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    かけはし2020年2月3日号

埋め立てを中止し辺野古を白紙撤回せよ


沖縄報告 1月27日

苦しまぎれの工法・設計変更許さない

沖縄 K・S


1.27

強風のためカヌーは中止

平和丸で埋め立て工事現場を観察


 一月二七日の月曜日、いつも通り浜のテント2に集合した海上行動チームは、話し合いの結果、強風のためカヌーは中止、平和丸で現場の確認に向かうことを決めた。船長はヘリ基地反対協の仲本興真さん。カヌーメンバーや辺野古ゲート前の参加者、取材記者たちを乗せて、辺野古漁港から工事現場に向かった。
 ODB(沖縄防衛局)の横幕を掲げた警戒船も出港を見合わせる強風の中、波で大きく揺れるフロートの向こうで、埋立工事の護岸上に作業員が何人も出て作業をしているのが見える。「強風の中危ないですよ。作業を止めて帰ってください」。抗議船の中から、叫び声が響く。さすがに重機類は動いていない。
 フロートの向こう側には、例によって、海上警備のガードマンの船と海上保安庁のボートが並行して走りながら、マイクでがなり立てる。平島と長島の近くまで行くと、波風はさらに強くなって、波しぶきが船内にも打ちつけれるようになった。仲本さんは、「残念ですが、強風のためこれで引き返します」と述べて、舵を切った。

カヌーチームTさんの報告


一月二二日(水) 安和桟橋

晴れ/曇り。気温、日中で約二二℃、太陽が出ると暖かい。海は朝穏やか、昼近く風が上がり、波も高くなる。

1度目の阻止行動

 八時四〇分:安和海岸に到着、着岸しているガット台船は喫水線まで近い。一〇時ごろ出港と推定される。いつものように私たちは桟橋下ネットにカヌーを固定する。
一〇時一五分:海上保安官が海に飛び込み私たちを剥がしにかかる。全体として約五〇分頑張る。

2度目の阻止行動

 昼前二隻目のガット台船には赤土の積み込みが始まっている。最近になって工事をする人たちは昼休みも休まずに行う(もちろん交代で昼休みを取ってると思うが)。

 一二時二〇分:再び桟橋下までカヌーを漕ぎ、固定する。
午後は風が出てきて波も高くなり船の沖側のグループは比較的ゆるくカヌーを固定する。これは波が高いと海にいる海上保安官が怪我をする可能性があることに考慮して。
約四〇分粘り拘束される。
本日は二度の行動で合わせて一時間三〇分止めたことになる。このような地道な行動は徐々にではあるがボディーブローのように効いてくると確信している。

平和市民連絡会の学習会に150人

設計変更は新基地建設計画の破綻を示すもの


一月二五日午後、平和市民連絡会主催による辺野古学習会が開かれ、会場の八汐荘四階ホールが満員となる一五〇人が参加した。辺野古ゲート前の面々や各地の島ぐるみメンバーに加え、参院議員の伊波洋一さんや前議員の糸数慶子さんも姿を見せた。司会はいつものように、平和市民の岡本由希子さんが担当して、はじめに真喜志好一さんがあいさつに立った。
平和市民の北上田毅さんは、長年土木技師として働いて来た経験に基づいて、防衛省の設計変更の内容と問題について、パワーポイントをつかいながら、約一時間半にわたって詳しく報告した。

北上田さんの話(要約)


防衛省は昨年一二月二五日、辺野古新基地建設にかかわる計画の大幅な変更を公表した。それによると、工期は、設計変更に対する沖縄県知事の承認を得てから埋め立てに九年一カ月、施設建設も含めると一二年、総工費は九三〇〇億円となっている。沖縄県の一昨年の試算によると、工期一三年、総工費二兆六五〇〇億円だったので、実際はもっと膨れ上がっていくだろう。今回の沖縄防衛局の設計変更は一言で言えば、強引に、埋め立て工期一〇年、総工費一兆円以内に押し込めようとしたイメージ操作にすぎない。実際は、工期短縮のための無理な工法変更であり、環境への影響も深刻だ。
変更計画案の特徴をいくつか挙げると、@作業ヤードとしていた辺野古漁港周辺の埋め立て中止、A埋め立て土砂の大半を沖縄県内でまかなう、B土砂の搬送をこれまでのすべて海上から陸上も併用、C美謝川の切り替え、仮設道路は予定通り、D地盤改良工事の規模縮小、E中仕切護岸計画の変更および土砂陸揚げ方法の変更、などだ。
地盤改良工事は、サンドコンパクションパイル工法、サンドドレーン工法に加えて、沿岸部のペーパードレーン工法を加えた三工法にしたが、使用砂杭は当初の七七〇〇〇本から四七〇〇〇本に減るとされた。大浦湾の深さ九〇mに至る軟弱地盤は広範囲にまたがり、かつてない難工事になる。今回の防衛省の計画案はとにかく工期を短縮するために無理な工法を採用しており、環境への悪影響は計り知れない。
さらに防衛省案の致命的な問題は、国交省の主要空港の耐震「レベル2」を確保するという方針から逸脱した「レベル1」での設計になっていることだ。はじめから大地震に耐えられない構造になっている。実は「レベル2」に適合するように造ろうにも辺野古大浦湾では造れない、つまり、白紙撤回する以外ないのである。
沖縄県は、辺野古埋め立て反対の民意を背景に、防衛省の設計変更申請の不許可だけなく、毅然として「あらゆる手段を行使」して辺野古を止めるために力をつくして欲しい。

劇団トルの「キャラメル」公演

キム・ギガンさんの熱演に惜しみない拍手


 劇団「トル」のキム・ギガンさんのひとり芝居「キャラメル」公演が一月二四日、那覇市の琉球新報ホール、二六日、西原町のさわふじホールで行われた。両会場とも満員の観客を前に、キム・ギガンさんは二時間近くの一人芝居の演技をエネルギッシュに、かつ情熱的に演じた。
 物語の主人公は、大阪の今里で暮らす二人の在日一世のハルモニ、ホン・オクスンとキム・スッキ。二人は幼馴染だ。オクスンは一九四三年、家を訪ねてきた日本人と朝鮮のおばさんからキャラメルをもらい「日本の絹工場で女工として働けばお金も稼げるし親に田んぼも買ってあげられる」とだまされ、中国に連行され戦地で日本軍慰安所で性奴隷を強いられる。慰安所でつけられた名前はフサエ。同じくスッキも学校でキャラメルを配給する日本人教師に騙されて台湾に連行された。つけられた名前はハルコ。
 以来、長い年月の苦労の末に今里で再会した二人は寄り添うように暮らす。その周りには、朝鮮高校三年生のリョンミをはじめ、二世、三世の友人たちがいる。ところが、オクスンはリョンミから自転車の乗り方を習って乗れるようになった矢先に、息を引き取ってしまう。ここから、ギガンさんは一人で幾人もの役を演じて、二人の人生を浮かび上がらせていく。観客をとらえて離さない役者・ギガンの真骨頂だ。舞台を終えた最後のあいさつで、ギガンさんは演じ終えた満足感に浸りながら「沖縄で公演できて嬉しい」と語った。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(3)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録には、そうした証言が数多く掲載されている。前々回は西原町、宜野座村、前回は北谷町と紹介したところ、何人かの読者から感想が寄せられた。「やはり、民衆の体験記録には、権力に与かっている者らの公報と違って、実際の真に迫るものがありますね。震えてしまいます」「今回の北谷の大陸での証言集、似たような話はよく聞きますが、沖縄の人の証言もあったとは知りませんでした」「今回の戦争経験の報告は心に響きました」など。
 今回は東風平町を取りあげ前後二回に分けて紹介する。(敬称略)。なお、引用は前回とも、誤字と思われるものも含めてそのままにしてある。
 これまで沖縄戦の調査研究は沖縄県内における日米両軍の動きや県民の戦争体験を主に行われてきたため、サイパン、テニアン、フィリピン、台湾など、南洋諸島や東アジア諸国での県民の戦争体験の実相や中国、朝鮮、ソ連での沖縄出身の軍人軍属、「満蒙開拓団」などに関しては十分ではなかった。特に、中国侵略の日本軍に動員された沖縄県民についてはほとんど明らかになっていない。情報があれば是非お寄せいただきたい。

東風平町史『戦争体験記』
(一九九九年発行)(前)


 「私は大正三年生まれだが物心ついた頃は、日本も軍閥がはびこり満州事変上海事変と相次いで起こり、昭和九年に徴兵され久留米の輜重兵第18連隊に入隊し厳しい、軍事教育でしごかれ満期除隊した直後に、あの二・二六事件、そして五・一五事件と軍部独裁政権が台頭し、ついに昭和一二年七月に北支那において日支の戦端が開かれた。
 早速私達にも臨時召集令状の赤紙が舞い降りてきて、直ちに熊本の第六師団川又部隊に入隊となり、死を覚悟して釜山経由大陸に急ぎ北支の石嘉荘に到着し戦線に加わり、弾薬糧秣の輸送任務についた。
 幾度も補給線を狙う敵の攻撃を受け危機に遇ったが、間もなく中支へ転戦となり東海岸の大活から海路上海に上陸し南京攻略作戦に参加した。
 連日連夜の輸送作戦に従事し、昭和一二年一二月一三日これを占領し、休む間もなく更に奥深く広がる戦線で補給任務についたが、短期決着の甘い構想で国民政府軍に対して、これまで順調に進展していたところへ、八路軍の巧妙な戦術と、その激しい抵抗を受け、持久戦の泥沼の状態となった。四年近くの釘づけで思い出せばその間其々大小の戦闘で苦難に直面したこと、又戦場の酷い事等尽きない程の話もある。昭和一五年一二月やっと満期となり、無事帰京した」(野原有市「いまわしい時代を振りかえって」)
 「一〇カ月の初年兵教育を受け一〇六大隊へ配属となった。一期の検閲が終わると昭和一六、中支へ派遣された。着いた所はホーコウと言う所で戦闘部隊の本部だった。私は歩兵隊だった。…
 戦争とは人間が人間を殺しても何とも思わない狂人同様で、殺さなければ自分が殺される恐ろしいものだ。死体の上を平気で歩き、そういうことを我慢できず自殺する人もたくさんいた。話したくない嫌な出来事も沢山見てきた。皆と同じように前進するしかなく、どんなに苦しくとも歯を食いしばり親の顔を見ずしてここで死んでたまるものかと思っていた。
 親にだまって大阪へ行き、そして兵隊にとられ遠い異郷の地で死ぬと親はどう思うだろうと考えると月を見ては涙があふれどうする事も出来なかった」(金城恵助「第一線部隊へ駆り出されて」)
 「私が小学校入学当初の国語の教科書は、ハナ・ハト・マメから始まった。次はサイタサイタ、そしてススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメと変わっていった。次第に軍国主義の教育が台頭してきた。東風平尋常高等小学校も東風平国民学校に変わった。唱歌の時間も軍歌が取り入れられていた。…
 …私は二〇歳になり現役兵として、昭和一八年熊本の山砲の37連隊に入隊、翌日は早速北支に派遣された。…
 軍隊という所は、病後の体でも情容赦なかった。訓練といって古参兵が体のところかまわず殴ったり蹴ったりである。私の頭はデコボコになっていたのではないか。顔を殴られ、口の中はズタズタに切れ、食事もとれない程だった。何が何だかわからないところであり、自由の一つもなかった。…
 上官は、信用できない軍人だった。住民を守るといいながら残虐な振舞いは今でも忘れない。それは、昭和一九年頃だったと思うが適地の部落で寺院や民家をこわし、それに火をつけて燃やし燃えさかる火の中に女子や老人、兵の別なくたたき込んでいた。勢い火の中から命がけで出てきたら、また、投げ込んでいた。隊長は酒を飲みながらそれを見てゲラゲラ高笑いをしていた。なんと悪どい人間だろう、人情という言葉の一片もない。
 また、訓練といって生きた人間を十字に縛りあげ、それを初年兵に銃剣で突かしていた。鬼畜生にも劣る日本軍の上官はこんなものだった。
 上官が気に入らない部下を殴り殺して、戦死といって片付けられるのも一人や二人ではなかった。部隊の交替の際、引継ぎする時などは余剰米や余分な食糧などみんな井戸に投げ捨てさせる上官もいた。理由は、余った物資があれば兵隊に十分食べさせていないという事になるからのようだった。実は兵隊は毎日腹をすかしていたのである。軍隊というところは面白いところで、こんな悪知恵のよく働く者程進級も早かったようである。…
 家に帰ってみると、家族は一人もいなかった。私が出征当時年老いた祖父も昭和一九年に世を去ったとの事、弟も現地入隊で戦死していた。次男はブーゲンビル島で戦死、こんなことってあるだろうか。本当に唖然とした」(屋嘉比柴重「聖戦とはこんなものだった」)。


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