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    かけはし2018年1月29日号

資本主義は人類を転落の淵に近づけている


エコソーシャリズム

COP23:ギャップから崖っぷちへ

利潤の論理から決別しない限り気候を救出することはできない気候を

ダニエル・タヌロ


COP24が重要な会合になる

 気候に関する国連枠組み条約署名国の第二三回会合がドイツのボンで締めくくられたばかりだ。それは、二〇一五年のパリCOP21と二〇一八年のカトヴィツェ(ポーランド)COP24をつなぐ会合だった。
 われわれが知るように、パリは、今世紀末時点でとどめるべき地球温暖化のレベル(工業化以前時代比で)に関して、いわゆる「歴史的」合意を結論とした。それは「二度Cよりも十分に低い水準を保ち、一・五度Cを超えないための努力を継続する」というものだった。
 カトヴィツェは、ボンよりも重要な一歩となるだろう。つまり署名国は、彼らの大いなる意欲の水準をどのようにして、またどの程度引き上げるかを語らなければならないだろう。その意欲とは、一方における彼らの国の「気候プラン」中に計画された現在の温室効果ガス削減レベル、および他方におけるパリで書面に書かれた世界的目標を全体として達成するために必要と考えられる削減レベル、この両者の間にあるギャップに橋を架ける目的に対する意欲だ。たとえばその一部であるベルギーは、その名に値する気候プランをもっていない。
 国連は毎年、「排出ギャップ」の挑戦課題に対する特別な報告に努力を払っている。その二〇一七年版(排出ギャップ報告2017)によれば、ギャップは「警報に値するほど大きい」。それは以下のようにつつましく書いている。すなわち、諸国の気候プラン(あるいは、国毎に決定された寄与、NDCs)は、二度C以下にとどまるために行われなければならないと考えられる排出削減の三分の一にしかあたらない……そして(しかしこの報告がそう言っているわけではないが)一・五度C以下にとどまるために行われなければならないと考えられる削減の四分の一以下だ、と。

ギャップ埋める最後のチャンス


 今や時間は浪費されつつあり、日程表はきつくなり続けている。こうして報告は「この排出ギャップが二〇三〇年までに満たされないならば、二度Cを超えないという目標が達成されるということはほとんどありそうにない。現在のNDCsが完全に実現されたとしても、二度Cのための炭素予算は二〇三〇年で八〇%が使われるだろう。炭素予算に対する現在の評価を基礎とすれば、一・五度Cのための炭素予算は、二〇三〇年までにすでに使われることになるだろう」と語っている。
 念のために言えば、炭素予算とは、蓋然性Xの下に今世紀末における温度上昇Y度Cを超えないために、大気中に送り込むことが可能な炭素量のことだ。「排出ギャップ報告2017」で述べられた二度Cと一・五度Cの炭素予算の場合、その蓋然性は六五%だ(注記すればそれは、確かさとして大きなものではない。あなたが旅行に使う飛行機が飛行中に爆発しないチャンスは六五%しかないと告げられたならば、あなたはどうするだろうか?)。
 最終期限の問題に戻ろう。二〇三〇年までにギャップを埋めるためには、遅くとも諸々の方策が二〇二〇年までに――三年以内に――講じられなければならない。そしてそれらは各国のNDCsの排出削減を三倍に増やさなければならない。二〇二〇年という年は、ギャップに橋を架けるための各国NDCsの対応に対し、パリが日程を決めた最初の日付けだ。
 この決定的な交渉を準備するために諸政府は、二〇一八年に始まる「促進対話」と名付けられた一つのプロセスを計画した。ギャップに関する国連報告は、「促進対話と二〇二〇年のNDCs見直しは、二〇三〇年中にギャップをなくすためには最後のチャンス」と印刷物の形で書いている。
 「ギャップをなくす最後のチャンス」が本当に意味していることは、今世紀末での地球温暖化が二度C以下にとどまる最後のチャンス、ということだ。念のために言えば、二度Cという地球温暖化の下でほぼありそうな――そして不可逆的な――ことは、均衡点として、およそ四・五メートルの海面上昇が付随されるということだ。

COPの歩みはあまりにのろい

 パリの目標を満たすために必要となる努力の程度を前提とした場合、またこの努力が決定され有効に実施されることが迫られる極度の短期的枠組みを前提とすれば、われわれが今語っている対象は、ギャップではなく崖っぷちと言うべきだろう。
ギャップに橋を架けること――そして崖っぷちから転げ落ちないこと――は可能なのだろうか? この問への回答は、あらためて二重となる。すなわち、技術的にはイエス。しかし資本主義の生産力主義という脈絡ではノーだ。
一九九〇年のリオで採択された気候変動に関する国連枠組み条約は、地球温暖化の「危険な水準」を超えない、という目標を定めた。この危険な水準を量的に確定――二度Cを超えず、一・五度Cを超えないための努力継続――するために、二五年と二一回のCOPを要した。
この遅さを前提とした時、世界の各国政府が、二度C目標を満たす目的で彼らの努力を三倍化するため、また一・五度C(事実としては、絶対的に到達されるべきもの)を満たすよう四倍化するために取られるべき方策に合意する上で、この二年で十分だろう、と考えるには、極めて楽観的かつ純朴でなければならない。リオ以後の二五年、世界の排出は拡大し続けているのだ。
周知のように、排出は僅かしか増大していない(二〇一四年、二〇一五年、二〇一六年に対し、各々〇・九%、〇・二%、〇・五%)……、しかしそれは増えているのだ……、ところが他方でそれは、極めて大規模にかつ極めて急速度で減少しなければならないのだ!

トランプの決定の破壊的効果


気候問題に関し一方で米国が政治的に非常に孤立し、他方でいくつかの州(カリフォルニア州が前線を占めている)がトランプと気候の犯人である彼の取り巻きに公然と挑んでいることは、確かに前向きだ。しかしそうであっても、米国の撤退は諸々の交渉に重くのしかかっている。
この撤退は、ギャップに橋を架けることをもっと困難にすらするだろう。米国のNDCは、CO2排出を二ギガトン(Gt、一〇億トン:訳者)だけ減らすという約束からなっている。この二Gtは、NDCsにより行われる全体としての非常に不十分な努力の二〇%に相当する。したがってこの量が、三年以内に取られるべき方策に加えられなけれならないのだ。
米国は真実のところ撤退はしないまま撤退しようとしている、ということもまた心に留められなければならない。つまり彼らは、ボンに出席し、気候のためのグリーン基金にブレーキをかけ続けている――オバマの下でと同じく――のだ。特記すればこの基金とは、気候変動の軽減とそこへの適応に向け、二〇二〇年から南の諸国に利用可能にする、と工業化を遂げた諸国が誓約した年一〇〇〇億ドルのことだ。気候変動には主に富裕な諸国に責任があり、貧しい諸国はその主な犠牲者だからだ。
このグリーン基金は、二〇一〇年のカンクンCOP16で決定された。しかし一〇〇〇億ドルという目標は達成にはほど遠い(控えめに言って)。他の諸国――特にEU――はこの機をつかんで、南の諸国と諸々のNGOの具体的な要求、どれだけの額か、いつか、どのような形でか(寄付か、貸し付けか)、に回答することを避けるために、米国の姿勢を口実に利用した。

救いはジオエンジニアリング?

 真実は、世界の資本主義がCOPからCOPへと、人類を崖っぷちに近づけ続けている、ということだ。この警報の響く情勢を前に、彼らは「エネルギーミックス」の中での再生可能エネルギー比率上昇に関する数字を取り上げて、われわれを安心させようと試みている。この上昇は確かに極めて急速であり、今後の年月に加速するだろう。再生可能エネルギーが生産する電力は世界的に、化石燃料燃焼が生産する電力よりも費用がかからないからだ。
しかしながら、考慮に入れられるべき指標は排出の減少であって再生可能エネルギー比率の上昇ではない以上、先のような気安めの話はわれわれを間違わせるものだ。そしてわれわれが、成長を、したがって利潤を求める競争を問題にしない限り、再生可能エネルギー比率は、温室効果ガス排出の増大と同時的に高まり得るのだ。そしてそれこそが、まさにこのおよそ一五年間起き続けてきたことなのだ。
資本主義はこの巨大な問題をどのようにして取り除くのだろうか? トランプと彼の類の犯罪的な愚か者たちにとって、問題そのものが現れていない。つまり彼らにとって到来しつつある破局は、自然現象であるか、そうでなければ堕落した社会的慣行のゆえに神が人間に加えている罰となる。そうであれば、祈ろう、兄弟たち……だ。そしてどちらにしても、災いは貧しい者たちに降りかかる!
しかし他の者たち、気候否認論に避難せず、脅威が本当であり、恐ろしいものであること、破局はとうに進行中であることを分かっている、そうした資本のスポークスパーソンたちは、この試練に応えようと挑むために何をするつもりだろうか? 資本主義が成長なしにはやっていけないがゆえに、ギャップに橋を架けることは不可能だと実感した時、彼らは何をするつもりなのだろうか? 彼らはそれでも、崖っぷちからの転落を避けるという望みの下に、ジオエンジニアリング(成層圏への硫酸塩散布など、取り返しの効かない危険を招く可能性が極めて高い地球改造諸方策:訳者)の下に集まるだろう。
重要なことだが、排出ギャップに関する国連報告は今回初めて、マイナスの排出技術に関する一章を設けている。その技術とは、排出削減が一・五度C―二度Cを満たす上で不十分であり続ける「その場合だけに」、大気から炭素を取り除くと思われる技術のことだ。ますます明白になっていることは、「その場合だけ」という制限条件が、残酷な真実――つまり、あらゆる技術的で科学的な手段にもかかわらず、少数が強要する利潤のための競争を理由に、人類は惨害に向け頭から突っ込み続けているという真実――が露呈することを回避することを目的としたスタイルの定式である、ということだ。

気休めの議論では間に合わない

 しかしマイナスの排出技術に戻ろう。これらの技術のいくつかは魔法使いの弟子に値する。これは特に、炭素の捕捉と隔離と一体化したバイオエネルギー(BECCS)、すなわち、炭素捕獲とその地質学的貯蔵を伴う、化石燃料置き換えとしてのバイオマス燃焼による発電の場合だ。
気候へ有意義な影響を及ぼすBECCSについて言えば、それには途方もない量の水(今日人間的目的のために利用されている淡水の三%)、および産業的なエネルギー作物向けの極めて広大な領域が必要になると思われる。われわれが迫られるのは明らかに、疫病とコレラの間の選択のようなものだ。つまり、食料生産か、恐るべき生物多様性の減少か、と(もっと恐ろしいものですらある、と言いたい)。あるいは同時にその両方でもある。
他の技術、たとえば造林、植林、炭素貯蔵に誘導性のある土壌管理、湿地やマングローブの再生は優しい、と告げられている。その通りであり、それらはそのものとしては優しい。しかし経験が示すことは、そのものとしては優しい技術も、最大利潤と市場拡大を刻み込んだ実践で駆り立てられた場合、極めて苛烈な社会的効果を及ぼす可能性をもっている、ということだ。資本の論理はすでに、気候を名目に(REDD、REDD+、その他)先住民の人々がどのようにして森から放り出されるか、を示している。この強調に可能性を与えられているのは、マイナスの排出効果をもつ「優しい」技術の資本主義的管理の下における全般化、という枠組みの中でのみなのだ。
しかしながら、資本主義の枠組み内部でも、優しい技術は十分とはならないだろう。それらは本来的目的に足りる可能性はあるのだがしかし、資本家の観点から見てBECCSよりも利益にならないがゆえに、この脈絡においては用をなさないだろう。事実BECCSは重工業に市場を提供し、資本が二重の作戦で成果を上げることを可能にする。つまり一方で電力を売り、他方で大気からCO2を除去する支払いをコミュニティにさせる、ということだ。
この点で興味深いことだが、「排出ギャップ報告2017」の一つの章句からわれわれは以下のことを知ることができる。つまり、炭素の捕捉と隔離と一体化したバイオエネルギーに頼ることなく、地球温暖化二度C以下にとどまることはなお可能、ということだ。それではなぜ、科学者たちが開発した移行シナリオの九〇%以上が、先のような危うい技術の展開に頼っているのだろうか? その理由は、こうしたシナリオに取り組んでいるほとんどの科学者が、利潤の法則を自然の法則として、重力の法則と同じほど避けようがない、と考えているからだ。
COP交渉から期待できることは何も、絶対的に何もない。そこでの気休め的で自己満足的な議論は、人びとを眠り込ませるためにあやすことしか意味しない。連帯の枠組みの中で気候を救い出すことは、唯一われわれの闘う能力に、そしてその諸闘争を通じて、利潤の論理に代わる社会的論理、つまり合流をつくり出す論理に基礎を据える能力にかかっている。
▼筆者は実績のある農学者であると共に、エコソーシャリストの環境活動家。また「ラ・ゴーシュ」(第四インターナショナルベルギー支部、LCR/SAPの月刊誌)の記者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年一月号) 



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