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    かけはし2017.年2月27日号

労働者階級の独自的政治勢力化を保守野党の支持へ売り渡すな


声明書

2017年 世の中を変える総力闘争で自主的変革的労働者民衆の政治勢力化を建設しよう!!

 政権交代の美名のもとに労働運動と民主労総内で文在寅(ムン・ジェイン)民主党支持の流れが広範に組織されている。 この1月19日、蔚山(ウルサン)の民主労総、韓国労総の元労組幹部、活動家200人余りが集まって蔚山の労働フォーラム発起式を開き、公開的に文在寅支持を宣言した。 文在寅支持の流れはウルサンだけではない。 釜山、慶尚南道、蔚山、全羅南道(チョルラナムド)、光州、大田、忠清道(チュンチョンド)など全国地域と金属、事務金融、建設、公共の業種準備委員200人あまりで構成された社会連帯の労働フォーラムが発足した。それ だけでなく、3月末まで会員一万人組織を目標にしている。
 ここに止まらず、保守野党を支持する勢力が現代(ヒョンデ)自動車支部だけでなく、連盟、産別、民主労総など大衆組織まで掌握する計画を立てているといい驚愕せざるを得ない。 文在寅支持の流れとともに、労働運動と進歩政治勢力の多くが李在明(イ・ジェミョン、城南市長、共に民主党)支持を準備している。
 労働運動内で起こっている広範囲な保守野党支持の流れは何を意味するのか?これは資本主義世界を打破し、労働解放の世の中を建設するため、労働者、民衆の自主的かつ変革的な政治勢力化を実現しなければならないという民主労総の歴史的、階級的、実践的原則を破壊することだ。

民主党政権下の
反労働者的政策
これは、金大中(キム・デジュン)・盧武鉉(ノ・ムヒョン)民主党政権下で確認された反労働者的政策と弾圧の歴史的教訓をそっくり捨てて、労働者、民衆を裏切る行為だ。
金大中、盧武鉉政権下で、労使政委員会を通じて整理解雇制、労働者派遣制が導入された。労使関係ロードマップなどストライキ権を封鎖する労働改悪が行われた。盧武鉉政権は、高賃金、労働貴族論を掲げ、労働者の賃金削減を圧迫して労働者を弾圧した。闘争する労働者たちを数千人も拘束し、損害賠償仮差押で首を締めた。韓米FTAを推進して米国の圧力に屈服してイラクに派兵した。
民主党も財閥の側で労働者、民衆には過酷な政権だった。文在寅は反労働者的で、反民衆的な盧武鉉政権下で政治実力者だった。朴槿恵政権下で民主党は、セウォル号の偽の特別法の合意、国民年金改悪に同調した。 朴槿恵政権とセヌリ党に対する民衆の怒りのおかげで第1党になったが、民衆の要求を無視した。文在寅と民主党は、朴槿恵退陣闘争が爆発的に起きるときにセヌリ党とともに暫定中立内閣を主張して、2線退陣、名誉退陣を云々し、ことごとに政権と妥協して闘争を妨害した。事情がこのようになっているのに、どうして民主労総の前現職の幹部である彼らが出世に目がくらみ、民主党の文在寅を公開的に支持することができるというのだろうか!

 財閥解体を主張
しない民主党
民主党と文在寅は、自分たちと手を握った労組内の出世主義妥協主義者たちを押し立てて、労働運動を手中に入れて労働者、民衆の切迫した要求と闘争を懐柔して統制するものだ。 権力のくずを拾って食べて少しずつ獲得した労組内の官僚らを全面に押し出して、労使政協議体と全国的、地域的産別交渉機構などを通じて、労働者闘争を封鎖しようとするだろう。
民主労総は、政権交代という美名の下に出世欲にとらわれて労働者階級の自主的変革的政治勢力化を売り渡す勢力と労組内の官僚たちをこれ以上放置してはならない。
文在寅支持者たちの政治路線は労使(政)協調主義だ。かれらは、国家権力に参加して産別中央交渉、地域別交渉、労使政協約などで失業問題、雇用問題、非正規職問題を解決するという。民主労総の前・現職幹部らの文在寅支持は民主党と政策協定を追求し、雇用労働部長官、雇用委員長などを通じ、この協約を貫徹させることだ。事実上、連立政府を構成するということだ。労働界の関係者らが文在寅政府に積極的に参加して内閣の一部に入るという。
文在寅は「労働者が豊かな世の中が大韓民国が豊かな世の中だ」という旗印を宣言した。李在明はさらに、「労働者出身大統領」をモットーにして労働運動と民衆運動陣営を包摂している。
民主党と文在寅は、労働者、民衆を惑わすため、鮮明なスローガンを掲げてもサード配置の撤回、米軍の撤退、国家保安法の撤廃、国情院の解体、労働3法の全面保障、労働悪法の廃棄など、労働者、民衆の実質的な要求は無視している。 国情院が国内政治には介入しないようにするというものの、盧武鉉政権時も国家保安法と国情院はそのまま維持された。財閥の企業所有権がそのまま維持されれば、財閥はこれからも政権を買収して教育するのだ。 資本主義下で民主党が政権を担当しても、反労働者的反民衆的政策と弾圧は続くしかない。
民主労総は、朴槿恵個人の辞任を超え、朴槿惠体制を支えている国情院、検察、警察、資本マスコミなど多様な反民衆的支配システムと財閥の支配を粉砕し、労働者、民衆の要求を勝ち取るために闘争しなければならない。

 世直しのための
三つの要求
一つ。世の中を変える道は、保守野党支持ではない。 最優先に2017年の民主労総の事業と闘争計画を決定して、世の中を変える闘争を総力展開しよう!
一つ。整理解雇や派遣制の導入に先頭に立った民主党を支持して労働者、民衆を裏切った勢力をこれ以上労働運動と民主労総内に根づかせないようにしよう!
一つ。労働者を武装解除させる政権と資本との協調主義を清算し、闘争を通じて資本と権力から自主的かつ変革的な労働者、民衆の政治勢力化を闘争で建設していこう!

 2017年2月7日

以下253人の名簿
ユフンヒキリュン電子の分会/チャホンホ朝日非正規職支会長/シムインホドンヒオート社内下請の支会長/ジンジェフヮン韓国ジエム、群山(クンサン)非正規職支会長/キムスオク起亜車華城(ファソン)社内ハチョンブン会長/シンヒョンチャン韓国ジエム、富平(ブピョン)非正規職支会長/キムヒグン韓国ジエム、昌原(チャンウォン)非正規職支会長/ユホンソン現代車蔚山(ウルサン)非正規職支会長/のイ・ビョンフン現代自動車全州(チョンジュ)非正規職支会長/チョミンク、現代製鉄、唐津(タンジン)非正規職支会長/ハチャンミン現代重工業社内下請の支会長/ボルシェビキグループ/チェソンニョン第18代大統領選挙無効訴訟人団事務処長/キムヒョンギェ金属労組組合員/金東洙(キム・ドンス)労働戦線/キムスンマン労働戦線/チョウォンハ試合中西部建設労組組織次長/金ドギュン全国労働者を政治協会/、チョン・ホヨン労働社会科学研究所/金ジョンミン金属労組、ソウル支部の組合員/グォンオヤン不正選挙の真相究明市民の会(共同代表)/キムヒョンギュン鉄道労組/ムンジェフン、ソウル南部労働相談センター所長/イソンイン、江原道(カンウォンド)地域本部、非正規総書記/イテヨン/パクビョンドゥ農民/ヤンウンチョン労働戦線/ソンウンア/チョンスドゥク/ジャンジェヨン鉄道労組大邱(テグ)の車両支部長/金東聖(キム・ドンソン)発電労組/イギョヒ

誰がチェ・ゲバラを裏切ったのか

密告容疑否認したものの
「背信者」の烙印消せない

アルゼンチン芸術家ノロ・ブストス

 1967年10月9日。南米革命の「英雄」チェ・ゲバラがボリビアのジャングルで捕らわれ射殺された。キューバの社会主義革命を南米全域に拡散しようとしていた遠大な計画は挫折した。彼の死の背後に南米革命の「ユダ」と烙印づけられた人物がいる。一時チェ・ゲバラが最も信頼していた革命の同志、シロ・ブストス(Ciro Bustos)だ。彼はそれ以降40余年間、ボリビア政府軍と米国CIAにゲリラの同志たちを売り渡し、チェ・ゲバラの隠れ家を密告したとの批難に苦しめられた。
 1960年代にチェ・ゲバラのゲリラ組織の一員であり、ゲバラを死に至らしめた「背信者」という日陰の中で生きてきたアルゼンチン出身の芸術家シロ・ブストスが今年1月1日、スウェーデン南部の港湾都市マルメでこの世を去った。享年84。彼は1976年にスウェーデンに亡命した後、死に至るまでそこで暮らした。
 「誰がチェ・ゲバラを裏切ったのか?」という論難は長い間、彼について回った。2007年に彼の回顧録「チェ・ゲバラがあなたを呼んでいる」(Che Wants to See You)がスペインで出版されるまで、彼は尋問官に戦友たちの似顔絵を描いて涙した背信者として知られていた。半世紀ぶりに口を開いた彼は、自らにかぶせられた密告についての一切の容疑を否認した。
 この本は彼にとって「私がゲバラを売り渡したという根拠のない神話をうち砕こうとする試図」だった。事件当時、いかなるメディアも彼の立場を信じなかった。(1995年、30年近い歳月が流れた後になって、「チェ・ゲバラ 革命家の生涯」を執筆中だった米国記者ジョン・リー・アンダースンが初めてスウェーデンの彼をたずねて行った)。ブストスは2013年に「ガーディアン」のインタビューで、万が一にも1人でも誰かが自身を探し出して何があったのかを聞いたなら、自身をさらけ出していただろう、と語った。「それはおそらくアルゼンチンの作家トマス・エロイ・マルチネスが語ったように、『英雄がいれば背信者がいて当然だ』という神話のせいではないだろうか。すべてメディアが作り出したものだった」。

「(密告は)根拠の
ない神話」否認
ブストスは1932年アルゼンチン・メンドーサで生まれた。クヨ国立大学でファインアート(美術、絵画、彫刻、工芸、建築など)を学んだ。彼が初めてチェ・ゲバラについて深い印象を受けたのは1958年にラジオを聴いていた時だった。フィデル・カストロと交わしたインタビューだった。彼はゲバラが質問に答えるやり方がカストロとは完全に違っていたと記憶している。
「それは横柄でもったいぶる政治家や扇動家の声ではなかった。まるでカフェで静かに対話を交わしているようだった。(…)フィデルは威厳があり堂々と米国に向かって語っていた。だがチェの声は私に個人的に話しかけていた。良心対良心として」(「ディレイド グラディフィケーション」マガジン、レイチャル・ハリバタン、2013)。
1961年、ブストスはキューバ革命の成功に魅惑されてキューバに旅立った。そこでチェ・ゲバラの友人アルベルト・グラナドス(ゲバラとの南米オートバイ旅行でよく知られた)と友情を重ねることとなり、初めてゲバラと接触した。このころ、キューバでの革命の熱気はものすごいものがあった。1962年に発表された第2次ハバナ宣言で革命勢力は南米で米国の侵略行為を糾弾し、全大陸の解放を要求した。当時ゲバラは長期戦略の一環として祖国アルゼンチンにゲリラ中心の組織を設立しようという計画を立てていた。
1963年、ブストスはアルゼンチンの初のゲリラ遠征作戦に投入された。ボリビアとの国境近くのアルゼンチンのサルタのジャングルで創設された人民ゲリラ軍(EGP)に合流したのだ。だがこの作戦は脱営、内紛などの悪条件に加え政府当局に発覚されるとともに挫折した。大部分のゲリラが亡くなったり、収監された。ブストスは辛うじてウルグアイに逃れて生き残った。
ブストスは初のアルゼンチン遠征で生き残った幾人にもならない人物としてゲバラの信頼を得た。ゲバラは彼をキューバのハバナに呼び、アルゼンチン全国ゲリラ戦線組織のために故国に戻って活動してくれることを要請した。その日の出会い以降、彼らはほとんど3年間、互いに会うことはできなかった。
1967年、ゲバラは再び彼を呼んだ。当時、ゲバラはボリビアに潜入、山岳地帯で小規模なゲリラ部隊を組織し、南米全体の革命のための活動を展開中だった。だ承知のように、歴史は別の方向へと流れた。

似顔絵を描いてやった理由は…
1967年4月19日、ゲバラはボリビアのゲリラ・キャンプにブストスを呼び、アルゼンチン反乱作戦の結着作戦を論議した。フランス出身のマルクス主義知識人レジス・ドブレも合流した。そこを離れる前、ゲバラはブストスに頼んだ。「万が一、逮捕されたら、最も重要なことは当分の間、ここにいるキューバの同志たちや私の存在を隠すことだ。だが彼らは既にすべてを知っていると判断するなら、死を賭して襲いかかれ、できるだけ多くの雑音を作れ」。
ゲバラの警告は現実となった。ブストスやドブレは、まさにその翌日の4月20日にボリビア政府軍に捕らえられた。2人は収監され、ボリビア当局と米CIAの過酷な尋問を受けた。ブストスは最初は身分を偽り時間稼ぎをした。彼は自身が政治犯の人権を取材しに来た記者カルロス・アルベルト・プルトスであり、ゲリラたちに偶然に出会っただけだと主張した。だが20日間で彼の身分はバレた。
尋問官はブストスが芸術家だということを知り、彼にジャングルにいるゲリラ同志たちの似顔絵とキャンプの位置を示す地図を書け、と要求した。ブストスの主張によれば、この時は既に尋問官たちが必要なすべての情報を入手した後だった。
「彼らは既にチェとキャンプにいるすべての人々の写真を持っていた。似顔絵はいかなる重要な証拠にもなりえなかった。だから絵を描いてやった。私は彼らに偽りの勝利を抱かせてやった。(まだ発覚していないアルゼンチンの)他の連絡責任者たちを保護するために、彼らを生かすためだった」(「ミラー」、2013)。
だがゲバラを含め仲間たちの顔を描いたという事実のゆえに、ブストスは背信者として烙印づけられてしまった。それ以降、ブストスとドブレは30年の刑を宣告されたものの社会主義政権が樹立されるとともに3年後、釈放された。その間、ゲバラを含め彼と共に行動していたゲリラたちは大部分が捕らわれ射殺された。
ブストスはゲバラが射殺されたまさにその日、彼の死亡の知らせを聞いた。尋問を受けている最中だった。「その知らせを聞いた時、チェを殺したまさにその銃弾が私を貫通する気分を感じた。(…)それはリーダーを失うことであり、兄弟と友人を同時に失ってしまうことと一緒だ」(「ガーディアン」)。
彼は1976年、反体制の人士虐殺を避けてスウェーデンに亡命し、40余年間そこで絵を描いて暮らした。以降2001年にスウェーデンのドキュメンタリー映画「犠牲:誰がチェ・ゲバラを裏切ったのか?」と「チェ・ゲバラ革命家の生涯」の作家ジョン・リー・アンダースンらが彼の無実を主張したけれども、彼は依然として自身にかかわる不名誉の影に落胆したまま暮らした。

 顔のない絵

 ジョン・リー・アンダースンはブストスの死亡後「ニューヨーカー」に寄稿した文で、1995年に初めてスウェーデン・マルメを訪れ、彼に会ったことをこう描写した。
「彼はスウェーデンで18年目を暮らしていたが、スウェーデン語ができなかった。彼はジェマという名の犬と共に1人で暮らしていた。彼は友人がほとんどいなく、彼の憂鬱感は手にとるように明瞭に見てとれた。(…)彼は再び絵を描き始めた様子だった。陽射しがさんさんと降り注ぐ彼のマンションには幾つかの油絵がかかっていた。大部分はヌード画だった。それらの中の誰にも顔がなかった。私がそれに関して聞いたとき、彼は沈黙した」。
2013年に行ったインタビューで、同志たちの肖像を描いたことについて現在どんな感情を感じるかと聞いた時、彼はとてもくたびれた面持ちで、こう語った。「それは何の意味もなかった。私がやったことは単にヒゲをたくわえた男たちを描いたこと、それがすべてだった」(「ベルファスト・テレグラフ」)。(「ハンギョレ21」第1146号、17年1月23日付、イ・ロサ客員記者)

 


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