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    かけはし2018年9月3日号

翁長さんの遺志をつぐ知事を


沖縄報告 8月25日

9月30日沖縄県知事選挙

沖縄 K・S

日本政府の圧力と脅しはねのけよう

ギリギリの攻防に勝ちぬくぞ

辺野古新基地建設必ず阻止へ


 九月三〇日の沖縄県知事選挙は今後の沖縄の行く手を決める上で決定的に重大な意味を持つ。翁長知事の遺志をつぎ、辺野古に新基地を造らせずアジアに開かれた平和な沖縄の誇りある発展への歩みを進めるのか、日本政府の言うままになる知事を選んで、辺野古新基地を容認し基地の島を固定化する代償にいくばくかの振興予算を有難がっていただく屈従の道か、二つに一つだ。公明党は、前回の自主投票から、自民の候補支持に回った。言葉だけの「新基地反対」では「平和の党」の看板が泣くというものだ。国家権力を背景に、自民・公明・維新の三党が安倍官邸と共に翁長県政つぶしに必死の態勢でやってくる。
 翁長知事の遺志を受け継ぐオール沖縄の候補は、衆議院沖縄選挙区三区選出の玉城デニーさんが知事選に立つ意思を固めた。まもなく正式に立候補する運びになるだろう。玉城議員は名護市、沖縄市、うるま市、国頭郡、島尻郡の一部で構成される三区で三期、比例で一期、計四期議員を務めている。はじめ民主党だったが、民主党の消費税増税に反対したことを契機に離党し現在は自由党で幹事長を務める。辺野古新基地に反対するとともに、沖縄の歴史、文化、言葉を愛する。八月四日のゲート前集中行動では「七月二七日の埋め立て承認撤回表明の記者会見で、翁長知事は痩せてはいたが目の芯が立っていた」とウチナーグチを使って翁長知事の不屈の意志をたたえるスピーチをしていた。
 玉城デニー議員もやはり目の芯が立っている政治家だ。
 沖縄基地と密接な関係を持つ朝鮮半島情勢は大きく転換して行っている。戦争の継続による軍事対立から平和共存と戦争の終結へ向かって南北朝鮮の二つの国は不可逆的な歩みを進めている。開城での南北連絡事務所の設置、離散家族の再会事業の推進、南北を貫く鉄道・道路の建設、非武装地帯からの双方の軍事哨所の撤収、韓国軍の大幅縮小と兵役期間の短縮、等々を経て、朝鮮戦争の休戦の現状から終結へと向かう原動力になっている。
 トランプはポンペオの訪朝延期を明らかにした。米朝の非核化交渉は今後も紆余曲折を経るだろう。トランプと金正恩、二人とも人権を尊重する誠実な政治家ではない。人権抑圧の金正恩体制は外部からの軍事力によってでも崩壊させるべきとの乱暴な議論がある。しかし、ある友人が米朝会談に際して俳句にしたためたように「ワルふたりそれでも戦争よりはいい」のだ。
 日本政府・沖縄防衛局は埋め立て工事ができなくなったり遅れたりすれば数百億円の損害賠償金や一日二〇〇〇万円の遅延損害金を求めることをちらつかせ、まるで暴力団ばりに沖縄県に対し恫喝をかけている。しかし、こうした圧力に屈せず、翁長県政の謝花喜一郎副知事は、仲井真前知事の公約破りの埋立承認を適切なタイミングで撤回するだろう。
 日本政府・安倍官邸は中央省庁、検察、裁判所を動員して沖縄県の行政権力の行使を無力化させるために悪知恵をしぼっているに違いない。すべての権力は腐敗するというが、日本政府・安倍官邸のこの間の見苦しい姿ほどウソと欺瞞に塗り固められた国家権力の腐敗を示すものはない。徐々に緩やかにしか覚醒しない全国の国民に先駆けて、沖縄県民は県民の圧倒的な総意として、安倍の沖縄政策にハッキリとNO! を突き付け、戦後七三年間奪われ続けた土地、海、空を米軍から奪い返す第一歩を辺野古新基地阻止で踏み出す。持てるすべての力をふりしぼって県知事選挙に勝たなければいけない。必ず勝つことができる!
 これから沖縄県と中央政府とのそれぞれの行政権力を動員したギリギリの対決が続く。承認撤回、知事選、そして、九月県議会で審議される辺野古県民投票、8・11県民大会の七万人のエネルギーを受けた辺野古現地の闘い、それらすべてを辺野古新基地NO!安倍退陣!の県民の結束した声として最大化し歴史を転換する力にしなければならない。

カリフォルニア大学生、辺野古で語る

「もし日本が米国に基地を造るとなったら激怒する」

 米カリフォルニア大サンタクルーズ校の学生たち一七人が、米軍統治時代の沖縄の歴史を調べることを目的に八月二日から三〇日まで沖縄各地を訪問し調査やインタビューを続けている。一六日には辺野古に足を運び、ゲート前と浜を訪れた。辺野古現地は丁度三日間集中行動の始まりにあたり、県内外から集まった人々が座り込みを続ける中、学生たちは山城博治さんや真喜志好一さんの話に耳を傾け、熱心に取材した。
アラン・クリスティ准教授は「学生たちには、沖縄の歴史を知ると共に米国民として米軍基地のことも考えて欲しい」と語った。学生たちは「運動が一〇年以上継続しているのには衝撃を受けた」「We shall overcomeの歌に感動した」「翁長さんが知事になったのは県民が基地に反対しているということ。地域の意見に耳を傾けるべきだ」などと述べた。
その中で、祖母が沖縄出身のレックス・マクラレンさんは「沖縄にはたくさんの基地があるのになぜここに新しい基地を造らないといけないのか。米国人は自国に他国の基地があるという感覚が分からない。もし日本が米国に基地を造るとなったら激怒すると思う」と話した。この言葉が端的に「在日米軍」の本質を示す。外国軍が基地を造り特権をもって駐留し、その費用を自国政府が支出するという異常な事態をいつまで続けるのか。

8.18

辺野古ゲート前行動

辺野古の海に土砂を投入させないぞ!

 防衛局が土砂投入の期日とした八月一七日を前後する8・16〜18連続行動の最終日も県内外から二〇〇人をこえる人々が結集し、ゲート前に座り込んだ。八月四日以来資材搬入はない。土砂投入に向けた動きもない。八月二〇日からの一週間は台風接近と沖縄の旧盆のため陸上、海上とも工事の動きは見られなかった。
本部町島ぐるみは「合計九〇〇〇トンの土砂を積んだ運搬船や台船が本部の沖合から姿を消して、どこに行ったか分からないが、本部での土砂搬出を止める闘いを強化しよう」と訴えた。「あつまれHENOKO」の人びとは翁長知事の笑顔のイラストを真ん中にすえてメッセージを一言ずつ書き込む巨大なボードをつくりテント前で呼びかけると、またたく間にベニヤ四〜五枚分のボードは様々な言葉で覆いつくされた。

8.13

沖縄戦孤児シンポジウム

「戦争は二度とあってはいけない」


八月一三日午後、戦争孤児たちの戦後史研究会主催、沖縄大学地域研究所共催による沖縄戦戦争孤児シンポジウムが開かれ、約一〇〇人が参加した。
司会は沖大地域研究所副所長の島袋隆志准教授。はじめに主催者を代表して浅井春夫立教大学名誉教授があいさつしたあと、石原昌家沖国大名誉教授が「戦争孤児になる瞬間と孤児のいま」と題して一時間余り講演した。石原さんは、戦争孤児がどのようにして生まれ、どのような生活を余儀なくされたのかについて、史料に基づいて次のように語った。
ハワイ生まれの沖縄二世で一九三九年に帰国して当時の浦添村役場の戸籍係に勤務した知念明さんは、米軍の南下に伴いガマにいる住民に投降勧告をする仕事に従事した。その際の詳しい様子が『浦添市史』の「戦争体験記録」に書かれている。瀕死の重傷を負っている親子が引き離されたり、幼い子供の場合、名前や住所を聞いても分からないこと等から、戦争孤児が生まれた。
さらに、孤児たちがどのように生き抜いたのかについて、北谷町の『上勢頭誌』に掲載された九才で孤児となった沢岻安英さんのサイパンでのキャンプ生活を紹介した。誰も助けてくれる人はなく残飯を拾って食べて飢えをしのいだ、毎日死人が出てつくられた墓の地面の上で寝た,大人に対しては何も信じられなくなっていた、栄養失調になり病気になった、死にかかっている時に高宮城トヨさんが発見してくれ九死に一生を得た、サイパンから沖縄に来てからの生活は孤児であるがゆえにどこに行ってもいじめに会い言語に絶するみじめな思いを味わされた、等というものである。

「つるちゃん」
の戦争体験

 沖縄戦の孤児は当時の琉球政府の統計で約三〇〇〇人という数字があるが、実際にはもっと多いのではないかという(謝花直美『戦場の童―沖縄戦の孤児たち』、二〇〇五年、沖縄タイムス社)。この本の最後で謝花さんが紹介しているのが、南部の戦場で家族親戚九人を失い孤児となった金城つる子さんだ。つる子さんの娘さん・明美さんは戦争体験をまとめた絵本『つるちゃん』を作り、明美さんが絵本を読み、つる子さんが体験を語るという読み聞かせ活動を続けてきた。絵本の中では小さな子どもだったつるちゃんは子供たちにとってはおばあちゃんの年令になっていて、二人のつるちゃんを通して沖縄戦を実感するのだという。
宜野座村の米軍野戦病院で重傷の姉も失い一人ぼっちになったつる子さんの面倒を見たのは病院で看護師として働いていた朝鮮の女性たちだったという。ある日、一人の朝鮮の女性がつる子さんを連れて当時の越来村嘉間良にあった孤児院を訪ねた。年上の子どもたちがつる子さんの姿を見て「朝鮮ピー」とはやし立てたという。看護師をしていた女性は朝鮮半島から強制連行され「従軍慰安婦」をさせられていたとみられる、と謝花さんは書いている。
シンポジウムには、沖縄戦で両親と兄妹三人を失い一人ぼっちで戦後を生き、一フィート運動の会で語り部として活動した石原絹子さんも参加し自らの体験を語った。石原さんの戦争体験は、パンフレット『二度と戦争のない世を』(二〇〇九年)や『沖縄戦を語り継ぐ―地獄から魂の叫び―』(二〇一五年、サン印刷、電話098-889-3679)に詳しい。

石原絹子さん
の魂の叫び

 石原絹子さんは当時小学一年生。父母に小学三年生の兄、三歳の妹、一歳の妹の六人家族だった。父は防衛隊に召集された。母と兄妹五人で隠れていた防空壕に日本軍がやってきて母に銃を突き付けて「子供たちを殺すか、さもなくば壕から出ていけ」と怒鳴った。消火活動でやけどを負って一人では歩けない母を兄が肩車し、一歳の妹をおぶり三歳の妹の手を引いて雨の夜中に壕から追い出された。わずかに残っていたコメも取り上げられた。
艦砲射撃、火炎放射器、空爆が荒れ狂う地獄の戦場で、母と兄は岩の下敷きになってはらわたが飛び散り死んだ。無残に変わり果てた二人の姿は脳裏に焼き付いて今も走馬燈のように思い出される。道路や畑や野原に転がり重なり、ハエや蛆虫についばまれている死体、ふくれ上がって水たまりにふやけている死体、身の毛がよだつようなこの世の地獄を見た。恐怖で震えるばかりだったが、気が付くと、背中の妹はいつの間にか冷たくなって目や鼻口耳から蛆虫が湧き出していた。恐ろしくて全身逆毛だった。胸に傷を受けていた3歳の妹は水を求めながら目にいっぱいの涙を浮かべて静かに息を引き取った。顔じゅうの蛆虫を払い続けたが、体中から湧き出てくる蛆虫に絶叫して気を失った。
恐怖・絶望・悲しみ。この世の地獄の中で精魂尽き果て泣く力も起き上がる力もなくなって気を失った。気が付くと、‘鬼畜米英’の衛生兵の腕の中に助けられていた。放心状態の目に留まったのは米兵の胸に揺れる十字架だった。十字架が不思議にも灰のような心に光を与え、その後の人生を支え生きる力、生きる希望を与えてくれた。家族の写真は一枚もない。一度でいいから夢に出てきて欲しいと思う。
二人の妹の名前は「つぎこ」と「ふじこ」。平和の礎に刻銘されているが、ひらがな。戸籍が焼け、戦後つくられた戸籍には二人の名前がなかった。どういう漢字かも分からない。戦争が二度とあってはいけない。

基地と戦争
のない島を

 七歳の少女が経験した戦争の極限の残酷と悲惨は具体的なかたちが違っても多くの県民に共通する戦争体験である。戦争を生き残ったのは「艦砲の喰ェーヌクサー」、命こそが宝物「命どぅ宝」は県民の共通の価値観だ。基地の島の現状に対する県民の反発と抵抗の根は深い。どんなに時間がかかろうとも沖縄県民は軍事基地と戦争のない島を手にするまで決して闘いをやめない。


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