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    かけはし2020年2月17日号

くじけないことが勝利の道


沖縄報告 2月10日

海と陸から埋め立て強行阻止

沖縄K・S


2.3

辺野古・大浦湾

カヌー10隻と抗議船
2隻が断固たる行動


 二月三日月曜日、辺野古ゲート前および琉球セメント安和桟橋と塩川港での現地行動に呼応し、辺野古・大浦湾では、カヌーチームによる埋め立てを止めるための海上行動が早朝から貫徹された。
 この日海に出たのは、カヌー一〇艇と平和丸、不屈号。はじめに、大浦湾側の長島近くの開口部で、本部半島からの土砂運搬船の出入りに対し果敢な阻止行動が行われた。カヌーはフロート周辺で阻止行動を行ない、平和丸はマイクで「違法工事を中止しなさい。海保のみなさんは海を殺す埋め立ての手助けを止めて、海を守る本来の仕事に戻りなさい」と訴えた。しばらくしてカヌーの一部は拘束され、海保の警備艇に乗せられた。
 残ったカヌーメンバーは平和丸に乗り込みカヌーをけん引してK9護岸に向かった。K9護岸では、辺野古の埋め立て海域との間を行き来するダンプが土砂を積んだ台船に乗り込み赤土を運ぶ作業の最中で、ダンプが並んでいる。ODB(沖縄防衛局)の横幕を掲げた警備船からは、「ここは臨時制限区域内です。フロートから離れブイの外に移動してください」と繰り返す。しばらくすると台船の赤土が空になり、次の台船との入れ替えを行うため護岸を離れた。カヌー一〇艇はこのタイミングで一斉にフロートを乗りこえK9護岸の台船へ突進しかなり接近したが、高速警備船から海に飛び込んだ海上保安官に全員拘束された。
 カヌーメンバーは拘束され海保によってカヌーの自由を奪われても闘いを止めない。「不法工事止めよ」「海を守れ」などのボードを台船に向けて高く掲げて、屈しない意思表示を行い続けた。不安定なカヌーに立ち上がりボードを掲げてアピールする勇気あるメンバーもいる。
 海保に拘束されたカヌーメンバーは三隻の海保の高速警備艇に乗せられ、解放場所の長島付近の開口部までノロノロ運転で運ばれた。K9護岸から普通のスピードで開口部に向かった平和丸が数十分待った後やっと到着した。海保の嫌がらせという他ない。時間はとうに一二時を過ぎている。カヌーメンバーを乗せてカヌー一〇艇をけん引した平和丸が長島を通ると、ちょうど台船がK8護岸に接近中だった。カヌーチームは直ちにそれぞれのカヌーに乗りフロートを越えてK8護岸へ向かって漕ぎ出した。海保の警備艇が集まってくる。
 フロートの中でカヌーチームは海保との攻防をやり抜き、平和丸は「We shall overcome」「沖縄を返せ」の歌を流しカヌーを応援した。しばらくして海保に拘束されたカヌーメンバーは再び、ノロノロ運転の海保の高速艇により辺野古の浜まで送り返された。カヌーと抗議船が第2テントに戻ったのはもう午後二時ごろ。シャワーを浴び、カヌーと船の後片付けをし弁当を食べて、この日の海上行動は終了となった。
 なお、海上行動とは別にカヌー教室も開かれた。

2.5

安和桟橋ゲート前

違法工事の手助け止めよ

赤土を入れるな

 本部半島の山を削り辺野古の海に投げ入れる。亜熱帯の森を壊しサンゴの海をつぶす。政府防衛局の庇護下で、赤土の単価をべらぼうに吊り上げ、法に反する桟橋の使用を続けながら、あくどい金もうけに執着しているのが琉球セメントだ。彼らは先日、沖縄を食い物にして稼いだ金の一部、一〇〇〇万円を首里城再建に寄付した。しかし、こんなことが免罪符になると思ったら大間違いだ。
琉球セメントの赤土土砂の搬出は本部塩川港と安和桟橋の二カ所から同時に進められていて、一日ダンプ約一〇〇〇台分の赤土土砂が海路、辺野古へ運搬されている。安和桟橋の入口と出口および塩川港では連日早朝から土砂搬出を止める行動が根気強く続けられている。
二月五日水曜日も、塩川港は本部島ぐるみを中心に一〇人がダンプの前に立ちはだかって土砂搬出を阻止する行動をやり抜いた。安和桟橋の出口ゲートでは「普天間爆音」をはじめ二〇人余が土砂を下ろし再び採石場に土砂を積みに戻るダンプに強く抗議する行動を果敢に行った。安和桟橋入口ゲートでは、島ぐるみ南部を中心に五〇人が「違法工事止めよ」「赤土入れるな」と声を上げ続けた。
昨年一二月段階で埋め立て土砂総量の一%余りに過ぎないという事実が明らかになった、いわゆる一%のトラウマが安倍官邸と防衛省の官僚たちをがむしゃらな土砂搬出に駆り立てている。政府を動かす政治家や国の役人たちにはもはや正常な判断力は失われてしまっている。時間がいくらかかろうが、金がいくらかかろうが、破綻した「辺野古唯一」方針を見直すことはせず、既存のレールに乗って事足れりとしているのだ。
安和桟橋出入口ゲートのダンプに対する阻止行動は朝から夕方まで休みなく続けられる。ノボリとプラカードを手にゲート前をゆっくり行き来しながら、ダンプが来れば前に立ちはだかり「赤土を入れるな」と訴え、警官に排除されてダンプが通ればまたゲート前をゆっくり行き来する行動を一日に何百回と繰り返す。帰りはへとへとになるが、分担し協力して毎日くり返す。
国道に面した出入口ゲートでの阻止行動のアピール力ははかり知れないほど大きい。北部一帯の住民のみならず、沖縄を訪問する日本本土・諸外国の人々はレンタカーやバスでゲート前を通り、新基地反対!埋め立て阻止!の運動を目の当たりにする。スマホを向けたり、手を振ったり、クラクションを鳴らす「れ」「わ」ナンバーもよく見かける。くじけないことが勝利への近道だ。県民ぐるみの力を総結集して埋め立てを止めよう!

水の安全考える連続学習会

有機フッソ化合物の水道水汚染を考える


二月二日(日)、沖縄市で、 「有機フッ素化合物(PFAS)による水道水汚染を考える会」主催の学習会が開かれ、伊波義安さんが講演した。伊波さんは「うるま市から来ました。ユタシク、ウニゲーサビラ」とあいさつしたあと、パワーポイントを使って昨年一二月放映されたNHK宮田英章アナウンサーの「クローズアップ現代」の水汚染問題の番組を紹介し、要旨まとめ次のように話した。

 伊波義安さん
の話(まとめ)

 北谷浄水場の汚染が全国で最も深刻だ。有機フッ素化合物の汚染は、肝機能の低下、コレステロール値の上昇、ガンの誘発など様々な悪影響を人体に与える。PFOSは二〇〇九年に、PFOAは二〇一九年に使用が禁止され、PRHxSも数年内に使用が禁止される動きだが、これまで米軍は、泡消火剤に有機フッ素化合物を使ってきた。有機フッ素化合物の性質は安定性が高く体内や自然環境の中で長期に残留・蓄積することだ。それらは浄化されないまま米軍基地周辺の土壌や地下水を汚染してきた。
厚生労働省の二〇一六、
二〇一七年度の調査によると、全国六四二三カ所の浄水場の中で北谷浄水場が最も汚染されていることが明らかになった。北谷浄水場の水は沖縄市、北谷町など七市町村、四五万人の県民に供給されている。これを止めなければいけない。少なくとも、名護、石川、西原浄水場並みのレベルに下げなければならない。また、嘉手納飛行場、普天間飛行場周辺の湧水・地下水汚染は、米国も調査し深刻な実態をつかんでおり、日本政府は知っているにもかかわらず、公表しない。米軍の排他的管理権を保障している日米地位協定を変えなければいけない。
三月六日(金)午後六時、浦添市のてだこホールで「汚染水から生命を守る県民集会」を開催する。是非参加してほしい。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(5)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録には、そうした証言が数多く掲載されている。以下はその一部である(敬称略)。尚、明らかな誤字は改めた。

『嘉手納町史』資料編六 戦時資料(下)

 「…いよいよ昭和一〇年に県立農林学校で徴兵検査を受けた結果、甲種合格し昭和一二年、熊本の第6聯隊入隊と同時に三カ月の新兵訓練を体験した。その後一時帰郷し三カ月後に、また召集を受け昭和一二年、熊本の歩兵第13聯隊に入隊し、中国大陸の中支に派遣され、上海を中心に展開し昭和一八年まで駐屯した。
当時の戦闘は、中隊規模で一カ月単位で参戦したが、戦闘は相当厳しく戦死者も多数出た。昭和一七年夏ごろの戦闘で腹部貫通の重傷を受け陸軍病院に二〇日ほど入院し、退院後はまた上海の原隊に復帰した。
昭和一八年夏ごろ、南方ブーゲンビルへの転戦命令が下り、上海からスラバヤ丸に乗船した。この時の部隊移動は、連隊規模で四隻の船で転戦中、四隻のうち前後の二隻に魚雷が命中し、一隻の船で一〇〇名中三〇名しか生存しないほどの速い(一分四〇秒)沈没であった。
海中に飛び込んだ後、必死に遊泳しているときの体験が恐怖のどん底にあった。…幸い、沈没する船にも巻き込まれず九死に一生を得たのが強烈な印象として脳裏に焼き付いている」(照屋林一「私の戦争体験―転戦また転戦―」)

 「徴兵検査は、昭和一七年春、普天間尋常高等小学校で受けた。検査の結果は第一種乙種(甲種)に合格し、歩兵226聯隊現役兵として昭和一八年一月三日郷里を離れ、宮崎県の都城23聯隊に入隊したのが兵役の始まりである。同年一月一七日には、都城を出発し下関港から朝鮮の釜山港に上陸し、その後は汽車で目的地まで移動した。
一月二〇日、安東通過後山海関の北支那派遣軍が駐屯する部隊本部所在地の山西省、安邑(あんゆう)の9中隊、柳田隊に編入された。……
歩兵の行軍は、四キロ単位で四五分歩行、一五分休憩が通常の形態であったが、歩行が遅れたり、脱落者がでた場合は捜索のため作戦上隊全体が大きな迷惑を被ることもしばしばあった。…第18秋大浜地区作戦は、一一月一七日〜一二月七日まで、第三次北封鎮掃討作戦に参加した時、あまりの空腹に耐えられず避難中の民間人家庭に侵入し、残り物の食事を食ったのがわざわいしてパラチフスに食あたりし意識不明のまま陸軍病院に担ぎ込まれた。昭和一九年二月一一日に病院を退院するまで部隊は転戦を繰り返していたようだ。……
当時の初年兵は、行軍の苦痛に耐えられず逃亡者が多かった。その捜索のため本隊は、苦労の連続であった。初年兵一〇名全員が帰らぬ逃亡者となったのも忘れられない、この初年兵を受け入れた当時日本の惨めさと物資不足が理解できるようになった。すなわち、兵の武装は五人に一丁の銃しか携帯してなく、また水筒はといえば、昔の戦国時代の竹筒でできた代物であった。逃亡者が出たのも当然ではなかったかと今にしてみれば思い当たることも少なくない。……
八月二〇日の終戦は、泰(タイ)国の磐谷(バンコク)市であった。終戦後は、「投降兵」としてイギリス連合軍は丁重に扱い収容所周辺の草刈作業や船の錆落としなどの軽い作業が主で、待遇は比較的良好で、その間は泰国女性からの差し入れも多く、なかなか快適な収容生活だった」(知花包喜「私の戦争体験―中国大陸北から南へ一万キロ余の縦断―」)

 「私は現役兵として中国に渡り、第六師団西部24連隊に配属された。この連隊は上海から南方に転進する予定で、待機中であったが、輸送船が到着する間に二〇人ぐらいの兵隊(私もその一人)がマラリアにかかり、マラリアに冒された兵隊のみ日本に帰されることになった。私たちを乗せた船は上海から一四日かかって博多に着いた。博多から熊本に移送され、ここで除隊となり沖縄へ帰った。一方、中国で船待ちの部隊は六師団全部南方へ移動した。
私は昭和一九年一〇月一〇日の空襲の後、兵隊として真玉橋に駐屯していた球部隊に召集された」(多和田眞弘「激戦地をたどって」)


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