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    かけはし2019年11月4日号

闘いの行方 現地結集の数が決める


沖縄報告 10月27日

5日間ダンプも船も止めた!

沖縄 K・S


10.21から25

琉球セメント安和桟橋

ゲート前で赤土ダンプの進入を完全ストップ!

 一〇月二一日(月)から二五日(金)までの五日間、琉球セメント安和桟橋からの赤土土砂の搬入・搬出は完全にストップした。赤土を積んだダンプはもちろんのこと、空で進入し桟橋構内の仮置き場に積み上げている赤土を運搬船に乗せるためベルトコンベアーに運ぶダンプも、早朝から結集したゲート前の参加者の阻止線で引き返さざるをえなかった。桟橋には朝から土砂運搬船が待機したが、ベルトコンベアーで運ばれてくる赤土土砂が文字通り一粒もないため、むなしく岸壁を離れていった。五日間、赤土土砂の搬入・搬出が完全に止まった!
二一〜二五日の五日間、オール沖縄会議現闘部と各地の島ぐるみ、団体による通常のゲート前行動に加えて、「あつまれ辺野古」のグループが全県全国に呼びかけた「連続五日間大行動」に呼応して連日多くの人びとが安和のゲート前に結集し、座り込んだ。ゲート前には救護班のテントが設置され、北海道、東京、神奈川、千葉、静岡、名古屋、京都、大阪、兵庫、山口、熊本など北から南までの一七都道府県から数十人以上が集まり、県内各地の参加者と共に、赤土土砂搬出入ストップ!新基地阻止!の行動を貫徹した。

「あつまれ辺野古」が大活躍

 どういう訳か、この五日間、警察機動隊は全く姿を見せなかった。一〇月二二日を中心とした天皇家の儀式を守る警備に動員されたとしても、一週間近くも全く姿を見せないという理由は何だったのか。ともかく、二一日(月)、二二日(火)の両日は警察と工事車両も共に姿を見せなかったが、二三日(水)になって、午前七時前、九台のダンプがゲート前に現われた。
しかし、五〇人以上のゲート前の座り込み隊が断固として阻止。一時間後、ダンプは引き返した。琉球セメント安和桟橋の岸壁には土砂運搬船が接岸していたが、土砂の積み込みを行なうことができないため、空のまま岸壁を離れた。運搬船の出航を止めようとカヌーを浜辺に準備したカヌーチーム「辺野古ぶるー」のメンバーも、ウェットスーツとマリンシューズの海上行動姿のまま、ゲート前の座り込みに参加した。ゲート前は、各地の参加者の報告やスピーチと歌、サンシンが交互に行われ、交流を深めた。
そして翌二四日(木)も、七時前に八台のダンプがゲート前に現われたが、やはり五〇人以上の座り込みが阻止。二時間半後、ダンプは進入を諦め引き返した。二五日(金)はダンプも姿を現わさなかった。
五日間、安和のゲート前行動は完全に勝利した。参加者は喜びの歓声をあげカチャーシーを舞った。朝から夜まで連日頑張り抜いた現場リーダーの中山さんは「辺野古の闘いの歴史の中で、一週間一度もダンプが何もできなかったのは初めてではないか。二日連続でダンプを追い返したのも初めてではないか」と、真っ黒に日焼けした顔をほころばせて心からの喜びを口にした。
興奮と歓喜の一週間が過ぎて、週明けからは再び警察機動隊とのギリギリとした攻防の中での工事車両の進入を止める闘いが、安和でも辺野古でも繰り広げられていく。「普天間の危険性除去のための辺野古新基地」という政府の嘘で強行される埋め立て工事を止める現場の闘いで、決定的に重要な要素は人だ。うまずたゆまず現場に足を運び座り込む人々の力が、その数が闘いの行方を決める。
辺野古へ行こう!
安和へ行こう!
地域のすみずみから現地へ向かう運動をつくり出そう!

10.23

APALAシンポジウム

米国アジア系労組との連帯集会に130人


一〇月二三日夜、那覇市八汐荘で、APALA(アジア太平洋系米国人労働者連合)からの代表団を迎えて、辺野古新基地に反対する連帯集会が開かれた。APALAは、アジア太平洋にルーツを持つ六六万人の組合員を擁する労組で、ワシントンに本部を置き全米一二以上の支部を持つ。約一二五〇万人の組合員を擁する米国最大の労組AFL・CIO(米労働総同盟・産別会議)に加盟する。二〇一五年には全国執行委員会で辺野古・高江との連帯決議をあげ、二〇一七年と今年の年次総会で、沖縄県民に連帯し辺野古新基地に反対する決議をあげた。
今回、一〇月一四〜二〇日の玉城デニー知事のアメリカ訪問と入れ替わるような形で、APALA創始者や現議長を含む代表者七人が沖縄を訪問し、普天間第二小学校はじめ米軍普天間飛行場、嘉手納基地、米軍機が墜落した宮森小学校、辺野古ゲート前などを訪れ、交流した。那覇市での連帯集会には、辺野古・安和から駆けつけた各地の島ぐるみのメンバーを含め約一三〇人が参加した。
進行役は、オール沖縄会議共同代表の一人、高里鈴代さん。パネリストの糸数慶子さん、ジュゴン保護キャンペーンセンターの吉川秀樹さん、APALA創設者のケント・ウォンさん、APALA議長のモニカ・タマラさんと共に壇上に上がった。
糸数さんは「米海兵隊員による北谷町の女性殺人事件について、日米協議はなく、遺族に対し補償も謝罪も一切ない」と怒りを表し、「沖縄の理解者をアメリカで増やしていくことが大切だ」と述べた。ケント・ウォンさんは「沖縄の人々に会い声を聞くことができてとてもうれしい。日米政府に対する沖縄のくじけない闘いに感銘を受けている。今回の沖縄訪問は沖縄の闘いを学ぶためだ。一一月に沖縄県議会の六人の県議がアメリカを訪問するが、全力でサポートしたい。未来の子どもたちのために勝利しよう」と訴えた。
モニカさんは「私の出身はラオス。難民の子どもだ。アメリカのラオス・カンボジアに対する空爆は一部沖縄から出撃した。両親は戦争を逃れ米国へ避難した。沖縄の人と共通点があると思う。私は教職員労組に籍を置き、もっとも若くAPALAの議長になった。今回の沖縄訪問に尽力してくれた人々に感謝したい。アメリカは一%だけが富裕層で、格差や貧困の問題が深刻だ。子供たちのために、労働運動、反戦運動に取り組んでいる」と述べた。吉川さんは、沖縄訪問に対し感謝の意を述べたあと、国防権限法案とジュゴン訴訟について報告した。
質疑と意見交換の中で、モニカさんは「アメリカにも基地があるが、沖縄のように住宅地や学校の近くにはない。米軍基地の存在の中で教育がどれほど困難に直面しているか。子供たちが慣れてしまうのが一番怖い問題だと思う」と述べた。さらに、「アメリカでも集会の最後には、ガンバロー三唱にように全員で声を合わせてスローガンを叫ぶが、その内容は、抵抗しよう!組織しよう!闘おう!」だと言ったあと、参加者全員が立ち上がり、一緒に英語で「resist, organize, fight」と叫び、会場の大きな拍手と歓声に迎えられた。

10.24

那覇で遺骨返還国際シンポ

沖縄戦の朝鮮人犠牲者の調査と遺骨返還


一〇月二三〜二六日にかけて、韓国の「日帝強制動員被害者支援財団」と「民族和解協力汎国民協議会」が主催する「日帝強制動員犠牲者遺骸に関する国際シンポジウム」が行われ、韓国から二〇人以上、全国各地からも四〇人、県内と合わせて計一〇〇人が参加した。
二三日の平和祈念公園の遺骨保管所・平和の礎訪問に続いて、二四日は午前九時から午後七時まで、ノボテル那覇のホールで「沖縄戦戦没者遺骨調査ならびに韓国人遺骸奉還のための提言」と題するシンポジウムが開催された。
午前の部の始まりでは、ウソク大学東アジア平和研究所の徐勝(ソスン)さん「沖縄と東アジアの平和」、東アジア市民ネットワークの殿平善彦さん「遺骨の声を聴く―強制労働被害者の遺骨発掘と奉還から学んだこと―」、沖縄でペ・ポンギさんの支援を続けた金賢玉(キム・ヒョノク)さん「沖縄で在日として生きる」の三つの発表が行われた。
続くセッションでは、強制動員真相究明ネットワークの飛田雄一さん「強制動員真相究明ネットワーク・運動の振りかえり」、民族問題研究所研究員で慶煕大教授のキム・ミンチョルさん「強制動員問題の現状と課題」、朝鮮人強制連行調査団日本側全国連絡協議会の空野佳弘弁護士「大法院判決に関連するいくつかの問題について」などが発表され、それぞれ討論が行われた。
昼休みをはさんで午後は、同じく全国連絡協議会の寺尾光身さん「三菱重工名古屋の朝鮮女子勤労挺身隊被害者と支援者の活動」、川瀬俊治さん「日韓市民が‘共有する歴史’をどう実現させるのか」などの発表が行われた。
そのあと、韓国忠北大考古美術史学科名誉教授の朴・ソンジュさん「遺骨発掘の意味と課題」、済州大のジョ・ソンユン教授「南洋群島の朝鮮人遺骨発掘と記念事業」、戦没者遺骨を家族のもとへ連絡会の上田慶司さん「‘我が国’の戦没者に限定した戦没者遺骨収集推進法」の発表が行われた。続いて、ガマフヤーの具志堅隆松さん「沖縄戦犠牲者の遺骨収集―ガマフヤーの活動を中心に―」、強制動員真相究明ネットワークの竹内康人さん「沖縄戦での朝鮮人強制動員と死亡者調査」、沖縄恨之碑の会の沖本富貴子さん「沖縄戦の朝鮮人遺骨と返還―本部町健堅の朝鮮人遺骨発掘にあたって―」が発表された。討論には、済州大のコ・ソンマンさんと遺骨返還宗教者市民連絡会の森俊英さんが登壇した。
最後のセッションには、朴金優綺さん「ペ・ポンギさんを記憶する―朝鮮半島の分断を越えて―」の映像のあと、琉大の呉世宗(オ・セジョン)さん「沖縄戦時の朝鮮人から見える加害、被害そして連帯」、慶熙大の李明元(イ・ミョンウォン)教授「沖縄の‘血と骨’―朝鮮人と琉球人の遺骨問題―」、東大の金美恵さん、沖国大名誉教授の石原昌家さんの発表が行われ、さらに意見交換が続いた。

本部町健堅で慰霊祭と証言を聞く集まり
翌二五日は、二〇一七年に平和の礎に刻銘された朴熙兌(パク・フィテ)さんの娘さん、春花(チュナ))さんはじめ関係者代表が沖縄県に協力要請に行き、記者会見を開く一方で、残りの参加者一同は大型バスで本部町健堅の埋葬現場での慰霊祭と当時の地元の人々からの証言を聞くフィールドワークに参加した。
本部町博物館でもたれた「本部町の朝鮮人について証言を聞く」集まりで、地元の三人の年配者が体験を語った。一四本の墓標が掲載されたライフ誌の写真を掲げながら、当時一四才の中村英雄さんは彦山丸乗組員の火葬の様子について「人間を焼くのをはじめてみた。火の番をするように言われて火葬のそばで見ていた。私は当時、ゼロ戦に乗ることしか頭にない軍国少年。詳しいことは覚えていないが、焼いた後は、頭蓋骨や大きい骨は見なかった。灰となった骨をバケツに入れて埋葬現場へ運んだ」と述べた。
森松長孝さんは「こんな壇上に上がって話すとは思っていなかった」と戸惑いながらも、当時一〇才の少年として朝鮮人と遊んだ体験や山中の壕について話した。
友利哲夫さんは当時一一歳。渡久地港で朝鮮人が酷使されていた様を現場に移動して証言した。当時渡久地港には、一九四四年七月テグで編成された特設水上勤務隊の一〇四中隊が日本陸軍の軍属として荷役作業に携わっていた。谷茶辺名地公民館裏の出入り口付近で、友利さんは「一九四四年の八〜九月、朝鮮人が仕事に疲れて多数道路に横たわっていたのを日本兵が足で蹴っ飛ばしていた。武器弾薬も積まれていた。この辺りは当時畑で、あちらこちらに植えられていた唐辛子をとって食べていた。朝鮮の人の口はどうなっているのか、とよく話したものだ」と語った。

【訂正】前号の南京事件の記事中、金沢の「6師団」を「9師団」に訂正します。


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