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    かけはし2020年1月27日号

無謀な工事の上塗りを止めて
計画を白紙撤回せよ!



沖縄報告 1月19日

沖縄防衛局が辺野古新基地の設計変更公表

沖縄 K・S

 沖縄防衛局は年末も押し迫った昨年一二月二五日、辺野古基地の設計変更内容と共に、工期・工費を公表した。工費は当初の「埋立、地上施設を合わせた総計三五〇〇億円」から約九三〇〇億円、工期は約七年から一二年へと大幅に延長された。その結果、辺野古の完成予定は二〇三〇年代半ば以降へ大きく先延ばしされるという。普天間基地の返還へ直接のインパクトを与えた一九九五年の少女暴行事件から数えてすでに二五年の今年からさらに十数年、合わせると四〇年という長期になる。普天間基地を固定化し続けているのは日本の政治の怠慢という他ない。「負担軽減」を言いながら新たな基地を強行する安倍政権は怠慢にプラスして欺瞞そのものだ。
 防衛局は大浦湾の埋め立ての工法計画を変えた。ハッキリ言えば計画は破産した。これまでのサンドコンパクションパイル工法、サンドドレーン工法に加えて、ペーパードレーン工法が採用されて、合わせた砂杭の数は七万七〇〇〇本から四万七〇〇〇本に減らすことができるとされ、それに伴い土砂は県外からの搬入は必要でなく「すべて県内で調達可能」とされた。こういうプランを「机上の空論」というのだ。
 大浦湾の最深九〇mに及ぶ広範囲の軟弱地盤を前に、政府防衛局は、県民ぐるみの反対を無視したまま、天井知らずの金を注ぎ込んでも完成する保証のない工事にいっそう執着しているのである。引き返せるのに、動き出した歯車を止める勇気がこの国にはやはりないのか。
 防衛局は年明けから辺野古の海への赤土土砂の投入に拍車をかけている。本部塩川港の利用拡大、安和でのゲート前の左右からのダンプ進入、K8・K9護岸からの土砂陸揚げを加速するためのランプウエイ台船四隻の配置など、辺野古の埋め立て工事の進行に躍起になっている。しかし、県民は屈しない。県知事、県議会、県民投票で示された民意の県民ぐるみの闘いと辺野古、安和、塩川、海上での連日の現地行動で安倍政権の権力の横暴に毅然と対峙し、新しい基地の建設を必ず阻止するまで闘いを止めない。

1.17

カヌーチーム
  Tさんの報告

 一月一七日 (金)安和
曇り/雨、気温日中で約一九℃。風は三?五m/s。雨が降ったので寒い。
本日はカヌー一二艇。
八時三五分:安和海岸に到着、着岸しているガット台船は喫水線までかなりある、満載まで予想では一〇時。昨夜も雨が降ったので積み込み速度が遅い。一〇時の予想が一〇時三〇分とズレて行き、昼も休まず作業を行ない、結局一三時一〇分に満載となり出港の準備が開始された。
一〇時四五分:私たちは安和の海岸を出艇、桟橋横の網にカヌーを固定し始めたが途中雨が降ってきて作業を中断し桟橋下に避難した。その際、自分で固定したロープを自分で解く羽目になってしまったが、雨が小降りになったので再度ロープの固定を行った。
一三時二〇分:海上保安官がGBから海に飛び込んで泳いでくる、排除が始まる。結果として約一時間ストップした。雨の中でこれだけ頑張れたのは結果オーライだと思う。

1.16

本部町健堅で3度目の草木伐採作業

いよいよ近づいてきた埋葬地

 

 研修で沖縄を訪れ、高教組との交流の他、摩文仁、普天間、嘉手納、読谷、辺野古などを回っていた韓国ソウル市の教職員一行四〇人は、一月一六日(木)午後、本部町健堅の「彦山丸」犠牲者の遺骨発掘予定地を訪れ、慰霊祭を行った。
はじめに、案内の平和ガイドの説明があった。『LIFE』誌一九四五年五月二八日号に掲載された一四人の墓標の写真が背景としている島と健堅の遺骨発掘現場から見渡す瀬底島とを見比べながら、参加者は、七五年前の沖縄戦での朝鮮人の強制徴用と犠牲をあらためて思い起こし、目頭を熱くする女性もいた。段ボールでこしらえた臨時の祭壇には、墓標の写真を上方に、左右に花束を置き、果物、菓子、するめ、辛ラーメン、ソジュなどがお供えされた。あいさつの後、全員で黙とうした。
二月八〜一二日の発掘に向かって、ますます関心と注目が高まっている。国内外のメディアの取材申し込みも増えている。NHKや韓国の聯合ニュースなども取材に来る。写真にあるように、一四本の墓標が立っていた痕跡があるか、その下に遺骨があるか、遺骨はどんな状態か、DNA鑑定ができるか、あるいは何か遺品があるか、などの疑問と関心を集めて、日韓、沖縄、台湾の人々の共同作業で発掘が行われる。
それは、日本国家による朝鮮、台湾の植民地支配と沖縄戦への動員という歴史を直視し再び繰り返さないための国境を越えた東アジアの人々の連帯の一歩となる。それだけではない。ハガキ一枚で家族から無理やり引き離し、戦場に投入して、死んだらそれっきり。亡くなった状況を調査し、遺骨を家族のもとに帰そうという努力をろくにしない日本政府の無責任。一四人の墓標のうち二人は朝鮮で、残り一二人の大半は日本人軍属だが、平和の礎には刻銘されていない。
健堅は、このような日本政府の無責任に対し、市民が自主的に戦争犠牲者の真相究明と遺骨収容に踏み出すことを意味する。市民がまず踏み出して行政を動かしていく。健堅の遺骨を帰す会のメンバー一〇人は、一月一九日(日)昼、約二時間かけて、遺骨発掘予定地の草木伐採作業を行った。その結果、七五年前の海岸線の大きな石灰岩の配列を確認することができた。この石灰岩のすこし手前側に墓標が建てられていたことはほぼ間違いないだろう。
共に発掘に参加しよう。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(2)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録には、そうした証言が数多く掲載されている。以下はその一部である(敬称略)。
これまで沖縄戦の調査研究は沖縄県内における日米両軍の動きや県民の戦争体験を主に行われてきたため、サイパン、テニアン、フィリピン、台湾など、南洋諸島や東アジア諸国での県民の戦争体験の実相や中国、朝鮮、ソ連での沖縄出身の軍人軍属、「満蒙開拓団」などに関しては十分ではなかった。特に、中国侵略の日本軍に動員された沖縄県民は各市町村に何人、いつ、どこからどこへ動員され、何人死傷し、何人帰還したのか、そして、何を行い何を見聞きしたのかという事はほとんど明らかになっていない。沖縄戦をトータルに捉えるために、これらの部分を解明することが不可欠である。

北谷町『戦時体験記録』二「国外での体験」一九九五年発行

 「昭和一八年一月に、熊本の都城で入隊した。六師団の管轄で、部隊の編成に一週間かかった。そこから中国に渡り、南京で初年兵教育を受け補給部隊に配属になった。
中国は南京、武漢、漢口、武昌に行って最後は桂林まで行った。満二年ほど中国にいた。兵隊の後をずっと追って、食糧補給をやっていた。…
その時分は、日本人と中国人は、昔の殿様と平民ほどの差があって、日本軍が通ると中国人は道端に座ってお辞儀するほどだった。…
日本軍は、ほんとうに残虐だった。私も目撃したことがある。そのとき私は野戦倉庫で伝票を書き、具志川出身の同年兵は倉庫から品物を出す任務に就いていた。本土から送られた、米や酒などの陸揚げされた物資もいくらかは残っていた。それを野戦倉庫に運ぶ作業は、ほとんど中国人にさせていた。
一日の作業がすむと、晩には番兵が中国人の身体検査をした。たまに、靴のカカトとか釘とかを厚い服に隠し持っているのが見つかった。それは、どうということのない小さな品だった。しかし、軍の非常に大切な備品だということになり、その中国人は処刑を受け入れなければならなくなる。日本の兵隊は、水をいっぱい入れたドラム缶にそんな中国人をぶち込んで蓋をして、溺死させたりしていた。実際に、日本軍は悪いことをしていた。…
大陸性なのであろうか。残留孤児をあんなに育てている。中国人は本当に優しい。私は、日本軍が中国戦線でそうとう悪いことをやっているのを見ているので、よけいそう思う」(仲地修吉)
「…入隊は、昭和一五年一二月『台湾歩兵1連隊』にだった。…
私は入隊したが、なかには懲兵忌避をした人もいたはずだ。徴兵忌避のために、フシ(節)の穴から出した目に焼けヒーバーシ(火箸)を突っ込んだり、銃の引き金を引く指(右人差指)を切ったりする人がいると聞いていた。
内地の兵隊は殴るから、沖縄の人の頭には『兵隊に行って死ぬというのは、戦闘で死ぬということではない。殴られて死ぬことだ』という思いがあった。みんなそう思っていたはずだ。また、実際殴っていた。
軍隊では殴るときでも、横川自身が殴っているんじゃない、宮本自身が殴っているんじゃない、天皇陛下が殴っているんだという論理だった。血だらけになって、木刀で歩けないくらい殴られても、神様がやっているといわれれば反発もできないから、我慢する仕組みになっていた。私なんかは何が神様だと思っていたが、思っていても口にはできなかった。…
入隊後六カ月ぐらいは『補充隊』にいて、昭和一六年日本が宣戦布告する前までは、『海南島(中国、海南省。広東省雷州半島の南にある島)』に駐留していた。…そこでは、日本軍が原住民の殺戮を繰り返していた。
日本軍がどんなことをしたかというと、『共産討伐』と称して大勢の原住民を連行し、いろんな方法で殺害した。生きたまま銃剣の的にされた者たちもいた。日本の丸太に両腕を縛って立たしておいて、バケツの水で銃剣を濡らした初年兵が、五〇メートルぐらい先から『ヤーッ!』とかけてきて突き刺す。一人を一〇人ぐらいで突く。そうやって何名も連行して殺害した。それは『訓練』だった。日本の軍隊の教育だった。また、生きたままガソリンをかけて、チンチリモーカー(もがき苦しませ)焼殺させた者もいた。
他にも忘れられない残酷なできごとがある。そのとき私は、歩哨に立っていた。階級は大尉だったが、ある軍医は、連行した二人の原住民を縛っておいて、生きたまま執刀して内臓を観察した。自分の体験を復員後に生かすという感じで、ナカを視ていた。麻酔もかけてあったのか疑わしい。二二、三歳ぐらいの若い男女だった。その遺体は埋葬されたが、それで終わりではなかった。埋葬後にある兵長が掘り起こし、遺体から肝臓を取り出した。そしてそれを干して砕き、その頃兵隊に配給された『ワカモト』の瓶に入れて、退役のときに『万病の薬』と持ち帰った。日本軍は本当に残酷だった。…
ある少尉は、共産党の疑いで連れてきた住民二人を正座させて、親譲りの名刀の試し斬りに使った。その住民は即死せず、ひどくもがき苦しんでいた。田んぼの側だった。私は、気の毒でたまらなかった。早く死なせてあげたかった。私は見物の列を飛び出して、見るに見かねて田んぼにぶちこんだ。そしたらやっと息を引き取った。そういうこともあった。かわいそうで仕方なくやったんだが、上官からは『君は勇気がある』とほめられた」(国場豊蔵)
「…三月二九日には支那の南京に行った。漢口で軍事訓練を受けた。教育訓練は厳しかった。床の磨き方、鉄砲の手入れが悪いと、夜中でも上等兵が来て、全員起こして殴った。あまり厳しいので、同年兵が四、五人逃げたが、内地の人だったので名前は忘れた。逃亡兵の中には、その後支那の隊長になって日本と戦った人や、支那人に日本の教育をした人もいたという話を聞いた。…
日本軍は、中国などで悪いことをしたという話があるが、それは隊長命令だったと思う。私たちの時代は、隊長には絶対服従だった。戦争は人と人の殺し合いだが、私も残酷な軍事訓練を受けた。銃剣術といって、鉄砲の先に着剣して敵を突き刺す訓練だった。その的は、縛った支那人捕虜だった。一〇〇メートル先から走っていって、生きた人間を突き刺した。それが日本の軍隊教育だ。私たちは拒否できないまま、やった」(喜友名朝惟)


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