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    かけはし2018年2月5日号

欧州の革命とヘゲモニー論


連続講座

永続革命としてのロシア革命―

マルクス・エンゲルスからトロツキー・グラムシまで

第4回「ロシア革命からヨーロッパ革命へ」(中)

報告:森田成也

3. トロツキーの見直し
の当否

 次に、トロツキーが一九〇五年革命にもとづいて行なった永続革命論的予想がどの程度一九一七年の革命によって証明され、あるいは外れたのかについて、簡単に振り返っておきたいと思います。
 まずもってトロツキーの予想の基本線は全体として一九一七年革命によって確証されたと言えるでしょう。そこで重要な相違点だけ述べます。
 トロツキーにとって予測に反する重要な点は二つありました。一つは、すでに述べたように、マルクス主義系の社会主義政党もナロードニキ系の社会主義政党も左右に二極分化し、ソヴィエトを通じた社会主義諸政党の連合としてプロレタリア独裁を実現することができず、事実上、ボリシェヴィキの単独政権になったことです。後にようやく左翼エスエルが参加しましたが、事実上、権力はボリシェヴィキという一政党に帰すことになったのです。労働者諸政党が積極的にソヴィエトに参加し、そこでの民主主義的討議と多数決を通じて階級全体の独裁を成り立たせるという一九〇五〜〇六年段階のトロツキーの労働者民主主義的展望は実現されませんでした。この孤立状況は後々にマイナスに作用します。ボリシェヴィキ一党だけが権力を圧倒的に持った現状は、労働者民主主義の機関としてのソヴィエトの形骸化を必然的にもたらし、ボリシェヴィキが変質すれば革命そのものが変質してしまうという非常に危うい状況を作りだしました。
 重要な誤算の二つ目は、言うまでもなく、西欧社会主義革命が不発に終ったことです。トロツキーは「総括と展望」において、ロシアで労働者階級が権力を取ること以上に西欧革命にとって有利な状況があるだろうか、それでヨーロッパで社会主義革命が起こらないなんてことがありうるだろうかと主張しています。その後、さらに世界戦争まで起こって、ヨーロッパの人民を絶望的な殺し合いと貧困に追い込んだわけですから、一九〇五〜〇六年時点よりもいっそう有利な状況にあったわけです。二月革命直後に書かれたトロツキーの一連の論文の中で、ヨーロッパは一種の火薬樽のような状況であり、そこにロシア社会主義革命という松明が投げ込まれて爆発を起こさないことなどありえないと主張されています。それにもかかわらず、ヨーロッパ社会主義革命は起らず、このことがボリシェヴィキを今度は国際的に孤立させたのです。
 社会主義勢力の二極分化がボリシェヴィキを国内的に孤立させたとすれば、ヨーロッパ革命の不発はボリシェヴィキ政権を国際的に孤立させたのです。この二重の孤立状況が労働者国家の変質をもたらすうえで決定的な要因となります。通常は後者だけが言われますが、前者も重要な要因です。

4 ヨーロッパ革命の挫折と
労働者国家の成立(略)

5. 先進国革命の新たな探究
――トロツキーとグラムシ


さて、いよいよ最後のテーマに入ります。ほとんど時間も残っていませんので、この最後のテーマはかなり駆け足で見ていくことにします。今回、四回にわたって行なった「永続革命としてのロシア革命」のサブタイトルは、「マルクス・エンゲルスからトロツキー・グラムシまで」ですから、最後のテーマはもちろんトロツキーとグラムシです。

 グラムシの
ロシア革命観

 グラムシは、ロシアの二月革命直後に書いた「ロシア革命についての覚え害」(一九一七年四月)の中ですでに、「それでもわれわれは、ロシア革命が一つの事実であるばかりでなくプロレタリア的行為であり、当然に社会主義制度に流れ込むに違いないと確信している」と述べています。つまり、まだ十月革命がずっと先の四月の時点ですでに、それが「社会主義制度に流れ込む」、つまりブルジョア民主主義革命にとどまらず、社会主義革命へと永続するだろうという展望を述べているわけです。
グラムシがその根拠としている論理も興味深いものです。グラムシは「ロシア革命はジャコバン主義を知らなかった」と述べています。つまり、ジャコバン主義の精神、その革命性はプロレタリアートによって代行され、したがって社会主義革命へと飛躍できるのだということ、つまりジャコバン主義が本来、歴史的課題としていたブルジョア民主主義革命が革命的プロレタリアートによって代行されるので、それは社会主義革命へと連続すると言っているのですから、このかぎりでグラムシは、なかなか永続革命論に近い視点を持っていたことがわかります。
さらに「ロシアの最大限綱領派」(一九一七年7月)や「『資本論』に反する革命」(一九一八年一月)では一種の「不均等複合発展の法則」のようなことが言われています。ロシアは、ヨーロッパのような高度な資本主義的発展を経験していないが、社会主義的プロパガンダを通じてロシア人民は先進国におけるプロレタリアートの経験を追体験することができたから、あえて実践において資本主義が高度に発達してからようやく社会主義へと踏み出すという過程を経る必要はないのだ、と言うのです。
非常に限られた情報にもとづいてであれ、グラムシがこの時点でロシア革命の秘密を不均等複合的発展の法則に求めたのは、非常に注目すべき点です。そして、かの有名な「『資本論』に反する革命」という論文も、グラムシ自身がロシア革命をあたかも『資本論』に反する、つまりマルクスの発見した法則性に反する非正統なものだと言っているのではなく、ヨーロッパの社会民主主義者のように『資本論』を機械的に解釈した人々にとっては「『資本論』に反する革命」に見えるが実際にはそうではないと主張するものです。

工場評議会から
「獄中ノート」へ

 その後、グラムシはイタリアにおける工場評議会運動を経験し、その敗北を通じて、またその後のさまざまな紆余曲折(ボルディガ的極左主義への帰依とそれからの離脱、イタリア・ファシズムの経験など)を経て、先進国革命の独自性の探究へと問題関心を移していきます。
まずもって、グラムシのこの探求の前に、ボリシェヴィキとコミンテルン自身がヨーロッパ革命に関する自らの展望を修正しています。ポーランドの敗北によって世界革命がしばらく遠のき、戦後恐慌も終息する中で、ヨーロッパ資本主義の相対的安定化が始まる時期に、コミンテルンは第三回大会において戦術転換を行ない、攻勢と分裂の路線から、陣地戦と統一戦線(時にはイタリアの場合のように党そのものの統合)という路線へと転換します。この路線は第四回大会でさらに進化を遂げることになりますが、このときにはすでにレーニンは倒れていたので、事実上、これを推進したのはトロツキーでした。当時、イタリア共産党からモスクワに派遣されていたグラムシは、トロツキーの第四回大会報告を直接聞いています。そして、コミンテルンおよびトロツキーの指導のもと、グラムシは、ヨーロッパの諸政党の中で最も極左的であったイタリア共産党を統一戦線と陣地戦の方向へと転換させる上で決定的なイニシアチブを発揮します。この経験が、後に、獄中ノートにおいて、息の長い陣地戦と結びついたヘゲモニー論の新たな探求へと結実するのです。「獄中ノート」では、あれこれとトロツキーを非難しており、すでに述べたように、トロツキーを機動戦の理論家として一面的に描き出しているのですが、実際にはトロツキーが始めた仕事をグラムシは獄中ノートでも継続しているのです。

 二つのヘゲモ
ニー論

 この新たな探求の最も重要な成果の一つは、言うまでもなく「ヘゲモニー論」です。「ヘゲモニー」という言葉はすでにロシア・マルクス主義の中で頻繁に用いられていましたが、それは主として特定の階級ないし潮流による指導権や支配権の獲得という意味でした。しかし、グラムシのヘゲモニー論の核心は、単なる一方的な指導や支配ではなく、国家ないし党や社会の支配的層が、その支配や指導の対象となる人々の抵抗や反抗などを押さえ込みつつも、その中の進歩的要素や政策や進歩的人士を有機的に取り込み(順応主義)、そうすることで広範な民衆の「同意」を獲得し、それによって確立ないし再確立された有機的な指導や支配のことです。単なる一方的なイデオロギー支配ではありません。
さらに、このようにして確立されたヘゲモニーは、より強固なものになるためには、それは社会的な諸制度や諸装置や慣習(グラムシはそれを塹壕やトーチカなどの軍事用語で説明しています)などを通じて社会構造そのものへと実体化し、それがイデオロギー的な誘導とは別に人々に一定の行動や考え方の最初から枠をはめて、それを通して支配を安定させ永続させなければなりません。このような事態を後にある研究者は、先の「主体的ヘゲモニー」と区別して「構造的ヘゲモニー」と呼んでいます。ブルジョアジーはまさにこのような制度や習慣を通じて社会的にヘゲモニーを行使しているのです。ですから単なるイデオロギー闘争だけでは権力をとれないのであり、社会的に制度化された構造的ヘゲモニーを下からしだいに解体していき、別の対抗的装置や習慣の構築を通じて、したがって対抗的ヘゲモニーの構築を通じてでなければ(分子的変化)、従属階級としての労働者は主体的なヘゲモニー勢力にはなれないのです。ですから、それは必然的に陣地戦となります。
(つづく)

コラム

冬ごもり

 晩秋から初冬にかけてときおり春のような暖かい日がある。小春日和と言われている。旧暦の一〇月、今の暦では一一月頃にあたる。小春は旧暦一〇月の異称である。
 一一月は沖縄地方では未だ晩秋だ。南風が吹くと気温はグンと上がり夏のような日差しになる。とても小春日和と言うわけにはいかない。「小夏日和」と呼ぶそうだ。元石垣島地方気象台長、北村仲治氏の造語だという。柔軟な発想で言い得て妙である。
 権威に弱い文部省や頑迷な国語学者たちは現在も表だって異議は挟んでいないようだ。
 いつの頃だったか本土での調査で、小春日和を一一月に限定せずに冬季全体を通じて使用する方がわかりやすいという意見が過半数に近かったという報道があったという記憶がある。一一月以外はわざわざ「春のような暖かさ」と表現しなければならない。由緒、いわれはそれとして、私もその自由化の意見に賛成だ。言語とはそのようにして大衆の中で変遷していくものだからだ。
 最近は寒の入りの頃になると私は冬ごもりになる。腰痛と寒さは相性が悪い。寒くなると腰痛の痛さは倍増する。私は生まれつきの寒暖差アレルギーなので浴槽に入って体を温めると全身が痒くなる。シャワーしか使えず腰を温めることも出来ない。
 さらにインフルエンザとノロウィルスが猛威をふるうからだ。スーパーで買い物をする時にも神経を使わなければならない。つい出不精になってしまう。
 ここ二、三年はまさに引き籠り状態だ。できれば冬眠でもしたいと思うほどである。
 夜勤中心の仕事の時期は毎年インフルエンザに感染した。人と接する仕事なのでやむを得ない。勤務中に四〇度近くの熱を出し大変な迷惑をかけたことも少なくなかった。
 ノロウィルスの脅威はその感染力も破壊力もインフルエンザを凌ぐほどのものであることは多言を要しないだろう。幸いなことに私はノロウィルスには未だ感染したことはないが。
 「冬うつ」という病がある。冬季特有の症状で春暖かくなると共に治るという。毎年繰り返し、過眠と過食(特に糖質)がその特徴で、主たる原因は日射量だそうだ。症状は気分の落ち込み、疲れやすい、活動量の低下など一般的な鬱と同様だが、不眠、食欲減退とは真逆であるらしい。
 冬の時期は屋内で過ごすことが多くなり日光にあたる時間が少なくなる。光の量が少なくなると脳内でセロトニンの分泌量が減り、結果としてうつ病になりやすくなるという。
 あたかも私のために用意された病のようだ。まして私にはここ数年来複数の持病があり、それが大きなストレスになっている。
 いつの日か私は「冬うつ」になってしまうのだろうか、それとも笑い飛ばすことができるだろうか。そんなことはケセラセラだ      ( 灘)



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