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    かけはし2020年1月1日号

 2020年を転換の年に


運動の現在をどう考えるか

安倍政権の原子力政策打ち破れ

屈服を拒否し闘い続けるために


温暖化への「懐疑論」も

 二〇二〇年三月一一日を過ぎると「東日本大震災から一〇年目」と数えることになる。
 九年目までに、福島第一と第二原発を除き一一基が廃炉になった。これに発電炉としてもんじゅが加わる。一方、加圧水型の九基が再稼働し、被災原発である東海第二と女川二号の再稼働も具体化している。
 野党四党が一八年に提出した「原発ゼロ法案」は審議が一度も行われていない。一九年七月の参議院選では、立憲民主党から比例区に「脱被ばく、脱原発。情報を私たちに。私たちに決めさせろ」とうったえ立候補したおしどりマコ≠ヘ永田町での活躍が期待されたが、得票は当選ラインに届かなかった。原発は事実上争点にならなかったといえるだろう。
 朝日新聞の出口調査では、れいわ新選組の比例区での得票の約六割が四〇代以下、共産党と社民党は五〇代以上が八割近くを占めている。同調査では、無党派層の比例区での投票先を、若い世代ほど自民党と回答した。近年の世論調査で「若い世代ほど原発に肯定的」という結果と似た傾向と言える。
 気候危機に対するたたかいでは、若者たちが最前線にいる一方、高年齢層が前面にたつ反原発運動内部ではCO2原因説など地球温暖化に対するさまざまな懐疑論がある。本稿を通じて、安倍政権の原子力政策を打ち破るための課題を考えるきっかけとしてもらいたい。

「関電問題」を生む背景

 三菱重工を中心としたトルコへの輸出は一八年末にとん挫、日立製作所が進めていたイギリスでの建設計画も一九年一月に凍結、すでに東芝は海外展開から撤退しており、日本の原発輸出は総崩れとなった。
日立は凍結にあたって準備に要した費用三〇〇〇億円を三月決算で損失計上した。記者会見で東原社長は記者からの「原子力関連企業の苦戦」についての問いに「国内は再稼働や廃炉処理の作業量は多い」と答えた。つまり、多額の収入が確保されているから心配には当たらないとの自信だ。
民間シンクタンク「日本経済研究センター」は五月、福島第一原発事故の対応費用が総額八一兆〜三五兆円になるとの試算を公表した。経済産業省が一六年に公表した試算の約二二兆円を大きく上回った。
同じ五月、NHKは独自集計を行い「原発や関連施設の廃止にかかる費用の総額は少なくとも六兆七〇〇〇億円に上り、費用には電気料金や税金などが充てられることから、作業の安全を図りながらどうコストを下げられるかが課題」と報じた。建設中の三基の原発を除いた五三基の廃炉が三兆五七八億円、六ケ所再処理工場が一兆六〇〇〇億円。日本原子力研究開発機構の七九施設の解体費用が一兆九一〇〇億円、人件費などを含めると三兆三〇〇〇億円に上る可能性があるという。多ければ八兆円を超える計算だ。
朝日新聞は一三年から電力一一社の安全対策費≠フ集計を行ってきた。一九年七月の集計は五兆七四四億円、テロ対策費が想定の二〜五倍に膨らんだことから前年より少なくとも六六〇〇億円増えたと報じた。再稼働しなくとも、使用済み燃料などを構内で抱えるため、原発は最低限の安全対策が必要となる。原発や再処理工場など原子力施設は、一度運転を開始すれば巨大なプラントが汚染され、運転停止後も廃止費用を増殖させる。
これらが原子力関連企業の作業量≠セ。高浜町で森山栄治をはじめ、多くの立地自治体の関係者を誤らせた原子力の特徴的な構造だ。

福島原発事故への反省欠如

 一九年六月、政府は「パリ協定に基づく成長戦略としての長期戦略」を閣議決定した。「(電源の)非化石電源比率は、再生可能エネルギーの導入促進や原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた原子力発電所の再稼働を通じて、エネルギーミックスにおいて二〇三〇年度に四四%程度とすることを見込んでいる」とし、エネルギー基本計画を踏襲した内容だ。
一九年一二月八日、朝日新聞はCOP25に合わせ「CO2と戦う≠bOPで業界訴え―原発アピール躍起だけど」を大見出しにした特集を掲載した。記事の中で驚いたのは、今井敬が日本原子力産業協会の会長として現役であったことだ。協会には企業だけでなく、立地自治体や電力総連も会費を納入している。
協会は四月八日、戦国武将や妖怪のイラストが描かれた「あつまれ!げんしりょくむら」と名付けたウェブサイトを開設、批判が相次ぎ四日後に閉鎖した。「被災者がいるのにふざけている」などの批判が相次いで寄せられたためだ。協会は「逆境にある原子力産業が外部に向けて開かれたものであるべきだという考えで開設したが不適切でした」と話したという。
今井敬は一九二九年生まれ、新日鉄から三人目の経団連会長となり〇二年までその職にあった。〇六年、第三次小泉内閣の時代に原産協会の会長に就任、第一次安倍政権や民主党政権の発足、東日本大震災を経てもなお再稼働と新増設を政府に求める業界のとりまとめ役を続けている。一八年に協会が関連企業に対して行った調査で、原子力産業維持のための課題として七一%が「政府による一貫した原子力政策の推進」を挙げた。
全国紙などの「首相動静」を見てもらいたい。一二月一二日であれば、安倍が官邸に到着直後に真っ先に訪れたのが今井尚哉総理大臣補佐官、夕方に再度訪ねている。この二日前には、築地の鳥料理店での日本経済新聞政治部長らとの会食に同行している。今井尚哉は今井敬の甥である。さらに「岸信介が商工大臣だったときに秘書官を務めた今井善衛の甥」である。親族との関連で個人を批判することは「かけはし」記事としては不適切だが、モリカケ問題をはじめ「お友だち優遇政策」に対する批判として理解してほしい。
今井尚哉首相秘書官はどのような政策にかかわってきたのか。多くは五月に刊行された『官邸官僚―安倍一強を支えた側近政治の罪』(森功著/文藝春秋社)に書かれている。ただし、今井敬が産業会議会長に就任していたことは書かれていない。広告収入への影響を避けるための文春の忖度≠ゥ…。著者の森功は『なぜ院長は「逃亡犯」にされたのか―見捨てられた原発直下「双葉病院」の7日間』(二〇一二年講談社)を著している。

エネルギー官僚の役割


森は全九章で構成する『官邸官僚』の第一章で、「総理を振り付ける『首席補佐官』」として今井尚哉を取り上げる。
今井尚哉は一九五八年に生まれ、宇都宮の勤務医の息子として育った。八二年に旧通産省に入省し「本流である産業政策畑とエネルギー畑を歩む」「将来の事務次官候補の一人と目されてきたエリート官僚である」。経済産業政策局企業行動課長、資源エネルギー庁資源・燃料部政策課長を経て、〇六年に第一次安倍政権で事務担当の総理大臣秘書官となった。第一次安倍政権の幕が閉じ「失意の安倍」を高尾山登山に誘い、頂上まで登った安倍は健康面での自信を回復した。
民主党政権下の一一年六月、今井は貿易経済協力局審議官のまま、資源エネルギー庁の次長に就任する。森は次のように書く。「今井の役割はいかに脱原発派を抑え込み、原発を再稼働に導くかにあった。おりしも原発事故の翌一二年、大飯原発三、四号機の再稼働を巡り、大阪や京都、滋賀など関西の二府五県の自治体で結成された広域連合が大飯原発の再稼働に反対し、大揉めに揉めた時期にあたる」。
脱原発の急先鋒は滋賀県前知事の嘉田由紀子、大阪の橋下徹だったが、今井が掛け合って説き伏せ、橋下に「暫定的な限定再稼働をすべき」と言わせている。 さらに「二〇三〇年代原発ゼロ」に民主党政権が政策の舵を切り、担当政務官が見直しの説明に渡米すると「エネルギー担当議員たちから門前払い同然の対応を食らってしまった。あとから聞くと、それは今井さんが親日派の米議員らに脱原発に反対するよう、根回ししていたからだという。そこまでするのか」という経産OBの話を紹介している。
一二年一二月、第二次安倍政権が発足すると今井は政務秘書官に就く。森は書く。「安倍政権は成長戦略を描けていないという批判がある。今井は、そこをどうにかしようとアイデアを捻り出した。そうしてアベノミクス三本の矢のうち、数少ない成長戦略の具体策として、海外へのインフラ輸出を打ち出す。それも今井の提案だった。中でも今井が力を入れてきた政策が、原発の海外輸出である」「貿易経済協力局時代の今井さんにとって、いちばん力を入れた目玉政策が中東、トルコへの原発輸出でした。それを第二次安倍政権に持ち込んだのです」。「貿易経済協力局時代」とは、民主党政権と重なる。鳩山と菅は、原発輸出のトップセールスを行っていた。

国政選挙と原発反対派

 一二年一二月の総選挙の直前、卒原発≠掲げた未来の党が「林立した左派系小政党を吸収し、結成(ウィキペディア)」、代表に嘉田由紀子、代表代行に飯田哲也が就いた。総選挙には一二一人を擁立したが、選挙区で当選したのは小沢一郎と亀井静香の二人で、比例区当選した玉城デニーらを含めた九議席にとどまり「議席の八割減という大敗北を喫した(同前)」。同党は一カ月で分解した。この総選挙には東京八区で同党と社民党の支持で山本太郎が無所属で立候補、三宅洋一が街頭演説をプロデュースしたが落選。山本は翌年の参議院東京選挙区に無所属で出馬、当選を果たす。
ここからは飯田と三宅に注目する。
飯田は二〇〇〇年に『北欧のエネルギーデモクラシー』を著し自然エネルギー界で注目を集め続けてきた。マスコミへの露出も多く、評論家の田原総一朗が司会を務める「朝まで生テレビ」のコメンテーターとして出演し「事故後の福島県ではダウン症の出生率が倍増している」という内容の発言をした。統計ではこの倍増≠ヘ否定されている。山口県出身の飯田は、上関原発に島ぐるみで反対する祝島に安倍昭恵を案内している。
三宅は、一三年の参議院選に立候補、緑の党グリーンズジャパンが比例代表に九人を擁立したなかで最高得票、また最多得票落選者となった。落選した候補の一人が街頭演説で「福島で頭二つの子が生まれている」と発言をした。後に三宅はグリーンズと決別し、一六年の参議院選で定数六名の東京選挙区で立候補、山本太郎らの支援を受けるが、九位で落選する。三宅は選挙後の八月、安倍昭恵を高江の抗議テントに招き入れる。三宅については政治学者の中島武司東工大教授は次の発言している。
「彼(三宅)は、障害をもって生まれた人というのは、日本の土壌が農薬、大気汚染による化学物質、電磁波、放射性物質などにまみれていることの影響だと言うんですね。そして『障害をもつ子を産んだ人も、そのことを反省しつつも、その反省を生かしながら、障害者とともにその子を大切にしていこう』という」「近代文明批判や農薬・化学物質などへの反省的態度はわかりますよ。しかし、それが障害児を生んだことを反省せよと迫る姿勢になることには大きな問題がある」。
中島の発言は『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる―荒井裕樹対談集』(二〇一九年現代書館)の一部だ。この対談集の中では、れいわ新選組の選挙戦のドキュメンタリー映画『れいわ一揆』の原一男監督との対談もある。この対談集は荒井裕樹の前著『差別されている自覚はあるか―横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(二〇一七年現代書館)出版記念のトークショーなどをまとめたもの。前著では一六年七月に起きた相模原事件に触れられなかったため、この事件後の対談を一冊にした。障害者解放運動の小史=Aれいわ新選組二議員の活動の理解のために推薦したい。
二〇二〇年の年明け早々、相模原事件の公判がはじまる。被告は事件前、首相官邸に自らの考えと行動への理解と行動後の保護を求める手紙を書いた。飯田と三宅は安倍昭恵を通じ、自らの考えと行動への理解を安倍政権から得ようとしたのかもしれない。休会中≠セが河野太郎は「超党派議員連盟・原発ゼロの会」の共同代表のままだが、入閣にあたって「原発ゼロ」の行動は封印された。経産大臣を辞任した菅原一秀の選挙公約は「脱原発」だったが、入閣で封印した。安倍政権に原子力政策の転換を求めても無駄である。つぶされるか、屈服するかだ。
安倍政権を倒し、二〇二〇年を原子力政策転換の出発の年としよう。
(二〇一九年一二月一五日 斉藤浩二)

【訂正】かけはし前号(12月16日号)5面コラム「架橋」上から4段12行目「介護員」を「介護職員」に、15行目「当直職員」を「当直員」に訂正します。



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