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    かけはし2020年2月10日号

新基地建設を白紙撤回せよ


沖縄報告2月2日

ホープ・スポット指定第1号破壊の暴挙

沖縄 K・S


2.1

ゲート前県民行動

海守る闘い重ね強め
デタラメ政府窮地に


全県各地から
800人結集
 二月一日、今年初めての第一土曜日辺野古ゲート前県民行動が行われ、全県各地から八〇〇人が結集し、埋め立て工事中止!新基地建設阻止!の声をあげた。午前一一時から始まった全体集会では、まず山城博治さんが力強く開会を宣言したあと、新たにオール沖縄会議の共同代表に就任した大城紀夫元連合沖縄会長が「県議選に勝利し安倍を追い詰めよう」と檄を飛ばした。共同代表の一人、稲嶺進さんは「政府防衛局のやり方のデタラメさにはあきれてしまう。破綻した辺野古新基地を止めよう。チバラナヤーサイ、グスーヨー」と訴えた。
 ジュゴン保護キャンペーンセンターの吉川秀樹さんは要旨次のように話した。

〈吉川秀樹さんの話〉

 第一に、米国にも「辺野古がグッドアイデアという人にあったことがない、日米関係、沖縄日本の関係を悪化させる。一番の被害者は税金を払っている日本の国民だ」という声が出ている。今回米国で成立した国防権限法は、米軍再編の動きを米議会に報告しなければならないとされている。NGOや沖縄からも報告を提出することができる。期限は六月だ。日本政府は嫌がるだろうが、県や県議、国会議員も意見を出し米国に伝えていこう。
第二に、世界一一〇カ所で登録されているいわゆるホープ・スポット(希望の海)について、なぜ辺野古・大浦湾が日本で最初に指定されたのか、いくら強調してもし過ぎることはない。
辺野古・大浦湾の広さは二〇ku。ここに五三〇〇種の多様な生物が生息する。海洋保護区のハワイは七〇〇〇種を数えるが、日本の国土の四倍の広さがある。辺野古・大浦湾のように限られた海域で極めて豊かな生物多様性を有しているのは世界でも類がない。辺野古のオジー・オバーはこの豊かな海の恵みのおかげで戦中・戦後を生きてきたし、環境と結びついた行事や文化がある。そして大事なことは、ゲート前で、海上で海を守ろうとする人々の闘いがうまずたゆまず続いていることだ。ホープ・スポットの署名にも協力をお願いしたい。
第三に、ジュゴン訴訟の公開審理が米国の裁判所で結審を迎える。判決はいつになるか分からない。提訴から一七年。アメリカの環境訴訟で最長となった。主張の軸は「辺野古の基地建設は米国の法律を犯している」ということだ。違法行為をやめさせるために、米国で弁護士や環境活動家が頑張っている。判決に向けて、意見を上げる、文書にして出すことが大事だ。

国の無謀明瞭
中止こそ大義
そのあと、共同代表の一人、照屋義実さんの「募ったが募集していないなどというウソ・はぐらかしの安倍政権を一刻も早く終わらせよう」との発言、「有機フッ素化合物(PFAS)汚染から市民の生命を守る連絡会」の3・6県民集会の呼びかけが行われた。
県選出国会議員を代表して、伊波洋一さんは「辺野古の基地建設は無謀な工事。たとえ造っても、米軍基準に違反し、不同沈下でまともに使えない。普通空港は五〇〇億円でできる。辺野古に投入する金額は二〇個分の空港に相当する。辺野古唯一を止めて、無謀な基地建設を中止させるため、国会で頑張っていく」と述べた。
仲村未央さんはじめ六月県議会選挙立候補予定者が紹介された後、ヘリ基地反対協の安次富浩さんは「三月に予想される防衛局の設計変更申請に対し、知事を支える県民大集会を持ち、首相官邸に怒りをぶつけていこう」と訴えた。
本部町しまぐるみ会議の平良昭一県議は「塩川港で毎朝ダンプを止める行動を続けている。また、本部港の軍事利用をさせない取り組みも強める」と述べて、「ヨコスカ平和船団」の新倉裕史さんの講演会「県の港を軍事利用させないために」への参加を呼び掛けた。 高垣さんは「一%のトラウマなのか、防衛局は安和・塩川からの土砂搬出に躍起になっている。安和では夜八時まで作業している。塩川でも無理やり二隻から三隻にさせようとしている。今朝も二時間ダンプを止める行動をやり抜いた。人が必要だ。安和に、塩川に足を運んでほしい。一時の交替だけでもありがたい」と訴えた。
最後に泰真実さんのリードで、「沖縄今こそ立ち上がろう」「沖縄を返せ」を歌い、ガンバロー三唱で締めくくった。

〈カヌーチームTさんの報告〉

一月二九日(水)安和
曇り、気温日中約一六℃で寒い。

〈1度目の阻止行動〉

 朝の安和からの連絡によると、ガット台船は比較的小さく(一〇tダンプカーで約一八〇台分)九時三〇分出港と推定される。第二テントでの準備を急ぎ早めに出発する。安和到着後、カヌーメンバー二人はすぐに出発。一〇分後に全員が海に出る。
海に一艇でもカヌーがあるとガット台船は出港できない。台船の前や近くに寄る必要はない。桟橋下ネットにカヌーを固定するが時間が足りず、約三五分の成果。

 〈2度目の阻止行動〉

 台船は規模が大きかったので、昼食をはさんで二時間の余裕があった。一三時にカヌーを出艇し、約四〇分粘り拘束される。午前、午後合わせて一時間一五分止めた。
いつもより止める時間が短いように見えるが、気温/水温も低く、飛び込んでくる海上保安官の若者は体が震えているものもいる。このような状態で私たちはギリギリまで粘ることを躊躇する。固定しているカヌーが早めに離れやすいように配慮している。

1月31日(金)安和
今日もまた日中で約一六℃と寒い。
ガット台船は非常に大きい(一〇tダンプカーで約四〇〇台分)。はじめての船だが、一一時三〇分出港と推定し、一〇時三〇分に七艇のカヌーは安和の海岸を出艇。船の周りで様子を見、一一時から桟橋下ネットにカヌーを固定する。
一二時一〇分、出港の合図が出る。台船には一〇tダンプカー四〇〇台分余、今まで最大の量だ。一二時二五分、海上保安官が海に飛び込み、拘束。全員が浜にもどされる。
一三時三五分、次の台船が着岸した。次も大きな台船だったので、それを待つ時間の長さを考慮して、二度目の阻止行動は行わず終了とした。風がさらに冷たく波が高くなってきたこともある。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(4)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録には、そうした証言が数多く掲載されている。以下はその一部である(敬称略)。なお、明らかな誤字は改めた。

東風平町史『戦争体験記』(一九九九年発行)(後)

 「昭和一二年八月三日、歓呼の声に送られて営門を後に出征しました。門司港を出港して朝鮮の釜山に上陸し、汽車で満州に入り、ロコウ橋を通過し黄村駅で下車しました。……
昭和一二年一〇月二八日頃、天津のターク―に集結し、船で東支那海を渡り、一一月五日の夕方南京に入域した。昭和一三年のお正月は南京城で祝いました。…日本軍は食糧の補給が乏しく、ほとんど中国人の物を盗み食いしていました。
弾丸の補給だけは充分だった。日本軍は輸送力はない上に、国内も食糧不足の非常時だったからだと思います。悪いことをしたと思っています。(仲座春太郎「支那事変に参加して」)
「…私に充員召集令状が届いたのが七月一五日頃だったと記憶している。…沖縄から第一次の召集で勇躍し熊本6連隊に入隊した。…
わが輜重隊は一線の攻撃部隊ではなく、一線の攻撃部隊に弾薬や糧秣兵器等を輸送するのがその任務であり、大行李と小行李に分けられていた。…一一月中旬頃であったが、私達が上陸した時は既に海軍の陸戦隊が上海を占領していた。…南京が陥落したのは確か一二月一三日頃だったと思うが雪が降っていた。南京に到着して城外に露営してしばらく休養したが、戦場の常とは言え死体のあまりの多さには驚いた。道の両側に死体を積み上げて、人の通る中央部だけが空いている状況であった。
また、一週間程経ってから南京の船着場である下関港に糧秣受領に行って、又悲惨な光景を見た。中支でも一二月までは乾期で雨量は少なく、雨期と乾期では揚子江の水面の高さは四・五メートルの差があるとの事でした。当時は乾期のため、水面は低く下関船着場の岸壁から水面までの高さはそれ以上あったかと思われる。その岸壁から水面に放り込まれた死体の山は、岸壁のコンクリートの高さまで積もっており、波止場の広場は血で赤黒く染まって異臭を放っていた。多分追い詰められて逃げ場を失った敵兵は、ここで虐殺されたのであろうとの話であった。一ヶ所にこれだけの死体を見たのは、おそらく南京の大虐殺の現場ではなかったかと思う」(知念富一「私の日支事変従軍記」)
「昭和一五年に門司港から中国へ向かった。…
中国では、主として警備が私達の任務であった。…又、ある時、討伐に行ったが敵軍の捕虜にタコ壺と呼ばれる穴を掘らせて、その穴に日本兵が捕虜を銃剣で突き落として刺し殺すこともあったが、大変むごいことだと思った。そのような事をするのは殆んど四年兵であった。…
何事も無い日もあったが、そんな時は食べることしか考えず、土地の集落に兵隊が行くと現地民は逃げていくので、食べられる物を探して持ち帰って食糧にした。…
討伐は、危険や苦労も多かったが、現地民の家から食べられるものは強奪しても隊長は何も言わなかった」(金城常吉「兵隊で支那事変へ」)
「九江には戦闘のつもりで行ったのが、現役兵がすでに九江を占領して我々の部隊が着く頃には静かになっていた。九江からは、目的地も知らされずあちら、こちらとずっと行軍だけだった。雨が降り続く時は泥ねいにはまりつらい行軍だった。足の裏は毎日水ぶくれが出来て、休む度にそれをつぶして薬をつける事を繰り返していた。
行軍中、絶えず敗残兵に狙撃され、我々の仲間からも犠牲者を出したこともあった。中隊は敵の兵隊らしき者を捕まえて来て、燃え上がる火の中に生きたまま、投げ込んだこともあった。支那人は兵隊が住民に化けて日本軍のスキをみては攻撃するというような戦法をとっていたので、うっかりはできなかった、どこの戦闘でもある事だと思うが、こんなこともあった。
捕虜二人を捕まえて来て、手を背中に縛って将校二人が各々自分の持っている軍刀の切れ味を試すといって、捕虜を斬首するというのである。支那人は縛られているので、逃げようにも逃げられず自分の死を覚悟していたのか、将校の言うとおり正座して頭をうつむきかげんにしたところを一番目の将校が一刀の元にバサッ…と斬った。胴体は肩をピクッとさせて前の穴に転げ落ちた。二番目の将校の斬首は刀がよく切れなかったのか、最初の将校程ではないがそれでも一刀の元に前の穴に落ちた。戦争の残酷さを垣間見る思いだった。それにしても将校は狂人になっていたのであろう」(浦崎宗一「支那戦線の体験」)
「東風平小学校を六年で卒業して、台湾に渡った。台湾には、おじさんが理髪店を経営していた。…
満二十歳になると、台湾で徴兵検査を受けた。結果は甲種合格だった。
昭和一〇年一月二〇日、現役兵として歩兵第48連隊に入隊した。連隊は福岡県の久留米にあったが、私は佐賀の分屯地で初年兵教育をうけた。……
昭和一二年三月、満期となった。
私は、沖縄へ帰って来ても砂糖きび作りでは食ってはいけないと思って、復員と同時に大阪へ行った。
ところが、間も無く支那事変が勃発。又、召集令状がきた。今度は、宮崎の23連隊に入隊した。早速、朝鮮経由で北支へ渡った。
北京近くの渡河戦から戦が始まった。
その後、ホテイの戦闘、石家荘の戦闘、そして、太姑まで行って、もう帰還させるものと思って、内心喜んでいたら、今度は上海の南、杭州湾に上陸した。我が部隊は、上陸と同時に『日本軍、百万が上陸した』と、高々とアドバルーンを上げた。それを見た支那兵は、びっくりして逃げ出した。我々の機関銃隊は、逃げる兵を後ろからパンパンパンと打ちまくった。その時の敵の被害はそうとうなものだった。
我が部隊は、上海の町の中に入らずに南京の攻撃へと向かった。当時は、乗り物は無く、昼も夜も行軍で歩き続けた。それが重い背のうを背負い、鉄砲担ぎ弾帯を腰に巻いていた。歩きながら眠っている状態だった。時には、捕虜にした支那兵に荷物を持たしている時もあったが、彼らには残飯の食事しか与えないので行軍途中、倒れるのが多かった。彼らは最後に、日本軍の銃剣で殺された。軍の機密がもれるのを怖れてのことだった。それにしても、日本軍の残虐な行為である。
日本軍の食料は、大変貧弱だった。米は持っていたが他は現地住民の物を盗って食べていた。山羊、牛、鶏などである。牛など眉間に一発撃てばすぐコロリである。兵隊は、肉だけ切り取って、骨はその場に置き去りであった。軍には缶詰もあったが、それだけでは強行軍を維持する体力がつかなかったのである。薪は、支那人の家を壊して使っていた。家を壊すくらいなら、いくらか残るが敗残兵の隠れ家にされては困るといって、片っ端から家を焼くこともあった。支那は日本軍の為に人も殺され、家も焼かれ家畜もうばわれ、それこそ、日本軍の行為に泣いている。……
南京城は、大きな城壁をめぐらし、更に外堀に水が満々とたたえられていた。城壁は上から、車も通れる程、幅は広かった。南京の町の中に入ったことはなかったが、南京での醜い戦争があった事が、揚子江の川面に浮いている死体の数で知った」(神谷信助「満州警備と支那戦線に参加」)




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