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    かけはし2018年6月25日号

新潟県知事選この結束を力に再稼働阻止へ


残念奮戦も一歩及ばず

「脱原発」語る自公候補の欺瞞

デマ宣伝に抗し野党協力



「脱原発」訴える
自公候補の欺瞞
 激戦となった新潟県知事選(六月一〇日投票)は自公が支持した花角英世が当選、市民・野党共闘の池田ちかこ候補は及ばなかった。池田候補も五〇万票を超えており、差はわずかであった(表参照)。また、計三名の争いとなったこともあり、花角氏の得票率が五〇%を切り、投票した人の半数の支持が得られていないということは特筆すべきである(米山隆一氏が当選した際も同じく三名の争いだったが得票率は五二%強)。
 花角候補は官僚出身で政治色が表に出ず、新潟市出身で二年半ほどの副知事の経験もあり、高校の同窓や経済界・文化人のネットワークも活発に動き、これが無党派層への一定の浸透にもつながった。だが花角の勝因はそれだけではない。花角陣営は各企業を回り、「花角が当選しなければ仕事はなくなる」と脅し、期日前投票へ行った社員の名簿を提出させるなど、政権・自公・創価学会を通した締め付けを徹底させた。告示前・選挙期間中の違法ビラ・違法街宣も、政権側にいるという「安心感」のもと、「何でもあり」で非常に激しかった。花角支持者から発せられるデマ攻撃もすさまじく、ありもしない「下半身ネタ」が流れる、というニセ情報を流し(選挙期間中に週刊文春に掲載されるとの怪情報が出回り、創価学会幹部の発言として地元紙にまで掲載されたが、何も動きはなく、完全なデマだった)たり、「池田はかつて『拉致問題など存在しない』と発言していた」などという荒唐無稽なデマも流され、拡散された。
 より決定的だったのは、沖縄県知事選や名護市長選でも見られた「抱きつき作戦」だ。花角も「脱原発」「『(原発事故に関する)三つの検証』の継続」を掲げ、有権者からは「違いがわからない」「花角さんも脱原発」との声が幅広く聞かれた。花角の新聞での政策アンケート回答や主張をつぶさに分析すれば「将来的に脱原発」「当面は原発が必要」「(原発をベースロード電源とする)エネルギー基本計画は理解」など、到底脱原発派・再稼働反対候補でないことは明らかなのだが、それでも厚顔無恥に各種宣伝物で大々的に「脱原発」をアピールした。
 この点は、不十分な中身とはいえ自公候補が「脱原発」を公然と掲げざるを得ないほど、脱原発の世論が広がっているということであり、歴史的に見れば大きな前進と言える。この成果は無視すべきではないだろう。

野党側の問題
点はどこに?
一方、池田候補側を振り返ると、この「抱きつき作戦」に対する有効な対抗策が打てなかったと言わざるを得ない。さらには、連合や民進県連への「配慮」から、より鮮明な反原発的主張が展開できなかったという問題もあったと思われる。前回知事選では連合は自公候補側、民進は自主投票だったため、当時の米山陣営が「現状では再稼働できない」と大きく踏み込めた構図とは対照的で、支持の枠組みが広がったことが逆に災いするという皮肉な結果になった。しかも、実際の運動を見れば、連合などが池田候補の得票に貢献した割合はわずかだと言わざるを得ない。
池田陣営は、先に書いた花角支持者によるデマの対応や連合・民進との調整にエネルギーを割かれた側面は否めない。また、国政野党党首・幹部らが連日乗り込んで安倍政権批判を繰り返し訴えたものの、その訴えが有権者に響いたとは言えなかった。出口調査で安倍政権を支持しないという人が半数以上という結果がある中で、そうした意識と野党幹部らの国政での閉塞感のうっぷん晴らし的な批判が有効に結びつかなかったという側面も否定できない。野党共闘の広がりは歓迎すべきで政権批判も必要だが、知事選という舞台の中で、陣営の戦略的・戦術的イニシアチブも必要だった。だがその余裕もなかったというのが実情だろう。

連携・協力の
発展のために
実はもっと大きな差を付けられるかもしれないという調査結果もあったが、敗れたとはいえ、ここまで迫ったことは評価されるべきだろう。米山隆一前知事の女性問題での辞任というマイナスからの出発で、市民・野党陣営の奮闘により、終盤、池田候補は激しく追い上げ、街宣の反応も良かった。全国から寄付や電話かけやポスティングの協力も次々集まり、ホームページで訴えたネット経由のカンパ申込だけで実に五〇〇万円ほどが寄せられた。全国の期待をひしひしと感じた選挙だった。
その期待に応えられなかったことは、この選挙に参加した者のひとりとしてきわめて残念だ。しかし気を落としてはいられない。秋には新潟市長選、来春は統一自治体選挙、そして参院選が控えている。今回の経験から教訓と課題を学び、これからも市民と野党の連携・協力を強め、がんばっていきたい。

 追記 当選五日後となる六月一五日、花角氏は県選出国会議員との懇談の場で、「条件付き再稼働の可能性はあるのか」との問いに「当然ありうる」と答えた。「脱原発」を掲げ、つい数日前には「任期中の再稼働はない」と明言したばかりだった。いとも簡単に公約や県民との約束を反古にする欺瞞的な姿勢には、予想されたこととはいえ、あらためて強い怒りを禁じ得ない。(S)

選挙結果
花角英世 546,670票 49.6%
池田千賀子 509,568票 46.2%
安中聡 45,628票 4.1%

6.16

9条改憲阻止3000万署名の達成へ

アジア連帯講座が新宿駅西口で

 
 六月一六日午前一一時から、東京・新宿駅西口で「安倍9条改憲NO!憲法を生かす全国統一署名」を行った。朝方まで雨だったが雨も上がり薄曇りの天候の中での署名活動だった。アジア連帯講座呼びかけで八人が参加した。
 六月一二日の歴史的な米朝首脳会談が行われ、朝鮮半島・東アジアをめぐる冷戦構造が平和構造へと転換する兆しをみせている状況にもかかわらず、安倍政権は依然として北朝鮮や中国との対立をあおり、自衛隊を憲法に明記し、戦争できる国づくりのための憲法改正を行おうとしている。こうした安倍9条改憲を阻止するために、全国の仲間と共に署名活動を行った。
 ハンドマイクで、憲法改正反対を訴えると自分の方から積極的に署名に応じてくれる人が多かった。「授業で現憲法の9条と自民党の憲法改正案を勉強した。私は憲法改正を許せない」と考えているとしっかり自分の意見を持って署名してくれた大学生。老齢の夫婦や恋人同士と思われるカップルなどが「がんばってくれ」と声をかけながら署名してくれた。前回五月一九日は六人で二八筆だったが、今回は五八筆集まった。
 署名行動に毎回参加している元小田急労研の仲間は厚木市でも毎週のように署名活動を行い、手慣れたもので今回も一人で一五筆をとった。小田急労研という圧倒的に少数左派グループとして資本と対決する組合活動を長年続けてきたUさんは分かりやすい言葉で訴え、体全体を使いぶつかるように向かって署名をとる。こうした迫力が多くの署名を集める「こつ」なのかもしれない。署名など街頭に出て訴え、人々と会話することの重要性を確認させられた。     (M)

コラム


球根栽培の唄

 「球根栽培法」とは、一九五〇年代日本共産党の徳田球一書記長が、GHQマッカーサーによる公職追放を機に、独断で「臨時中央指導部」(所感派)をつくり、非公然体制に移行した際、第五回全国協議会の方針によって作られた火炎瓶闘争など武装戦術を記した地下出版物である。これらの方針の下、毛沢東の農村拠点にならって山村工作隊や中核自衛隊が組織され、さまざまな工作活動が実行されたが支持を得ることはできず、六全協の方針転換により破棄された。いわば「球根栽培法」は、五全協の落とし子だったと言ってよい。
 そんな「球根栽培法」をモチーフにした「球根栽培の唄」を歌ったのが、四月に六五歳で急逝したシンガー・ソングライターの森田童子である。九三年にヒットしたテレビドラマ「高校教師」の主題歌に「ぼくたちの失敗」が使われたことにより一般に広く知られるようになったが、それまでは知る人ぞ知るある意味マイナーな存在であった。
 大学闘争が終焉したのち歌い始めた彼女の歌は、全共闘運動の敗北や挫折感を色濃く反映した歌詞が多かったように思う。「球根栽培の唄」の一節はこうだ。
 ガリ版刷りのアジビラが風に舞う 赤ヘルメットのお前が ぼくを見つけて 手を振った
 球根栽培の本を知っていますか 孤立無援のいのちがもえて 花火のように咲きます
 彼女がどのような思いでこの歌詞を書いたかわからないが、「球根栽培法」の武装方針の下、山村工作隊に参加した学生が党から見放され孤立無援の中で生きた姿に、全共闘運動の敗北とオーバーラップさせたものかとも推察できる。
 そんな森田童子であるが、実はボクも彼女の唄に惚れ込み仲間と実行委員会をつくりコンサートを企画したことがある。ときは今から三五年前の一九八三年七月八日。いま手元に残るガリ版刷りのパンフレットには、「83森田童子『ねじ式』劇場」「失われたボクたちの表現≠フ復活を求めて―今荒波に旅立つ」とのタイトルが仰々しく並んでいる。
 その巻頭言で発起人のひとりは次のように書いた。
 「人は自分の生きる意味を求めて旅している。マンガ家になろうと決意したかつての僕は、大学で部落問題にぶつかることを通じて、『同和教育』の教師を志し、東京という荒波の中で学生運動にのめり込み、ボロボロになって脱落していった。(中略)森田童子の唄は、青春の苦悩をかみしめた者の心に沁みる唄であるからこそ、森田童子のファンは根強い。(後略)」。
 当時人口四〇万の地方都市にどれだけ彼女のファンがいるかまったくわからないまま、自分たちが聴きたいばかりに、手作りの宣伝カーで街宣し、全県中にポスターを貼りめぐらし、チラシを配り宣伝をした甲斐あってか、当日は三〇〇席のホールが満席になったことを憶えている。シルクスクリーンで作った手作りのTシャツなども飛ぶように売れた。
 コンサートが終わったあと楽屋で記念撮影をしたが、その写真はどこにいってしまったのか見つからない。その時ももちろん彼女はトレードマークのサングラス姿で素顔は見えなかったが、確かな存在感があった。
 また、青春の日がひとつ遠ざかる。齢六○を過ぎたのだからそれは当然なことであるが、一抹の淋しさを感じるのはボクだけではあるまい。まして「球根栽培法」など知る人も少ないだろう。(雨)


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