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    かけはし2019年12月2日号

安倍一派の独裁政治に終止符を


沖縄報告 11月24日

キャンプ・シュワブゲート前座り込み体制強化

沖縄 K・S


11.21

第3木曜日集中行動

辺野古ゲート前に二〇〇人以上が座り込み

 一一月二一日、キャンプ・シュワブゲート前は多くの座り込み参加者の熱気に包まれた。オール沖縄会議現地闘争部と島ぐるみ会議は、従来の第一土曜日に加えて、新たに第三木曜日を集中行動日とし、第一回目の取り組みとして11・21行動を行った。各地からの参加者はワンボックスカーやマイクロバス、乗用車で結集し、九時、一二時、三時の一日三回行われる資材搬入を止めるために、ゲート前に座り込んだ。
 毎週木曜日のゲート前担当は地元ヘリ基地反対協議会。抗議船の船長も務める仲本興真さんと浦島悦子さんがマイクを握りリードした。ゲート前は久しぶりに活況を呈した。二〇〇人以上が参加するゲート前座り込みに、警察機動隊も多数動員され、ゲート前の道路に三列横隊となって座り込みを取り囲んだ。機動隊のゴボー抜き排除はかなり時間を要し、この日の搬入ダンプ・トラックの数は通常の半分以下、一〇〇台にも満たなかった。やはり数は力だ。座り込み人数の多さと活気、排除にかかる時間や手間、いつもと比べて少ない搬入などは目に見える成果だ。

世界平和アピール
七人委員会も参加
この日の行動には、県内だけでなく、県外からも多くの参加があった。シンポジウム「沖縄からこの国を問う―平和、憲法、民主主義」を主催した世界平和アピール七人委員会(写真家の大石芳野さん、作家の高村薫さん、音楽家の池辺晋一郎さん他)のメンバーも琉球新報の松元剛さんと同行でゲート前を訪れ、一人ひとりスピーチした。「世の中変わらないことは何もない。この基地のフェンスもなくなる日が来る」などとそれぞれ激励の言葉を口にした。
第一回目の座り込みのあとでのテント前集会で、大城悟さん(自治労県本委員長)は「参加者を増やして生コン車を止めよう」とアピールした。車椅子の大石さんは「命を殺す基地建設の警備に動員される機動隊の若者を見て、もったいない、命を守るために使われたらいいのに、と思う。父は中国で日本軍に従軍しシベリアに抑留された。平和がどれほど大切か。命をつなげていくのは大人の責任だ」と語った。うるま市の伊波義安さんは「米軍基地による水の汚染は知れば知るほど恐ろしい。沖縄は未だ戦場の中にいる。憲法の平和的生存権がない」と話し、ジョン・ミッチェルさんなどの各地の学習会への参加を呼び掛けた。

県内各地の島
ぐるみが結集
島ぐるみ八重瀬の神谷信夫町議は町議会の「辺野古促進決議」に対する抗議行動を報告し、「黙っていたら既成事実化が進む。行動しよう」と訴えた。
糸満島ぐるみの金城さんは、いつものように「ハイサイ、グスーヨー」と切り出し、大型バスで参加した島ぐるみ糸満の活動を紹介した。カヌーチームは、12・3安和大行動の日に海上のカヌーに呼応して護岸で開催する連帯集会への結集を訴えた。沖縄平和ネットワークの村上さんは自衛隊の動きを詳しく報告し、軍事増強に警鐘を鳴らした。仲村未央さんは沖縄市民会議が三四人で参加したことを報告し、「安倍も菅も最長。悪政にストップを」と訴えた。

北海道、福岡、広島、
宮城、愛知などからも
一二時からの二回目の資材搬入に対する座り込み行動をはさんで、午後のテント前集会では、北海道、福岡、広島、宮城、兵庫、大阪、愛知などからの参加者がマイクを手にあいさつした。福岡からの参加者は「沖縄の基地を引き取る会」を結成して活動していると報告した。
宮城の参加者は「福島で甲状腺がんが増えている」と話した。広島の参加者は「核兵器全廃条約の批准を全世界で進めよう」と述べ「青い空」を歌った。
愛知の参加者は「辺野古の問題は沖縄だけの問題ではない。地球規模の問題だ」と訴えた。「辺野古に基地を造らせない大阪行動」の参加者は「毎週土曜日、駅前で宣伝活動をしている。辺野古、安和の現地行動を続けている沖縄の人と同じように、声を上げ活動していきたい」と述べた。
平和市民連絡会の上間芳子さんは、「先週、宮古の弾薬庫建設に反対する抗議に参加してきた」と述べたあと、「奄美から与那国に至る自衛隊基地建設。戦争が刻々と近づいてきている。一九三〇年代後半の日本のようだ。米軍も自衛隊も戦争につながるものは一切いらない。帰れ!」とアピールした。
ゲート前行動は三回目の搬入が終わる三時半過ぎまで続けられた。

11.23〜24

本部町健堅で試掘

埋葬された遺骨の
発見には至らず

 一一月二三〜二四日の連休、本部町健堅の浜の海岸に埋葬されたと推定される軍人軍属の遺骨を発掘する作業が行われたが、遺骨の発見・収容には至らなかった。

彦山丸 人の墓標
がある本部町健堅
一九四五年一月二二日の早朝、本部町で日本軍の物資を海上輸送するため前夜から夜通し作業をしていた海軍徴用船彦山丸(二〇七三トン)が米軍機四機の攻撃を受け炎上座礁した。米軍が約二週間にわたって実施したフィリピン―台湾―琉球の空海域を支配するための総攻撃「グラティテュード作戦」の一環だった。
この時彦山丸で作業をしていた乗組員だけでなく、四四旅団の兵員や救助に向かった船舶工兵隊員も犠牲になった。四四旅団では一三人死亡、六人行方不明という記録があるが、乗組員、船舶工兵隊員について詳しいことは分からない。地元健堅の住民は、海から引き揚げられた遺体が健堅の浜やサンゴ礁の岩の上で火葬に付され近くの畑の脇に埋められたと証言している。米国LIFE誌の一九四五年五月二八日号に、瀬底島をバックにして健堅の海岸の上に並ぶ一四の墓標の写真が掲載されている。その後墓標は取り除かれたが、墓標の下に埋められた一四人の遺骨はそのまま眠っているであろうと推定される。

 墓標に書かれた一四人の名前
陸軍軍属 横田茂 司厨部 享年一五才
陸軍軍属 金山萬斗 機関部 享年二三才
陸軍軍属 川辺友吉 司厨部 享年二八才
陸軍軍属 明村長模 甲板部 享年二六才
陸軍軍属 高木藤次郎 機関部 享年三七才
陸軍軍属 峯松良一 事務員 享年一九才
陸軍軍属 半田充祇 航海士 享年三〇才
陸軍軍属 森重宣久 船長 享年三七才
陸軍軍属 丸山利治 機関長 享年四六才
海軍上等水兵 中村進 以下不明
陸軍軍属 東郷富秀 以下不明
陸軍軍属 井上満五郎 甲板部 享年四九才
陸軍軍属 倉知義昌 司厨部 享年一八才
陸軍軍属 植木基雄 機関部 享年一六才

 このうち、一二人が彦山丸の乗組員であり、二人は強制動員された朝鮮人であることが分かった。「明村長模」は本名、明長模(ミョン・チャンモ)さん。全羅南道高興出身。平和の礎に一九九七年追加刻銘された。
「金山萬斗」は本名、金萬斗(キム・マンドゥ)さん。故郷は慶尚南道南海郡の小さな集落。一九四二年のある日、日本兵が突然集落を襲い、家の中にいた金萬斗さん(当時二一歳)と兄の萬実さん(当時二四歳)の二人を拉致したという。兄は広島方面へ、弟は沖縄へ送られた。兄は運よく生還し、戦後生まれた長男の昌h(チャンギ)さんに「弟を奪われ家族をバラバラにされ人生を壊された」怒りと恨みを語っていたという。小父にあたる萬斗さんが沖縄で亡くなったことを二年前初めて知った昌hさんは、平和の礎への刻銘を申請し、今年六月二三日の慰霊の日に追加刻銘された。

試掘に先立
ち追悼式
二三日午前一〇時から、現在はオリックスレンタカーの駐車場となっている健堅の現場で、試掘に先立ち追悼式が行われ三〇数人が参列した。明け方まで強く降り続いた雨も止み、空は青く晴れあがった。瀬底島に向かって設けられたテーブルにお供えの重箱、酒、花が置かれ、横の椅子の上にはLIFE誌の墓標の写真が置かれた。写真に写る瀬底島の姿かたちは今と全く変わらない。
はじめに、ガマフヤーの具志堅隆松さんが「遺骨を日本、韓国の家族のもとに帰したい。韓日沖の若者が共同で発掘作業を進める中で相互理解が深まり、平和につながると確信している」と述べた。
続いて、本部町教育長、健堅の区長のあいさつが行われた。司会が墓標に記された一四人の名前を一人ひとり読み上げたあと、参加者全員が立ち上がり黙祷した。さらに、長谷寺住職の岡田弘隆さんの読経、カトリック教会名誉司教の谷大二さんの「主よみもとに」の歌が続き、最後に菊花の献花が行われて、追悼会の幕を閉じた。

ユンボでの埋め土掘
り起こしでスタート
遺骨発掘作業はまずユンボで、当時の地表面まで一気に掘り出し、そこから人力で遺骨をさがすという手順で着手した。当時の様子を見聞きした地元の古老の話を伺うと、当時、海に面した海岸は道路から斜面になっていて、その後埋め土をして道路と水平の高さまでかさ上げしたとのことだ。ユンボがどんどん掘り進み、埋め立て土と明らかに異なるこげ茶色の土が出たところの深さを測定すると二・八m。埋め土から姿を現したのは石灰岩が林立する本部の典型的なカルスト地形。早速数人が穴の中に降り石と石の間の発掘作業を始めたが、骨片かと思われたものは全てサンゴのかけらか石灰石の破片だった。
発掘作業の現場を通りかかる地元の人々も興味深そうに立ち止まったり、質問したり、当時のことを話したりした。いくつか興味深い話を聞くことができた。「遺体は海岸の上の畑のあちこちにある岩の上に丸太棒を渡して焼いたのを見た。遺体は縮こまって丸くなっていた」「道路に面した大きな畑と海岸に沿って細長く伸びた長い畑(ナガバル)があった。焼いた骨は海岸寄りの長い畑に埋めたはずだ」「父が昔ここで畑をやっていた。大きい畑とナガバルの間あたりを耕していると丁度頭蓋骨の目のところにクワの歯が入ってドクロが出てきた。それからしばらくして父は片目を失明した。私はこの場所に足を踏み入れたことはない」など。
地元の人々にとっても、この場所は昔から何かある特別なところ、祟りがある怖い所というイメージがあったようだ。今回ユンボのオペレーターを引き受けていただいた地元辰雄組の金城さんは子供のころ、この場所のサンゴ礁の岩からよく釣りをして遊んだという。当時の海浜は今漁港になっているが、下から眺めるとサンゴ礁の岩の上の盛り土は相当の高さだ。遺骨発掘作業の最大の難関はこの盛り土だ。今回の作業では遺骨の発見・収用に至らなかったが、この場所に一四人の遺骨が眠っていることは確実だろう。


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