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    かけはし2017.年3月20日号

帝政を一掃した民衆決起の五日間


二月革命一〇〇周年 ロシア 一九一七年二月

ローラン・リパール


二月革命前の体制 

沸騰状態にある社会 
解体しつつある国家

今年はロシア革命一〇〇年にあたる。時あたかも、世界全体は、戦後世界を主導してきた米国にトランプ大統領が出現したことが象徴的に示すように、政治、社会、経済を貫き、さらに地球環境も加わる幾層もの危機に直撃され、極度に不安定かつ不透明になっている。それは世界が歴史を画する根本的な変革の時代に入ったこと、それゆえ労働者民衆には、革命的オルタナティブが必要になっていることを示すものにほかならない。この現実を前に、一〇〇年前の、同じく世界全体をつくり変えた革命をふり返ることの意味は小さくない。この観点から以下に、一〇〇年前の引き金となった二月(現代の暦では三月)革命の展開とその基盤となった諸要素を解説した論考を紹介する。フランスNPA機関紙に掲載されたものだが、同紙には、この革命とさまざまな社会主義組織の関係を扱った論考も掲載され、後者は次号に掲載したい。(「かけはし」編集部)


 「君主制国家であろうと民主主義国家であろうと、ふだんは、国家が国民の上に君臨している。歴史をつくるのは、その道の専門家たち、つまり、君主、大臣、官僚、議員、ジャーナリスト、である。しかし、旧来の制度が大衆にとって次第に耐え難いものとなる決定的な転換期には、大衆が政治の舞台と自分たちとを隔てている障壁を打ちこわし、従来の伝統的代表者たちを打倒し、自らが介入して新しい体制のための出発点となる地平をつくりあげる。……革命の歴史は、われわれにとってはなによりもまず、大衆が自分自身の運命が決められている領域に力づくで介入することである」(トロツキー『ロシア革命史』序文より)。

 二〇世紀はじめ、皇帝(ツアー)体制下のロシアは、世界資本主義の主要列強の一角を構成していた。
ポーランドから太平洋にまでに広がるこの帝国は世界最大の一次産品資源の保有国だった。膨大な数でしかも増加しつつある人口のおかげで、帝国は、数百万人の人員を戦場に配備し、精鋭部隊を保有していた。ロシアはまた、神聖なる皇帝(ツァー)の正統性と東方正教会の権威に依拠した強国でもあった。同時に、この帝国は極度に反動的な列強の一翼を構成していて、ヨーロッパの秩序を守る主要国の一つとして登場することができていたのだった。

都市と農村のプロレタリアート


ロシア帝国はまた、その人口の圧倒的多数が農村で生活し、ほとんどいかなる教育も受けていず、十分に食べることができず飢餓状態にあったので、大きく立ち遅れた国であるともみられていた。しかしながら、同時にこの国は、驚くほど近代的な工業を保持するにいたっていた。これは、この国の地下資源に魅せられた外国資本が流入し、他のどの競合国にも負けないほどひどい搾取を受けている労働力が存在していたためであった。この工業化は、部分的で限定的なものであったけれども、ロシアに、主としてペトログラードとモスクワに設立された巨大工場に集中した数百万人の労働者をもたらした。この工業プロレタリアートはおそらく全人口の五%未満しか占めていなかったのだが、その実に強力な集中性と搾取の非人間的な性格のために、危険な階級となっていた。
他の資本主義大国とは異なり、ロシア国家は、不服従の労働者の脅威を食い止めるために農村を当てにすることはできなかった。一八六〇年代以降、ロシアは農村構造を近代化する政策に乗り出した。それは、農奴による旧来の共同体をプロレタリアート的農民階級に置き換えようとするものであった。たとえ、この政策が農業の近代化に従事する少数のエリート農業経営者の創設を可能にしたとしても、この政策はもう一方で、とりわけ、社会的基盤を欠き、土地を奪われた膨大な農村プロレタリアートを生み出していた。農民の圧倒的多数は、こうして、土地の分配を希求し、社会主義思想の発展を育む巨大な熱源となっていた。農村がロシアの人口の八〇%以上を受け入れているだけに、それは巨大な基盤であった。

真の火薬庫に戦争の火花近づく


以上の点とまったく同じほど重要なのは、ほんの少数派の集団にすぎなかったロシアのエリート層の状況だった。ひどく脆弱なブルジョアジーしか持たなかったロシアは、金持ちの息子たちに、聖職者の中かあるいは古い国家の官僚の業務の中かにしかその職を提供することができなかった。貴族の昔ながらの礼儀作法にのっとったツァーの古めかしい業務は、西ヨーロッパで名作を読みふける青年の願望をさほど満足させなかった。
一部の青年は自由主義に傾いたが、それ以外のますます多くの青年が社会主義思想に傾倒していった。この青年たちが、プロレタリアートの願望に対して革命のカードル(指導者層)を提供した。一八八一年、ツァーの国家はひどく不安になり、自分たちのためにオフラーナ(主として社会民主主義派などを取り締まる帝国の秘密警察機構)を創設した。これによって、学生と高校生の世代全体に流刑が宣告され、シベリアの流刑収容所は社会主義指導者の教育と矯正の場となった。
こうして、ロシアは、真の火薬庫となった。このことは、ツァー体制を打倒することには失敗したが、一九〇五年の革命の波によって例証されることになった。この時点では、ニコライ二世の国家は、体制の自由化という少しあいまいな一連の改革の公約を打ち出して革命勢力を分断することによって、事態に対する支配権を強め、力を取り戻すことができた。それから十年後、ツァー国家はもはやこのような可能性を手にしていなかった。なぜなら、戦争がその官僚機構を溶かしてしまい、ツァー国家の正統性を失わせてしまったからである。

急速なコントロール総瓦解


ツァーの権威を取り戻そうとしたロシアの参戦は、ロシア軍隊の時代遅れの性格を明らかにすることとなった。『一九一四年八月』という壮大なスケールの歴史小説の中で、ソルジェニツィンは、そのありさまをみごとに描き出している。
それは、ロシア軍の破滅的な機動戦が惨状を招き、その参謀本部は自分たちの軍隊を混乱に陥れ、将校は地図を読み取ることができず、部隊はすべての食糧を奪われてしまい、部隊相互間の通信は暗号化されていずドイツ軍の参謀本部によって組織的に傍受されているありさまなどといった具合であった。ロシア軍は、粉砕され、大きな損害を被った後、塹壕の中に潜り込むことによってなんとか助かった。この塹壕での生活はひどいもので、一部の兵士たちは、氷と雪の中で靴もなしに戦闘し続けなければならなかった。
実を言うと、この陣地戦への突入は、ツァー体制には致命的となったのだった。ロシア経済が戦争努力を支えることができないということが全面的に明らかとなり、民間の人々は耐え難い窮乏に陥った。国家は軍事化の衝撃に耐えることができず、帝国の官僚層は情勢に対するコントロールを急速にしかも全面的に失っていった。
常軌を逸した僧侶、ラスプーチンの皇室一家への影響力が強まっていたが、上流貴族が一九一六年一二月にこのラスプーチンを暗殺した。皇帝が寵愛する人物をももはやためらうことなく抹殺したのだった。帝国の宮廷自身もいっさいの理性を失ってしまったようであった。ツァーもまた、戦争での敗北によって信頼をなくし、すべてのモラル的、政治的権威を失ってしまったのである。

戦争、ストライキ、そして

革命が自然発生的に出現

民衆、ペトログラードを圧倒

 一九一七年はじめ、帝国の権力側も革命側もともに革命に備え、それを予測していたが、革命は、自然発生的にペトログラードで出現し、五日間で皇帝(ツァー)体制を倒した。
 戦争は、体制の経済的、政治的脆弱性をさらに深刻化なものにし、体制の崩壊をもたらした。一九一六年末には、弱体化し信頼を失った体制は危機に陥り、扇動が戦争に動員された二〇〇〇万もの人々の心を捉え、ストライキが再び広がっていった(1)。冬は厳しく、食糧は欠乏していた。二月一九日、ペトログラード当局は配給券を発行したが、棚が空になった店の前での騒動が広がった。

自立的、相互共鳴的なスト拡大


二月二三日(現代の暦では三月八日)には、社会主義派の日程としては重要な国際婦人デーが準備されていた。いかなる組織もストライキを呼びかけてはいなかった。ボリシェピキの指導者たちはストライキをやめるべきだと説得していた。その日の朝、数千人の女性、学生、労働者がデモを行い、午後になると、繊維産業の数千人の労働者がストライキに突入し、デモ行進し、パンと皇帝の退陣を要求し、金属労働者にストに合流するよう呼びかけた。(デモ鎮圧のために動員された)コサック騎兵隊は、発砲せず、デモ隊をそのまま行進させた。
二四日と二五日、いかなる党からの後押しもなかったのに、ストライキは全般化し、スト参加者は一五万人、さらに二〇万人となり、ストライキ労働者は、コサック兵部隊に阻止されることなく、町の中心部に向けて終結していき、警官隊と対峙した。兵士たちは警官隊に対して敵意を抱いていたわけではなかったが、(デモ隊の鎮圧に対して)消極的態度を示していた。デモはますます、政治的になり、戦争にもツァーにも反対するようになった。
社会主義諸政党の主要な指導者たちは国外に亡命していたが、党員たちはすべてのデモの現場にいて(2)その第一線で活動していた。しかし、党員たちは路線も蜂起の戦略ももっていなかった。この運動は二日間のうちに自然発生的に生み出されたのだった。

群衆への発砲が兵営に動揺拡大


その夜、数百人の指導者たちが逮捕され、二六日の日曜日、ペトログラードの中心部は防御陣地と化していた。労働者の隊列が到着すると、警官隊と軍隊が群衆に向けて引き金を引き、一五〇人の死者が出た。反乱が兵営の兵士を自らの側に獲得したのはまさにこの瞬間である。翌二七日になると、さまざまな連隊が、労働者に引き金を引いたことに反対し、次から次へと反乱を起こし、デモ参加者に連帯し、デモ隊に武器を与えた。これは体制の転覆であった。ツァーの国家は、戦争の中でその全面的な怠慢を暴露し、政府は数多くの権限を失い、赤十字委員会が国の公衆衛生の管理業務を引き受けていた。実業家連盟が物資の緊急の調達を何とかやりくりし、協同組合が異常なまでに広がっていた。もはや国家には、ペトログラードに駐在する警官隊と軍隊の一五万人の兵士しか残されていなかった。
この最後の兵士たちが蜂起の側に移行した結果、権力は崩壊した。刑務所が解放され、王朝を象徴していた標章が破壊された(3)。蜂起がモスクワで、続いてすべての都市で勝利した。皇帝は退陣した。

同床異夢のソビエトとドゥーマ


二月二七日、二つの会議が開催された。一方で、社会主義諸政党のすべての代表者たちがペトログラードのソビエトを結成し、工場と兵営から六〇〇人の代表を選出した。他方で、国会(ドゥーマ)の議員が、心ならずも革命の側に結集することになった有産階級を代表する自由主義派の政治家たちから成る臨時政府を結成して、制憲議会の開催を目指した。
労働者と兵士からの信頼を唯一得ているソビエトは、臨時政府を信認する一方で、ただちに、平和、農民への土地の分配、一日八時間労働制、民主共和制の綱領を練り上げた。
数週間後、革命は、すばらしい政策を力づくで実現した。男女の普通選挙、政治犯の恩赦、死刑の廃止、フィンランドやポーランドのための民族自決権、民族的少数派への自治の公約などがそれである。労働者は、一日八時間労働制と社会保障、雇用と解雇に関する統制権、罰金や過酷な処罰の廃止、賃上げなどを勝ち取った。兵士委員会は、軍事戦略の問題にも取り組み、不服従を呼びかけ、将校を認めず、新たにそれを選ぶよう主張した。農村では、小さな村では、ツァー退陣の知らせが伝わるのには時間がかかった。四月はじめになると、もうこれ以上待てないとの気分が広まり、農業委員会や農民ソビエトが地主の土地を没収し、地主を一掃した。

終結すべきは
戦争か革命か


政治は、日常生活のすべてにまで及び、すべての壁は、会議、大会、集会、選挙綱領……で覆われた。……一か月後、ペトログラードでは一五〇の日刊紙や週刊紙が出現した。何百ものソビエト、数千の工場委員会と地区委員会、赤衛隊民兵、農民委員会が全土を覆った。
労働者、兵士、農民、ユダヤ人知識人、ムスリムの女性、アルメニア人の教師などがソビエトに対して何千もの動議、請願、建白書、陳情書を送ったが、それらは、人民のありとあらゆる窮状ならびに革命によって呼び起こされた大きな希望を物語っていた。戦争が革命を終結させる手段であるとする戦争支持派と革命が戦争を終わらせる手段だとする革命支持派との間の闘いが始まった……。

注記
(1)、一九一六年のスト参加者数は一〇〇万人だった。
(2)、ボリシェビキは、一九一六年に約五〇〇〇人の党員を結集していたが、一九一七年二月には一万人の党員を組織しており、そのうちの一五〇〇人がペトログラードで活動していた。
(3)、当局の記録によれば、この五日間の犠牲者は一四三三人だった。

二月革命の経過

二月一〇日からの数日間
一九一五年のボリシェビキ派国会議員に対する裁判を記念してボリシェビキがストを呼びかけ。五八工場、九万人の労働者がストに

二月一七日
プチロフ兵器工場(労働者三万人以上)がストライキ。経営側二二日まで工場を閉鎖

二月一九日
ペトログラード当局、配給券を発行

二月二〇日
パンがなくなったパン屋の店先で騒動が続く

二月二三日(現在の暦では三月八日)
午前中、国際婦人デーの呼びかけに応える女性のデモ行進。午後、労働者によるデモにストライキ中の労働者が合流

二月二四日
スト中の工業労働者の半分がいっせいにペトログラード中心部に向かう。コサック兵部隊は群衆を追い散らさず

二月二五日
ストライキが全般化

二月二六日
体制の転覆。兵士たちが反乱を起こし、労働者の側につき、武器庫をおさえ、政府の決定中枢部を占拠し、警官隊を攻撃。ツァーの彫像や肖像画が壊される。ドゥーマ(国会)が秩序の確立と諸機関との連携のために臨時委員会を結成。他方、ペトログラード・ソビエトが開かれる

二月二八日
モスクワで蜂起

三月一日
地方都市の蜂起が続く

三月二日
ドゥーマならびにソビエトとの合意によって臨時政府が成立。ツァー退陣
『ランティ・カプタリスト』(NPA=フランス反資本主義新党発行の週刊紙、三七二号、二〇一七年二月二三日)

 


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