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    かけはし2018年8月13日号

マルクス主義者が国会によ


パキスタン

封建領主と軍部はねのけたアリ・ワジール

ファルーク・タリク



  七月二五日に実施されたパキスタン下院(定数三四二、うち小選挙区二七二)総選挙は、クリケットの元スター選手であるイムラン・カーン率いる野党・パキスタン正義運動(PTI)が第一党となり、汚職罪で収監中のナワズ・シャリフ元首相率いる与党のパキスタン・イスラム教徒連盟シャリフ派(PML―N)が第二党となった。しかし、この総選挙においてもっとも特筆すべきことは、南ワジリスタン地区(訳注:パキスタン北西部の連邦直轄部族地域にある地域)から立候補したアリ・ワジールが左翼として初めての議席を獲得したことである。これはパキスタンの左翼にとって画期的な前進を刻印するものとなった。以下、この選挙戦とアリ・ワジールについて述べたアワミ労働者党のファルーク・タリク同志の文章である。この文章は、当選判明直後にフェイスブックに発表された。(「かけはし」編集部)

大衆的要求の
体現者が当選

 「闘争」グループの中央委員であるアリ・ワジールが国会議員選挙において議席を獲得した。彼は二三、五三〇票を得て、対抗馬の宗教連合MMAの候補者の七、五一五票に対して、一六、〇一五票の差をつけて勝利した。
アリ・ワジールは、パシュトゥーン・タハファズ運動(PTM)の中心的指導者の一人で、今年に入ってからは、「対テロ戦争」の犠牲者に対する公平な補償を求める声をあげ、すべての「行方不明者」を解放すること、もし罪があるのなら法廷に出廷させることを求めて、大衆集会が主要都市で組織されてきた。
PTMの他の二人の指導者も国会議員選挙に立候補し、そのうちの一人、ムハサン・ダウェールもまた、接戦を制して議席を獲得した。ムハサン・ダウェールは一六、五二六票を得て、イムラン・カーン率いるPTI候補者の一〇、四二二票、MMA候補者の一五、三六三票を上回った。
これら二人のPTM指導者は、宗教的心酔者によって支配される南ワジリスタンで選挙を闘った。しかし、パシュトゥーン人の市民的権利を求める強力な運動が宗教的心酔者の影響力を削いできたため、パシュトゥーン人はあらゆる脅迫にも関わらず、大衆運動の指導者を選ぶために投票したのだった。
PTMの二人の指導者が国会に議席を得たことは、パキスタンの多くの人々にとって希望を与えた。少なくとも封建領主や腐敗した資本家、軍部の手下、司法権力者によって支配される国会において、人民の声が存在するという点において。

政府の庇護下の
家族抹殺攻撃が


アリ・ワジールは非常に特別な人物である。彼の辛い個人的経験が、何が彼の要求を突き動かしたのかをもっともよく示している。南ワジリスタンの中心都市であり、彼の故郷でもあるワナは、世紀の変わり目に、タリバンと同盟を結ぶ集団がコミュニティの中に避難所を求めたとき、世界的テロリズムの中心地となった。そのとき、アリ・ワジールは法律の学位を取ろうとしていた。
疑いもなく、テロリストは何人かの個人的な世話役をこの地域に持っていたが、結局のところテロリストがこの地域を使うことを阻止できなかったのは国家のせいだった。アマドザイ・ワジール氏族の族長だった彼の父と他の地域指導者たちは、テロリストがいることに不満を述べたが、政府の役人は彼らを無視し、黙らせた。その代わりに、パキスタン中央政府は何年もの間、アフガニスタン、アラブ、中央アジアの戦士がいることを否定し続けた。
二〇〇三年までには、戦士たちは南北ワジリスタンに拠点を確立し、地域首長国を樹立しようと企てていた。アリ・ワジールの兄、ファルーク・ワジールは、地域の政治活動家であり青年のリーダーだったが、長期にわたる軍事行動の最初の犠牲者となった。その中で、何千人ものパシュトゥーン人の氏族指導者、活動家、政治家、聖職者が完全な冤罪で殺された。彼らの唯一の罪は、自分たちの故郷に危険なテロリストが居座ることに疑問を呈した、あるいは反対したということだった。
二〇〇五年に、たった一回の待ち伏せ攻撃によって父、兄弟たち、いとこたち、そしておじが殺されたとき、アリ・ワジールは投獄されていた。植民地時代に制定された残忍な「辺境犯罪規制法」(FCR)が、その地域で行われた犯罪が個人のものであれ、集団的なものであれ、氏族や地域全体で責任を取らせていたために、刑務所に入っていたのだった。
アリ・ワジールは何の罪も犯していなかったが、公平な裁判を受けることもなく、判決も受けていなかったにもかかわらず、家族の葬儀にも参加することさえできなかったのである。
その後、大家族のうちさらに六人が暗殺されたが、政府はこの犯罪を調査することさえしなかったし、ましてや誰かの罪を問うこともなかった。
アリ・ワジールと彼の家族は、家族の中の重要な男性がすべて殺されたあと、経済的な困窮に直面した。政府は、戦士たちが彼の家族が所有していたガソリンスタンドを破壊するのを阻止できなかった。
彼の家族がワナで所有していたリンゴと桃の農園には、有毒な化学物質が撒かれ、闇の力に屈服させるために、井戸の管には汚物が詰め込まれた。
二〇一六年、爆弾の爆発で一人の陸軍兵士が死んだあと、ワナで彼の家族が所有していた市場はダイナマイトで爆破された。それは事故だったのだが、それにもかかわらず、彼らはFCRのもとで生活を破壊されたのだった。その殺害事件のあと、政府は地域コミュニティ(ほとんどのメンバーはアマドザイ・ワジール氏族)が彼らを助けるために寄付を募ることを阻止した。政府は罰せられた人々を誰であれ助けることはできないという理由で、それは受け入れがたい前例になると言ったのである。
彼の家族のうち一六人が、彼の父親と二人の兄弟をも含めて、この時期にタリバンによって殺されたことになる。

パシュトゥーン
人大弾圧に反撃

 彼は、対テロ戦争の犠牲者の権利を要求する市民権運動団体であるパシュトゥーン・タハファズ運動の中心的指導者の一人である。最近、彼は全国を回って、ラホール、カラチ、ペシャワール、スワットで大衆的なデモ行進を組織した。ラホール左翼戦線が(公式には当局によって許可されなかった)ラホールでの大衆集会の主催者となった。キャンペーンを行うことやポスターを市内に貼りめぐらすことも禁止され、アリ・ワジールと七人のメンバーが集会の前夜に逮捕された。しかし、直ちに大衆的な反撃によって、彼らはデモ行進の前に釈放された。大衆集会には一万人を超える参加者があった(本紙五月二一日号参照)。
今年四月、「平和委員会」として知られる政府支持派民兵によって、PTM指導者アリ・ワジールへの攻撃の結果として、多数のパシュトゥーン・タハファズ運動(PTM)支持者が傷つけられ、一〇人が殺害された。二〇一八年四月のインタビューで、アリ・ワジールは次のように話した。
「過去数カ月は私の人生を変えた。私が耐えてきた苦痛や脅迫のさなかに、私が受け取った愛情・支援・敬意は計り知れないものだった。二月以来、(テロリズムの最悪の犠牲者である)パシュトゥーン人の苦しみに注意を向けようと抵抗を始めてから、一般のパキスタン人の潜在的力について多くのことを学んだ。彼らの変革を求める強い願いは、人を奮い立たせるものであり、来るべき世代のために、われわれが作らなければならない平和で、繁栄した未来の先駆けとなるものである」。
こうした困難な年月のあいだも、彼は大衆運動における信念を捨てなかったし、階級闘争という政治に関与し続けた。彼は、二〇〇八年と二〇一三年の国会議員選挙に立候補した。
二〇一三年の総選挙では、彼の勝利は銃口による敗北に変えられた。タリバンが有権者を脅迫し、彼の支持者や選挙ボランティアを拷問にかけたあと、三〇〇票強の差で選挙に負けた。
火山噴火のような暴力のさなか、何千人もの市民が行方不明になり、何千人もが違法な殺人の犠牲者となった。PTMの指導者は国中でテロリスト容疑者として報道され、検問所で屈辱的行為にさらされている。無実の市民が掃討作戦の中で暴力に直面している。世界でも最大の部族社会として、パシュトゥーン人は親切なもてなし、献身性、勇敢さで知られているが、最悪の犠牲者であるにもかかわらず、誤ってテロリストのシンパとされてしまっている。

腐臭を放つ国会
から一陣の涼風


アリ・ワジールは、パキスタンのマルクス主義者である「闘争」グループに所属している。このグループは、いくつかの左翼グループや党の共同戦線であるラホール左翼戦線に参加してきた。ラホール左翼戦線は、アリが参加したいくつかの大衆行動を組織した。
二〇一八年の総選挙は、パキスタンの歴史上もっとも不正な選挙だった。社会は右傾化し、イムラン・カーン率いるパキスタン正義運動(PTI)を権力の座につけた。イムラン・カーンは、選挙に先立ってアリ・ワジールに電話をかけ、PTIが公認するという提案をおこなったが、アリは丁寧に断った。しかし、イムラン・カーンが示したアリ・ワジールへの敬意は大きく、彼に対する対抗馬を立てないとアリに語った。
総選挙に先立って、大規模な不正が支配層の命令で起こった。PML―Nの候補者は脅され、党への忠誠を変えるように強いられた。PTIは国家機構の公然たる支援を得ていた。
従来の支配政党よりもより右翼的な政党であるPTIが権力の座についたという背景のもとで、国会に一人のマルクス主義者が入ることは、腐臭を放つ国会から一陣の新鮮な風が吹くことになるだろう。
アワミ労働者党を含む他の左翼グループもまた候補者を立て、大きな選挙キャンペーンに取り組んだが、アリ・ワジールの選挙運動は特別な特徴を備えていた。彼は毎日、いくつかの集会で演説し、乏しい資料を手に一軒一軒回った。何千人もがいつでも彼を激励した。われわれは彼が勝利することを確信していたが、この選挙区の結果をキャンセルする何らかの事件が起きることを恐れてもいた。
アリ・ワジールは左翼全体に対して門戸を開いてきた。彼は、ほとんどの社会運動活動家から愛されており、労働者集会でのプレゼンでは常に現実的である真面目な人物であるが、支配階級に向けて話すときは獅子のごとく語るのだ。彼は、恐れを知らぬ階級闘争の闘士であり、最近の労働者階級の歴史における最も敬意を払われる左翼指導者の一人なのである。
(二〇一八年七月二七日)

ハイチ

必需品価格引き上げに決起

民衆の反乱が政府を倒す

レジーヌ・ヴィノン



小細工弄した
策も効果なく
 今年七月六日、IMFの指令に服従していたハイチ政府は、燃料を含む一定の商品に対する補助金の取り止めを決定した。これは、ガソリン価格の三八%、ディーゼル油の四七%、灯油ランプ油の五一%各々の引き上げに当たっていた。これが、貧しい住民地区には電力がまったくない中で決められたのだ!
 政府はこの措置を、諸々の関心がハイチでは非常な人気を誇るブラジルを応援することに注がれるだろうと疑いなく期待して、ワールドカップのベルギー・ブラジル戦に合わせて公表した。しかしながらこれも十分ではなかった。この決定が知られるようになるや否や、何千人という住民が彼らの憤激を叫ぼうと街頭に繰り出した。抗議する人々はこの国の富の象徴、銀行や高級ホテルを襲った。スーパーマーケットは襲撃され、デモ参加者は主要な商品を持ち去った。ポルトープランス市(ハイチの首都:訳者)は封鎖され、爆発はまた北部や南部の地方都市にも影響を及ぼした。あらゆるところで貧しい住民たちは彼らの怒りの爆発に身を委ねた。
 政府は翌七月七日、前日の決定と価格引き上げを取り消す指示を出した。しかしこれも、暴動の継続を妨げることには結びつかず、暴動はさらに数日、政府が辞任した七月一四日まで続いた。

経営者たちと
IMFの策謀
二月二五日に署名されたIMFとの協定は、想定では、経済成長と貧困緩和を助ける真剣な意図をもつとされている! 財政「支援」の見返りにIMFはいつものように、赤字を削減するための諸方策、したがって補助金の削減を求めている。そこには、交通費の上昇、同時に地方から都市に輸送される食料品の上昇という直接の結果が付随する。
ハイチは地球上での最貧国の一つと考えられている。国連の数字によれば、住民の五八%は貧困線以下で暮らしている。インフレは早くから一三%以上と猛威をふるい、失業は大量だ。これらが今回の暴力的な反応を説明する。
住民がその怒りを示し、その要求を表したのは、今回が初めてというわけではない。昨年九月首都は、石油を含むいくつかの商品に対する税の引き上げに続いた、交通ストライキで打撃を加えられた。今年の春、五月と六月には、西側企業のために安い下請け契約で働いている紡織労働者数千人が、一日一〇〇〇グールド(一五ユーロ)の最低賃金を求めて繰り返しデモを行った。最低賃金は二〇一七年七月以来、三五〇グールド(八・五ユーロ)で固定され、見苦しくない生活水準を不可能にしているのだ。抗議に立ち上がった人々は「われわれは土曜日に賃金を受け取り、月曜日にはカネを借り始める」と語った。
政府は、社会的爆発の各々で約束を繰り返したにもかかわらず、ハイチの経営者たちから励まされ、これまで最低賃金を引き上げずにきた。そしてこの同じ政府はすでに二、三カ月前、交通、医療保険証、公営住宅に関係する社会給付を約束していたのだ。そしてその約束もこれまで満たされずにきた。

▼筆者はフランスNPA機関紙「ランティカピタリスト」への寄稿者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年七月号)

 


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