もどる

    かけはし2018年11月19日号

当たり前の民主主義を


大事なことはみんなで決める

署名運動が始まった

女川原発再稼働の是非
を問う県民投票実現へ


 【宮城】「女川原発再稼働の是非はみんなで決めよう!」と県民投票実現を目指す署名運動が一〇月二日から一二月二日までの期間で取り組まれている。
 東北電力女川原発2号機の再稼働に向けた原子力規制委員会の新規制基準適合性審査会合は一三四回を数え(一一月七日現在)、東北電力は、来年一月までにすべての審査を終えたい方針で、再稼働目標を二〇二〇年度以降に見直している。適合性審査会で「合格」が出されれば地元同意へと進み、立地県と立地自治体の首長と議会にその同意が委ねられることになる。
 このような状況のなかで「女川原発再稼働の是非はみんな(県民の意志)で決めよう!」と県民投票実現を目指す署名運動が提案され、「女川原発再稼働の是非はみんなで決める県民投票を実現する会」(みんなで決める会)が発足し署名活動の準備が宮城県内で進められてきた。
 九月二三日開催されたキックオフ集会には、県内から二五〇人が結集して署名開始を確認し、受任者(県条例制定請求代表者から署名を集める県民に委任された人)が七〇〇〇人に達したことが公表され、一〇月二日、宮城県知事から「請求代表者証明書」の交付を受け、宮城県内各地で、家族親族・ご近所や友人知人からの署名集め、さらに町内の戸別訪問など「草の根」の署名活動が一斉に動き出した。

これまでにない
ほどの広がり
署名活動から一カ月を経過した一一月三日、仙台で開かれた「県民投票実現をめざす署名運動の中間報告集会」には二〇〇人が参加し、現在の、署名集約数一万七〇一五筆(達成率四四%)に達していることが報告された。(目標三万八八五四筆 有権者の五〇分の一)。
各地からの報告では、街頭署名や個別訪問がこれまでにない好反応であることや、マスコミ報道によりさらに反響が拡がり、宣伝カーでの全県キャラバンでは呼び止められ署名を求めてきたこと、みんなで決める会では「どこで署名ができるの?」という問い合わせに応えるために「署名スポット」を地域の店や事務所を対象に募り、県内で四四カ所(一一月一日現在)が応じてくれて開設したことなど、これまでにない各地での対応と署名活動の拡がりが報告された。
脱原発県議の会の佐々木県議は、「県議会のなかでも皆さんの努力を結果として出すために全力を尽くす。県議会で再稼働に同意するか否かの議決をする。県議一人一人の責任は重い。後世にしっかりと結論を出したい。」と挨拶し県民条例制定に向けて全力を尽くすことを表明した。

若者、女性の
好意的な反応
栗原の会、県民投票を実現する女川実行委員会、みんなで決める大崎の会、泉連絡会、岩沼など各団体からのあいさつでは、地域の脱原発、平和、環境、9条の会などが連携し一つの塊となって地域署名を取り組んでいることが報告された。「歩けば歩くほど署名が集まるような気がする」「女性、若い人の反応が強い」等、署名運動が全県的に広がっていることが報告された。
特に、原発立地自治体である女川町では一〇月末に五二〇筆を数え町民の一〇%を超えさらに「二〇%」を目指し頑張ると言う力強い表明がなされた。女川町では東北電力関連、企業の下請け・孫請けや東北電力で働いている人も多いなかで原発再稼働問題への関心は極めて高い。
集会のまとめとして代表の多々良氏は「沖縄県でも辺野古基地建設の是非を問う『県民投票条例』が制定され来年にも県民投票が行われる。宮城の取り組みを成功させ『大事なことはみんなで決めよう』という当たり前の自己決定権、当たり前の民主主義を実現させよう」と結んだ。

女川原発1号機
の廃炉を決定
東北電力は一〇月二五日、九月末に廃炉の検討に言及していた女川原子力発電所1号機(宮城県、出力五二万四〇〇〇キロワット)を廃炉にすることを決めた。運転開始から三五年目を迎えていること、再稼働には大規模な安全対策工事が必要なこと、巨額の費用も見込まれることなどから判断したといわれているが、廃炉は当然であり遅きに失したものである。2号機の再稼働の環境づくりが第一であることは疑いないことだ。署名活動はその意味においても重要な取り組みになる。署名集約がSNS等で日々公表されている。残り半月、県民投票条例の制定に向け全力で取り組んでいく。
※二万一三八〇筆(一一月八日現在)(A)

10.26

東海第二原発二〇年延長許さない

原電包囲ヒューマンチェーン

危険な老朽原発廃炉へ

 一〇月二六日午後五時半から、東京・千代田区神田美土代町の日本原子力発電(日本原電)本店前で、「東海第二原発二〇年延長を許さない!原電包囲ヒューマンチェーン」が行われた。主催は、とめよう!東海第二原発首都圏連絡会議。
 一〇月二六日は、一九五六年に日本が国際原子力機関に加盟した日であり、かつ一九六三年に茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初めての原子力発電に成功した日として「原子力の日」となった。一方、原発に反対する人たちはこの日を「反原子力の日」として、原発に反対するキャンペーン、集会、デモなどを行っている。
 今年は、四〇年を超える危険な老朽原発「東海第二」の運転を二〇年延長するという暴挙を止めるため、地元茨城県をはじめとして首都圏から二七〇人の人びとが参加した。
 首都圏連絡会を代表して「たんぽぽ舎」の柳田真さんがあいさつ。「もともと原子力発電を祝う日とされたこの日に、日本原電前で東海第二原発の二〇年運転延長を止め、原発をやめる日とするために私たちは活動してきた。なんとしても危険極まる老朽原発の運転延長をやめさせよう」と訴えた。
 「村松社長は出てこい!」のコールが響きわたる。たんぽぽ舎の横田さんは、住民の意見を無視し続けるごう慢な対応を批判する。日本原電の村松衛社長は「資源の少ないわが国において、原子力発電は『重要なベースロード電源』であり、今後とも原子力発電のエネルギー安定供給に引き続き大きな役割を担うものとして考えております」(同社のHP)と、あらゆる懸念・批判を無視し、福島原発事故などなかったかのような居直りを決め込んでいるのだ。

古くて危険な
欠陥炉の廃炉を
地元・茨城の住民からの発言が続く。常総生協の大石さん、原発いらない牛久の会の藤田さんは、住民の思い、不安を一顧だにしない日本原電の対応に怒りをぶつけた。発言が続く中で、二回にわたって日本原電本店ビルを包囲する「ヒューマンチェーン」が行われ、同社ビルは完全に包囲された。
集会のしめくくりに、たんぽぽ舎の山崎久隆さんは、東海第二原発の原子力容器は基準値振動の二倍を超える揺れで壊れることが明らかになっている。それを安全だというのは基準値を超える揺れは一度だけ、という前提に立っている。廃炉が決まった「女川原発1号機」よりも東海第二のほうが古くて脆弱と批判した。
さらに追撃の闘いを広げ、首都圏に位置する東海第二原発の二〇年運転延長をやめさせよう。  (K)

投書

コラム「架橋」10月22日号の記事批判

GM食品やゲノム編集
技術食品は安全なのか?

読者 E・M

 この記事を単純に読むと、筆者は全くゲノム編集技術「食品」に懸念を抱いていないように感じますが、ゲノム編集食品技術も「遺伝子組み換え食品技術も、食べても大丈夫(限りなく一〇〇%)、安全性は担保されるという食べ物を作り出す完成した技術としてはまだまだ認知されてはいない、証明はされてはいない」と理解するのが、原発技術に少なくとも疑義を表明している第四インターナショナルの感性だと思うのですが。
 遺伝子組み換え(GM)食品やゲノム編集技術食品の安全性の問題性については、ここでは記しませんが、第四インターナショナルを標榜している機関紙でこのようなコラムが、「主宰している書き手」から出ると、前衛を主体的に担おうとする組織体として、福島原発災害を民の側から防ぐ運動を担えなかったことへの真摯な反省があるとは思えなくなります。
 故・右島一朗同志が、一九七〇年代から、旧日本支部同盟誌(第四インターナショナル)で、原発技術に断固反対を表明せよと訴えていた頃、(真の)社会主義国家(建設)で国家管理下におけば、まだまだ可能性のある技術として(核融合技術も見据えて)考えておいてもよいのでは、との主張が同盟内部でなされていたあの頃を思い出します。
 生命の根本を操作する技術なのですから、原子核をいじる技術と同様に遺伝子をいじる技術にも、もう少し注意と畏怖と尊厳を意識的に払って頂きたいと思います。

コラム

「和解するのはまだ早い」

 最近、「明治一五〇年」を祝う式典が全国各地で開かれている。多くは明治維新の全面賛美。NHKの大河ドラマ「西郷どん」もこの一翼であろう。
 新政府軍=官軍の中心であった長州藩の末裔たる安倍晋三は、政府主催の式典で得意気に「明治の人々の勇気と英断、たゆまぬ努力・奮闘によって……新しい時代の扉は開かれた」と賛美。自民党の総裁選の時には鹿児島でのあいさつで同じトーンで薩摩を持ち上げた。一国の首相でありながら安倍には薩長から見る歴史観しかないと見える。
 しかし、これに対して会津藩を中心とする奥羽・越後諸藩=奥羽越列藩同盟の関係自治体は「つい最近まで賊軍・朝敵と呼ばれ、しこりを引きずってきた。簡単に一五〇年を賛美する気にならない」。「われわれにとって、今年は戊辰戦争一五〇年。和解するにはまだ早い」と発言している。
 こうした声を受けて朝日新聞は一〇月中旬の夕刊で、三〜四回にわたり「戊辰の敗者をたどって」という企画を連載した。
 この連載は、「やはり会津は逆賊ではなかった」「必要のなかった戊辰戦争」という言葉が躍っている。私は奥羽越列藩同盟の中で最初に崩れた藩の地元で育ったせいか薩長に対しては身構えるものの、どこかに「今更そんなことはどうでもいいではないか」という多少醒めた気持ちがあった。しかし、かつて私のこうした考え方が木っ端微塵に粉砕される契機があった。
 今から約五〇年近く前の一九七〇年の春「下北半島のむつ小川原巨大開発反対闘争」に参加した時である。この闘いは当時「南の三里塚、北のむつ小川原」と呼ばれていた。現在反原発闘争などで奮闘している鎌田慧さんも参加していた。まだ有名になる前で若くて、「私も青森県弘前市で生まれ育った。故郷が破壊されるのを見過ごすことはできない」と述べていたのを覚えている。
 反対行動が終ると帰路につくために、毎回むつ市の大湊駅に向かうのだが、その途中のあちこちに会津藩が下北半島に再建を夢見た斗南藩士の家や門が朽ち果てているのを散見した。その残がいは書物以上に迫力があった。「下北はもうひとつの戦場。餓死・凍死はあたり前。特に冬は荒涼とした不毛の地」という光景が一〇〇年の時を超えてそこにあった。
 会津藩の悲劇は福島県の会津若松市だけで終らず、下北まで続いたことを私は改めて知らされた。新政府の報復はこれにとどまらず、本家の南部藩と分家の津軽藩の対立を煽り、南部と津軽の真ん中にあった寒村の青森村に県庁所在地を指定し、南部藩の海の玄関口である八戸―を岩手から切り放し青森に組み入れた。
 むつ小川原巨大開発計画は、一度も全面的対決がないまま、いとも簡単に政府と財界は開発計画を撤回した。しかしその後、政府と財界は小川原に原発再処理工場、漁村であった東通に原発、さらに津軽海峡に臨む大間にも原発と下北半島の原発ロード化をぶち上げた。
 今になって考えてみるとむつ小川原巨大開発計画の本当の狙い・目的は下北半島を原発銀座にすることにあったように思う。
 福島、新潟、青森、宮城の各県に今日多数の原発が存在するのは、一五〇年前の奥羽越列藩同盟の歴史と無縁ではない気がする。「和解するにはまだ早い」という朝日新聞の連載記事の一言が妙にしっくりする。(武)


もどる

Back