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    かけはし2017.年7月10日号

「新自由主義の長い夜」への回帰はノーだが…


ラテンアメリカ

進歩の時代は終わったのか?

非常に複雑なシナリオの中で
オルタナティブが重大問題に

フランク・ゴーディショウ


 ラテンアメリカ諸国における新自由主義者の政権への復帰は、この何十年かの解放の諸経験に対し疑問を突き付けるものなのだろうか? 大学の教員でありフランス・ラテンアメリカ協会共同代表であるフランク・ゴーディショウは、現実はもっと複雑だ、とわれわれに語る。以下のインタビューは、ミシェル・キイインツにより行われた。

社会に多様な民衆の経験が蓄積


――あなたが以前取り上げたことのある「建設過程にある地方や民族的な解放、諸々のオルタナティブをめざす試み」はどうなっているのか?

 われわれが目撃しつつあるのは、多くの潮流が論争しているテーマ、ラテンアメリカにおける「サイクルの終わり」というよりもむしろ、社会的・政治的絡み合いにおける方向転換、より正確には、いくつかの中心的な国における進歩的なあるいは民族的・民衆的諸勢力への逆流だ。
問題の国は、特に、反政府派が今議会を支配し、巨大な経済的かつ政治的な危機があるベネズエラとブラジルだ。後者では、ディルマ・ルセフの解任にいたった議会によるクーデターがあり、そこにはまた、労働者党(PT)の最終的成果評価に対する、また現在の腐敗した保守派政権を前に、いくつかの民衆層と中間層の内部に不満がある。
この逆流の他の象徴は、新自由主義者のマウリシオ・マクリの権力奪取があるアルゼンチンだ。彼は雇用主と多国籍企業の人間であり、この結果は、クリスティナ・キルチネルの大統領選における敗北から生じた。われわれは同様に、しかし程度はより小さいとはいえ、昨年の国民投票(大統領の任期を二期に制限している憲法の修正が問われた:訳者)におけるボリビアのエボ・モラレスの敗北を加えることができるだろう。ただしモラレスの人気は依然高い。最後にエクアドルでも、社会・環境諸運動、労働組合、あるいは先住民諸民衆とコレア政権の間には多くの緊張と公然たる紛争がある(今年四月二日の大統領選では、コレアの後継者が勝利し、中道左派政権の継続が確定した:訳者)。
便宜上われわれが「進歩的政権」と呼ぶことを可能にしたもの、また二〇〇二―二〇〇五年以後ラテンアメリカ一二ヵ国で支配的影響力をもつようになった新たな政治諸勢力に関するこうした政治的かつ選挙上の逆流には、経済の新たな依存性の点で、天然資源の利用と採掘推進主義という問題、および生産と開発の様式に対する批判的な評価が、また一つの論争が付随している。そしてこの論争は、諸々の社会運動や先住諸民衆のいくつかの部分、さらに反資本主義左翼諸潮流(まだ極めて小さな少数派にとどまっている)によって率いられた。
これらの様々な国における社会的状態の再構築と社会的前進という側面において、収支決算は、ブラジルの社会学者のエミル・サデルや進歩的諸政権に関係しているさまざまな知識人が決まって指摘しているように、それ以前の新自由主義期に比べて明らかに肯定的だ。
しかしながらわれわれは、民衆的浸透をも理解するためには、国家と制度の側面の先まで進む必要がある。その浸透は、自己組織化、自主管理空間の創出、企業再建、彼らの領域を支配し多国籍企業に反対する先住民コミュニティ(たとえばエクアドルのシュアル)、あるいは都市と地方の民衆居住地域内のコミュニティメディア(たとえばラジオ・ビラ・フランシアやチリのサンチャゴにあるチャンネル・セナ13)、こういった分野で続いているのだ。
この浸透は、次期大統領選に対する、先住民評議会が支持した先住民女性の指名という考えを伴った、メキシコにおけるサパティスタの建設の中にも見ることができる。これはすばらしいニュースだ(何年にもわたるチアパスの彼らの土地に向けた撤退を経て)。さらに、ボリバール革命の枠組内には、自治体評議会や共同諸組織の存在がある。そのいくつかには今も勢いがある。自治体建設の理念は、現在の深い変質にもかかわらず継続しているのだ。われわれは、アルゼンチンの自主再建企業に対する変わることのない攻撃にもかかわらず、それらの何十もの事例に対する長期にわたる成果について語ることができる。コロンビアのカウカで、あるいはキューバで、アグロ・エコロジーにおける諸々の萌芽的な経験が行われている、などのこともだ。
それゆえ、「上部における」一定の逆流、また右翼の復帰、また新自由主義的、帝国主義的、軍隊の、議会の、さらに麻薬に関係した暴力の復帰(メキシコ、コロンビア、中米における)にもかかわらず、どのように世界を変革し権力を配分するかに関する、また国家の急進的変革を放棄することなく下からの建設を組み合わせる必要――しかし、何十年にもわたる進歩的な運動の諸限界はそれがどれほど難しいかを示している――に関する、そうした戦略的な論争を議題に乗せる一組の経験があるのだ。

国家の役割、新たな次元の論争


――さまざまな国家の国家構造では、制度化された権力内で民衆諸運動のある種の政治的置き換えがあったのだろうか?

 われわれは、「(国家)権力をとらずに世界を変革する」に関する、あるいは逆に、社会運動とつながりを保ち新自由主義と立ち向かう対抗ヘゲモニーを打ち固めるために、投票箱を通した政府と国家の奪取を目標にすることに関する、その論争(一九九〇年代末以後激しい)に戻っている。
それは全体的に誤った二分法だ。いずれにしろ論争の表現はもはや――当座?――、一九七〇年代のように「武装の道」対「制度的移行」ではない。確かめることができることだが、左翼の新しい政治運動あるいはPTのような古い部分の重要な部分は、ベルリンの壁崩壊以前にすら時として、一つの政治空間構築に挑む上での制度および選挙の機会がもつ重みに注目した。
しかしこれは、常にそこにあるジレンマを予防するわけではない。つまりあなたが政府を勝ち取った場合、本物の権力をつかんでいるのだろうか? 経済的、軍事的、メディアの、また階級的な権力は、最終的には大きな程度で別のところにあるのだ。つまり、「深部の」国家は、政府それだけよりも、議会と代表諸機関それらよりもはるかに幅広い。
これらの本物の権力は征服することが、変革することはなおさら、多くの場合難しい。それゆえ、自己組織化を強調すること、最終的には設立された民衆権力へと展開できる、そうした民衆権力を構成する諸形態を現場、地域、あるいは全国のレベルで構築する能力を強調すること、の重要性がある。
それでも左翼による国家の支配は、エクアドル、ボリビア、ベネズエラのような諸国において、一〇年間のもっとも重要な社会的前進を可能にしてきた。そして、制度化途上のものと制度化済みのものとの間、諸運動と諸政党との間にある結びつきの問題がまだ本質的であるならば、二〇世紀の偉大なラテンアメリカ革命の歩み、メキシコ、エルサルバドル、キューバ、チリ、ニカラグア、その他からの教訓を学ぶことは、まさにそれだけのことがある。
国家組織の古い諸形態との定められた時点における決裂とは、武装した諸勢力の中では、どのようなものか? これはたとえばボリビアで、進行中の社会変革がはらむ全体的困難さだ。これはまた、先頃のエクアドル大統領選キャンペーン期間中、コレアのテクノラート的管理――未開発領域に対する鉱業の拡張、森林伐採、多国籍資本のための天然資源大量採掘に関し――について非常に批判的な最終評価を引き出した部分とアリアンザ・パイス(コレア政権誕生を支えた新たな勢力)間の、左翼の立場からの討論主題にもなった。これは、今も継続している生産、蓄積、また自然の搾取の様式に直接関係する、一つの実体的問題だ。

国際連携は戦略・戦術双方で要

――地域的連携の打ち固めに向けた努力とラテンアメリカ諸国間の関係は、どう展開してきたか?

 地域的統合もまた実際上本質的だ。われわれは、大陸レベルで、また帝国主義諸大国(米国をはじめとして)を前に、それらの国がもつ実際的な策謀の余地について考えることなしには、様々な進歩的諸国に関する最終評価を引き出すことなど不可能だ。ボリビアのような、「小国」、新植民地主義の略奪により貧しくされた一国は、不等価交換、国内の寡頭的支配と不平等から単独で浮き上がることはほとんど不可能だ。こうした国はオルタナティブを生み出すためには、連携関係、国家間共同、また民衆運動間の生きた国際主義をも必要とする。
キューバの経験は、孤立(と封鎖)は内部の危機を加速する、ということをわれわれに思い起こさせる。ウーゴ・チャベスが強調したボリバールの夢、すなわちボリバール的反帝国主義的統合は、現代の圧倒的妥当性をもつ課題だ。そして、進歩的諸政権と諸運動への逆流もまた、その不在に関係している。
しかしながら地域に関わる進展は、いくつかの興味深い前進を経験してきた。たとえば「わがアメリカ人民ボリバール連合」(ALBA)は、それがチャベスにより推力を与えられたとき実に独特な、つまり、諸国間の「物々交換」という、補足的関係の可能性だった。それは、経済が小さい場合、与える以上のものを受け取る可能性、たとえば小さな島の国である場合、ドミニカやキューバであっても、少し低い食料品価格でベネズエラの原油を受け取る可能性だ。この構想は興味深い。しかしそれは、ボリバール革命の危機と同時にすぐさま危機に入り込み、また他の障害(ブラジル政権の対立的利害を含んで)にもぶつかった。
われわれはまた、二〇〇
九年からの南米諸国民連合、UNASURの建設に関し、極めて意味のある政治的かつ外交的な進行をも強調すべきだろう。つまり初めて南米の二二ヵ国は、外交的な自主独立体の枠組み内で、またOAS(米州機構)なしの、それゆえ米国なしの諸紛争の解決と管理のために、結集している。その後CELAC、「ラテンアメリカ、中米共同体」が現れる。それは、北の巨人なしのラテンアメリカを想定するものであり、キューバと米国の関係回復以前であっても、ラテンアメリカの協調にキューバの統合を可能にした。

――今なお機能している進歩的諸政権、あるいはブラジルでのように打倒されたそれに対する、反対派諸勢力の性格とはどのようなものか?

 このレベルでは、新自由主義的かつ保守的な右翼の復帰、また古い寡頭制を少しばかり「模様替えした」新しい右翼の登場に基づく限り、光景は十分に暗い。これはたとえばアルゼンチンのマクリ、および彼の運動、コンプロミソ・パラ・エル・カンビオ(「変革への約束」)の場合だ。この運動は、「現代的」相貌を与えるために、政治的マーケティングを利用し悪用してきた。しかしこれらの新しいあるいは以前の右翼は、社会的に暴力的なままであり、依然階級的観点からの特徴を刻印されている。そしてそれらは、諸々の社会運動に抑圧的な、社会的レベルでのウルトラ保守的見方と一体的に、グローバル化したブルジョアジーの構想を防衛している。
ブラジルでのディルマ・ルセフ弾劾はもっとも反動的な部分の勝利、「4B」(銃弾、聖書、牛肉、銀行家)の、つまり軍事・治安部門、福音派、大土地所有者、そして金融部門の勝利だ。これらはまた、現在の正統性を欠いた大統領であるテメルをはじめとして、もっとも腐敗してもいる。なぜならば、PT指導部もまた身内に利害誘導する腐敗の文化に染められているとはいえ、それはまだ、今日ブラジル国家の頂点にある者たちよりも少しばかり程度が軽いからだ。今日変節しもっとも反動的な右翼と連携したのは、PTの元連携相手たちである以上は、現在の情勢はPTと先のような部分との不自然な連携の産物でもある、ということを思い出そう。
ベネズエラでは、国会の多数は反政権派、MUD(メサ・デ・ラ・ウニダード・デモクラティア、民主統一円卓会議)が支配している。これは、その中核に公然とした新自由主義的な断固とした中核をもち、二つの傾向を付随した異質な連合だ。そしてこの二傾向とは、「暴動をこととする」部分(二〇〇二年四月のクーデターを、二〇一四年にグアリンバス〈街頭バリケード〉を支え、それゆえ街頭での暴力を支持する者たちで、現在獄中にあり、反政権派からは「政治犯」と類別されているレオポルド・ロペスが率いる)、および、より制度的な道を追求しているもう一つの政党グループだ。
この後者は、議会の支配を獲得した後に、一年半以上進められてきたリコール国民投票の要求が投票箱によるマドウロ解任に導き得る、と確信している。そしてそれは、この国の荒廃、経済危機の重大さ、そして国家のあらゆるレベルにおける腐敗と身びいきの広がりを条件とすれば、非常にありそうなことだ。それゆえ、現在まで遅らされているこの国民投票を妨げるためにあらゆることをやるという、政権の権威主義的対応がある。
われわれは全体として、ワシントンから支えられた強硬右翼を前にしている。そして米国の力を使ったエスカレーションは、米国とその二つの主要な同盟国、つまりメキシコとコロンビアの方向に沿った大物たちの再編に余地を与えている。さらにわれわれの前には今アルゼンチンとブラジルがあり、それらは、ベネズエラ、エクアドル、ボリビアといった「団結していない」国々に圧力をかけ続けている。

1990年代には戻せない

――われわれは、「新自由主義の長い夜」への多かれ少なかれ急速な回帰について語ることができるのだろうか? あるいは、これに対抗する民衆的爆発の潜在力はまだあるのだろうか?

 一九九〇年代の終わりには、この「新自由主義の長い夜」に対決する大きな民衆的闘争の一時期があった。そして、伝統的な諸政党の正統性における危機と組み合わされたこれらの例外的な社会運動が、一定の多様性――中道左派、民族主義的ポピュリズム左翼、社会自由主義、あるいはより反帝国主義――を伴って左へと動いた南米一二ヵ国へと導いた。われわれはこのリストにニカラグアと特にクーデター前のホンジュラスも加えることができるだろう。
多くの場合、現地ブルジョアジーの伝統的諸政党(社会民主党、キリスト教民主党、あるいは保守派)は周辺化された。そしてそれが、民衆の諸運動が変革にもっと前向きに見えた政治的諸勢力を強化する、あるいは新しい勢力を生み出す好機の窓を開けた。前者の例としては、ブラジルのPT、後者の例としては、アリアンザ・パイス(エクアドル)、ボリビアのMAS(モビミエント・アル・ソシアリスモ、社会主義運動)、ウーゴ・チャベスを軸としたベネズエラの第五共和制運動、その他だ。
これらの左翼政権の引き続いた選挙の勝利は、ブラジル、ベネズエラ、エクアドル、ボリビア、あるいはウルグアイで、特に重要な「標的を定めた」社会計画(それゆえ普遍性はない)の創出を可能にした。こうして貧困は、二〇〇〇年から二〇一〇年の一〇年間、以前には決してなかったほどに低くなった。ここには平行して、社会的諸権利、賃金、教育に関する成果、無教育の低下、その他が付随している。一〇年の間、典型的に「新開発主義的」であった展望の中で、資本と労働を、「山羊とキャベツを前もって用意しつつ」、天然資源の極めて高い価格が、天然資源からの利益の再配分に導いたのだ。バレル当たり一〇〇ドル以上をもって、支配階級の基本的利益を不安定化したり、攻撃したりすることなしに、原油や天然ガスの利益の一部を最貧困層向け社会計画に再配分することが可能だった。
不平等もまた縮小した。しかし階級的社会構造は維持されてきた。今なお古い白人の(そしてレイシズムの)寡頭支配層は、以前は周辺化されていた主体が台頭し勝利するのを見ることをまったく心よく思わずにきた。つまり、先住民衆、労組活動家、女性、解放の神学を支持する司祭たちが、政治の中心に達し、彼らと共に――しかし従属的やり方で――いっそう政治化した従属的諸階級を連れ出したのだ。
われわれは今日、新自由主義の長い夜への回帰に直面しようとしているのだろうか? そのような、一九九〇年代への回帰はノーだ。これまでに深い変化があり、それはそのままだ。たとえば、進歩的な民族主義的・民衆的空間は、政府内、あるいは一定数の主要な反政府勢力内のどちらかに依然ある。それはベネズエラ、レニン・モレノ(コレアの後継者)の予想される勝利(現実となった)に基づくエクアドルの政権内ではそのままであり、ボリビアでは、前回の国民投票での敗北にもかかわらず、エボ・モラレスは再選を考えるに十分な選挙上の支持を確保している。
他の諸国におけるこの進歩的な空間は、主要な反政府勢力だ。すなわち、アルゼンチンにはもちろんペロン主義派とキルチネル派がある。PTは今日、腐敗事件(ペトロブラス、オデブレヒト)を刻印され、その最終的成果評価のゆえに左翼と若者の一部、労働者階級、労組運動から批判され、非常に弱体化している。しかしそれは今も、新自由主義右翼を前にして、制度上の反政府派大政党としてとどまっている。

反資本主義左翼が試されている


われわれが何よりも見なければならないものは民衆運動の、反資本主義左翼あるいはエコソーシャリスト左翼(アルゼンチンのFITのような)の能力であり、それこそ、民族主義的な進歩的・民衆的時代について批判的な成果評価を行い、しかしまた、強硬で暴力的な新自由主義右翼とワシントンの新たにされた課題設定に反対する統一戦線の今後二、三年にわたる建設を描き出す、そうした能力だ。
何人かの知識人、たとえばマッシモ・モデネシ(メキシコ)、ラウル・ジベキ(ウルガイ)、あるいはマリステレ・スバンパ(アルゼンチン)は、進歩主義が部分的に、民衆運動、それらの対応能力を武装解除した、それらは支持者への利益誘導という蜘蛛の巣に、時には国家機構への統合という世界の中に自らがとらわれているのを見出した(たとえばアルゼンチン)、と示している。
大統領依存主義あるいは「過度の大統領主義」によって強化された現象は進行中だ。なぜならば、カリスマ的指導部が「底辺の人々」を有効に動員し政治化できるとしても、彼らは、自主管理と民衆権力に向けた諸々の試みを妨げ、またその一つの障害となるからだ。社会運動に対するあからさまな犯罪視(たとえばエクアドルやブラジルでの)というさまざまな形態を勘定に入れずに、一方ではエクアドルのアルベルト・アコスタのような知識人は「保守的復古」を述べ、パブロ・ダバロスは、ポスト新自由主義の諸経験を分析するために、「規律ある民主主義」に言及している。これらすべてが、新たな情勢の中で大闘争が現れようとしているとしても、抵抗の能力を徐々に弱らせてきた。
またアルゼンチンでは、一〇万人以上をレイオフし、雇用の諸権利に攻撃をかけようとしている、マクリ政権という戦争機構を前に、階級闘争派労組運動が自らを組織化する過程の中にある。ベネズエラでは、マドウロの敗北が、階級的復讐を決意した右翼の復帰の合図となると思われる。そしてこの右翼は、組織化の分野で、また社会的諸権利の分野でも、民衆的チャベス主義の獲得物を元に戻したいと思っている。ペルーでは、かなりの抑圧レベル、特にコンガ鉱山計画をめぐる先住民衆の諸闘争に対する抑圧を伴ってあからさまな新自由主義右翼が統治している。
われわれが、社会と民衆の諸闘争の永続的な無慈悲化を付随させて、何年間もメキシコで起き続けていることを注視するならば、実際将来は寒々しいように見える。しかし、ペニャ・ニエトの連邦政府がとっている諸方策に対決して、この二、三週間進行している大衆的な諸決起が示すように、依然希望の微光も伴われている。
それゆえ非常に複雑なシナリオの中で、賭けられている重大なものごとがある。たとえある種の再帰、抵抗の能力があるとしても、今日問題は、オルタナティブの問題だ。われわれは、PTの、あるいはキルチネル主義の再構成に挑もうとするのだろうか? あるいは、用意のある自立したあらゆる社会層と政治的部分と共に、彼らの成果評価を行い、エコソーシャリズムと反資本主義の左翼を再建することに挑むのだろうか?

国際主義的連帯再組織化が必須


――トランプ時代はラテンアメリカにとって何を意味するのか?

 それこそこの時期の問題、私にはそう見える。われわれはすでに、チカーノ(メキシコ系米国人)に対する、またあらゆるラテンアメリカ人、米国内の許可証のない労働者に対するトランプの暴力的、レイシズム的、外国人嫌悪的な諸々の関わりを見てきた。そこには、大量追放という約束とその始まりが一体になっている。思い出されるべきだが、オバマもまた、書類をもたない何十万人もの人びとを追放した。彼はそれとまさに同じく、米国の好戦的な帝国主義的政策に終止符を打たなかった。現実はそれとはまったく逆だった!
しかしトランプの場合、危険はもっと大きい。メキシコとの間の壁の拡張に関する表明は、彼の憎悪扇動政治のはっきりした象徴だ。トランプはキューバとの外交関係再確立に異議を突き付けようとしている。そしてコロンビアにおける和平プロセスを脅かす可能性がある。
ここには矛盾した作用がないわけではない。サパティスタがメキシコで一九九四年はじめに公然と立ち上がったとすれば、それはまた北米自由貿易協定(NAFTA)に反対して闘うためでもあった。ということを思い出そう。今日、この協定を強く非難しているのはトランプだ。それは歴史の逆説だ。トランプの反動的なポピュリズムと保護主義はまた、多国間の、あるいは二国間であっても、いくつかの新自由主義的協定と対立している。彼はまた、環太平洋パートナーシップ(TPP)をも疑問視している。そしてここには、チリやペルーやメキシコといった諸国もまた関わっている。ミシェル・バチェレは最終的に、米国がもはや参加しようとはしていない以上、チリもこの条約から撤退するだろう、と公表した。
それゆえ、この条約を敗北させたのは社会運動ではなく、北の、米国の支配的影響力をもった反動勢力だ。何人かの評論家は、トランプ選出にはらまれたこれらの想定外の結果を喜んでいる。わたしにはそれは、連携相手を間違ってはならない、ということのように見える! その理由は、トランプがこれらの条約に疑問を表するとしてもそれは、米国のさらに利己的な利益を守るため、もっと過酷な協定を押しつけるため、そしてどうあってもラテンアメリカにおけるワシントンの支配的影響力(天然資源、淡水、レアアース、農地、ベネズエラ原油、チリの銅などをめぐる)を放棄しないため、だからだ。たとえ、この地域が直接的な優先度のある部分であることを、当面は何も示していないとしてもだ。それでも、オバマの地政学に関わる収支決算が十分に恐ろしいものであるとすれば、今後現れようとしているものは、世界的なカオスという点で、さらにもっと恐ろしいものであるかもしれない。
それゆえ、闘われるべき大きな闘争が、そしてまた、ラテンアメリカとその民衆の闘争との国際主義的連帯を再組織する必要もある。それこそわれわれが、フランス・ラテンアメリカ協会を通して、やろうと挑んでいる――控えめだが――ことだ。そしてわたしはこの機会をつかんで、われわれを支援し、われわれに加わるよう読者を招待する。
(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年四月号)     




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