的主体性理論を確立すること」にあった。
五三年頃から、東大自然弁証法研究会会員との交流を深めたり、民主主義科学者協会哲学部会に出はじめる。
そうして五四年に「『新しい人間の探求』を書いた直後、ソ連水爆実験による『死の灰』の降下に直面させられ、ハタと当惑する」のであった。
そして、「ツ連の水爆実験にかんして『判断停止』をやってしまった自分自身の過去の不徹底さと自己欺瞞がこうしてはっきり暴露されてしまったわけです。このような自己の立場の弱さとそれをできるだけ早く皃服しなければならないという自覚をうながしてくれたのは、対馬忠行の『クレムリンの神話』でした」という。
それが、五六年二月のソ連共産党二十回大会におけるスターリン批判と六月のポズナユの暴動のあとである。
「七月一三日『クレムリンの神話』を読み感激、対馬に手紙を出す」のであり、九月に太田からトロツキーの『裏切られた革命』と手紙を受けとり、その内容が「五七年一月以後黒田の頭脳に流しこまれる」段階で、「日本トロツキスト連盟」の「結成」に加わるのである。
しかし、その頃の黒田について、彼自身つぎのようにも書いている。
「しかし、当時の私は『クレムリンの神話』から当然『裏切られた革命』へと自分自身の理論的探求をかさねていくべきであったにもかかわらず、ほとんど探求心を喪失してしまっていました」という状態であったし、また「………黒田は、スターリンの罪業を根本的に是認しえないとしながらも、依然としてトロツキズムの一定の正しさを認めると同時にスターリニズムの全面的な否定にまではいきえないという中間主義的な立場をとっていた。けれども、『スターリン批判』以後の日本における公認左翼戦線の驚くべき腐敗をスターリニスト陣営の堕落を根底的に打破していくという革命的な立脚点においては一致するという意味において、第四インターナショナル日本支部の結成準備会に彼は参加したのである〉」というふうに書かれている。
また、「連盟」結成の会議に参加した事情にふれたところで、「このトロ連参加によって、三浦つとむや東大自弁研会員などのそれまでの学問的友人たちのほとんどを失った。鶴見、野村、大川、遠山正ら加入。〈労働者大学に集まった新しい友人だもの前進だけが残された。〉」とある。これが黒田を中心にしたグループであった。

西、岡谷と関西グループ

 戦争直後の四五、六年から共産党に入って活動してきた西京司、岡谷進は「五十年分裂」の際に「国際派」に所属して除名される。そして、六全協後の復帰の呼びかけと要請によって、旧国際派の党員とともに復党する。だが、当時、党内は混乱していた。日本共産党の主流派の指導は崩壊しており、やっと六全協と「極左冒険主義」の自己批判によって官僚の名誉回復に手をつけはじめたばかりであった。党内には救い難い混乱と動揺と挫折があったし、多くの党員が自殺し、運動から離れ、党中央にたいする深刻な疑惑が渦巻いていた。
このような党内の状況のなかで、復帰した旧国際派のメンバーは党主流の指導と権威が崩壊していた分だけいわば「権威をもって迎えられた」という奇妙な事態が生じていた。ことに圧倒的多数が「所感派」で占められていた京都府委員会のもとでは、それだけ党の組織的崩壊の度合はひどく、旧国際派に属したメンバーの「権威」と活動の自由は大きかった。しかし、「所感派」と「国際派」のイデオロギー的対立は解消されたわけではなく、前者は民族民主革命の立場からチトー支持の立場をとっていた。「国際派」の傾向は、一応、ソ連支持という立場をとったが、「「ハガリア問題」などをめぐって釈然としなかった。
また、五十年分裂のときには国際派が「平和革命」に批判的で左派の立場に立っていたのであるが、この段階では戦後はじめての本格的な好況局面と国際的平和ムードのなかにあって全体として平和主義的傾向に順応していったのである。復帰した旧国際派の流れが主導権を握っていった全学連が「フルシチョフ・テーゼ」を掲げて平和擁護闘争の先頭に立ち、党中央の巾広統一戦線論と対決していたことからも、その点はうかがえるだろう。
このようななかで、単純なソ連支持でもない真の国際主義の立場を求めて西、岡谷を中心とする少数のメンバーは本格的に国際共産主義運動史の検討を開始していったのである。その過程でトロツキーの著作が読まれていった。すでに邦訳ものはかなり出版されていたし、また西京司は、五十年分裂以後、「あとで検討しなければならぬと思って」トロツキーの著作についてはすでに買いそろえてあった。
こうして、五六年の十〜十一月頃、西、岡谷は手紙で山西と連絡をとる。そして、Iの加筆もあった山西からの返信がくる。つづいて、わざわざ山西宅を訪問するのである。ただ、そこでは「群馬のグループのことも太田のことも聞かされなかった」という。
そのころ、西、岡谷は京大職組細胞に所属しており、その周辺で“三月書房の学習会”をもち、「フルシチョフの平和共存」批判などをやっていた。たまたまそこへ小山弘健か『反逆者』を持ち込んできたのである。
そこでただちに、五七年の三月頃、『反逆者』の編集部(太田)と連絡をとり、東京で、西は太田と会い、その後、再び太田、黒田と三人で会い、「日本トロツキスト連盟」に加盟して、共産党内部でその一員としての活動を開始する。
五七年夏には日本共産党の七回大会が予定され(十二月に延期され、さらに翌年に延期される)、激しい綱領論争の最中であった。共産党内の論争に介入するのは必定の状況で、「トロツキスト連盟」として共産党への加入活動が決定される。
ところが共産党内部では情勢の分析と展望をめぐる議論などほとんどなく、西は共産党の中で「ハンガリア革命支持」、「平和共存論批判」などをはじめその公然たる意見表明をとおして京都府委員へ選出されたのであった。すでに「トロツキスト連盟」の一員であった。
こうして、日本共産党七回大会への綱領論争のなかでトロツキストの立場から共産党内の宣伝活動を展開し、「暴力革命」の項を含む「沢村論文−レーニン主義の綱領のために」を提出したのである。それは唯一人の反対もなく「京都府党報」に全文掲載されたし、またその立場からの意見表明をとおして誰一人の反対もなく大会代議員権も獲得したのである(後で官僚的かつ一方的に剥奪されるが)。
このようにして、できるところではトロツキーの文献紹介と宣伝活動を展開した。「レーニン死後の第三インター」の翻訳なども、この当時なされたのであった。このような共産党内部での活動のため、「連盟」の機関紙にはこの時期まったく執筆していない。
だがすでに明らかなように関西グループは、共産党内で最も原則的な「加入活動」を展開し、大衆運動に基礎を置いたところで生している政治的分解に大胆に介人し、その成果をあげていったのである。共産党内部の左傾化は、最初、学生運動のなかに組織的な流動をもってはじまったのである。そして、それは当然であった。
しかし、当時の全学連は「平和擁護闘争」で党中央の「巾広統一戦線」に反対するという水準であった。このなかで、京都府委員会の学対部長の地位にあった西は、自らの左翼的立場を「フルシチョフ・テーゼ」と「平和擁護闘争」によって表現していた学生グループとのし烈な論争をとおしてこれに介入していくのである。
こうして五八年に入ると、立命大細胞を先頭にして急速にトロツキズムの影響が学生の間に拡大していくのである。

三 結成前後の論争と対立

 第一節でみたように、「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成されたのは五七年一月二七日である。ところが、太田が書いた「日本トロツキスト運動の諸段階」では「五六年十月には日本支部準備会が発足した」となっている。しかも、当時のISにたいしては、「準備会」の発足はその日付で報告されている。
おそらく前者が正式の「支部準備会」つまり「連盟)の結成で、それ以前に何度も準備のための会議が開かれ、何度かそのまま「支部準備会結成」に踏みきろうとしたのであろう。
このいきさつのうちに、統一した組織結成にいたるまでの内部のさまざまな論争と確執が反映されている。そして、この論争はそれ以来一貫してつづけられ、「同盟」結成後もいくたびかの「分裂」を生む要因となるきわめて重要なものであった。
たしかに『反逆者』の創刊と「トロツキスト連盟」の結成にはじまった「独立活動」は、その後、全学連を中心とした学生運動の新たな高揚と共産党の綱領論争をとおして共産党内の政治的流動と分解に間に合って介入し一定の成功をおさめることができた。
その点では、もちろん「反逆者」の創刊にはじまる独立活動は決定的な役割りを果したのである。だが、学生中心であったにしろ共産党内の大衆運動に基礎を置いた政治的流れに介入し成果を獲得するうえで最も大きな功績を果したのは関西のグループであった。
つまり、最初に「日本トロツキスト連盟」(日本支部準備会)を結成した中心人物の三人のうち、内田英世は五七年の七月に太田との対立で組織を離脱L、翌五八年七月には太田自身が黒田寛一と対立して組織を離脱するのであり(このときは相対的には太田の方が正しい思想的立場にあったが、組織的には非原則的・日和見主義的な対応をして個人的に抜けたのである)。さらに黒田も、その翌年五九年八月に当時すでに「日本トロツキスト連盟」を改称して「日本革命的共産主義者同盟」となっていた組織からスパイ問題によって除[文字化け終り]名される。こうして、結局、残ったのは「トロツキスト連盟」結成後に参加した関西のグループとその影響下に獲得された学生同盟員であった。
この点に関して、太田はつぎのようにその問題を自ら認め、指摘している。「五六年十月には日本支部準備会が発足した。そのメンバーは八名であった。この人々はすべてどの党にも属しておらず、どんな大衆運動にも活動家として参加してはいなかった。この欠陥はやがて運動に否定的影響を与えるであろう」、「五六年末には山西氏のグループの方が一層労働者的であり、大衆運動に根をもち、より活動的であった」と。
しかし、その後の運動に「やがて否定的影響を与えるであろう」欠陥は、けっして最初に結集した人々が「すべてどの党にも属しておらず、どんな大衆運動にも活動家として参加していなかった」というところにだけあったのではない。
まず第一に、三つのグループを結集して「支部準備会」を結成したとき綱領的、原則的問題についての意見の対立は残されたままであり、保留されたままであった。
第二に、このような原則的問題についての意見の対立を残しつつも、ともかくトロツキズムと第四インターナショナルの立場にたって「支部準備会」の結成に関して一致できたのであれば、その後、自らを大衆闘争によってテストしつつ、内部での徹底した民主的討論によって意見の対立は克服されていかなければならなかったのである。
ところが、太田の対応は、黒田のセクト的体質とともに、この最も重要な組織的討論を保障していくことができなかったのである。
以上のような問題について、結成にいたるまでの論争がどのようなものであったかをあとづけながらみておく必要がある。
最初の段階では「独立活動」をめぐる論争は三多摩グループ、太田グループ、「反逆者」グループの三者のあいだでつづけられた。
五六年八月二一日付のIS宛の手紙によると、組織的な問題では「加入活動」の継続を主張し「独立活動」に反対する三多摩グループと太田や「反逆者」グループとのあいだに対立があった。
他方、イデオロギー的には、逆に「反逆者」グループと太田や三多摩グループとのあいだに意見の対立があった。イデオロギー的対立は、
「意見の不一致、(a) 革命中国と革命日本の合同社会主義計画経済のスローガンについて。
賛成意見 ― このスローガンは永久革命戦略の具体的適用である。
反対意見 ― スターリニストが中国を支配しているかぎり、それは不可能である。それをいうならば世界社会主義計画を云うべきである。
(b) ソ連との領土問題。(i) ソ連官僚の反革命的対日政策を否認し、日本の革命運動を推しすすめる見地から千島、南樺太の返還、捕虜の虐待に対する賠償要求。
(ii) 領土問題にこだわるのは反動の手にのる結果になる。みんな労働者の共通の財産である」
というものであった。
このような意見の対立をはらみながらも、すでにのべたように「十月七日に三つのグループの代表者会議をもち、そこで第四インターナショナル日本支部準備会」が結成されたと、太田は報告している。
ただし、ここに報告されている三つのグループのうち社会党グループというのは、組織として正式にこの支部準備会の結成に同意していたわけではないし、代表を送ったわけでもない。太田はISへの報告のなかで、「社会党グループでは第四に好意をもっているメンバーは約十人おりますが、そのうち第四と組織的に結びつくことを承認したのは同志Iのみでした」、また「社会党グループの中でこの手紙を支持している一人は、社会党グループが全体として第四の日本支部に参加しない場合は一人でも入ると云っている」というふうに書いているが、これは多分に太田個人の主観的評価であって、I自身は太田の思惑どおりには動いていない。というのは、Iはその直後に社会党グループの討論と決定に従って準備会を脱退するのである。
十一月二七日付のISへの手紙で社会グループの会議の決定について、太田はつぎのように報告している。
「十月二六日(明らかに十月七日の支部準備会の結成後である)社会党グループの会議(六名参加)。ここでの決定事項は次のとおり。
@ 社会党グループが日本支部結成のイニシアチブをとるべきであり、かつその主体とならなければならない。
A 十月七日の会議で組織された支部準備会を認めることはできない、なぜなら反逆者グループも千葉グループも社会党にも共産党 ― 共産党などに属するものは除名されるまでその中で闘うべきである ― にも属していないからである。
B 同志Iは準備会を脱退すべきである」となっている。
そして同じ手紙のなかで、群馬グループと千葉グループの間にも社会党への加入戦術をめぐって意見の対立があることについてふれたあと、その手紙の最後につぎのように書かれている。
「千葉、群馬グループは社会党加入戦術について意見が一致していないが、まず第四支部を確立すべきことについては意見が一致している。そこで千葉、群馬グループは共同して機関紙を発行する運びにすすんでいる」と。
以上のような経過のなかで、太田は五六年十月段階までは社会党グループの多数を獲得して支部結成に踏みきろうとしていたが、Iの準備会脱退によってそれをあきらめ、社会党グループを除外したまま支部を結成しようと考えるにいたる。
さきにあげた十月十日付のIS宛の手紙では、十月七日の会議の決定事項としてつぎのように報告されていたのであるが。
「われわれは支部の正式結成のためには、三つの条件が必要であると考えています。
(a) 綱領・規約案の内部的討論
(b) ISの承認
(c) 社会党グループからできるだけ多数の参加。われわれは以上の三条件が充足されるのは、大体年末になると考えています」と。
しかし、このあと、Iを除く三多摩グループを除外して「支部結成」にすすむしかないと判断する。だから、太田が「五六年十月に支部準備会」を結成したとISに報告したあとでIもまた離脱するのである。
そこで、今度は黒田と連絡をとり、あらためて五七年一月に「支部準備会」結成のための会議をもつということになったのである。
ここで以上の経過を『反逆者』をとおしてみてみると、その創刊に太田がかんでいないことは明白である。というのは、その時期にはさきにもふれたように、彼は別個に『レーニン主義研究』を七月まで出していたのであるから。太田が登場するのはちょうどそのあとで、第四号(五六、八・一号)に太田竜の訳によるM・スタインの論文が掲載されている。また内田は「六号(十・一号)あたりから第四インターナショナルとの関係について考えはじめた」と語っている。その六号は発行者が「マルクス主義研究会」に変っており、『レーニン主義研究』の(五月から七月号までの)広告がのっている。したがって、この頃から「反逆者」の編集発行に太田が参加しはじめているとみられる。
そして八号(五七、一・一号)では「トロツキー主義研究会機関紙」となり、申し込み所として千葉と群馬の二つの住所が併記してある。九号(一・一五号)から「日本トロツキスト連盟機関紙」となり、発行所が千葉の住所になって、群馬事務局として群馬の住所が書かれてある。十号(二・一号)からは発行所として千葉の住所だけが書かれてある。
勤務をもつ内田はなかば専従的な政治新聞の発行にたずさわる経済的・時間的余裕はなかったし、他方、経済的にも時間的にも余裕のあった太田がそれをひきうけて、発行所も千葉に移されるのである。そのために、内田富雄は千葉に寄宿して新聞を発行しつづけたという。

 ところで太田が黒田に手紙を出し面会するにいたるのは黒田の一連の「主体性論」に関る諸論文であろうが、黒田の『スターリン主義批判の基礎』が発刊されるのは五六年十月(十月十一日刊)であり、太田が彼に手紙を出したあとである。(もちろん原稿そのものは五六年三ー六月執筆とされている)
ともかく、このようにして太田が黒田とそのグループを「日本トロツキスト連盟」(日本支部準備会)に結集させてくるのであるが、黒田がこの段階ではトロツキーのものは何ひとつ読んでいなかったことについては、黒田自身の書いたものを引用してすでに明らかにしてきた。
要するに、この時期の黒田はまだトロツキーを読んでもいなかったし、第四インターナショナルの諸文書も活動についても十分に知っていたわけではなかった。だが黒田は「第四インターナショナル日本支部結成の準備会」に参加するし、そのうえ、彼は五七年四月二十日付の『反逆者』一六号には米原俊成の名で「左翼反対派を結集せよ」という一文を掲載して、「いまこそ左翼反対派は第四インターナショナルの旗のもとに結集しなければならない」と第四インターナショナルへの結集を呼びかけたのである。その文章は、六九年に現代思潮社から出版された『黒田寛一・スターリン批判以後』にも再録されている。しかし、そこでは原文のままに再録されているのではなく、気付かれないように部分的な手直しがなされている。くり返し使われていた「第四インターナショナル」という言葉が、「それ」という代名詞に置き替えられているくらいなら内容の本質を歪めることにはならないだろうが、「スターリニスト官僚」というのが「スターリン主義的官僚国家」と書き替えられたのでは明らかに内容の本質を歪めるものである。しかも「『反逆者』一六号より」と書かれているのであればなおさら許されないし、なによりも「主体性」の喪失ではないか?
こうして、ひとたびはトロツキズムと第四インターナショナルの立場に立った(?)黒田は、たちまちのうちにそれをのりこえる(?)のである。やはり黒田の著になる『日本の反スターリン主義運動』第二冊の「党組織建設論 ― その過去と現在 ― A、第一段階(一九五七〜五九年八月)」には、つぎのように書かれている。
「わが革命的共産主義運動の約三ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していたわが国において公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難にみちた闘いであった。……しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロツキーの革命理論と第四インターナショナルの運動を土着化させると同時にそれをものりこえ発展させていくという革命的マルクス主義の立場において実現された」と。
そして、それは「まずもって日本トロツキスト連盟の結成(五七年一月)として、そして日本革命的共産主義者同盟へのその名称変更(同年一二月)にもとづく革命的マルクス主義運動の創造としてたたかいとられた」と書いてある。
だが実際には、その当時「トロツキズムをものりこえる」立場にあったどころか、トロツキズムについても第四インターナショナルについてもまったく何も知りはしなかったし学びもしなかった。そればかりか、スターリニズムとの関係において中間主義的立場をとってさえいたことはすでに指摘したとおりである。
しかし、その内容はともかく、事実としても主観的にも、ひとたびは「第四インターナショナル」に加盟し、その「旗のもとに」結集せよと呼びかけ、機関紙の名称も黒田の提案によって(「反逆者」というのは過激すぎるからというのが理由だったらしいが)「第四インターナショナル」と改題したのである。
ところが、その年の末にはもう「日本トロツキスト連盟」をこれも黒田の提案によって「日本革命的共産主義者同盟」と名称変更して、「トロツキズムの立場をのりこえ」ようとしたらしい。
名まえを変えれば何かが変るとでも思っているのか、黒田は一度たりとも第四インターナショナル内部で何か論争したとか闘争したとかいうことをとおして「トロツキズムと第四インターナショナル」の立場をのりこえたわけではけっしてないのである。
結局、彼ら中間主義者にとってはつぎの点で共通した特徴をもっている。つまり、強固なスターリニストであった黒田が「ソ連の水爆実験」と「スターリン批判」で衝撃をうけて、黒田の頭の中で「事の真相」がはっきりした、そのときから歴史が新たにはじまり、世界が誕生するのである。その時からすべてがはじまるのである。スターリニズムの根底的な堕落も、それとの闘争も、すべてその時点からはじまるのである。だから、ロシア十月革命とその成果のスターリニスト官僚による纂奪も、またそれとの闘争をいちはやく開始した一九二四年以来のトロツキーを中心とする「ロシア左翼反対派」の歴史も「国際左翼反対派」の歴史もないのである。それがはじめから「一国主義」でしかないのは当然である。
彼らは突然の衝撃で初期マルクスへ回帰し、さらにへーゲルにまでさかのぼっていくのである。彼らは、トロツキーと第四インターナショナルの闘いの歴史をぬきにしてはボルシェヴィズムに結晶した革命的マルクス主義の防衛はありえなかったのだということをどうしても理解できない。だからまた、生きた歴史を闘いぬいてきた革命的マルクス主義としてのトロツキズムを正しく評価することができない。
スターリニズムの誤謬も労働者国家ソ連邦の堕落も歴史的に形成された社会的力関係とは切り離されて、純粋にスコラ的な方法でとり扱われた。ソビエト国家の評価と分析も、帝国主義と対決して現に闘われている国際的階級闘争やその力関係のなかで位置づけられるのではなく、抽象的に『資本論』の次元で論じられたのである。
ソ連にはまだ資本主義的諸要素 ― 価値法則や疎外 ― が残存しているということから、十月革命の成果 ― 生産手段の国有化と計画経済 ― そのものも否定され、「ロシア十月革命とボルシェヴィズムをものりこえた」マルクス主義への回帰がはかられたのである。
黒田と彼ら中間主義者が「加入戦術」と「労働者国家無条件擁護」をどうしても理解できないのはそのためである。
「ソ連論論争」を含むこの二つの点を理解できないのは、現に歴史的に形成されているグローバルな階級的力関係、また国内における階級闘争の現実から出発して問題を提出する能力がないということを示している。
この点で、「加入戦術」とソ連論をめぐる「労働者国家無条件擁護」を理解できるかどうかという問題は別々の二つのことではなく、まったく同一の問題なのである。
いずれにせよこうして、結成時点で保留されたままの意見の対立はその後の闘争のなかで民主的な討論によって克服されていくのではなく、太田と黒田のセクト主義によって歪められ、太田の個人的な形での組織離脱のあと、黒田の中間主義がはびこることになる。
このときの太田と黒田の対立は、太田の対馬批判に端を発する内田−太田論争の継続でもあった。
五七年四月に「連盟」の全国代表者会議が開かれ、そこで「行動綱領草案」が採択されるが、その会議には関西から千葉、岡谷が出席している。その後、同年の四月〜七月頃にかけて、太田の「対馬批判」(『反逆者』第八号<五七、一・一号>)を契機に始っていた「ソ連論」を主とする内田−太田論争がかなり決定的なものになってきた。内田は「半資本主義的労働者国家説を主張して、国家資本主義論ではなかった」という。だが、いずれにせよ対馬忠行の影響が強かったことは確かである。この点で黒田もまた同様であり、イデオロギー的には内田に近かったにもかかわらず、黒田はこのときには太田を支持したのである。
このような経過と論争のなかで内田は、七月頃、組織を離脱する。そのいきさつで、「第四インターナショナル」二九号が欠版になっているのである。ただ内田は「再度勉強し直そうというのが、組織をぬけた主な理由であった」と語っている。
ところが、内田が組織を離脱したあと、同じ問題をめぐってもっと深刻な対立が太田と黒田の間に展開されていくのである。そして、この論争と対立を通して、黒田は「トロツキズムと第四インターナショナルをのりこえ」ていくのである。ちょうど、五七年秋から五八年一月まで太田が世界大会に出席して不在の間に、黒田はRMG(革命的マルクス主義者グループ)なる秘密の分派組織を別個につくって、「探求」や「早大新聞」によって独自の理論活動を展開していくのである。
だがこの段階では、共産党内の活動にそのエネルギーのほとんどすべてを注いでいた関西グループは、陰湿で秘密裡に遂行されていた大衆運動不在の奇妙な論争と対立についてかかずりあっているひまはなかったのである。
こうして、やがて太田は五八年夏に組織を離脱するし、そのあと黒田グループはその中間主義的立場をテストされることになるが、それは第二章でくわしくふれられる。


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