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    かけはし2017.年10月23日号

ベトナム反戦運動とその時代


寄稿

山崎博昭君虐殺から50年(上)

訪問団に参加して考えたこと

歴史の中から検証する民衆連帯と交流の記憶

礒崎 茂


 一九六〇年代後半から七〇年代にかけた全共闘運動や反戦青年委員会の運動が大きな注目を浴びる転換点は一九六七年一〇月八日の佐藤首相の南ベトナム訪問に反対して闘われた闘いであった。この日、機動隊の弾圧で京大一回生の山崎博昭さんが虐殺された。ベトナム反戦運動の一時代を画した闘いから五〇年、ベトナム訪問団に参加した礒崎さんに寄稿していただいた。(編集部)

あの時代を捉えかえす

 一九六七年一〇月八日に佐藤首相が南ベトナム政府を訪問し、北ベトナムへの侵略戦争への支持を世界に向け明らかにするために羽田空港から出発することが明らかにされた。当時の三派全学連の学生と反戦青年委員会の労働者はこれを実力で阻止するために羽田空港に向かった。
 一方警察機動隊は、空港周辺でのデモを禁じるとともに空港につながる橋で阻止戦を張り、デモ隊を弾圧した。そこで京大生山崎博昭君が虐殺された。山崎君の死は全国の青年労働者、学生に衝撃を与え、ベトナム反戦運動が全国化するきっかけとなった。私も衝撃を受けた一人だった。仙台で、わずかに残っていた仲間とともに、その知らせを聞き、翌日山崎君虐殺抗議集会を開いた。この時から一連のベトナム反戦運動に参加し、その後の社会運動に参加し続けるきっかけになったのである。
 今年一〇月八日で山崎君の死から五〇年。これを前にして山崎君の高校時代の友人、山崎君のお兄さん、10・8羽田闘争救援会、そして元東大全共闘議長の山本義隆さんらが、山崎博昭プロジェクトを立ち上げ、虐殺された場所近くに、山崎君の虐殺の意味を伝えるモニュメントを建設したり、ベトナム反戦運動から広がった社会運動の意味を考える講演会を開くなどの活動を始めた。さらにベトナムホーチミン市にあるベトナム戦争証跡館で日本のベトナム反戦運動とその運動が全国化していくきっかけとなった山崎博昭君の死を歴史に残す展示会を開こうというプロジェクトもスタートした。
 そして今年「日本のベトナム反戦運動とその時代」特別展示会がホーチミン戦争証跡博物館で八月二〇日から一〇月二〇日までの二カ月間開かれることになった。展示会の初日に開かれたオープニングセレモニーに間に合うように八月一九日日本を出発する特別ツアーが組まれ私もその一員として参加した。

ホーチミン市でセレモニー


 八月二〇日にホーチミン市ベトナム戦争証跡博物館で行われたセレモニーには五〇人を超える日本側からのツアー参加者、日本ベトナム間の友好関係を築いて来た人々、ベトナム側から参加した人々などで会場はいっぱいだった。日本側から元東大全共闘議長の山本義隆さんが10・8山崎プロジェクトを代表してあいさつした。
 山本さんは、まず「日本とベトナムの人々との間の友好親善のためにこの画期的な展示会を組織していただいたベトナム証跡博物館に感謝を述べたい」と話し「一九六七年一〇月八日、佐藤首相の南ベトナム政府訪問を全学連が実力で阻止しようとしたことに対して機動隊の弾圧が加えられ、この中で京大生の山崎博昭君が虐殺された。このことが日本におけるベトナム反戦運動が全国化するきっかけになった」と述べ「ベトナム反戦運動は日本各地に広がり、アメリカ原子力空母佐世保入港阻止闘争、砂川アメリカ空軍基地拡張阻止闘争、王子野戦病院開設阻止闘争、米軍ジェット燃料輸送阻止闘争、北ベトナムへ爆撃に向かう沖縄米軍基地での基地労働者の戦いなどへと拡大していった。これはさらに三里塚の農民の戦い、自衛隊の中での反軍闘争などにも広がった。この展示会では、写真やポスター、リーフレット、米軍基地で秘密に配布された地下新聞などで日本の反戦運動の歴史を示すことを意図した」と一〇〇点を超える展示物について説明した。
 このセレモニーについてベトナム現地では翌日一〇紙を超える新聞が報道した。

ベトナム独立の闘いと日本

 私は一八歳から二〇歳を超え、自分自身が走り抜けた一連の街頭実力闘争がどのように記録されて展示されるのかも知りたいし、ベトナム戦争がベトナムの人たちに何を残しているのかも知りたくてこのツアーに参加を決めた。
このツアーの中で、観て聴いて心に残ったことのいくつかを紹介しておきたい。それはまず、ベトナムの文化と歴史の一端に触れることができたことである。隣国韓国についてはここ一五年間、韓国語も学び、直接韓国旅行をして韓国の文化や政治に触れてきた。しかし、ベトナムが、フランスとアメリカという帝国主義との戦争に勝利し、一度は失った民族の独立をどのように取り戻したのか。その苦闘の歴史については、まったく知らないままだった。これについて多くのことに気づくことができた。
それは、ベトナム戦争終結後、二〇年以上にわたってベトナムで生活し、今は日本に戻っていた友人が、ツアーで一緒のグループになり、旅行途中でベトナム民族独立運動の歴史について語ってくれたおかげである。彼はフランスの植民地となったベトナムがどのように再び民族の独立を果たすことができたか。その民族独立運動にたいして、日本がどのように直接的な影響を及ぼしてきたことなどを話してくれた。その話の一部を紹介したい。
フランスからの独立運動を戦うベトナムの人達にとって、当初はいち早く近代化を果たし、欧米列強から独立を維持した日本は自分たちが進める独立運動の手本のように見えた。ベトナムの各地でフランスの支配に蜂起する人々の戦いが個別に鎮圧されるのを見て,民族独立運動家ファン・ボイチャウは中国を経由して日本にわたり独立運動への支援をもとめようとする。一九〇四年日露戦争に勝利した当時の日本にはアジア各地から民族独立運動家が集まっていた。イギリスと戦うインドの運動家、中国を分割支配し、植民地化することを狙う日本を含めた帝国主義と戦う中国の運動家、これらの運動家と交流する中で、当初ファン・ボイチャウは、日本に直接的な軍事支援を求めるが、犬養毅に国家の基礎は人材の育成だと諭され、ベトナムの青年たちの日本への留学運動を組織する。東遊(ドンズー)運動と呼ばれ、一時は二〇〇人を超える青年が日本で学んでいた。
しかし、彼らの独立の手本と思えた日本は、すでに欧米帝国主義に遅れまいとアジアへの植民地獲得競争への参加者となって成立していく。一九〇七年には日本とフランスが協定してフランスは日本の朝鮮での権益を、日本はフランスのインドシナ支配をそれぞれ認めた。これにより、フアン・ボイチャウをはじめとするベトナムの民族独立運動家は日本から追放されることになった。その後、中国で辛亥革命がおこり、それに影響され、ベトナム国民党が作られたり、一九一七年のロシア革命・ソビエトの成立で社会主義思想も広まり、一九三〇年にはフランス共産党の創設にも参加したホーチミンがベトナム共産党を結成し、革命運動として民族独立運動を継続することになる。 (つづく)

中核派の「『三里塚のイカロス』批判」を批判する

「歴史の偽造者」は誰か?

内ゲバ主義への居直りはやめろ


自己保身に満ち
たレッテル貼り
 中核派の「前進」(二〇一
七・一〇・九号)に「映画『三里塚のイカロス』批判」を「中石浩輔」の署名入りで掲載している。
 「三里塚の歴史と真実ゆがめ 虚偽で『闘争の終結』あおる」というタイトルで、「三里塚のイカロス」は「三里塚の歴史と真実をねじ曲げ、国家権力による闘争圧殺攻撃に手を貸す『作品』となっている」と規定する。
 「中核派への憎悪 岸宏一に語らせ」の項では「三里塚のイカロス」に登場する岸宏一(元中核派現地責任者)に対して「一語一語が真実をゆがめ、真実を隠し、自己の脱落・転向を正当化するための言葉だ」と断定する。だが中核派は岸を反革命だとレッテル張りすることによって、岸らの告発・批判を一切排除し、内ゲバ官僚主義組織の自己保身的な立場を露骨に現わしているにすぎないのだ。

「3・8分裂」とは
何だったのか?
中石は、「『三・八分裂』は権力の同盟破壊」の項で映画が「国家権力中枢からの攻撃」である一坪共有地運動なのに、「反対同盟分裂を『セクト間の主導権争い』と描くのは歴史の偽造だ」と言う。
ならば当時の中核派の現地責任者の岸が一坪再共有化運動についてなんと言っているのか。『革共同政治局の敗北1975〜2014』で岸は(一坪共有地運動が)「『政府・公団に土地を売り飛ばす道を開くもの』と短絡的に批判することは誤りである。……この論点を苦し紛れにつくりあげた責任の多くは現地責任者の岸にあった。批判のための批判であるという自覚は当時からあった。今なおそれを繰り返しているのを見ると、悔恨の念ひとしおである」などと心情を吐露している。
また、同書で「第四インターへのテロル」の理由として、「三里塚闘争で主流派になる」目的で「現地の劣勢」を挽回するために「全国運動で巻き返し、さらに熱田派の中心的支援党派である第四インターに軍事的せん滅戦を仕掛け、その党派的瓦解を策動したのである。この行為は、筆者らは今にしてはじめていえるようになったのだが、国家権力にたいしてともにたたかう左翼運動の原則を踏み外したものといわざるをえない」と述べている。
これら岸の「証言と立場」表明こそが当時の中核派の「歴史的事実」であり、「歴史を偽造」しているのは現在の中核派であることを自ら証明している。
さらに「脱落者を使った破壊策動許すな」の項では(一坪共有地運動が)「第四インターはこの攻撃の手先に成り果てていた」と述べ、第四インターへのテロ襲撃を正当化している。当時、中核派は、三里塚芝山連合反対同盟と一坪再共有化運動に対し土地売り渡しなどと悪罵を投げ、全国の一坪共有者を戸別訪問し、恫喝などの暴力を強行し、熱田派系の三里塚連帯集会に対しては集会破壊を繰り返し策動してきた。これに対して中石は「そこで疑問や反対を訴える参加者に凄惨な暴行を振るった」「現地と全国での暴力事件は数知れない」などと一坪共有化運動に敵対する集会破壊と暴力事件を正当化し、その延長に第四インターへのテロ襲撃を居直る始末だ。

謝罪と真実探求
は切り離せない
岸は、中核派の党派的利害を優先し、第4インターを「反革命」と規定し、その「殺人未遂、傷害、暴行、脅迫」事件が「正義の戦い」だと居直ることに対して「第四インターへのテロルの誤りを自己批判的にとらえ返し、襲撃を受けた第四インターの被害者の方たちに心から深く謝罪する。あわせて第四インターの皆さんとラディカル左翼を支援してきたすべての皆さんに謝罪する」と言わざるをえなかった。この「歴史的事実」を現在の中核派が岸の「自己の脱落・転向を正当化するための言葉だ」と短絡的に切り捨てるところに内ゲバ官僚主義組織のあり方を、さらに居直り強化していくことを中石映評は示したのである。  (Y)
【参考論文】
?水谷 保孝/岸 宏一著「革共同政治局の敗北1975〜2014」(白順社)「第9章/第1節」に対する批判メモ/L・L(かけはし2015年6月22日号)
?革共同(中核派)再建協議会の自己批判は受け入れられない JRCL中央委員会声明(『かけはし』(2009年2月23日号)

 

 



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