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    かけはし2020年1月20日号

新年 あらわになる焦りへの追撃へ


沖縄報告 1月12日

工事強行の無謀度さらに進行

沖縄 K・S

1.8

琉球セメント安和桟橋

ギターとサンシンで土砂搬出に抗議

 二〇二〇年の現地行動は、一月六日月曜日から、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前と安和の琉球セメント桟橋、そして辺野古・大浦湾の海上で始まった。
二〇一八年一二月に開始された辺野古の海への土砂投入が一年経っても全埋め立て土砂量の一%余りにしかならないとの新聞報道にあせったのか、沖縄防衛局は、安和桟橋へのダンプによる赤土土砂搬入を、本部方面から国道を右折してゲートに入る従来のコースと共に、逆方向の名護方面から左折してゲートに入る方法を併用して土砂搬出を加速させようとしている。同時に、警備会社の職員、警察官に加えて、防衛局の職員も四人、入口ゲートの外に出てきて、サングラス、マスク姿にハンドマイクを手にして「車両が入ります」「危ないから下がってください」などと言い始めた。出口ゲートにも三人配置されている。
しかし、これが危険極まりない。後続の一般車両は左折のダンプに阻まれノロノロ運転を余儀なくされ、前方視界不良のまま追い越しを図る車もいる。従来の右折ダンプの中には相変わらず、対向の直進車を妨害してゲートに突っ込んでくる運転手も目立つ。民意に反する工事を無理やり強行しようとするため、ゲート前は交通事故の危険といつも隣り合わせ。
一月八日水曜日のゲート前行動は、島ぐるみ南部をはじめ数十人が集まりノボリとプラカードを掲げて、ゲートに入ってくるダンプ一台一台に対し根気強く訴え、通行する車両にアピールする行動を行った。「新基地反対」「赤土入れるな」「美ら海守れ」の声がゲート前にこだました。この日、島ぐるみ糸満はギターとサンシンを持参した。ゲート横にスタンドマイクを置いて、次から次へと歌い、ゲート前行動を鼓舞した。
他方、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前は平和市民連絡会をはじめ五〇人前後が、朝昼午後三回の資材搬入に対し粘り強い抗議行動を展開した。マイク担当は高里さん、上間さん、日雇労組の酒井さんが担い、元気な歌も出て、終始活気あふれるゲート前行動となった。合計一七二台の車両が入ったが、半数以上の九一台が生コン車だった。
なお、本部港塩川では午前中波が高く、ガスも発生して積み込みはできなかった。

〈カヌーチームTさんの報告〉


1月9日(木)辺野古/大浦湾
曇り、海は比較的穏やか、気温約一八℃。私は今年最初の海上行動である。朝、松田ぬ浜(辺野古の浜)からカヌーを漕ぎ出す。久しぶりのカヌーは心地よく、雲の間から漏れてくる太陽の光はなにか希望を感じさせる。しかし、現実はかなり厳しい年となりそうだ。

〈K8護岸〉
護岸に到着すると、すでに赤土の搬出は始まっていた。ダンプカーがひっきりなしにランプウェイ台船に乗り込む、昼近くまでかかりそうだ。
一一時三〇分、ランプウェイ台船の入れ替えが始まったのでオイルフェンスを越えたが、あっけなく海上保安官に拘束される。新しい年になっても、彼らは「今年こそは正しいことをやろう」という気持ちは微塵もない。ただただ命令に従っているだけだ。

〈K9護岸〉
K9護岸に向かう途中大浦湾にいる作業台船を数えると、ランプウェイ台船七隻、ガット台船(輸送船)五隻。これらの巨大な船が湾内にいる(走り回る)ことは海が汚れ環境”にたいしてすごい負荷がかかると想像できる。サンゴや他の生物には致命傷になっていることだろう。
K9護岸でも赤土の搬出が行われている。大浦湾のこのような工事を見ていると、とても環境監視等委員会が機能しているとは思えない。いったい、この専門家”たちは何をしているのか? 説明をする責任がある。

1月10日(金) 辺野古/大浦湾
海は穏やか、気温日中約20℃。

〈K8護岸〉
朝、護岸に到着すると前日着岸したランプウェイ台船が空となり離岸しつつあった。
午前中は護岸上で根固め袋材や鉄板を敷きダンプカーが通行する道の整備をしている。
K9護岸から戻ってくると近くで作業をしているガット台船→ランプウェイ台船の赤土移動は終わりに近かった。とりあえず、長島に上陸し昼食とする。弁当を食べ終える前に「台船が動き出した」の情報が入りカヌーに飛び乗り、オイルフェンスを越えた。全力でカヌーを漕ぐが及ばず、全員九人が拘束されてしまった。

〈K9護岸〉
K8護岸からK9護岸に抗議船で回る。一一時三五分、入れ替えが始まった。空のランプウェイ台船が下がっていくタイミングでツノ付きフロートを越え抗議&阻止行動をした。海上保安庁GB(ゴムボート)、私たちのカヌーが入り乱れていることにより、台船やそれを引くタグボートの動きが制限される。

1月11日(土) 辺野古/大浦湾
曇り/晴れ、波高はK8護岸付近で約八〇p、気温約二三℃。

〈K8護岸〉
護岸に到着するとランプウェイ台船にダンプカーが乗り込み赤土の搬出が始まっていた。台船には満載近く赤土が積まれている。空になるまでに時間がかかるとの判断でK9護岸に回る。

〈K9護岸〉
K9護岸に到着するとまだ三分の一位赤土が残っている。二時間ほど待つ間に海上カフェがオープンし、ケーキとコーヒーを飲むことができた。
一一時過ぎ、ランプウェイ台船を離岸させるためにタグボートが牽引するロープをつなぎ引き始める。このタイミングで九人がツノ付きフロートを越え抗議&阻止行動をした。今日はカヌーチームの一人が台船に到達した。当然、台船を引くタグボートはストップした。
昨日と同じように、海上保安庁GB、私たちのカヌー、タグボート、ランプウェイ台船が入り乱れていることにより、赤土を満載した次の台船が接岸できない。今日は作戦がズバリと当たった。二五分ほど止めた。
全員が拘束され、解放されたのは一二時三〇分、それから抗議船に乗り松田ぬ浜にはおよそ一三時に戻った。

1.5

日韓の戦争犠牲者の遺骨収容へ

健堅の埋葬推定地の草刈り


沖縄戦のさ中、米軍機による攻撃で犠牲になり本部町健堅の浜辺に埋葬された彦山丸の乗組員一四人の遺骨を収容し、できるなら家族のもとに帰そうという取り組みが進んでいる。韓国、日本本土、沖縄、台湾の人々による共同の発掘・遺骨収容作業が二月八日から四泊五日の日程で始まる。一月五日午前、本部町健堅の遺骨を故郷へ帰す会のメンバーは十数人、健堅の現場に集まり、一月とはいえ強い日差しの中、一帯の草木の伐採作業を行った。
当時の石灰岩が切り立った浜辺は、その後土地の造成のため緩やかな斜面は四mもの埋め土でかさ上げされた。この埋め土を除去しない限り当時の浜辺の姿は復元しないが、この日の草木の伐採によってある程度の輪郭が浮かび上がり、手掛かりをつかむことができた。しかも、切り立った石灰岩の間に置かれた一升瓶ともう一本同じような一升瓶、一リットルのジュースビンの計三本。これらのビンは何なのか? あれこれ想像が膨らむが、正確には分からない。だが間違いなく、七五年前の一九四五年一月二二日に起こった彦山丸炎上・乗組員死亡・遺体焼却・遺骨埋葬の事実に接近して行っていることを感じた。
健堅の遺骨を故郷に帰す会では、遺骨収容にあたっての協力とカンパを募っている。〈連絡先〉電話090-3794-0524(沖本)

1.12

南京事件を考える映像観賞と読書会

日本の戦争犯罪を直視することが友好の第一歩

 日本軍による捕虜や非戦闘員の残酷な殺害、略奪、強姦、放火など戦時暴力が吹き荒れた南京事件から八二年が経過した。南京事件は何年経とうとも決して「忘れられてはならないホロコースト」だ。しかし、「都合の悪いことはなかったことにしたい」日本の政治のもとで、南京事件の真実が国民の中に広く伝わっていると言えない。事実に真摯に向き合い、二度と過ちを繰り返さないために、真剣に学ぶことが必要だ。
一月一二日午後、おもろまちのなは市民協働プラザで、南京・沖縄をむすぶ会主催による「南京事件を考える映像観賞と読書会」が開かれ、四〇人余りが参加した。はじめに、NNNドキュメント'15「南京事件 兵士たちの遺言」が上映され、そのあと、席を四角に囲んで藤原彰『南京大虐殺』岩波ブックレットの読み合わせが行われた。最後に三月南京訪問の打ち合わせが行われた。
次回の集まりは二月一六日日曜日と決まった。映像はNNNドキュメントの二〇一八年「南京事件U」の予定。問い合わせ先=南京・沖縄をむすぶ会共同代表 稲垣絹代(090-8796-5112)

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(1)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録には、そうした証言が数多く掲載されている。ある日、私は図書館に足を運び、一日かけてそうした証言記録の確認を行なった。以下はその一部である(敬称略)。

「西原町史」第三巻資料編二「西原の戦時記録」(1987年発行)

 「昭和一二年六月ごろ支那事変が勃発しましたが、そのころから出征兵士がつぎつぎと送られるようになりました。西原村では第一番目の出征兵士を送るとき、我謝馬場での綱引きの終了後、村を挙げて歓送会を行ない、出征兵士の労をねぎらいました。…
一二月一三日には南京陥落で沖縄本島が沸き立ち、西原村でも太鼓をたたいて提灯行列をやりました。…
昭和一三年ごろから食糧事情が悪くなりはじめ、昭和一五年になると、公定価格が決まり、物資が統制されるようになって、食糧品も配給制となりました」(安座間喜盛)
「熊本から夜行列車で門司まで行き、そこから中支の呉淞に敵前上陸した。……
日本軍は、しまいには毒ガスをまいた。それは窒息死させるガスだった。サイレンが鳴ったら毒ガスをまいたという合図だった。われわれは防毒マスクを被った」(呉屋幸夫)
「日本兵は何か欲しい物がある場合には、民家でそれを徴発していた。……
ある日(月の晩)、八人の青年を引っ張り出して来て田んぼに並べ、日本刀(自分の家から持って来た私物品)の試し斬りと言って、その青年たちの首を刎ねていた。その青年たちは、兵隊なのか、一般住民なのかわからないけれども、ただ若いというだけで兵隊の疑いと日本兵殺害の疑いをかけられ、首を刎ねられた。まさに残酷きわまりないやり方であった。
また、青年たちの手足を縛り上げて転がし、藁を少々かぶせて火をつけ、死ぬまで焼いたりもした。さらに、竹の先を火に焙り、そこに油を塗った竹槍で、裸にした現地の青年を何分で殺せるか試したりもした。また、薄手のシャツ一枚を着せて何分で殺せるかとか、綿花の入った服一枚を着せて何分で殺せるかとか、いろいろな殺し方で中国の若い青年たちを殺した。時間は、前方で椅子に座った部隊長が計っていた」(小波津正雄)
「宜野座村誌」第二巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(1987年発行)
「私は、昭和五年(1930)満二〇歳のときに徴兵検査を受けました。……昭和六年に現役兵として入隊しました。……五五日間の訓練を受けましたが、その内容は輜重車に荷物を積んで馬に引かせて歩く訓練でした。……訓練を終えて、沖縄に戻ってからは、また農業をし、主食の芋などを作っていました。
昭和一二年(1937)七月に召集されました。私は、すでに二七歳になっており妊娠中の妻と四人の子がありました。…
部隊では特別に、輜重特務兵が多かったです。中国は大陸なので輸送する人がたくさん必要だったわけです。……
何度か日本軍の殺りく行動を見ました。たとえば、中国人が畑を耕していた最中に石油をかけて焼死させたり、また、死んだ親の乳を飲んでいた子がいましたが、この子が成長したら刃向かうからといって殺しましたよ。日本刀を持っていたので、それで切りだめししていたんです。これから考えても中国の恨みは大変なものだと思います。現在、中国と友好を結んでいるのが珍しいくらいですよ」(当真嗣明)
「私は、第三七師団の山砲第五中隊で一年間、蹄鉄工務兵として働くことになりました。……
食料も全部現地調達でしたから大変でした。一線部隊が、一週間もいたら、字宜野座の住民の食べ物が皆なくなってしまうほどの大量の食糧が必要でした。山西省では麦粉で作ったパンが主食でしたが、だんだん食糧物資も手に入りにくくなって、栄養失調で死んでゆく兵士もたくさん出ました。中国の人も大変だったろうと思います。今だから言えるのですが、中国人にとっては、日本兵は鬼よりも恐かったんじゃないかと思うのです。それにしても、中国人は偉いと思います。日本人の孤児たちをあんなに、たくさん育ててくれたのですから」(真壁朝栄)。

 




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