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    かけはし2018年10月8日号

国際連帯と階級的連帯が決定的


英国

ケン・ローチ 時代の課題を語る

階級闘争の理解が核心に必要

連帯の組織化はわれわれにかかる

 英国の映画監督、ケン・ローチは、われわれの時代の映画が発するもっとも高名な声の一つだ。社会と深く関わり合っているアーティストであり、権威ある賞を二度受けた一握りの監督の一人でもあるケン・ローチの作品は、しばしば社会的かつ政治的なテーマを取り上げている。彼の仕事は、スペイン内戦(大地と自由)、ロスアンジェルスの清掃労働者ストライキ(ブレッド&ローズ)、イラク占領(ルート・アイリッシュ)、アイルランド独立戦争(麦の穂を揺らす風)、福祉国家の高圧的な側面(私はダニエル・ブレイク)におよんでいる。いわゆる「ポピュリストの反乱」が経済的不平等と社会的排除の役割に関する多くの論争の引き金を引くことになった中で、ケン・ローチは、労働者階級の意識と新自由主義下でのその変形に関する、最大の語り手の一人となってきた。
 ローチは、イタリアの作家であり政治活動家であるロレンゾ・マルシリとの以下の対話で、政治的転換の時期における芸術の役割、労働者階級の進展、今日の階級闘争の意味、さらに根底的な変革を起こさせる上での左翼の失敗を考察している。
 このインタビューは、次のドキュメンタリーであるDEMOSの撮影中に録音された。ちなみにそのドキュメンタリーではロレンゾ・マルシリが、金融危機の一〇年後における国を超える連帯を追いながら、欧州を貫く旅を行っている。

芸術の責任は
真実告知のみ


――政治変革における芸術の役割に関する論争には長い歴史がある。われわれは今日はっきりと、地政学的な大転換と世界的な方向感覚喪失の一時期を通過中だ。こうした時期において創造性が果たし得る役割に関するあなたの観点とはどういうものか?

 一般論として私は、芸術の中であなたが負うべきものは真実を告げる責任だけだ、と考えている。「芸術は……でなければならない」で始まるすべての文章には間違いがある。それが、芸術が果たし得るさまざまな役割が何であるかを書いたり、絵画にしたり、描いている人々の想像力や見方を、頼りにしているからだ。
われわれは、人びとが共に生きることのできるやり方の中にある基本的な諸原理を、はっきり主張する必要がある。作家、知識人、アーティストの役割は、それらを核となる諸原理として考察することだ。これは、歴史に対する、闘争に対する長期的な観点であり、それゆえあなたが戦術的後退を行わなければならないかもしれないとしても、これはそれでも後退なのだと、われわれが心にとどめなければならないことは核となる諸原理だと、自覚していることが重要だ。これは、日々のかけひきに巻き込まれていない人びとができる何かなのだ。

――あなたの作品の中では、人間の要素が理論の表現というだけではなく、本当に具体化し、政治となっている。芸術は、結局は大きな経済的かつ政治的な諸過程の背後には人間がいると示す力がある、ということに同意するだろうか?

 絶対的にそうだ。政治は人々の中に生き、理念は人々の中に生き、それらは人々が経験している具体的な諸闘争の中にあるのだ。それはまた、われわれが行う諸々の選択――次いでわれわれがどういう人間になるか決定する選択――を決めている。家族がどう影響し合っているかは、母親、息子、父親、娘という何らかの抽象的な概念ではない。つまりそれは、経済環境に、彼らがやる仕事に、彼らが共に過ごすことのできる時に関係している。
経済と政治は、人びとが彼らの人生を生きる状況と関連づけられる。しかしそれらの人生の細々としたことは極めて人間的なことであり、しばしば非常に滑稽であったり、悲しかったりし、概して矛盾と複雑さに満ちている。私が共に仕事をしてきた作家たちにとって、また私にとって、日常生活に含まれる個人の喜劇的なこととその中で生活が生まれる経済的環境の間にある関係は、常に極めて意味のあることになっていた。

集団の力の表現
は簡単ではない


――そのように、経済的変化が人間のふるまいをどう変えるか、また人間の行為が、特に集団的行動を通して経済的諸関係をどう変えるか、この間には一つの弁証法的関係がある。

 労働者を考えよう。彼や彼女の家族は、現に社会的機能を果たしているか、そうしようとしている。しかし個人的には、何の権力も持っていないがゆえに彼らは力をまったく持っていない。彼らはその状況の被造物でしかない。しかし私が考えるに、集団的な力に対する感覚は非常に重要な何かだ。
これは困難にぶつかるところだ。集団の力が直接現れる物語を伝えることは簡単ではない。他方で、空に突き上げる拳や戦闘的な行動の呼びかけですべてのフィルムを締めくくることは、多くの場合粗雑で愚かなことになる。これは変わることのないディレンマだ。つまりあなたは、経済と政治の環境で悲劇的に破壊される労働者階級家族の物語を伝え、人々を絶望の中に取り残さないために、どうするだろうか?

――「私はダニエル・ブレイク」のようなもの悲しい映画の中でも私が希望があると見出す何かは、われわれが高圧的な国家機構を見るとしても、しかしわれわれはまた確かな人間的連帯の復元力をも見る、ということだ。つまり、貧しい人々は互いに助けてやり、そしてダニエル・ブレイクがジョブ・センターの外に痛烈な落書きを書く時、人々は立ち止まり拍手を送るのだ。それは、われわれはホモ・エコノミクスに完全に変えられているわけではない、ということを、全生活の商品化に対する抵抗がなおもあるということを示している。

 そうだ、これは中間階級の評論家が理解しない何かだ。労働者……は、笑っている最中であってもからかうのだ。塹壕の中にも苦みのある喜劇がある。そしてこれが、もっとも暗い場であってさえわれわれが抵抗を見るところだ。
しかし特にわれわれはこれまでに、慈善の食料が提供される、そしてあなたがわれわれの社会にある二つの周知の顔を見る、フードバンクの成長を経験してきた。「私はダニエル・ブレイク」の中では、女性が何も持っていない一人の女性に食料の包みを配る時、彼女は「あなたの慈善の食料はここに」とは言わない。彼女は代わりに「あなたの買い物で手伝えることはありますか」と言うのだ。
あなたは一方でその雅量を経験し、そして他方には、それが人々を飢えに追い込んでいるということを知りつつ、可能な限りもっとも意識的に冷酷な形でふるまう国家がある。資本主義社会は、この統合失調症的状況にとらわれている。そして連帯を組織することは、依然、われわれ次第だ。

極右台頭が示す
左翼の機能不全


――しばしば、伝統的な経済的疎外は国家に向かう疎外へと形を変えられたように見える。あなたの考えでは、これが、民族主義や外国人排撃の高まりといった現象の、あるいはブレグジットですら、その心臓部にあるものか? 移民をスケープゴートにするということを超えて、そこにはおそらく「私を擁護する者は誰もいない」というこの感覚もある。

 まさに。右翼ポピュリズムが本当に指し示している雰囲気は左翼の機能不全……一九二〇年代と同三〇年代におけると似たそれだ、と私は考えている。右翼は極めて似た回答をもってその道に入っている。つまり、問題は君たちの隣人だ、君たちの隣人は異なった肌の色であり、違った匂いがする食物を調理し、あなたの仕事を取り上げ続けている、君たちの隣人は君たちの家の中にいる、と。危険は、それが大新聞によって後押しを受け、BBCのような放送局によって許され、助力を受けていることだ。たとえばBBCは、ナイジェル・ファラージと彼の会社に彼らが望んだ放送時間をすべて与えた。

――あなたの作品の焦点は常に労働者階級の連帯に合わされてきた。あなたは、戦後の社会的資本主義から新自由主義の到来にいたる移行を生き抜いてきた。この期間を通じた階級的連帯の変容を、あなたはどのように見てきたのか?

 最も大きなことは労働組合の力の縮小だった。一九五〇年代と同六〇年代、それらは強力になった。人々が工場や鉱山やドックのような社会的組織の中で働いていたこと、その点で労組を組織することが容易だったことがその理由だ。
しかしそうした古い産業は死んだ。人々は現在、はるかにもっと分断された形で働いている。われわれは、生産を止めることができる時もっとも強力だ。しかしわれわれが生産点で組織されていないならば、決定的にもっと弱くなる。問題は、今生産はそれほどまで分断化され、グローバリゼーションに基づいてわれわれの労働者階級は今極東やラテンアメリカにいる、ということだ。

階級と階級闘争
こそ今も本質的


――自転車に乗ったデリヴェロやフードラのギグ労働者(インターネットを通じ単発の仕事を請け負う労働者:訳者)は、自らを労働者であると考えることすらしていない可能性がある。

 確かに、あるいは彼らの契約はフランチャイズ契約であり、あるいは彼らはいわゆる「自営」だ。それは巨大な問題だ。それは労働者階級にとって一つの組織化として設定される課題だ。

――あなたは、階級概念は今も意味をもっていると考えますか? 多くの人々は、彼らが貧しく時には明確に悲惨だと感じているとしても、自身を労働者階級であるとは考えていないと思われるのだが。

 私は階級が本質的だと確信している。それはまさに、異なった種類の労働力に対する資本の要求が変わるに応じて形を変えている。しかしそれは依然として労働力だ。そしてそれは依然として搾取を受け続け、かつて以上の程度の高さをもつと言ってもいい形で、剰余価値を今も与え続けている。もっと重要なこととして、われわれが階級闘争を理解しないとすれば、われわれは何ごとも理解しない。

――それは今日では、一つの集団の一部であるとは自身を受け取っていないバラバラにされた人々内部で闘争を再開するという、大挑戦の一つだ。

 それは、われわれの理解にとって一つの挑戦だ。極めてばつの悪いことがあった。先頃のことだが、日本で私は記事を書いていた非常にステキな何人かの人々に話をしていた。私は、階級を理解することの必要性、そして対立の必要性を力説していた。一人の非常にステキな女性が私に「私たちはあなたの映画を日本政府の役人に見せるつもりだ」と語りかけた。私は「いいが、なぜ」と語り、彼女は「彼らの心を入れ替えさせるために」と答えた。そこで私は「しかしそれこそが今さっき私が伝えた点だ! 彼らが心を入れ替えることはないだろう。彼らは支配階級の利益を守ることに専心しているのだ。彼らに説得は効かない。彼らは取り除かれるべきなのだ!」と答えたのだった。 システムを機能させている思想がそれほどまで深く埋め込まれている時に、それは超えることが極めて難しい点だ。それは、われわれがそれと闘うようになるまでにいたった社会民主主義の恐るべき遺産の一つだ。

――あなたが相手にしている人々が、彼らはあなたに伝えることができる、そしてあなたは彼らの心配事を考慮に入れるだろう、と信じるならば、それは社会的統制の一つの有効な形態だ。

 これこそ、われわれが過渡的要求という考えの全体を再生させる必要がある理由だ。われわれは、労働者階級の利益を基礎とした完全に合理的な諸要求を作成しなければならない。

異なった欧州と
国際連帯が必要


――それはひとまず締めくくって、かつてあなたがEU議会選キャンペーンに立候補したことにふれたいが。

 それはすっかり忘れていた。

――私が興味深いのは、ここ英国ではEUが本当の意味では激しい論争の対象ではなかったがその事情、ということだ。ブレグジット後突然、あらゆる人が今EUについて語り合っている。そしてそれはフットボールに次ぐもっとも話題に上る問題になっている。あなたは、国を超えて民主主義を構築する希望はまだあると感じているか、あるいは端的に遅すぎると感じているか?

 本当のところ私には答が分からない。しかし私の考えでは、国際連帯が明確に重要だ。欧州内部でそれは組織される可能性があるのだろうか? EUの構造は実際それほど難しい。すべてを再び始めることなしに、われわれがどのようにして変革を導入するのか、それを知ることは難しい。
明らかに、あらゆる変革は全政府から承認を受けなければならない。そしてわれわれすべては、その進行を実際に動かす問題がどれほど困難かを知っている。はっきりしているが、われわれは異なった原理を基礎とした異なった欧州を必要としている。そしてその原理とは、共同の所有権、計画、経済の平等化、持続可能性、そして全体として平等志向の労働だ。
しかしわれわれに、大企業が優先されている中では、利益が優先されている中では、さらに司法システムが利益を優先している中では、それを行う可能性は端的に言ってない。その変革をもたらすことは私の俸給等級を超えることだ。
ヤニス・ヴァロウファキス(ギリシャシリザ政権の元財務相:訳者)は、それを行うことは可能だ、と私に請け合った。彼は正しいと私は確信している。私は彼を信用している。しかし私は、どのようにしてか、は分からない。
(二〇一八年八月一六日)
▼ケン・ローチは、英国の映画、TV映像監督。自然主義的制作スタイルと社会の現実に迫る制作スタイル、および社会主義的信念で知られている。そしてそれは、彼の映像処理、あるいはホームレス問題や労働者の権利のような社会的課題設定の中で明瞭だ。ソーシャリスト・レジスタンスの支持者でもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年九月号)   


チュニジア


フェミニストの長い旅路

平等への希求に新たな活力

アハレム・ベルハッジ

 チュニジアではこの数週間、法における、特に「チュニジア人の個人的地位規定」(CSP)に関する全面的な平等を求めて、フェミニスト諸組織が率いた大規模なデモがいくつも起きてきた。問題のCSPは、男女間の婚姻関係と相続問題を統括する一連の法的規定から構成されている。スイス誌の『ソリダリテS』が、〔この情勢について〕フェミニズム活動家でありチュニジア民主的女性協会の一員であるアハレム・ベルハッジに聞いた。

――先頃のフェミニストの諸決起とそれらを動かしたものについて話すことができますか?

 一九五六年以後、八月一三日という「個人的地位規定」公布日は、チュニジアの国民的女性デーとなった。今年は、数千人という女性と男性、若者と高齢者が、平等と個人の自由を守るためにハビブ・ブルギバ通りに押し寄せた。その呼びかけは、チュニジア民主的女性協会、人権諸組織、より新参のいくつかのLGBTIQ組織から現れた。
このデモは、ジェンダー平等達成に向けた、チュニジアにおけるフェミニズム運動の長期にわたる旅程の一部だ。それは、女性の諸権利に対する憲法上の認知を求めた二〇一一年から二〇一四年の戦闘を引き継いでいる。フェミニズム運動は、非シャリア法を基礎にした市民の地位における諸市民間の平等に対する認知を要求したのだ。しかし、憲法に法を合わせる点については、今なお多くの抵抗がある。
時の中で時代遅れになった個人的地位規定は、大統領府が設置し、フェミニスト国会議員のボクラ・ベルハジ・フミダが率いた「個人の自由と平等に関する委員会」(Colibe)報告後に、熱を帯びた全国的な論争の主題になっている。先の規定には率直に言って、シャリア法を源とする差別的な条項が含まれている。たとえば、家族の長としての夫、特別な状況を除いた子どもに対する家父長的後見、結婚時の持参金義務(たとえ象徴的だとしても)、相続における差別だ。
諸要求は、男女間の平等に加えて、個人の自由、そして特に同性愛の非犯罪化や自身の身体に関する自由処断に対する尊重にも関わっていた。フェミニズム運動とLGBTIQ運動間の連携は最近のものだ。それは、いくつかの共同行動と個人の自由を求めるチュニジアの共闘機関設立という結果に導いた。

――これらの諸決起の前にある障害とはどういうものですか?

 強硬派のイスラム主義者が八月一一日に、これらの改革反対の行進を組織した。彼らは、それらの改革は宗教と対立していると主張し、平等と個人の自由はチュニジアのムスリム社会を脅かす、Colibe報告はフィントナ(宗教戦争)への呼びかけだ、と考えている。彼らは、相続、持参金の平等を支持するあらゆる方策の放棄を求めて声を上げ、性的指向の自由に関係するすべてのことに特に反対した。
政権を構成するイスラム派のアンナハダ党は、公式にはこのデモを求める声を上げなかった。しかしデモの指導者の一人は、アンナハダの元宗教問題相だった。
二つの政権党、ニダー・トゥネスとアンナハダは、二〇一九年選挙に向けた準備として、今政治的分極化の空気をつくり出そうとしている。そして女性の権利に関する制度化という問題は、そこに向けてもっとも良く効く主題なのだ。イスラム主義勢力との連携により深い失望を呼んでいるカイド・エッセビ大統領は、女性有権者全体を必要としている。彼女たちは、アンナハダに対抗し、ブルギバ(チュニジアの初代大統領)の志を継ぎ、平等な相続を定めることにより歴史を作ることができるように、彼に大量に票を投じたのだ。アンナハダはアンナハダで、彼らの基盤は諸々の彼らの失策を忘れるだろうとの期待の下に、宗教とアイデンティティを利用している。
八月一三日のデモは、数多くの失望と経済的、政治的危機に続く、ここしばらくの数カ月が示した無気力と士気阻喪を打ち破った。政府は自身の民衆により彼らとの関係を否認され、エッセビのニダー・トゥネス党は、彼の息子に関する継承戦争が原因で数部分に分裂した。
支配的な国民連合はいくつかの内部対立を抱えている。UGTT(チュニジア労働総同盟)は今、前例のない経済危機、すなわち七・二%というインフレ率、対GDP債務比率七二%、ディナール(チュニジア通貨)の価値低落、という空気の中で、IMFと世界銀行に命じられた新自由主義諸方策を前に、政府に退陣を求めている。
フェミニストの呼びかけを支持した政党は僅かだった。人民戦線(注)は、一日前に行進に合流し、最終的にデモの側に立つ鮮明な立場を明らかにした。マッサール(前チュニジア共産党)もまた、行進への合流を呼びかけ、一方他の諸政党の政治活動家たちは、彼らの党の立場とは独立してデモに立ち上がった。
デモ参加者たちは、平等や個人的自由を求め、しかしまた生活費、腐敗、保守主義のあらゆる形態にも反対するスローガンを唱和した。チュニジアのフェミニズム運動は再度決起に向けた推進力になるだろうか?

▼アハレム・ベルハッジは著名なフェミニスト活動家であると共に、チュニジア民主的女性協会の代表。労働者左翼同盟(LGO)指導者の一人でもある。
(注)「革命目標の具体化をめざす人民戦線」は、九つの政党と多数の自立活動家から構成された、チュニジアにおける左翼政治・選挙連合。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年九月号)  


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