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    かけはし2018年4月9日号

共産主義者の批判が民族主義の進歩性導く


カタルーニャ問題

トロツキーはどう論じたのか


民族的少数派の意志への誠実で
完全な支持が共産主義者の任務 

ジェラール・フロランソン

解説

 以下の論文は、一九三〇年代のスペイン内戦におけるカタルーニャ問題に対するトロツキーの主張を紹介したものである。今日、スペインでは、州民投票を中心として独立を目指すカタルーニャの大衆運動とスペイン中央政府の攻防が続き、スペインの左翼の中ではカタルーニャの独立をめぐって論争が続いている。
 本論文を紹介するのは、筆者が述べているように、「一九三〇年代に書かれたトロツキーの文章の中に永遠の真実を追い求めることでもないし、ましてや今日の論争のために権威ある主張を求めることでもない。そうではなくて、かつてのスペインについて書かれたトロツキーの多くの論文が、民族的権利を含めてブルジョア革命の基本的な民主主義的課題をまだ達成していない国の経済・政治情勢に対する彼の分析のもつ力を示しているからである」。
 それは、今日のカタルーニャ問題をめぐるわれわれの議論と検討を深めていく上での有益な刺激となるだろう。
 トロツキーがここで述べているのは、スペインにおける民族問題とは、長年の王制の下で抑圧されてきた諸民族の権利というブルジョア民主主義の課題の実現であり、この課題を実現していく上でスペインのプロレタリアートがいかなる立場を取り、いかに闘うべきか、ということである。それは、スペイン国家内のマイノリティーとして中央政府から抑圧されてきたバスクやカタロニアの人民の「民族自決権」ということなのだが、ここで注目すべきことは、トロツキーが民族自決権が、スペイン国内の諸民族の「独立」=「分離」と同一ではない、という点をここで強調していることである。
 実際、トロツキーは、当時のスペインのPOUM(アンデレウ・ニンの下にあるマルクス主義統一労働者党)のカタルーニャにおける組織(「カタルーニャ労農ブロック」)の指導者マウリンを「分離主義者」として批判している。その一方で、トロツキーは同時に、CNT(全国労働組合連合)のアナーキスト指導部を、「抽象的な」、「労働者主義」や「国際主義」を叫び、民族自決権を否定するものとして、厳しく批判している。トロツキーにとって、この場合の「民族自決権」とは、バスクやカタルーニャの人民が、自らの運命を自らの自身が決定することを意味するのであり、その権利の行使をスペインのプロレタリアートは防衛しなければならない、ということであった。では、マイノリティの諸人民のその意志はどのような形で表現されるべきなのか? それは当該人民の、自由な直接の人民投票を通じてということになるだろう。スポインのプロレタリアートは、バクスやカタルーニャのこのような民族的諸権利の行使を防衛しなければならないのであり、これらマイノリティがスペイン国内のマイノリティとして対等の権利をもって将来のスペイン連邦内にとどまるか、それともスペイン国家から分離して独立するのか、の選択をマイノリティの人民に対してあらかじめ押し付けるべきではない、とトロツキーは主張しているのである。
 本論文で指摘されているトロツキー『永続革命論』にあるスペイン革命に関する三つの補足論文とは、「スペイン革命と共産主義者の任務]、「スペイン革命とそれをおびやかす危険」、「スペイン革命 その日 その日」であり、これらはいずれも『スペイン革命と人民戦線』(トロツキー選集第八巻、現代思潮社)に収録されている。さらに『トロツキー研究』第二二号「スペイン革命特集」(トロツキー研究所)も参考になるだろう。(かけはし編集部)

 カタルーニャ問題についてトロツキーが取った立場を今ここでなぜ検討するのだろう? それは、一九三〇年代に書かれたトロツキーの文章の中に永遠の真実を追い求めることでもないし、ましてや今日の論争のために権威ある主張を求めることでもない。そうではなくて、かつてのスペインについて書かれたトロツキーの多くの論文が、民族的権利を含めて、ブルジョア革命の基本的な民主主義的課題をまだ達成していない国の経済・政治情勢に対する彼の分析のもつ力を示しているからである。

民族主義と共産主義の峻別を

 トロツキー著『永続革命論』の最後に付け加えられている五つの「補足論文」のうちの三つの論文がスペインの問題に向けられたということが、以上の点を完全に証明している。「この民主主義革命を徹底的に推し進めることになるのはプロレタリアートであって、これらの鍵を、帝国主義衰退期にあっていかなる進歩的役割をも果たしえないスペインやカタルーニャの民族ブルジョアジーに委ねてしまうなどというのは問題外である」。
だがトロツキーは次のように警告する。
「もしわれわれが、プロレタリアートの独裁のスローガンと(共和制、土地革命、教会と国家の分離、聖職者の財産の没収、自身で行使しうる民族の諸権利、革命的な制憲議会という)革命的民主主義のさまざまな問題や定式とを対置させながら、プロレタリアートの独裁を目指すならば、それは哀れな教条主義者として活動していることになるだろう」。
われわれはこうした定式を込めたものとしてまさに「共和制」に関する記述を読み取って来たのだった(文章は、アルフォンソ一三世の退任の前に書かれたものである)。政府の形態は、プロレタリアートにとってどうでもよいものではない。プロレタリアートは共和派ブルジョワジーとは別の内容を込める。
トロツキーは、ツァーリ支配下のロシアと比較せざるをえなかった。トロツキーに近い立場には、ホアキン・マウリンがいた。彼は、スペイン共産党から追放されたカタルーニャ・バレアレス諸島共産主義連合(後の労働者・農民ブロック)の指導者であったが、農地改革だけでなく民族問題の解決に関してもレーニンとボリシェヴィキの政策を要求した(ソ連邦の現実を理想化したビジョンであったのだが)。だが、両者はひとつの重要な問題で意見が分かれた。マウリンが、カタルーニャ、バスク、ガリシアの独立を要求した――当然にも、モロッコの独立をも要求したが、モロッコの独立に関しては彼はトロツキーと意見が一致した――のに対して、『永続革命論』の筆者は、イベリア半島のバルカン化を危惧していた。そして、トロツキーはとりわけ、マウリンの独立主義を非難したのである。
「こうして、カタルーニャ労農ブロックの『指導者』マウリンは、分離主義の観点に組している。少しためらった後、彼は小ブルジョア的民族主義左翼を代表しようと決めた。私は、カタルーニャの小ブルジョア的民族主義が現在の局面においては進歩的である、とすでに書いている。ただし、次の条件のもとにあるかぎりにおいて進歩的なのである。すなわち、この民族主義が共産主義の隊列の枠外で発展していて、それが常に共産主義者からの批判を受けざるをえない可能性がある、という条件のもとにおいて、である。それとは反対に、民族主義が共産主義の仮面をかぶって表現されるのを許すとすれば、それは同時に、プロレタリアの前衛層に危険な打撃を与え、小ブルジョア的民族主義の進歩的意味を殺してしまうことを意味する」。
トロツキーは、分離の権利と分離とを区別した。彼は、分離を退けはしなかったが、プロレタリア党の綱領に次の点を盛り込んだ。
「カタルーニャとバスクの人民の多数派が完全な分離を支持すると自ら表明した場合には、労働者は、この両人民が自らの独立国家の下で生きる権利を全面的かつ無条件に防衛するだろう。このことはけっして、先進的労働者がカタルーニャとバスクの人民を分離主義の道へと後押ししなければならないということを意味するものではない。まさにそれとは反対に、諸民族の大きな自治を認めた上での国の経済的統一は全般的な経済と文化の観点からして労働者と農民に大きな利益を与えることになるだろう」(『スペイン革命と共産主義者の任務』、「スペイン革命と人民戦線」、現代思潮社、一八三頁)。

民主主義のスローガンの重要性


革命派は、独立派の闘争のイニシアチブを取らない。革命派は、諸民族が自らの運命を決定する権利が独立へと向かう可能性があることを受け入れる。
「(民族自決権)のスローガンは、今日、スペインにおいてとりわけ重要になっている。しかしながら、このスローガンは同時に民主主義的な思想の枠内にある。われわれにとって、それは、もちろん、カタルーニャとバスクの両人民をスペインから分離させるように仕向けることではなくて、われわれの任務は、両人民が分離の権利の行使を望む場合には、分離の権利が認められるように、活動することである。しかし、両人民がその望みを抱いているかどうかをどのようにして知ることができるのだろうか? これは実に簡単だ。当該の州において、平等、直接、秘密投票の普通選挙にもとづく人民投票を実施する必要があるということだ。今日、それ以外の方法はない」(『スペイン革命とそれをおびやかす危険』、「スペイン革命と人民戦線」、現代思潮社、二一一〜二一二頁)。
これは明白である。トロツキーは、将来のソヴィエト共和国が両人民の運命を定めるのを待つよう指令するのではなくて、ブルジョア民主主義のメカニズム(人民投票と普通選挙)を求めているのである。しかも、彼は、当該地方の人民投票を提起することによって、独立の権利を中央国家の善意に委ねてはいないのだ。
一九三〇年五月二五日付の論文(「スペインにおける共産主義者の任務」)の中で、トロツキーは、次のように明確に述べている。
「プロレタリアートは、民族的少数派の意志が表明されないうちは、分離を自分のスローガンとはしないでしょうが、このスローガンがカタルーニャの意志をしめすものである限り、このスローガンを全面的かつ誠実に支持すると前もって公然と約束するのです。……そして、私自身について申し上げるなら、私には政治的方向がこのような解決策を示唆していると考えています」(『スペインにおける共産主義者の任務』、「スペイン革命と人民戦線」、現代思潮社、一六六頁)。
トロツキーは、むしろ自らが諸民族の権利を保障する連邦的解決策や、あるいはソ連邦のモデルにもとづく――実に残念なことに、これはもはや理論的なモデルでしかないのだが――(ポルトガルを含む)イベリア社会主義共和国連邦、を支持すると繰り返し主張している。CNT(全国労働者連合、この当時のスペインのアナルコサンディカリスト系労働組合のナショナルセンター)指導部は「自主独立主義」に時には激烈に反対するものであり、自決権に対するその反対は抽象的な労働者主義と国際主義の名の下にカタルーニャ語の使用を退けるまでになっていた。トロツキーはもはやこうしたCNT指導部には寛容ではなかった。
……「サンディカリストたち――少なくともその指導者の一部――は、必要な場合には武器を持ってでも分離主義に反対して闘う、と宣言している。そうなると、共産主義者とサンディカリストはそれぞれ異なるバリケードの側に立つことになるだろう。なぜなら、共産主義者は、分離主義へのその幻想にはけっして組することなく、分離主義を批判しつつも、帝国主義的な虐待者やそのサンディカリストの従僕に対して容赦なく反対しなければならないからである」。

民族主義の限界示した情勢展開

 情勢は変わった。一九三一年四月一四日、共和派の諸政党が地方議会選挙で勝利してから二日後、スペインは、クーデターを通じてでもなく、また革命を通じてでもなく、共和国となった。王制は実にあっさりと舞台から退いた。アルフォンソ一三世は正式に退位することなく国を捨てた。六月の総選挙を経て左翼と社会主義者から成る共和派が勝利し、マヌエル・アサーニャが首相に選出された。女性の選挙権(フランスの人民戦線ではこれは実現されなかった)のような進歩的な政策が取られたけれども、約束された諸改革、とりわけ、土地改革、はなかなか進まなかった。農民が多数派であったこの国では、土地改革はとりわけ不可欠だったのだが。カトリック教会の権力は、それに手をつける反教会的諸政策によって揺らいだが、旧支配階級からの反対を前に、多くの分野で政府は後退することとなった。共和制とともに、カタルーニャとバスクの共和国は、カタルーニャ左翼共和党の指導者が受け入れた限定的な自治を認められた。
蓄積されていった幻滅は、一九三三年一一月一九日の繰上げ総選挙での左翼共和党の手ひどい敗北とCEDA(教会派や王党派やファシストを結集した右翼自治派連盟)出身閣僚が即座に入閣した右派政権の成立につながっていった。ヒトラーの権力獲得とオーストリア・プロレタリアートの敗北とともに国際情勢は、危機に対するファシスト的解決策が実現可能であるかのような事態をもたらしたのだった。トロツキーは、かつては民主共和国に希望を委ねた小ブルジョアジーの広範な層が動揺して極右へと向かっているのだと考え、マウリンと同じく小ブルジョアジーの動揺の脅威を重大であるとみなした。
サンペール政府へのCEDAの入閣は、それ以前の時代に勝ち取られた労働者と農民の諸権利の前進をたちまち打ち砕いてしまうものとなった。これは、ストライキの波と蜂起の運動を引き起こし、そのうちで最も重要のものとなったのは、アストゥリアス地方の労働者革命であった。カタルーニャでは、運動のきっかけとなった中心的要因は、大土地所有者の反対に抗してカタルーニャ自治政府によって採択された農民と分益小作人を保護する法を中央政府が取り消したことであった。この時期に関してわれわれが知る唯一の文章である一九三四年七月に国際共産主義者同盟の書記局宛の手紙の中で、トロツキーは事態を次のように見ていた。すなわち、中央政府とカタルーニャ自治政府との対立の中で、カタルーニャがスペインの反動とファシストの脅威に対する防衛勢力のうちで最も強固な立場を代表する可能性があることを示している、と。
トロツキーは、マウリンのカタルーニャ主義を大いに批判した上で、それ以降はためらい、動揺する小ブルジョア指導部にプロレタリアートを委ねてしまっているとして彼を非難した。今や、カタルーニャ独立共和国の宣言を支持する闘いの時であり、この目標は、武装したプロレタリアートの動員によってのみはじめて実現することができるだろう、と。同時に、トロツキーは、労働者の諸勢力の分裂(CNT=全国労働者連合は労働者連合には所属していない)を考慮して、躊躇することなく、ERC(カタルーニャ左翼共和党)が独立を宣言するよう要求すべきだと書いた。この組織が一九三四年一〇月六日に実際にそうしたのだが、それから数時間後には、屈伏してしまった。スペインの中央政府はこの機会を利用して、カタルーニャの自治の地位を取り消してしまった。
一九三六年七月にファシストが決起すると、プロレタリアートはそれに反撃の第一線で立った。ファシスト派はカタルーニャ地方のたったひとつの地区も攻略できなかった。この中で、プロレタリアートは、PSUC(社会主義統一労働者党、カタルーニャの共産党)とUGT(労働総同盟、社会党系の労働組合連合)とCNTの間の協調政策の事実上の再建の可能性をコンパニス氏に委ねてしまうことによって、カタルーニャ自治政府を含むすべての公的権力を廃止してしまった。内戦中、一九三七年五月まで、マドリードの中央政府は「秩序」回復のためにカタルーニャに介入し続けたが、カタルーニャは事実上、独立状態を維持し続けた。「カタルーニャ問題」に関するトロツキーの論文は、アンドレウ・ニンやPOUM(マルクス主義統一労働者党)が政府にとどまり続けたことを非難しているのである。「ランティ・カピタリスト」(フランス反資本主義新党月刊誌、九四号、二〇一七年一月)

参照文献 ?レオン・トロツキー『永続革命論』、?レオン・トロツ―『スペインにおける共産主義者の任務』、?レオン・トロツキー『カタロニアにおける民族問題』、?ペライ・パジェス、レオン・トロツキー『トロツキーとカタルーニャ共和国』(Trotsky y la Republica cataana, 2014)



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