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    かけはし2020年1月20日号

自由と人権と平和を共に


12.21

香港の闘いからどう学び連帯するのか

東アジア民衆の連帯を広げよう

前号に続き、一二月二一日に東京で行われた香港の闘いの報告集会での陳怡(チェン・イー)さんと區龍宇(アウ・ロンユー)さんの発言を掲載します。香港の若者たちを先頭にした昨年の闘いの意義とこれからの展望について共有し、東アジアレベルでの連帯行動を進めましょう。(編集部)

陳怡(チェン・イー)さんの報告

克服すべき課題を明らか
にして共に前に進もう

 今日は、私たちの陣営がどのように総括し、次に結びつけることができるのかについてお話したいと思います。また、運動の中で様々な克服しなければならない課題があり、それらを指摘したいと思います。
この運動が当初、平和的なデモから始まり、様々な過程を経て、警察との激しい衝突に至っています。デモ参加者が自分たちに敵対する人間に対して私刑・リンチを行ったりとか、お店が破壊されたりとかが報道されています。なぜこうなってしまったのか。
運動が始まってから七月二一日に香港の元朗で行われたデモに対して地元のヤクザが自警団を組織してデモ隊を襲う事件がありました。これが運動の大きな転換点になったと思います。
例えば、九月一五日にも大きなデモがあり、その際には別の福建のヤクザがナイフでデモ隊を襲撃し、デモ隊はそれに反撃し、攻撃したことがありました。一般的にはこの行為は犯罪になるわけですが、ただ香港の状況は緊迫しており、一般的な法律概念では理解できない状況になっています。こういう事件が発生することもいたしかたがないと思っています。襲撃に対して防衛目的でやり返す、襲撃に対して恐れていないということを示すことは必要なことです。
しかし、それから数カ月がたちますが、襲撃してくる者たちに対するデモ隊の中で増幅される憎悪が膨らんでいくことになります。例えば、デモ隊に襲撃してくる者ではなく、街頭からヤジを飛ばすような通行人、政府支持派に対しても暴力を行うようになりました。
私はこれはおかしなことだと思っています。間違ったことは間違っているとはっきり言うべきだと思います。今後同じような過ちを繰り返さないためには、正しく指摘することが必要だからです。
私たちの運動は民主化を求める運動なわけです。一人一人が政治的見解を持ち、それを止めることができないのが民主主義です。政治的立場が違うだけで襲撃の対象にしていいわけではないのです。もちろん直接に襲撃してくる者たちに対しては反撃は必要です。
運動には「分裂はしない」という大きなスローガンがあります。それは運動が分裂してしまっては勝てない、団結しようという意味です。それが徐々に批判を受入れなくなっていきました。友人達も心理的変化が現れていきました。襲撃、店舗破壊、私刑・リンチに対して批判してきた人たちが批判しなくなり、そのような行動を防衛するようになりました。
そうなってしまったのは、デモ隊が受ける被害があまりにも大きく、それに対する悲しみと怒りが影響しているからです。もう一つの理由は、平和的なデモ支持派は、警察に対する反撃なども含めてそこまで自分はできないとか、申し訳ないとか、不甲斐なさを隠そうとして応援してしまうのでした。
議論の中では、勇武派の若者たちがいなければ条例改正は成立していただろうし、そのように若者を追い込んでいったのは自分たちの世代のせいだなどの理由で勇武派の行為を擁護する意見がたくさんありました。
そういう状況が続くなかで、本来やってはいけないことまでやるようになつていったわけです。その後も批判がなく続いています。
強調したいことは実力で闘争を行っていくことが間違っていることではありません。力関係が拮抗している時、実力を行使することはありえます。例えば、七月二一日のヤクザの襲撃がありましたが、その次の週にそれに対する反撃ということでデモを行い、襲撃があったらやり返すと呼びかけました。私も参加しました。ヤクザと対峙する力はデモ隊は準備をしっかりしていればできるということでそのような方針をとりました。しかし、その対象が警察となると同じような力で対抗できないと考えます。
私たちは民主化運動をやつているわけですから、実力で闘争する場合も無関係な者をなるべく巻き込まないという原則をなるべく守るべきです。

困難に打ち勝ち
新しい闘争へ!
もう一つ議論になったのは、大学での攻防戦です。警察が大学に突入し弾圧をしました。一般的には警察が大学に入ってはだめだという考えです。大学の友人は、学生宿舎に入っています。大学も攻防戦の一つでした。デモ隊が学生宿舎を闘争の拠点にしたと聞いています。宿舎の防犯カメラをすべて壊し、入口に火炎瓶をたくさん並べました。
その宿舎に友だちがいました。それを聞いて私は怒りました。宿舎には闘争に参加するかわからない人たちもいるなかで闘争拠点に変えてしまいました。友人は闘争に参加しないことで出ました。その途中でデモ隊が投げた物が彼女にかすめたわけです。その後、大学当局は警察に通報しました。私は大学がやったことは間違ったことではないと思っています。
米国の香港人権法案ですが、運動は歓迎ムード一色です。しかし、この法律は問題があるわけです。香港の人権と米国の外交政策をリンクさせてしまっています。法律の中には、米国が実施するイランや朝鮮に対する制裁を香港は守っているかと監視する条項があるのです。
もう一つの問題は、米国と香港の間でも逃亡犯引渡条例がありますが、今後、香港が米国の要請に従って逃亡犯を米国に送り返すのかどうかと書かれています。私は「悪魔との契約」として批判しています。香港の人権を守るために逃亡犯を中国に送らないようにするための闘いだったにもかかわらず、自分たちの人権を守るために朝鮮やイランの主権、米国から政治的に亡命する人間を米国に送り返すことは、自分たちの人権を売り渡すことと同じです。
理工大の弾圧は、多くの勇武派の人たちが逮捕され、今の状況は少し変わりつつあります。最近のデモでは大きな激突がみられなくなってます。実力路線がボトルネックにつきあたっていると多くの人たちが感じ始めたからです。三〇歳以下のサラリーマンの人たちは、労働組合を作ろうという動きが出始めています。将来、ストライキ、ゼネストを打って闘争に参加しようというつもりがあるからです。
それがいつ成功するか、実を結ぶかわかりませんが、新しい方向でもう一度始めようという若い人たちがいます。様々な闘争の中で失敗もあり、違いがあり、それらを乗り越えて新しい闘争をやりだそうとしていることに希望があります。

區龍宇(アウ・ロンユー)さんの報告

民主主義革命の実現へ

運動が目指す道を明確に

香港返還から
年後の挑戦
香港返還後二二年たちますが、香港の自治を守る闘いでは、二〇〇三年には国家安全条例に反対する闘争がありました。その後、中国は学校の中で北京語での教育を押し付けたことに抗議する運動もありました。二〇一四年には、雨傘運動がありました。そして二〇一九年の闘争です。
二月から五月は、運動の萌芽期だった。運動は、すべて若者による闘いとは言えないでしょう。当初、政府は法律を発表し、反対の取り組みを始めたのは上の世代が中心となつている民主派の主流派であったり、大衆組織に参加している人たちでした。
決定的な転換点となったのは、六月一二日でした。立法会議会の周りを数万人の人々が包囲しました。政府は、それを見て審議をしないと決定しました。にもかかわらず若者たちは議会から立ち去ることはしませんでした。警察は高圧的な態度で若者達に対応したわけです。それで衝突が起こり、デモ隊からブロックを投げる人も出たわけです。
当初、政府はデモ隊が暴力を使ったら一挙に支持がなくなるだろうと見ていたわけです。香港人は、普段、おとなしく、優しい人たちです。衝突の際にデモ隊には、様々な暴力を振るうわけですが、世論の非難は政府と警察に対してたくさん届けられたわけです。
六月一二日のデモは民権陣線が呼びかけ、二〇〇万人の参加者がありました。これ以降、運動が高揚していきました。本当の運動のピークは、八月五日だったわけです。六月から七月にかけて若者たちは、非常に果敢にデモや警察と対峙したわけですが、一方ではその運動の限界を感じはじめていたわけです。実力で警察と対峙するだけじゃだめだということでストライキが必要だと呼びかけはじめました。

路線の明確化
が何より重要
八月五日にストライキが呼びかけられました。そのストライキでは、香港のかなりの交通部門が止まり、経済活動が麻痺しました。飛行場では国内・国際便含めて半分がフライト中止に追い込まれました。
八月五日のストライキの時は、香港全土で七カ所でストライキ突入集会が行われました。私は長年香港で活動をしてきましたが初めての事態だったわけです。北京政府はすぐに反撃に出ました。キャセイ航空の経営者二人を解雇する圧力をかけました。新しい経営者は、ストライキに参加した労働組合員を解雇する攻撃に出ました。
ストライキはなかなか難しくなり、学生たちは別な方法でストライキをやるしかないとなった。交通を麻痺させるということです。一一月一日もストライキが呼びかけられ、線路の上に椅子を置いたりしました。こういうことを香港のすべてのところで電車の線路、バスが通る道路に障害物などを置きました。その日は社会全体が混乱しました。
副作用がありました。ああいう形でストライキができるのだったら、労働者は俺たちがやることはないから、あとは学生に任せましたよ、となってしまった。八月五日以降、一〇回以上ストライキ、ゼネストが呼びかけられるが、一度も成功することはありませんでした。
九月から一〇月にかけて引き続き拡大していきました。中高校生が立ち上がったわけです。各地の中高生が地元でグループを作り、ヒューマンチェーンをやったり、スタンディングをやったり、様々な形で運動に参加してくるわけです。
一一月一一日以降、二週間にわたって香港の大学で警察との攻防戦が行われました。そこで包囲された学生を救えと多くの市民が理工大に駆けつけました。その一方で運動がボトルネックに入りました。
市民が学生を救えと呼びかけ、一〇万人以上が現場に駆けつけました。もしその時、警察と衝突も辞さず学生たちを救援したら香港の情勢は大きく革命的情勢に入っていたと思います。しかし、駆けつけた大人たちは、全てを投げ打って警察と闘う準備ができていなかったわけです。警察の警戒線を突破し、衝突をしてまで突破しようとした人たちは数千人いたかどうかの数です。
九月以降、それ以上の運動が発展することはなく、政府も弾圧することもできず対峙しながら、どちらも引くことができない状態でした。そのような経過を見て、二度にわたる大学攻防戦で敗北し、一二月に入るなかで一時的に運動の見直し時期に入りました。実力で闘うことの代償も大きいわけです。すでに六〇〇〇人以上が逮捕されているわけです。この六〇〇〇人という数は、香港で収監されている数を上まわっています。

若者の闘いから
労働者の覚醒へ
すでにこの運動ではゼネストが何度もよびかけられ、実際に行われ、たくさんの労働者階級が運動に参加している。労働者を覚醒させているわけです。香港の労働運動は、力が弱かった。この運動を通じて覚醒され、労働運動の弱さを自覚し、再認識したわけです。さきほどの落書きの訴えをどのように形にして、運動につなげていけるのかを考えるのが私たちの役割です。
若い人たちは、労働組合を軽視していました。もちろん自分たちで労働組合を作ろうなんていう人はほとんどいません。運動の中でストライキの力を感じ、一一月以降、労働組合を作らなければならないと動き出している人たちが出始めています。三八業種の中で組合が結成されたり、準備中だという人たちがいます。
香港の民主化運動の歴史的意義は、革命をどのように考えるかということです。一九八九年の北京の民主化運動以降、初めて革命という言葉が香港で使われたことが歴史的意義があります。八九年の民主化運動は、非常に壮絶な運動だった。しかし、その時の学生たちは、私たちがやりたいことは革命じゃないんだと必死で革命の言葉を否定しました。ハンストという死ぬまでの闘争をしたわけです。それでも革命という言葉を拒否したわけです。
天安門で学生弾圧が始まった時、労働者たちも参加していたが、労働者たちは武器をとって学生たちを守ろうとしたが、その時も学生たちは労働者に対して武器をとるな、革命を止めてくれと必死に訴えたわけです。
香港の今の運動は、若い人たちだけではなく、大人も「時代革命」と叫んでいるわけです。驚きの事態になっているわけです。革命が必要だとみんな言っているわけですが、どのように革命にもっていくのか。中国では多くの革命があったが、政権が交代するだけだった。
しかし、私たちが実現しなければならないことは、民主主義革命だと思っています。今回の運動の中で市民が民主主義を実現しようという要求があり、中国の過去の農民反乱だと考えている人たちもいる。いずれにしても運動の路線をはっきりとしなければ中国共産党がたどった悲劇を繰り返すことになります。革命政党として出発した共産党が、反動政権になってしまった歴史を繰り返す必要はないわけです。




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