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    かけはし2017.年5月29日号

ロシア革命100年 1917年4月「全権力をソヴィエトへ」


世界で最も民主的な国

ソヴィエトのみが社会を組織

パトリック・ル・モール


 本紙はすでに三月二〇・二七日号で、一九一七年のロシア二月革命の特集を掲載した。今号は、それに続いて一九一七年四月のロシア情勢と民衆の運動を紹介する。四月は、一〇月革命に向かう基本的路線が「四月テーゼ」という形でレーニンによって提起された時期である。二月革命以後、二月革命後に成立した臨時政府との協調路線にとどまっていたスターリンをはじめとする在ロシア・ボリシェヴィキ指導部「多数派」は、当初、「四月テーゼ」に激しく抵抗したが、結局、それを受け入れることになった。「四月テーゼ」の〈転換〉がなければ、十月革命の勝利はあり得なかっただろう。もしこの転換がなければ、歴史上、何度となく起こったように、民衆は絶好の機会を取り逃がし、革命は敗北に終わっていただろう。本紙は、一九一七年のロシア革命の百周年に当たって、シリーズでロシア革命を取り上げていく。本号は、前回の二月革命に続くシリーズの第二回で、いずれも『ランティ・カピタリスト』(NPA=フランス反資本主義新党の週刊紙、三八一号、二〇一七年四月二七日)から転載した。(編集部)


「労働者、兵士、および農民は、事態を真剣に考えた。彼らが樹立したソヴィエトは、革命の原因となった害悪を一掃する仕事にただちに着手すべきである、と彼らは考えた。彼らはことごとくソヴィエトに走った。すべてのものがソヴィエトに苦悩をうったえた。ところで、苦悩のない人間があるであろうか? ひとびとは決定を要求し、援助を希望し、公正を期待し、報復を主張した。陳情するもの、告訴するもの、請願するもの、告発するもの、ありとあらゆるものが、われわれ自身の権力はついに敵対権力にとってかわったのだと考え、ソヴィエトにやってきた。民衆はソヴィエトを信じ、かつ武装している。したがって、ソヴィエトは主権的権力である。彼らはそう解していた。実際また彼らは正しくなかったろうか?」(トロツキー「ロシア革命史」より)

 ツァー体制下のロシアでは、労働組合の数はわずかでしかなかった。これら労働組合は、全体として、メンシェヴィキの活動家とボリシェヴィキ活動家によって指導されていたが、これらの労働組合指導者たちは、ソヴィエトに従うとはっきりと決めていた。
消費者協同組合運動や労働者・農民の協同組合運動などの協同組合運動は、今日よりもはるかにずっと強力だった。消費者協同組合運動のほうが臨時政府を支持したのに対して、労働者・農民の協同組合は革命的民主主義の組織としてソヴィエトへの支持を決定していた。

行動し成長するソヴィエト


ソヴィエト(評議会)というこの組織形態は、一九〇五年の革命の時に生まれたのだが、一九一七年の二月革命の最初の数日後に再びよみがえった。二月二七日の午後、さまざまな革命派潮流――ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党、トルドヴィキ派(勤労者党、社会革命党の穏健派)――からなる約五〇人の活動家が労働者代表臨時執行委員会を立ち上げた。この執行委員会は、労働者と兵営の兵士たちに自分たちの代表を選出するよう呼びかけた。こうして、ペトログラードの労働者・兵士代表ソヴィエトが誕生した。これには、数百人の代表が結集し、「職業」革命家から成る執行委員会によって指導されていた。これらの執行委員は、代表の中から選出されるのであるが、その後、その任務の中でその存在を示していくことになる。
代表への委任は最初は口頭でなされていたが、その後、その代表は選出されるようになった。頻繁に招集されるソヴィエト総会は、時として混乱を招くこともあったが、大きな論争の場であった。実際の権力は、ソヴィエトによって選任された執行委員会の側にあった。執行委員会には、選出されていない社会主義党派(メンシェヴィキ、ボリシェヴィキ、社会革命党、ユダヤ人ブント、メジライオンツィ=トロツキーが属していた組織、ナロードニキ派の社会主義者たち、ラトビア社会民主党……)の代表たちも加わっていた。兵士、労働者、兵士の妻、自営商人、従業員、……の数限りない無数の介入が、疑問を提示し、要求し、政策を強制し、ソヴィエトを真の革命的権力に変えていった。

新しい権力機関が次々に生まれ

 一九一七年三月一日、ソヴィエトは、兵士の権利の真の憲章となる基本文書、布告第一号を公布した。それは旧体制の過酷な軍隊規律を廃止し、兵士=市民が自ら兵士委員会を組織する権利を認めるものであった。兵士委員会は、布告の限定的な権利にとどまるどころか、それよりもさらに先へと進み、個々の将校を拒否して、将校を新たに選ぶことを望んだ。部隊は徐々に「兵士権力」によって掌握されていき、それが軍隊を動揺させていった。
数週間のうちにさまざまな権力機関がいたる所で出現したので、さまざまな規約や任務が急速に発展していった。時には、ソヴィエトと呼ばれていても、それが大部分の町で存在する労働者代表ソヴィエトとは異なっていることもあった。そうした機関は、ソヴィエトの支援のもとに創設されることもあったが、その支援なしに結成されることもしばしばであった。
大都市では、執行委員会や総会を開く労働者・兵士代表ソヴィエトに加えて、工場委員会から生まれた工場委員会ソヴィエト、さらには、女性や青年の権利を守るための、さまざまな防衛隊、市民、都市住民、労働者、社会的諸機関からなる地区委員会ソヴィエトも、存在していた。それ以外にも、ソヴィエトと共存する(ウクライナの)「ラーダ」(1)などの民族組織も出現した。大ロシア帝国によって抑圧されていた、ポーランド、フィンランド、リトアニア、エストニア、ラトビア、ムスリムなどの諸民族が決起したからである。

職場の防衛から労働者管理へと


労働者は、一日八時間労働と賃上げを勝ち取った。何千もの工場委員会と「赤衛」隊が結成された。工場委員会は、雇用と解雇を統制し、占拠にあったり、閉じ込められたことによって物資の搬入が途絶していることを口実に経営者がロックアウトに訴えようとするのを阻止した。それは、一定の労働規律を維持し、欠勤によるサボタージュに対して闘った。工場委員会は、企業経営に対する労働者管理に乗り出したのだ。
赤衛隊、すなわち、武装した労働者民兵の部隊、は勤務時間中に軍事訓練を行い、経営者がその時間の賃金を支払った。赤衛隊は、プロレタリアートの労働手段としての工場を防衛し、革命の「敵」から「革命」を防衛しようとするものであった。工場委員会は、ペトログラードでは五月以降、「全権力をソヴィエトへ」というボリシェヴィキの立場を受け入れたので、集権化し始めた。

土地の分割への希求と臨時政府


農村では、ツァー体制の崩壊以来、農民集会が、人民の苦情や要望、普通選挙、教育、平和などの声を表明する請願や動議を起草するようになった。土地問題は、すべての要望とすべての要求の中心をなしていた。農民は、王朝と大地主の土地の没収と扶養すべき家族の構成員数に応じた土地の再分配を要求した。各農家は、「賃金なしに自分たちだけで耕すだけの土地の収益権を所有すべきだ」というわけである。この論理に従えば、「大土地所有者には自分自身と自分の家族によって耕作できる広さの土地しか残されないことになる」のである……。
この計画を実現するために、農民は自らを組織して、村と郡を単位として農業委員会を結成した。一九一七年夏のはじめまでは、農業委員会は、農業問題の解決に向けて、臨時政府とペトログラード・ソヴィエトに信頼を寄せていた。臨時政府にとっては、普通選挙を通じて選ばれる制憲議会だけが、農業問題に関する法律を制定する権限をもっているということになっていた。土地の非合法な摂収は罰せられると臨時政府は主張していた。ますます待ちきれなくなっていく農民と農民反乱を予測して不安をつのらせる政府との間には、不信が生まれた。
四月末からは、地主の逮捕、その館の捜索、時には略奪、が始まった。人々は、教会や王朝の土地を没収し、地主の土地を分割し、小作料は五倍から六倍、引き下げられた。一九一七年全体を通じて拡大し続けたこの大きな運動が始まったのである。

旧秩序の崩壊と兵士の権力成長


とりわけ兵士委員会の結成以降、煽動がますます広がり、そうした煽動が軍隊を支配するようになっていった。臨時政府はこの問題に直面するようになった。兵士の脱走が広がった。ソヴィエト執行委員会が第一に配慮しなければならなかったのは、兵士と将校とを和解させることであった。両者の間の断絶があったからである。それまで軍隊の規律は実に暴力的なものであった。一九一五年には、むち打ちの刑罰が再び導入されたほどである! 三月〜四月という期間の最初の数カ月間で、軍隊内の規律を担当する機関自身が崩壊した。農民出身の兵士にとっては、前線の大部分の兵士と同様に、戦争の終結が中心問題だった。多くの兵士たちは土地の分割に参加するために、脱走し始めた。「もし自分が戦死してしまえば、土地なんか何の役に立つのか? そうなればもう土地も必要なくなるだろう」。……だから、戦争を、将校を、地主を片付けなければならない。「平和、土地、自由」の綱領が兵士大衆の綱領になった。大衆の下からのすべての機関が、崩壊したツァー国家に対するオルタナティブの権力として緊密なネットワークを形成し始めた。


(1)、キエフ・ソヴィエトにはウクライナ人がいなかった。

青年中尉から地主の父への手紙
「われわれと兵士の間の断絶は底なしに深いです。兵士たちにとって、われわれは〈主人〉であり、今なおいぜんとして〈主人〉のままなのです。兵士たちにとって、今起こったことは、政治革命ではなくて、社会革命なのです。この革命において、彼らは勝者であり、われわれは敗者です。今や、彼らはわれわれにこう言うのです。自分たちには委員会がある。以前は、お前たちが主人だった。今、今度は主人はわれわれなのだ、というわけです。何世紀にもわたる隷属を経て、ついに彼らは復讐しているのだという印象を受けています」(ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』より)

二重権力

関係の変化はどう展開したか

パトリック・ル・モール


一九〇五年と同様に、一九一七年二月二七日に、ペトログラード・ソヴィエトが結成された。直接代議制の、「革命的」で大衆的な人民から選ばれたこの会議(人民の議会)は、労働者と兵士の代表を結びつけ、別のやり方で政治を行おうとした。
それと並行する形で、秩序を回復して体制の諸機関や当局との関係を復活させるために、伝統的な権力機関である臨時委員会も生まれた。これは、大規模農業者、実業家、ドゥーマ(国会)の「進歩派ブロック」を結集していて、その計画は、ロシアを自由主義的な資本主義大国にし、ロシアの政治生活がヨーロッパ的な議会主義の伝統の中にしっかりと定着するようにしていくことであった。

権力の二源泉
の妥協と緊張


この権力の二つの源泉の間の妥協が三月二日に成立した。二重権力の誕生である。これは二つの権力機関の共存であったが、この共存は一九一七年の全期間を通じて強く対立し続けた。
ソヴィエトは、臨時政府が民主主義的改革の広範な綱領を実施するという条件と引き換えに自由主義派が多数派である臨時政府の正当性を認めた。ソヴィエトは、制憲議会の招集まで、共和国を宣言しないことを受け入れた。ソヴィエト内の社会主義派のさまざまな潮流が権力をブルジョアジーに与えることを受け入れた。そうしたのは、ロシアのような後進国が社会主義に進むためには、革命のブルジョア的段階を経由しなければならない、と社会主義派の諸潮流が確信していたからであった。
臨時政府は外見上権力を保持しているにすぎず、ソヴィエトがそれに正当性を与えることが重要だった。都市と農村の大衆の間で権力をもっていたのはソヴィエトであり、その権威は日々、大きくなっていった。ソヴィエトは、革命の中の大衆の代表機関から、生活を組織し、日常的な決定を下し、列車の運行を決め、物資の調達や治安……を組織する真の権力機関へと、徐々に変わっていった。市電を再び運行させ、ツァーの逮捕を組織し、三月一〇日に一日八時間労働制の導入を定めた協約をペトログラードの産業経営者との間で結んだのは、ソヴィエトだった(1)。ソヴィエトは、労働者と農民の請願だけではなく、同時に、地方自治体レベルでも政府レベルでも「公式」当局の支援の要求にも応えなければならなかった。政府の機能はますます宙に浮いて空回りしていき、ソヴィエトが国家の職務を埋め合わせるようになっていった。
第一次臨時政府は、自由主義派の代表を多数派として、それに政府とソヴィエトとの間の「架け橋」となるものとみなされたトルドヴィキ派(勤労者党)のケレンスキーが加わる形で形成された。それから数週間して、臨時政府は、目を見張るような一連の政策を打ち出した。それは、基本的自由、普通選挙、全般的な恩赦、死刑の廃止、身分、人種、宗教によるいっさいの差別の廃止、フィンランドとポーランドの民族自決権の承認、というものだった。労働者と兵士は、ブルジョアジーと有産階級の政府である臨時政府の中に隠れている王党派の反応を注視していた。こうした労働者や兵士の間では、臨時政府の対応が敵対でなかったので、当惑が生まれた。政府は、革命下の社会のありとあらゆる層からの要求や行動の波に直面していった。労働者、農民、農民兵士、諸民族、……など。

戦争の問題から
最初の鋭い対決


存在する二つの権力の間で最初の対決が生じることになったのは、戦争の問題だった。この問題について臨時政府はこうみなしていた。すなわち、連合国側で参戦しているロシアの勝利だけが、新政府を西側民主主義国に強固につなぎとめておくことができるだろう、と。その上、戦争の継続は革命を終結させる手段でもあった。戦争の継続は、国家機構や軍隊の存続、選挙の延期、すべての社会問題や農地改革や民族問題の先送りを正当化した。臨時政府は、誕生した時に連合国に書簡を送り、その中で、勝利まで、コンスタンチノーブルの併合まで戦争を引き続き継続するその決意を述べた。
ペトログラード・ソヴィエトは即座に反応し、三月一四日、「全世界人民への訴え」を採択した。それは、「無併合、無賠償の和平」を支持すると宣言し、「諸国政府の併合の野心に反対する人民の闘争」と「軍隊の戦闘力を維持する防衛的方策」との調停を試みる「革命的祖国防衛」を提唱した。ソヴィエトの立場のこのおずおずとした性格にも関わらず、これは政府との関係の危機をもたらした。
アメリカが四月一八日に第一次大戦に参戦した時、臨時政府は連合国に対して「最後の勝利まで」ロシアが戦闘を続けることを改めて確認する覚書を送り、「自由の公債」と呼ばれる戦時公債への訴えを行った。
ソヴィエトの執行委員会は、政府との対決を回避した。反撃が起こったのは下からであった。和平を追求しようとしない上の欺瞞(ぎまん)を前にして、何万人ものデモ隊が街頭に繰り出した。ここではじめて、ボリシェヴィキのスローガンが繰り返し叫ばれることとなった。「政府を倒せ!」、さらに同時に「全権力をソヴィエトへ!」。
その後のソヴィエトの総会の時に、ボリシェヴィキの金属労働者、フェドロフがソヴィエトによる権力奪取を支持すると宣言したが、彼への支持はまだごく少数だった。
デモは続いたが、四月二一日、デモに対して数千人の反革命派が動員された。ソヴィエトの執行委員会は、デモ参加者に対して首都のいかなる部隊も街頭に送りこまないよう命じ、次いで、二日間、一切のデモを控えるようにとの指令を出した。
ソヴィエト執行委員会は、今回は、大衆を二重権力の限度ぎりぎりにまで押しとどめることに成功し、臨時政府の策動をそのまま許した。臨時政府は後退し、すべての併合に反対すると宣言し、この問題に最も深く関与していた二人の閣僚が辞任した。自由主義派と穏健派社会主義者(社会革命党とメンシェヴィキ)を結集した連立政権が成立した。ペトログラードのソヴィエトは連立政権のもとに結集すべきだと宣言した。自由主義派は、妥協のためにこれら社会主義者の影響力を利用した。ボリシェヴィキ派はソヴィエトの中では少数派であった。ペトログラード・ソヴィエトの六人の社会主義指導者がこの第二次臨時政府に入閣した。
しかし、ソヴィエトは死に瀕していなかった。当初、危機の兆候がその頭上にたちこめたが、その危機は、ソヴィエトがいぜんとして大衆に対する政治的権威の主人公にとどまり続けていることを立証した。二重権力は新しい形をとって持続した。次の対決まで……。


(1)、モスクワでも同様に八時間労働制の協約が数日後に結ばれた。

 

「四月テーゼ」 

レーニンとトロツキーの党の誕生

ローラン・リパール

 スイスからペトログラードに到着してわずか三日後の四月七日、レーニンは、プラウダ紙に、後に『四月テーゼ』と呼ばれることになる、「現在の革命におけるプロレタリア―トの任務について」と題する論文を発表した。
レーニン単独の名前で『プラウダ』に発表されたこの文章は、ボリシェヴィキの中央委員会決議を想定して書かれたものであったが、それを支持するものはまだボリシェヴィキ党の中央委員会では圧倒的な少数であった。このテーゼは、ボリシェヴィキの在ロシア指導部、すなわち、カーメネフとスターリンによって推進されてきた路線に対する全面的な批判であった。これまでのこのボリシェヴィキ指導部は、二月革命以降、臨時政府を支持し、ロシア社会民主党を再統一するためにメンシェヴィキとの合同を計画するまでに至っていた。

レーニンによる
方向転換の提起


『四月テーゼ』は、以上の路線が誤りだと明確に述べ、臨時政府がブルジョア政府でしかなく、この臨時政府が継続している戦争がその本質を変えて革命的防衛戦争になったわけではなくて、いぜんとしてボリシェヴィキが根本的に対決してきた帝国主義の強奪戦争である、と断言している。レーニンは、妥協の時が過ぎ去ったのであるとの評価を明らかにし、メンシェヴィキとのいっさいの妥協に反対し、第二インターナショナルやチンメルワルト中間派と決定的に決別すべきであると宣言した。これは、ボリシェヴィキに対して、象徴として、新しい「共産党」を結成するために、「社会民主主義」という基準を否定するよう提起したのであった。
当然にも、臨時政府反対というこの政策によって、レーニンは、権力奪取の戦略へと向かう路線を提案することになる。これは、レーニンの戦略的思想の断絶でもあった。これまで、彼は、ヨーロッパ資本主義の全面的な爆発的情勢の一環としてのロシアの社会主義への前進についてそれまであまり考えていなかったからである。この理論的飛躍はソヴィエトが獲得した能力を通じて可能になるものであった。ソヴィエトの中にレーニンは新しい「コミューン国家」、すなわち、パリ・コミューンの諸原則にもとづく国家、の基礎を見ていたのだった。

臨時政府の政策
破綻と多数獲得


こうして、レーニンは、民主的共和国の樹立によって開かれた可能性を活用して、ソヴィエト共和国のための大々的なプロパガンダ作戦に取り掛かるよう提案した。これは、警察と軍隊と官僚機構をなくすことによってパリ・コミューンの成果を引き継ごうとするものだった。彼は、労働者独裁を未熟なままに実現することを拒否し、農民大衆に対してそれにふさわしい待遇で与える政治的ヘゲモニーの獲得を目指した。彼が、大地主の土地の没収を優先的軸とする新しい綱領を提案したのはこの精神にもとづくものであった。『四月テーゼ』は、たとえ、最初に発表された時には、ボリシェヴィキの内部でごく少数派の路線を形成するだけにとどまったとしても、一カ月後には、臨時政府によって展開された「革命的防衛」の戦争政策が明らかに破綻してしまったために、党内で支配的な見解となった。レーニンによって推進された転換は、ロシア社会民主党の再統一計画と第二インターナショナルの運命それ自身をも決定的に封印してしまった。
『四月テーゼ』は、「永続革命論」の側に立つことによって、古参ボリシェヴィキとトロツキーのグループとの合同への道を切り開いた。トロツキーは、五月にペトログラードに到着し、レーニンと自分たちを分かつものは何もないということを確認していた。合同は八月に実現され、イデオロギー的観点からも実践的な観点からも、「レーニンとトロツキーの党」が誕生した。


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