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    かけはし2018年10月22日号

玉城デニー新知事が安倍首相と会談


沖縄報告 10月14日

沖縄の「負担軽減」とは辺野古新基地の断念だ

もうごまかしはきかない

本気で沖縄の民意に向きあえ


 一〇月一一日、玉城デニー沖縄県知事は首相官邸で知事選後はじめて安倍首相と会談し、「今回の選挙で新基地建設は認められないとの民意が改めて示された」と述べ、問題解決のため「沖縄県と日本政府、米軍による協議の場を設けること」を要請した。テレビニュースでも報道されていたので、ご覧になった人も多いと思うが、安倍はうつろな表情で、右手テーブルの上のカンニング・ペーパーに盛んに目をやりながら、「これまで進めてきた政府の立場は変わらない」と述べた。本当に、誠意のない首相、誠意のない政府だ。辺野古に基地を造るな!普天間は閉鎖せよ!という沖縄の民意に真摯に向き合うことなくして、日本政府は沖縄県民の信頼を回復することはできない。
 安倍はまた「戦後七〇年経った今なお、米軍基地の多くが沖縄に集中し、大きな負担を担っていただいている現状は到底是認できない。県民の気持ちに寄り添いながら基地負担軽減に向け一つ一つ着実に成果を出す」と、一〇月九日の県民葬で菅が代理で述べ「ウソつくな」のヤジを浴びたのと同じ言い回しの空虚な言葉を並べた。安倍と玉城デニー知事との会談は三〇分。民意に真摯に耳を傾けるのではなく、丁寧な対応のポーズを取り繕っただけ。しかしそれでも、知事・首相会談ができたことは成果だ。
 デニー知事は会談後の記者会見で「われわれが自ら対話を閉ざすことはしない。常に対話を申し込み、呼びかけて、この問題については政府がちゃんと県民の願いを聞いて欲しいということを言い続けたい」と語った。沖縄の民意に真摯に向き合えという世論を全国で強力に巻き起こし、沖縄県民の願いと共にある日本政府をつくりだそう!

豊見城市長選・山川仁さん当選

県知事選後初の首長選挙で勝利
 
 一〇月一四日投開票の豊見城市長選で、玉城デニー知事と共に辺野古新基地に反対する山川仁さん(社民、共産、社大、自由、国民民主、立民推薦)が、自民・維新の支持を受けた新人と現職のともに安倍政権との協調を掲げた二候補を破り、当選した。当日有権者数は四万八一四一人、投票者数は二万五六五一人。投票率は五三・二八%で、四年前の五三・四六%を〇・一八ポイント下回った。選管最終の得票数は次の通り。

山川 仁  一万一二七四 
宜保安孝  七六四五  自維
宜保晴毅  六四五九  現職

 豊見城市で過去二〇年続いた保守市政に終止符が打たれた。産経新聞は電子版で「保守分裂選挙となり、山川氏が漁夫の利を得た」と残念そうなコメントをし、山川さん当選の意義を薄めようとした。県知事選挙の圧勝に続く豊見城市長選の勝利により、沖縄の闘いの潮目が転換したことがハッキリした。次は那覇市長選だ。城間幹子那覇市長の再選を勝ちとり、辺野古新基地NO! 普天間飛行場閉鎖! を求めて玉城デニー知事と共に闘う県民ぐるみの闘いをさらに推し進めよう!

10.9

翁長前知事の県民葬に三〇〇〇人

安倍の代読・菅に抗議の嵐

 一〇月九日午後、那覇市奥武山の沖縄県立武道館で、八月八日に急逝した翁長知事を追悼する県民葬が行われ、三〇〇〇人の県民が参列した。会場に入りきれない人々は会場外に設けられたモニターを観覧し、会場内の人びとの献花が終わるまで列をなして待ち続けた。県民に愛された翁長知事。翁長知事の遺志をついで新基地建設を止め平和な沖縄の未来を展望する願いがこもった、厳粛な中にも熱気のある県民葬だった。
県民葬実行委員長にはデニー新知事が就任した。デニー知事は式辞で、「辺野古に新基地を造らせないことを県政運営の柱に掲げ、国と対峙しながらも沖縄の民意を強く訴え続け、多くの県民の共感をえた」と翁長知事を偲んだあと、「われわれ沖縄県民は、翁長雄志さんの遺志を引き継いで、ウヤファーフジ(祖先)を敬い、自然を愛し、他者の痛みに寄り添うチムグクルをもって自立と共生と多様性の沖縄を創り上げ、生まれてくる子どもたち、明日を担う若者たちに、平和で豊かな誇りある沖縄を託せるよう、一丸となって努力し続けることを誓う」と述べた。会場からは大きな拍手が起こった。
安倍の弔辞を代読した菅は「翁長前知事は文字通り命懸けで沖縄の発展のために尽くしてきた。これまでの功績に心から敬意を表する」と歯の浮くようなお世辞を言い、「翁長前知事は、沖縄に基地が集中する状況を打開しなければならないという強い思いを持っていた。沖縄県に大きな負担を担っていただいている現状は到底是認できるものではない」と述べるや、会場のあちこちから一斉に「ウソつくな」「民意を無視するな」などと抗議の声が上がった。拍手はひとつもなかった。献花を終えて退場する菅に対しても「ウソつき」「帰れ」などとヤジが飛び騒然となった。
拍手が一番多かったのは、友人代表として追悼の辞を読んだ呉屋守将金秀グループ会長に対してだった。呉屋さんは、県民の圧倒的支持を得て当選した四年前の知事選、自身が那覇高校の二年上級だとの翁長知事との親しい間柄に触れながら、「残念ながら沖縄は翁長雄志という素晴らしい政治家を失ったが、遺志を受け継ぐ新たな知事が誕生した。新知事の下でも厳しい状況が続くことは想像に難くない。しかし県民はあなたの思いをしっかりと受け止め歩んでいく。ニライカナイから沖縄県の行く末を見守っていただきたい」と述べた。
黙祷、式辞、追悼の辞、献楽、代表献花、謝辞、閉会の辞のあと、翁長雄志さんをしのぶ、在りし日のビデオ上映が行われた。「ウチナーンチュ、ウシェーテーナイビランドー」と叫ぶ二〇一五年のセルラースタジアムの場面を冒頭に、四年間頑張り抜いた翁長知事の懐かしい姿の数々に、会場から期せずして大きな拍手と指笛が巻き起こった。翁長知事が苦しみながら闘い抜いた四年間は、沖縄が日米両政府から強いられた軍事基地の島の重圧と桎梏から抜け出す県民の歩みがしるされた四年間だった。沖縄の自己決定の闘いは始められた。後戻りはしない。
この間前後して、沖縄タイムス社は『沖縄県知事翁長雄志の「言葉」』、琉球新報社は『魂の政治家翁長雄志発言録』を編集出版した。是非手に取って目を通して欲しい。そしてこの機会に、既刊の『戦う民意』(角川書店)、『反骨』(朝日新聞出版)も読んでいただければと思う。翁長知事とは那覇市長時代、韓国政府のある部局の訪問団を迎えた歓迎会の席上、通訳として隣りの席に座って二時間近くを共に過ごした経験がある。その時の印象は、人当たりは柔らかいが自分には厳しい「外柔内剛の政治家」というものだった。翁長さんが「県民の父」であったなら、デニーさんは「気さくな兄貴」というところだ。沖縄の自己決定を求める闘いのすそ野はいっそう広がり大きく前進を遂げるだろう。

空襲74周年

那覇市歴史博物館で常設展示

戦争犯罪の責任追及の必要痛感

 今年は一九四四年の10・10空襲から七四周年にあたる。のべ一四〇〇機近くの米軍機による五波にわたる大空襲により那覇市をはじめ沖縄全土が焦土化した10・10空襲は沖縄戦の始まりとなった。
一〇月一〇日。この日の『沖縄タイムス』は、当時の真和志国民学校六年生だった知念さんたち三人の記事を掲載した。旧真和志村繁多川地区に住んでいた知念さんは姉たちと壕掘りに行く支度をしている時にけたたましい轟音と共に低空飛行する米軍機に襲われ、慌てて近くの防空壕へ避難したが、「沖縄が攻撃されるとは夢にも思わなかった」という。平和の礎に刻銘された繁多川の住民は約三五〇人。当時の人口七三〇人の半数近くにあたる。知念さんも父親と四人の兄弟をなくした。
午後、10・10空襲の常設展示をしている那覇市歴史博物館に出かけた。那覇市パレット久茂地四階の展示場の一角には、炎上した那覇市や爆弾を落とした米艦載機グラマンの写真が数枚と関連資料、説明文が展示されていた。沖縄本島から約二八〇キロの地点に、米軍高速空母軍第三八機動部隊の航空母艦、巡洋艦など一〇〇隻余りが集結。午前五時四五分、第一波のグラマン戦闘機隊が飛び立った。那覇はすがすがしい秋晴れ。寝耳に水の住民は「今日の友軍の演習はすごい。実弾を使っている」などと眺めていたが、その後空襲警報が鳴り響き、火炎があがって初めて、敵機の来襲だと気づいたという。日本軍の飛行場、港湾、軍施設だけでなく、学校、病院、公共施設、民家が攻撃対象となった。当時の那覇市の人口は約六万人。一万五〇〇〇戸の九〇%が焼失し、県民にとって、住む家がない、食べる物がない、着るものがないという戦争の苦しみの始まりとなった。
10・10空襲は米軍の無差別爆撃だった。米軍はすべてを焼き尽くす焼夷弾を発明し初めて使用した。極めて大きな威力を発揮した10・10空襲の後、日本本土の空襲にも多く用いて、3・10東京大空襲をはじめ全国各地の都市という都市を破壊し住民の命を奪った。戦争になれば何でもしていいのではない。許されないことがある。住民に対する無差別攻撃はどんな場合でも許されない。それは戦争犯罪だ。10・10空襲は東京大空襲や広島・長崎への原爆投下と並ぶ米軍の戦争犯罪だ。
アメリカは日本攻撃作戦を三段階に分け、@沖縄を制圧するアイスバーグ作戦、A九州に上陸するオリンピック作戦、B関東に上陸するコロネット作戦を策定した。10・10空襲を皮切りとするアイスバーグ作戦は米軍にとって、続く九州、日本本土への上陸作戦に用いる拠点確保・飛行場建設のための戦いであり、そのため沖縄を完全に制圧しようとした。
対する日本軍は米軍の空襲など全く予想していない。第三二軍は一〇月一〇日に軍首脳部を集めて大掛かりな図上演習を予定していて、前日の九日夜は那覇の料亭に各地の軍司令官たちを集めて宴会を開いていた。那覇市安里の養蚕試験場にあった三二軍司令部も10・10空襲で焼けてしまった。翌一一月になって、長野県の松代大本営の建設と同時に、当時国宝であった首里城の地下に全長一キロの司令部壕の建設に着工するのである。10・10空襲は沖縄戦の始まりであるとともに、沖縄戦の縮図だ。戦場での米軍の圧倒的な支配力、日本軍と米軍の軍事力の天と地ほどの差、米軍には力の弱い日本軍の住民に対する暴力的支配という構図が沖縄戦を通じて貫徹した。県民は米軍の軍事力と日本軍の暴力支配という双方から被害を受けた。
日本政府は一九四四年一二月九日、中立国のスペインおよびスイス政府の駐米大使館を通じて、「米軍機は、学校や病院、寺院、住居などのような那覇市街の非軍事的目標にやみくもに攻撃を加え、灰燼に帰せしめた。同時に無差別爆撃と低空からの機銃掃射により多数の民間人を殺害した。日本政府は、非軍事的目標や罪のない民間人に対するこのような意図的な攻撃が、今日、諸国家間で承認されている人道の原則と国際法に対するきわめて重大な違反であると認め、抗議する」と述べたが、米国は黙殺した。
日本政府の米国に対する抗議は正当だ。ところが日本政府が10・10空襲で米国に抗議したのは後にも先にもこの一回だけだ。その後七四年間、アメリカも日本も10・10空襲を無視し続けている。アメリカの戦争犯罪を批判できない日本政府。自らの戦争犯罪を反省しない日本政府。この二つはメダルの表と裏の関係だ。歴史に対する責任というものがある。アメリカの戦争犯罪を批判するとともに、アジア諸国や国民に対する自国の戦争犯罪の責任を認める日本政府にならなければ,七三年前に終わった戦争の後始末はいつまでたっても終わらない。

岩波ブックレット/520円+税
   山城 博治 ・北上田 毅 (著)
『辺野古に基地はつくれない』

 先月、北上田毅さん「この基地建設はいずれ頓挫する」、山城博治さん「辺野古に基地はつくらせない」の二つを内容とする岩波ブックレットが発刊された。北上田さんの論考はこの間の辺野古新基地をめぐる動きをすべて網羅した力作だ。県内外の学習会のテキストとして広く活用してほしい。


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