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    かけはし2020年2月10日号

事故を忘れさせる圧力との闘い


1・25

小出裕章さん講演会

東電福島・放射能汚染の拡大と“オリンピック”


 一月二五日午後一時半から、東京・江戸川区総合文化センターで「東電福島・放射能汚染の拡大と”オリンピック”小出裕章講演会」が主催:NPO法人ふくしま支援・人と文化ネットワーク、協賛:「さようなら原発江戸川連絡会・一千万人署名江東実行委員会」・「脱原発下町ネットワーク」で開催され、二〇〇人が参加した。
 神田かおりさん(講談師)が主催あいさつをしたあと、小出さんが講演した。

嘘つき安倍総理
誘致の東京五輪
安倍首相が二〇一三年九月八日に、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会総会で、福島の状況を「アンダーコントロール」と言ったが、当時からコントロールなど出来ていない状況を、データーを示しながら詳しく報告した。講演の要点を報告する。  (M)

小出さんの講演から

あふれ出す汚染水
「収束」は不可能だ


当時、敷地は放射能の沼のような状態になっていた。二〇一四年一〇月一三日に採取した海側の井戸の水は環境への放出基準の千倍を超えるほど猛烈に汚染されていた。敷地内での苦闘は今も続いている。熔け落ちた炉心が今どこにどんな状態であるかすら分からない。ひたすら注水してきたが、放射能汚染水が溢れている。
山側から出てくる地下水は原子炉建屋内に入り、放射能で汚染している。これを遮断しなければならないが出来ていない。放射能汚染水は、タンク貯蔵容量一二八万トンに対して、一一九万トンが溜まっている。あらゆる放射能を取り除いてもトリチウムだけは取り出せない。処理水を海に流そうとしている。どうにもならない状態だ。何も手をうつことができないまま、オリンピックを誘致した。九年経った今も事故現場に行けない。行けば人は死んでしまう。それでロボットを作ったが、ICチップが放射能で壊れてしまう。果てしない放射能の封じ込め作業と毎日五〇〇〇人の被曝労働が行われている。百年経っても収束しないだろう。
国と東電は熔け落ちた炉心をつかみ出し三〇年〜四〇年で事故を収束させるためのロードマップを作った。しかし、熔け落ちた炉心は、ペデスタルから外部に出ており、つかみ出すことはできないことが分かり、ロードマップを書き換え先送りすることにした。例え、取り出すことが出来ても放射能は消えず、一〇万年から百万年の管理が求められる。
フクシマ事故で放出された放射能は広島原爆の一六八個分で大地を汚染した。福島県の東半分を中心にして、宮城県と茨城県の南部・北部、さらに、栃木県、群馬県の北半分、千葉県の北部、岩手県、新潟県、埼玉県と東京都の一部地域など、面積で言うと約一万四〇〇〇km2の大地が、放射線管理区域(4万Bp/uを超える区域)にしなければならない汚染を受けた。
「除染」はできない。「除染」とは汚染を除くという意味。汚染の正体は「放射能」。人間には「放射能」を消す力はない。言葉の本来の意味で言えば、「除染はできない」。やっていることは汚染を別の場所に移動させる「移染」。容赦なく溜まり続けるフレコンバッグは二〇〇〇万袋を超えている。
事故当時、政府は「原子力緊急事態宣言」を発令し、六〇万Bq/u以上の汚染地から住民を強制避難させたが、それ以下の汚染地では人々を棄てた。

原子力マフィアは
犯罪集団だ
日本では、これまで五七基の原子力発電所が建てられた。そのすべては自民党政権が「安全性を確認した」として建てられた。そして、電力会社、原子力産業、ゼネコンをはじめとする土建集団、学会、裁判所、マスコミ、すべてがグルになって原子力を進めてきた。もちろん、福島第一原子力発電所も「安全性を確認した」として建てられたが、事故を起こした。
原子力マフィアには重大な責任があるが、誰一人として責任を取っていないし、取ろうとする人もいない。日本が「法治国家」だというのであれば、彼らを犯罪者として徹底的に処罰する必要がある。

些末なことと
大切なこと
「原子力緊急事態宣言」は八年一〇カ月以上たった今も解除されていない。しかし、原子力マフィアはそれを忘れさせようと画策している。その時に彼らが取る手段は、別のことに国民の目を誘導することである。
今、日本国中がオリンピックに向かい、それに反対すると非国民であるかのように言われる。しかし、今なすべきことは福島第一原子力発電所事故の収束と被害者の救済である。それをなさない国であれば、私は喜んで非国民になろうと思う。(講演要旨、文責編集部)

質問と回答
質問 食物への放射能の影響は? どうすればいいのか?

 答え 生態系が放射能で汚されている。農作物が汚染していないはずがない。程度の問題だ。福島県沖の海域も汚れている。食物は一s、一〇〇Bqに達しないものとして野放しになっている。事故前は〇・一Bqしか汚れていなかった。すべての食べ物について、放射能について表示すべきだ。汚染はどうしようない。大人は責任があり、福島の農家などを守る意味もこめて、食べて下さいと言う。ただし、子どもだけは極力守るために食べない方がいい。

 質問 事故の福島原発をどうしたらいいのか。

 答え 放射能は消すことはできないし無毒化できない。今までいろんな案が出された。隔離する。そのために、ロケットで宇宙に送る、深海に沈める、南極に捨てる、陸地で深い穴に埋めるなど。しかし、どの案も一〇万年から百万年安全に管理することなどできない。私もどうしたらいいか分からない。ただ、原子力をただちに止める。そして、監視できる方法で保管するしかない。

2.1

吉田裕さん最終公開講義から

自分史の中の軍事史研究

「不条理・残酷」への怒りをバネに



2019「新書
大賞」1位受賞
 「新書大賞」なる賞が存在することは、これまで知らなかったが、二〇一九年の「新書大賞」の第一位は私も読んでいた吉田裕(ゆたか)一橋大教授の『日本軍兵士――アジア太平洋戦争の現実』(中公新書)におくられることになった。もう大昔になるが、吉田さんには彼が大学院生のとき歴史学者の故藤原彰一橋大教授の中野にあった自宅でお会いしたことがある。
 士官学校卒の職業軍人・陸軍将校として中国戦線で負傷し、戦後は「コペルニクス的転換」を遂げて東大に入学し、一九四八年の全学連結成に向かうオルグともなった藤原氏は、その後現代史・軍事史の分野で多くの業績を残した学者となった。藤原氏の晩年の著書に『餓死した英霊たち』(青木書店刊)がある。彼は主にフィリピン戦線を例にとって「戦死」した日本軍兵士の六割以上が「餓死」と見なされる、と分析した。私はこの著書の紹介を二〇〇一年九月一〇日付の本紙に掲載した。

軍隊・戦争と
私たちの運動
フィリピンでの軍隊体験を持つ数学者で元べ平連・日市連の故福富節男さんも、藤原氏とはやや異なった角度から、自らの体験を語っている。数学専攻の福富さんは戦争末期米軍の暗号解読の任務につくためにマニラに送られ、ギリギリのところで米軍のマニラ侵攻以前に日本に戻ることができた。なお福富さん本人は、吉田氏の『日本の軍隊』(岩波新書 二〇〇二年一二月)への書評を反天皇制運動連絡会の「反天連ぱんち」誌に書いている。
こうして見ると、吉田裕の著書は私たちの運動との関係や活動履歴との関係でも、さまざまなところで関わり合いがあった、と言うべきだろう。
さて吉田裕の「新書大賞」受賞作の内容については、今回は省いて、二月一日に東京・国立市の一橋大学兼松講堂で開催された吉田裕教授の公開最終講義「自分史の中の軍事史研究」の内容について簡単に紹介したい。五〇〇部用意していた資料が足りなくなった、との話だったから五〇〇人を超える人々が参加したことになる。以下、当日の吉田氏の「講義」の要旨。(国富)

吉田裕さん「最終公開講義」

資料保存・公開はいっそう重要に


終戦直後の東大などの歴史教員の間では、三〇年〜五〇年経たないと「現代史」は学問の対象にはならない、とするのが当時の学会の常識だったという。「同時代」のことは政治に関わることなのでふさわしくないという意味だ。そうした「壁」は、藤原彰、伊藤隆、秦郁彦という立場を異にする研究者が直面した共通の問題だった。
戦後の近代史研究を担った若い世代は、軍事史の研究に警戒感、忌避感を持っていた。軍事史の研究は、特殊な分野として周縁に押しやられた。軍事史研究そのものが「批判」の対象であった。こうした軍事への「忌避」感覚は、一方では「軍事化の進展度」が相対的により低い社会を形成する上で大きな役割を果したものの、他方では軍事史研究を忌避し、「戦場・戦争のリアル」に目を向けない傾向も生まれた。
戦後歴史学の側が軍事史に目を向け、その研究成果が実を結び始めるのは一九九〇年代になってからであり、戦争体験を持たない戦後生まれの研究者が中堅研究者になることと関連している。
「自分史」を振り返ってみよう。私は一九五四年に埼玉県豊岡町(現入間市)で生まれた。戦前は陸軍航空士官学校、戦後は米軍ジョンソン基地が置かれ、今は航空自衛隊入間基地のある「基地の町」だ。
一九五九年に「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊され、「戦記物」が大きな「売り」となった。また学校の図書館でも「ジュニア版太平洋戦争」のようなものに人気が集まった。
「今日わが国における敗戦の深刻なる自己反省と、平和に対する熾烈なあこがれは当然のことである。ただ反省が過ぎて民族の自信喪失となり、平和の希望が脱線して被虐症におちいることは決して健全なる道ではない。我々日本民族は、あまり気短かにものを断定しないことが肝要である」――これが当時の軍事雑誌の主張。

 中学生時代には軍事雑誌『丸』を読み、プラモデル作りに熱中するがベトナム戦争の影響は自分にとって大きかった。高校生時代、全共闘運動には共感しなかったが一方で、受験勉強中には「マルクス主義も少しは読まなければ」と感じていた。
一九七三年〜七七年。東京教育大学文学部史学科。三年のころから軍事研究に関心を持ち始め、エンゲルスを読む。戦術の変化を社会の変化から読み解いていく手法、あるいは軍隊と社会の歴史的変化の解明というアプローチから大きな影響を受けた。資料との関連では、一九七七年頃から、卒論執筆との関連で防衛庁防衛研究所戦史室に通うようになった。一九七七年四月から一橋大学大学院に進学。
研究者になってからはアジア諸国と日本との歴史認識ギャップに衝撃を覚え、また日本軍による戦争犯罪の研究が立ち遅れていることを実感し、戦争犯罪研究に取り組むようになった。一九八四年に発足した南京事件調査研究会の事務局長になり、南京事件関係の資料を調べる中で、連隊史などの部隊史、兵士の回想や従軍日記などの歴史資料としての重要性に気付くようになった。

 昭和天皇の死去前後の日本社会の重苦しい雰囲気に暗い気持ちとなり,「自粛」の強要、「礼賛」の押し付けに反発。この頃から昭和天皇研究、戦争責任論に関心を向けるようになった。『昭和天皇 最後の侍従日記』(文春新書)によれば、一九八五年三月二九日の項に「一昨日『天皇の昭和史』(藤原彰・吉田裕ほか著 新日本新書 1984年)について内容御尋ねあり、今日図書館で借用、天皇制批判の書」との記述があるとのこと。また一九八七年四月七日の項では天皇の言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり…戦争責任のことをいわれるなど」とある。
資料保存・公開という課題が今後ますます重要になる。部隊史、戦争体験記、従軍日記などを収集・保管・管理する機関が靖国偕行文庫、奈良県立図書情報館の戦争体験文庫など以外に存在しないという現実は深刻だ。
高木俊朗さんは「戦争に対する怒りの心があって、はじめて真実を記録することができよう」と記したが、私の場合も、研究の動機は戦争の不条理さ、残酷さに対する怒りだ。怒りを熟成して「すんだ怒り、静かな怒り」に転化させていくのが研究者の仕事だと思う。
(講演要旨・文責編集部)


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