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    かけはし2018年3月5日号

ノートルダム空港反対運動の歴史的勝利


フランス

ノートルダム・デランドの新国際空港建設計画を中止

巨大開発プロジェクトと対峙するZADとNoTAV

 一月一七日、フランスのフィリップ首相はナント近郊ノートルダム・デランドの新国際空港建設計画を中止すると発表した。計画発表から五〇年に及ぶ闘い、特に、二〇一二年以来、建設用地を占拠し、全国から多くの活動家が結集してきた「ZAD」運動の歴史的な勝利である。しかし、政府は同時に、ZADの活動家に対して、占拠している用地からの退去を求めており、攻防は新たな段階に入っている。一方、アルプスのイタリア側のスーザ渓谷地域では、高速鉄道(TAV)の建設に反対する村人たちが二十数年にわたって村ぐるみで抵抗の運動(NoTAV)を展開し、全ヨーロッパからの活動家の注目と支援を集めてきた。空港、高速鉄道などの巨大開発プロジェクトに反対するローカルな闘いの発展はヨーロッパにおける反資本主義の闘いの新たな結集軸の一つとなりつつある。三・二六三里塚空港管制塔占拠の四〇周年を迎える日本においても、各地の空港反対運動やリニア新幹線反対運動の歴史的意義と今日的な位置を考える上で、ZAD運動とNoTAVの経験は多くの示唆を与えるだろう。そして何よりも、巨大な生活環境破壊そのものである軍事基地建設に対する抵抗を続けている沖縄の人々にも励ましとなるだろう(編集部)。

NPAの声明(一月一七日付)


五〇年に及ぶ闘争、一〇年にわたる建設予定地の占拠、何万人もの人々、建設予定地やその他の場所に何度も結集した全世代の農民、都市住民、占拠運動参加者。集会、日夜にわたる祝祭、闘争に養分を供給してきた多様な文化、多くの地元住民共同体。繰り返される脅威と支援。そしてついに最終的な勝利! 政府は正式に空港建設計画を放棄することを発表した。
これはあまりにも長い年月にわたって経験したことのなかった勝利であり、運動が政府や利権集団(特に建設業界)を打ち負かしたのである。
これはノートルダム・デランドだけの成功ではない。これは各地で闘争している人々、特に破壊的なプロジェクトに反対している人々にとって、勝利は可能だという合図である。これは最後に勝つのは多国籍企業や警察であるとは限らないことを示している。この点で、これは空港に対する勝利であり、自分たちの命、生物多様性、土地、水こそが利潤に優先すると考えるすべての人々を勇気づけるものである。
NPAは政府によって退去または接収を求められている人々がこの地に残り、権利を回復できるように、また、この森にやって来て、住み着いた人々が自由に耕作を続け、さまざまな仕事、生活環境、生活様式、闘いの形態の実験を継続できるように、 「現在ZADを利用しているすべての人々によって確立されたZADの未来のための共通の前提」(支援団体の共同声明)を支持する。空港反対運動こそが「空港のない、多様性と包容性に満ちた未来」のために、この土地の新たな利用方法――新しい施設、農業あるいはその他――を決定するべきである。
ZADに対して一部地域からの退去の圧力が続いている。この土地を社会、環境、農業に関わる実験のためのスペースとして維持するための闘争が続いている。
NPAは空港反対運動の勝利を祝し、ZADの未来の建設に向けて二月八日に大挙してこの森へ結集することを呼びかける。

交通をめぐる「地方的」闘争
ノートルダムとスーザ渓谷

 フランスではATTAC、SUDをはじめ多くの社会運動団体、環境団体がZADの闘いを支持しており、二〇一六年にはZADを支持する文筆グループCollectif Mauvaise Troupeによって闘いの記録が刊行されている。その英語版「ZADとNoTAV」が二〇一八年に刊行された。以下はこの本へのクリスティン・ロス・ニューヨーク大学教授による序文である(一部抄訳、表題と小見出しは訳者による)。運動の背景、とくに日本の三里塚闘争への言及が興味深い(編集部)。

開発の論理とエコロジー的基盤の対立


近年、「大規模な、押し付けられた、無用の」インフラ・プロジェクトの予定地の占拠や工事阻止の行動が増えていることは、新しい政治的感性の形成を物語っている。あたかも二〇世紀末に向かうどこかの時点で、全世界で人々が、開発の論理と生活のエコロジー的基盤の間の緊張が自分たちの生活を支配する主要な矛盾であることに気づき始めたかのようである。そして全世界の多くの農村や半農村地域、たとえばフランスのラルザックや日本の三里塚(成田)で国家による土地の支配に対する闘争が起こった。これらの運動は、特定の地域または土地に確固として根付いているという点に特徴があった。
一九八八年のブラジル・アルタミラのシングー川の大規模ダムに対する反対運動から、チアパスにおけるサパティスタの蜂起、そして最近のノースダコタ・パイプラインに対するスタンディングロック・スー先住民の抵抗まで、アメリカ大陸におけるこの種の運動は多くの場合、先住民が基盤となり、リーダーとなっているという特徴がある。
しかし、ヨーロッパでの土地をめぐる運動の二つの最も象徴的で継続的な運動であるZADとNoTAVにおいては、アメリカ大陸の例とは異なり、さまざまな文化や生活習慣を持つ広範な人々が集まっており、特定の社会的・民族的グループが指導しているわけではない。しかし、本書の著者たちが言う「悪夢のような世界の容赦ない拡張」を阻止しようとすることによって、それらの運動はアメリカ大陸における運動と結合して、時代を規定する攻防線を再構築しつつある。そうすることによってそれらの運動は「日常」についての新しい政治的理解と、日常茶飯事を管理する方法の輪郭を可視化している。今後は社会的不平等を変えていくためのあらゆる努力は、もう一つの差し迫った問題、つまり生活を維持するという問題と結合せざるを得ないだろう。地球上での生活の条件を守ることはすべての政治闘争の意味についての新たな決定的な視点となった。
フランス西部のノートルダム・デランドの小さな村の外れにある小さな片隅の占拠は、今日この国で起こっている最も長期にわたる闘争の戦場である。この地における国際空港の建設は四〇年にわたって四〇〇〇エーカー(約一六平方キロ)の農地、湿地、森を破壊の脅威にさらしてきた。アルプスのイタリア側のスーザ渓谷では、七万人が住む渓谷地域のほぼ全体が四半世紀にわたって、アルプスを貫いてトリノとリヨンを結ぶ高速鉄道(TAV)の建設と闘ってきた。「先住民が進歩に抵抗している」という表現がよく使われるが、これらのヨーロッパの地域では多様な人々の効果的な連携が実質的にその役割を果たしてきた。彼ら・彼女らは工事の進捗と地域の破壊を遅らせ、妨げ、そしておそらくは最終的に(いつかその時が来るだろう)阻止することに成功してきた。

開発の幻影と空港計画の迷走


ナント市郊外に新しい空港を建設する計画の大義名分とその提唱者は時代とともに変わってきた。その起源は「輝かしい三〇年間」(一九四五〜七五年)の絶頂期に開発の美辞麗句に夢中になっていたこの地域のブルジョワジーの夢と幻想だった。ある時点では空港は超高速機コンコルドの発着地の候補とされていた。パリをこの比較的短命に終わった不運な技術がもたらす甚大な騒音被害から解放するためである。その後、この計画の提唱者たちはこれを大パリ都市圏の第三の空港として売り込んだ。近年では「西フランスの立派な空港」としてブランド・イメージを変え、アクセス性、ツーリズム、商業機会をめぐる激しい地域間競争での優位を打ち出してきた。しかし、この計画が最初に浮上した一九六〇年代末と一九七〇年代初頭において、この計画を推進する側による開発に関する美辞麗句に対する当初の批判の一つ(今でも読む価値がある)は、この計画をニューギニアにおける招神信仰(神が天国から船や飛行機に文明の利器を搭載して自分達のもとに現れるという信仰)に譬えた。ナントの実業家たちは「空港を建設すれば神がやってくるだろう」と信じたのである。彼らはこの地域の産業はすぐにドイツや日本を震撼させるような発展を遂げる運命にあると思った。このプロジェクトに科学的装いを付与するためになされた調査・研究に投じられた費用はその実現のために必要とされた土地の購入価格を遙かに上回った。建設予定地は「ほとんど砂漠同然」と言われていたからである。この言い方は、植民地主義の決まり文句を想起させる。つまり、侵略前には人口は少なかったというわけである。実際、建設予定地に選ばれた区域は多くが湿地であり、一九七〇年代当時はほとんど認識されていなかった環境区分であった。
こうして一九七四年に、数十の農場を含む四〇〇〇エーカーの区域が空港の建設予定地に選ばれた。この区域は国によって「開発予定地」(ZAD)に指定された。この指定により国は土地の売却を希望する農民から買い上げるか、あるいは農村からの流出のお決まりのパターンとして、農民が死亡し、その相続人が土地を売却する時にそれを買い上げることが可能になった。しかし、土地収用のプロセスがゆっくりと続けられている間に、エネルギー危機が計画全体を歴史の中の「途切れ途切れの長い午睡」の中に沈めてしまった。
この時期が一九八〇年代と九〇年代にわたって続き、空港計画は忘れられた。完全に中止されたわけではないが、完全に継続していたわけでもない。しかし、その間にこの区域は「病気の余得」としか言いようのない恩恵を受けた。いつかはコンクリートに埋まってしまうことが運命づけられていたために、事実上、保護された農業地区となっていたのである。開発業者は将来の空港の近くに住宅や施設を建設することを躊躇したし、誰も空港の傍に住みたいとは考えなかった。ナント近隣の多くの地域を襲っていた郊外化がノートルダム・デランドでは食い止められていた。
一九七〇年代初めに計画が政府によって承認された直後から、土地の売却を拒否した農民たちによる空港反対運動が始まった。農民たちの中には農民労働者組合運動に参加し、ナントでの一九六八年の反乱の際にストライキに立ち上がった労働者を支援した人たちもいた。予定地の近くの住民たちも運動に参加し始めた。しかし、現在のような農民、町の住民たち、新しく来た人たち(「不法占拠者」やその予備軍)の連合が形成されたのは今世紀に入って社会党のジョスパン首相の下で建設計画が再浮上してからである。〇八年に最初の「不法占拠者」たちがやってきた時から、ZADは守るべき土地という新たな意味を付与され、ZADの行政上の境界が今では攻防の前線となっている。

空間・地域と結びついた闘争

 二つのインフラ計画に共通する最も奇妙な特徴は、既存のサービスとの重複である。すでにナント市には国際空港があり、すでにアルプスを通過する鉄道はトリノとリヨンの間で運行している(通常は輸送能力の半分以下で)。それにもかかわらず一九九九年にイタリアで新しい高速鉄道が計画された。リスボンとブタペスト、最終的にはキエフまでを結ぶ東西回廊の中心的な要素として、現在の路線に追加するというのである。フランス、イタリアの政府とEUの共同事業であるこの計画の当初の目的は、旅客・観光客の輸送を拡充し、また、イタリアとフランスのローヌ地方の企業経営者の統合を促進することだった。その後、この将来の鉄道の役割は主に貨物輸送に利用することへと変更された。今世紀初頭以来フランスとイタリアの間の商品の流れは徐々に減っているという事実にもかかわらずである。
このプロジェクトはアルプスのフランス側ではほとんど反対の声が上がっていないが、イタリア側のスーザ渓谷地域では計画発表直後から反対運動が始まっている。この地域は工業、農業、観光をベースとする複合的な経済と、反ファシスト抵抗運動における住民の結束の歴史を特徴としている。この渓谷を単なる交通の回廊に貶める計画への反発は瞬時に広がり、一九九四年に最初の市民グループが結成された。
空間との結び付きが強く、地理的に限定された闘争は、ある種の素朴な非妥協性を備えている。デビッド・ハーヴェイはこれが「特定の空間に結び付けられているという事実が『あれかこれか』という論理、つまり超越的な論理とは全く異なる論理を生み出す」からであると示唆している(ハーヴェイ「希望の空間」、二〇〇〇年)。空間との結び付きが強い要求や懸念、希望は存在に関わる選択、政治的選択が求められる状況を生み出す。空港建設を支持するのか、それに反対するのかという選択である。マルクスは「ヴェラ・ザスーリッチへの手紙」では、先の農村における国家との闘争との関連で次のように述べている。「それはもはや解決するべき問題ではなく、単に打倒するべき敵である……それはもはや理論的な問題ではなく、ごく単純に、打倒するべき敵なのである」。 

空港反対活動家が三里塚闘争に注目

 全長五七キロのトンネルはアルプスを貫通するかしないかのどちらかである。空港は農地の上に建設されるかされないかのどちらかである。他の国々はこのことをよく知っている。ノートルダム空港に先行する最も劇的で重要な例として、日本において成田空港のための農地の収用は一九六六年に始まり、国家と、土地を手放すことを拒否する農民の間の一〇年にわたる戦闘(死者も出た)が始まり、早い段階から極左派の全学連によって支持された。これらの先駆的な、叙事詩的とさえ言える戦闘は小川紳介とヤン・ル・マッソンの映画によって長く記憶されており、私はこの闘争は一九六〇年代の世界で最も画期的な闘争の一つだったと考えている。それはこの時代の多くのフランスの活動家の証言によると、彼ら・彼女らがパリやその他の都市で警察官と真正面から物理的に衝突するのを鼓吹した。ブレトンのドキュメンタリー監督であるル・マッソンによる成田闘争の映画、「鹿島パラダイス」は一九七〇年代初めにナントで上映され、早い時期からノートルダム空港に反対していた活動家が日本の先例に関心を向けるきっかけとなった。

無益なプロジェクト


しかし日本の経験が唯一ではなかった。少し前にカナダでは、好況の中でモントリオール郊外に新空港を建設する動きが活発になった。これは一九七六年のオリンピックに間に合わせて、当時では世界最大の空港を建設するという計画だった。土地を追われた一万二千人の農民の激しい抗議にもかかわらず、ミラベル空港は建設された。しかし、すぐにこの空港は都心から遠すぎることがわかり、徐々に利用者は旧モントリオール空港へ戻っていった。ミラベル空港は貨物用の空港に転換されたが、それでも利益は上がらなかった。人気のない荒涼とした旅客ターミナルは長年、映画のセットとして使われた。カナダの首相はここを追われた農民たちに戻ってくるように働きかけようとしたが、ほとんど成果はなかった。二〇一四年に旅客ターミナルは千五百万ドルを費やして解体された。
しかし、スペインこそが増殖する「幽霊空港」の本場であり、公共の資金を無益な建設工事のために略奪する典型的な例を提供している。人口四千七百万人のスペインには現在、五十二の空港がある(人口がスペインの二倍であるドイツの空港数は三十九)。この五十二の空港のうち三分の二が経営破綻に瀕しており、中には一度も航空機の離発着が行われたことがない空港もある。それでも空港には職員が配置されており、巨額な費用で維持されている。 

失われる風景

 私はZADについては想像の共同体に関する討論のために招待されるまで、よく知らなかったが、この地が湿地であると聞いていたので、ゴム長靴を持って行く必要があるという程度のことは知っていた。そのことを私の招請元に話した時、彼ら・彼女らは強い調子で訂正した。私は湿地ではなく「ボケージ(田園)」にいるのだと。「ボケージ」という訳語はここの風景を表すのに必ずしも適当ではない。この風景を表す適当な英語の単語がないのである。そもそもアメリカ大陸にはこのような風景は存在しない。「ボケージ」という単語はフランス語から借用した語で、ほとんど使われていないが、「小さな森」を意味する。ボケージは草原と、種々の形と大きさの耕作地の入り交ざった土地で、灌木や垣根や一群の木によって囲まれ、分離された穏やかな風景で、人間の尺度に合っており、あまり人間中心主義的でなく、人間とウサギや鹿などの小動物、川魚の棲息に適した場所である。
地理学者で作家のジュリアン・グラックはフランスの農村の変遷をつぶさに観察し、生まれ育った土地のボケージを愛していたが、彼は三分の一世紀にわたって(一九一四年から五〇年までの間)フランスの農村と都市の風景がほとんど変化していないことが彼の世代の最大の特徴であると書いている。第二帝政から、消費文化が栄えた「ベル・エポック」を経て,一九一四年までの時期にはすべてが非常に急激に変化した。そして一九五〇年代以降、再びすべてがすさまじいペースに戻った。しかし、その間の時期に、時間は停止していた。しかし、そのような静止した時間の間にもグラックはボケージの脆弱さと、ボケージを待ち受けている悲しい運命を予見していた。彼は一九七七年にラジオのインタビューで次のように述べている。「私は一九三四年に『地理学年報』にボケージについての短い記事を書き、その中でボケージは間もなく社会の変化によって消滅するだろうと書いた。編集者はこのような独断的な評価に驚いた。しかし、実際にボケージは消滅したか、消滅しつつある。私が予想したのとは異なる理由によってだが」。
最近フランスの農村をドライブした人ならだれでも、森がボケージを破壊しているのを、おそらくそのように意識せずに、目撃しただろう。ある種の農村の具象化であり、強引な区画整理のプロセスである。都市計画の専門家にはおなじみのプロセスであり、農村では土地の「交換分合」と呼ばれている。これは一九八〇年代と九〇年代に最も強力に進められ、自給自足が可能だった土地が収入の最大化のために再編された。大型の農機具の到来とともに垣根やその他の自然の障害物が除去され、単一作物栽培のための広大なアグリビジネス用の農場が作られた。特にブルターニュ地方においてそれが顕著だった。水を蓄える灌木や木がこのようなやり方で破壊された結果として起こる水質汚染や土壌の浸食などの形での生態系の重大な劣化について、今日では認識が広まっている。しかし、そのようなプロセスが依然として続いている。

二つの論理、知識、未来の間の戦争


しかし、ノートルダムとスーザ渓谷をめぐる論争は単に「テクノロジーか自然か」という論争ではない。この二つの地域の固有の特徴と、その風景の起源を考えてみよう。スーザ渓谷はアルプスと言っても、多くの人が想像するような「少女ハイジ」のような環境とはかけ離れている。歴史的にはハンニバルからカエサルまでの征服者が通った戦略的要衝であり、今では非常に都市化された地域で、過去における近代化と交通路の建設の傷跡を残している。フレジュス・トンネルに通じる主要な幹線道路がこの渓谷を横断している。ボケージの歴史の何かが「純粋な自然」や「のどかな田園生活への退避」という信仰をもたらしているわけではない。レイモンド・ウィリアムス(英国の作家)が言う「場所の心地よさ」は常に構築されたものであり、部分的には外部からの介入や影響によって生み出される。グラックによると、ボケージは人工的な構築物であり、人間の営みそのものであり、人間と自然のどちらかが創造したものではなく、その相互作用によって創造されたものである。……
農民の集合的な生活こそが何世紀にもわたってボケージを形作ってきた。機械を使用することなしにである。そして最大の皮肉として、ZADのような土地の共同利用が現下の最も切迫した問題となっている場所において、ボケージの歴史的な起源はブルターニュ地方における共同体による土地利用の廃止にさかのぼる。ボケージを区切る垣根はそもそも、地主に収穫の一部を収めるのと引き換えに耕作を許された農民または農民の集団に土地を分配するために、それぞれの区画を区切る囲いとして作られた。ボケージはコモン(共有物)の私有化の結果生まれた小空間だったのである。そして現在、私たちは喜ばしいパラドックスを前にしている。ZADは原状回復、つまり土地を共同所有に戻すことの可能性を表現している。かつて人々がコモンを守るためにボケージと闘った場所で、現在ボケージがコモンを守っている。
ノートルダムもスーザ渓谷も、技術の進歩の信奉者と進歩に逆らう自己中心主義者の間の闘争と考えることはできない。これは二つの相反する論理の間の戦争であり、二つの知識、二つの未来の間の戦争である。私はこれを「エアーワールド」対「テリトリー」(領地)戦争と呼ぼう。二つの知識は当然にもその背後にある権力に関して言えば非対称である。エアーワールドの背後にはグローバルな贅沢品の貿易がある。今では世界の貿易で取引される商品の三分の一は空路で輸送される。iPadやペルー産の花や養殖サケなどである。それらが世界の経済成長を促進しており、最後の審判を左右している。市場法則は依然としてインフラ建設が近代化であり、経済成長を促進すると宣告している。それは疑ってはならないものであり、しかも証明不可能なものである。ここにおいて最も高く評価される性質は「摩擦がないこと」であり、人と商品を可能な限り迅速に、楽に運ぶ能力である。この目的のために都市間の接続はより簡単で、緊密でなければならず、それは都市と小さな町、村、そしてその境界を越えた農村の接続よりも優先される。後者は、当然のこととして、衰退を運命づけられている。一方、都市は高密度の中心部が大陸を超えて相互につながっているだけの場所となる。人とモノは生きた相互関係から引き裂かれ、空間の代替性が当たり前のこととされる世界の中でモバイルへの投資に駆り立てられる。
一方、テリトリーの創造はまさに、何ものにも代替できない空間を創造することである。エアーワールドにとって大事なことが代替可能な空間の間の円滑で連続的な移動であるとすれば、テリトリーにとって重要なことは、違いと可能性、自治と自己決定と深く関係している。つまり、場所をベースとする社会的関係から、その中に驚くほど多様な考え方がある場合でさえもたらされる共同の生活の可能性を永続化させることである。かつてはテリトリーの闘争が空港や高速鉄道との闘いであったが、今では空港や高速鉄道そのものではなく、それらが背景としている世界との闘いとなっている。その世界とは人間の進歩を経済の成長と同一視し、人間のニーズを市場の用語で定義し、世界のすべての資源を市場に委ねるような世界である。エアーワールドでは地球上のすべての生命あるものの価値が、資本にとっての有益性に基づいて計算される。自分のテリトリーがグローバルな資本主義システムの単なる一つのつなぎ目、つまり人々が通過するだけの空間となることを阻止することは、少なくとも部分的に国家や市場の外部に、国家や市場に反逆する生き方を一定期間、そして幸運なら生涯にわたって確立する手段となる。

新しい創造的な生き方


この運動は一定期間にわたって闘争を生活の場所として確立し、新しい、創造的な生き方を形成する能力を示してきた。このような闘争はかつてマオイストたちが「持久的戦争」と呼んだものであり、初期の反対運動活動家の子ども、さらには孫までが闘争に参加している。小川紳介が成田の闘争の中で撮影した「婦人行動隊」は、そのような闘争を生き生きと示している。トルコのタクシム広場や、米国のオキュパイ運動、スペインのマドリードなどの短期間の占拠運動と比較した時、闘争が長期にわたって継続したことがテリトリーとの新たな関係を創出する決定的な要因となっている。前者がすべて都市における占拠運動だったことは偶然ではない。……この新たな関係の核心はテリトリーとの融合であり、日常生活の中でテリトリーに居住することとテリトリーを防衛することの区別がなくなったことである。しかし、時間の経過とともに、何を防衛しているのかは変化する。かつては防衛する対象はまだ汚染されていない環境や農地であったが、闘争が深化する中で今ではそれは闘争が作り出してきたすべての新しい社会的結び付きであり、連帯であり、感情的な絆であり、生活の中での絡み合いである。あらゆる場所の特徴は、そこに住み、そこで時間を過ごす人たちが経験したことによって決まり、それには新しい身体的な関係が含まれる。それは部分的には農作業の季節的なリズムから、部分的には警官隊との身体的な衝突からもたらされる。スーザ渓谷においてもノートルダムにおいても警官隊との身体的な衝突は厳しいものだった。おそらくその理由のために、テリトリーとの新しい関係は過去における反乱の歴史の呼び起こしを含んでいる。スーザ渓谷においては反ファシズムの抵抗闘争であり、ナントにおいては一九六八年のコミューンの記憶である。……
ZADのような小さな、周囲を囲まれた地域は、スーザ渓谷のような広大な地域と比べて、住みやすい独立的な空間を形成するのが容易である。英国のデザイナーのウィリアム・モリスが言うように、各人が自分に関わることを直接に管理できるのは、各人が「生活のすべての細部に喜びを感じることができる」のに十分な小さい空間の中でだけである。
NoTAV運動は大きな地域に分散した数万人の人々が参加している。ZADにおいては、住民の正確な数はわからないが(住み着いているボランティアは人口統計に反映されないため)、おそらく数百人だろう。強制退去が切迫した時にだけ、数日間の大衆的行動に数万人が集まる。ZADにおける経験には、毎週行われる「非売買市場」(野菜を分配する)、土地の共同利用、パリ・コミューンを起源とする「コミュナルな贅沢」(すべての労働の芸術的、快楽的要素)などが含まれる。……ZADを粉砕することが政治的階級にとってこれほど重要な問題となったのは、ZADが彼らを必要としない生活の可能性を大胆に実証しているからである。自分たちで決めた通りにできるなら(そのような保証は全くないが)ZADの将来はコミューンに近づくだろう。一方、スーザ渓谷の活動家たちも、共同所有を復活させることによって、また、政治的闘争を通じて、そしてそれに完全な責任を負うことによって、自分たちの日常生活の大きな転換を進めている。その中では運動によって牽引される創造的な実験や社交の形態に重要性が付与されている。スーザ渓谷の闘争現場は祝宴であり、寄り集まる場所であり、同時に避難場所である。
いずれの場合も、テリトリーの防衛は当初から非常に広範で多様なグループをその目的のために結集した。ブラック・ブロックのアナーキストや尼僧から、引退した農民、菜食主義者、レズビアン、分離独立主義者、弁護士などの人々を、強力で効果的なコミュニティーへと結合していく果てしないプロセスは、本書の著者たちが「創作」と呼ぶプロセスである。本書は予期しない出会い、共存、空間の共有、協調、差異の尊重、生き方の全面的な再検討、そして何よりも自分のやり方に他の者を従わせようとする誘惑の回避の日常的なドラマである。それは対抗的情報の拡散、ハンガーストライキ、面倒な訴訟準備、夜間の破壊活動、地域の中の絶滅危惧種を記録するための自然観察、警察官との正面対決のすべてにおいて貫かれている。それが本書のサブタイトル「新しい政治的知性の創造」の意味するところである。著者たちは「多様な要素を結合する上で、戦術よりも戦法、必要性よりも情熱、そして領域を囲うことよりも開放することが重要である」と述べている。

【訂正】かけはし前号(2月26日号)5面都立病院の独法化反対記事の4段目最初の行、「健康長寿医療センターでは病床が七一一床から一五〇床に削減」としましたが、「七一一床から一五一床削減された」に訂正します。



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