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    かけはし2020年2月24日号

斎藤幸平氏の提起に応えて


マルクスはエコ社会主義者だったのか?

ダニエル・タヌーロ

 現代資本主義への鋭い批判的見解を発信している斎藤幸平さん(大阪市立大学准教授)が発表した、マルクスと環境問題を考察した著書に対し、タヌーロ同志がていねいな論評を加えている。好意的に受け止めつつ、環境社会主義の実践的展開としての議論発展を期待するものだ。以下に紹介する。(「かけはし」編集部)

マルクス主義と環境問題に関する議論への重要な貢献


 斎藤幸平氏(以下、敬称略)の著書『マルクスのエコ社会主義』(邦訳:『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』、堀之内出版)は、マルクス主義と環境問題に関する最近の議論へのきわめて重要な貢献である。斎藤の著作を特に興味深いものとしているのは、マルクスが、特に農業に関する展望の中に自然の限界を取り入れることによって、人間の発展についての「生産力主義」的な見方から「反生産力主義」的な見方へと考え方を発展させていった軌跡をたどっていることである。この歴史的アプローチによって、著者はマルクス主義者の間での論争―マルクスのエコロジーをどのように考えるのか、空っぽなコップなのか、半分空っぽで半分は満たされているコップなのか、満たされたコップなのかという論争―を超えることができた。
 斎藤は、マルクスのノートを丹念に読み込むことによって、マルクスが社会主義のもとでは農業生産力が際限なく増加できるという考え方を放棄し、一八六五年から一八六八年にかけて、正反対の結論、つまり社会主義だけが際限ない成長へと向かう資本主義の不合理で破壊的な傾向を止めることができるという考え方に到達した経緯を見事に描き出している。

マルクスの生産力主義との決別は一八六五年以降

 ジョン・ベラミー・フォスターは、彼の著書『マルクスのエコロジー』において、リービッヒの業績が土壌劣化の問題についてのマルクスの理解に与えた影響を強調した。斎藤はフォスターと同様に、人間と自然との物質代謝の亀裂―その原因は、囲い込み、資本主義的工業化、都市化、その結果として生じた栄養循環の破壊が結びついたプロセスにある―が、「マルクスのエコロジー」における根底的な概念であると考える。
しかし、斎藤はさらに論を進める。マルクスが当初リービッヒに興味を持ったのは彼がまだ農業生産の際限ない可能性を信じていて、このドイツ人化学者がリカードの「農業収穫逓減の法則」やマルサスの「絶対余剰人口理論」に反対する論拠を提供していたからであったと斎藤は論じる。しかしながら、リービッヒは『農業化学』第七版において、自身の過度に楽観的な立場から距離を置き、「農業の発展には自然の限界がある」ことを認め、化学肥料は「略奪的農業」(による土壌劣化)を埋め合わせることはできないと結論づけた。
斎藤によれば、「リービッヒは彼の立場を変更したことを強調しなかった」が、マルクスは農業生産性と資本投下との間に比例関係があるかどうかという議論に焦点を当てていたので、「このこっそりと行われた修正を見逃さなかった」。その反対にマルクスは「(リービッヒの)新たな定式化は、資本主義諸関係によって利益に従属させられている農業が土壌を持続的かつ長期的に改良することはできないという批判的見解を示唆したもの」だと指摘した。
斎藤にとって、このドイツ人化学者の転換は、マルクスが生産力主義から決別する上で「決定的」だった。だからこの決別は「比較的遅い時期」、つまり一八六五年以降に起こったのである。斎藤によれば、「ロンドン・ノートにおいてはマルクスのプロメテウス的な姿勢は一貫しているが、リービッヒの転換を組み込むことで、マルクスは、一八六〇年代には農業の可能性に関する自らの楽観的見解を訂正した」のである。
もちろん、マルクスはリービッヒの著作に基づいて自分の見解を訂正しただけではない。リービッヒは偉大な科学者であるとともに、金儲けのために化学肥料を生産する実業家でもあった。彼は土壌劣化について社会的・歴史的な理解を持ってはいなかった。それに対してマルクスは労働の搾取と資本による自然破壊の間にある類似性をただちに理解した。このときから、マルクスはこの二つの現象を、人間相互の関係や人間と環境との関係が抽象的価値に取り込まれたことの共通の結果だと考えるようになった。

『資本論』における人間と自然との「物質代謝の亀裂」の概念


斎藤は、『資本論』における、人間と自然との「物質代謝の亀裂」という概念の一般的な重要性を正しくも主張している。マルクスが農業や自然資源を直接に搾取するその他の部門(たとえば林業)に関心を集中させていたとしても、マルクスにとっては、その概念が土壌劣化の問題にとどまらず、人間と環境との間のすべての物質交換(代謝)を包含していることは明らかである。農業は一つの出発点である。なぜならマルクスは主要な理論的関心を地代の問題に向けていて、囲い込みを人間と自然との間の関係の「大規模な切り離し」だと考えていたからである。
斎藤がマルクスは「物質代謝の亀裂」を地球規模の現象であり、それがインドやアイルランドなどの植民地に対する帝国主義的略奪によって拡大していると考えていたと強調していることにわれわれは全面的に同意する。だからマルクスは、イギリスで製造されたインド綿に含まれる栄養物は綿花が育った土壌には戻されないことを理解していた。これは「マルクスがリービッヒの理論を受動的にではなく、完全に能動的に統合し、自分の政治分析に適用した」ことを示すもう一つの例である。
自然による制約の問題をめぐるマルクスの考え方の変遷に関する斎藤の歴史的なアプローチは、ケヴィン・アンダーソンが著書『〈周縁〉のマルクス』で非西洋社会について論じている際のアプローチと似ている。
後者も『資本論』の著者が考え方を変えたもう一つの領域である。斎藤にとってはこの二つの研究領域の間には関連がある。なぜなら、マルクスはプロメテウス的な考えを持っていた時期に「土壌劣化はいわゆる原始的農業技術の技術的・道徳的後進性に起因する」と考えていたからである。この観点からすると、斎藤が言うように、「マルクスの近代批判が一八六五年における自然科学研究の間に深化した」ことは確かにありうる。
マルクスのノートについての丹念な研究にもとづいて、斎藤は一八六八年以降にマルクスのリービッヒへの傾倒に微妙な違いが生じたと論じている。それには二つの理由が考えられる。第一の理由は、マルクスがリービッヒの考え方の中にあるマルサス的傾向の発展に反対するしかなかったからであり、第二の理由は、マルクスが他の科学者、特に一定の気候条件や堆積条件のもとでは自然が植物に吸収された土壌中の栄養物を補填することができるという考え方を擁護したフラースの研究を発見したからである。
フラースにとっては、リービッヒは「自分の肥料理論を普及させるために、土壌劣化のリスクを誇張した」。それにくわえて、フラースはまた、農業が森林伐採をともなうがゆえに地域的な気候変動を引き起こし、それによって長期的に文明の衰退をもたらすという考え方を支持していた。そのような理論が、人間と自然との物質代謝を「合理的に管理する」ための条件についてのマルクスの思考を刺激したことは明らかだ。

「未完の政治経済批判」

 斎藤によって提起された「未完の政治経済批判」という概念は、とりわけエコロジーの分野において、マルクスの業績に対する評価についてだけではなく、エコ社会主義オルタナティブの発展を継続させる余地がある研究分野についての、マルクス主義者の間での議論に適切な枠組みを創り出している。
私は、「マルクスとエコロジー」というテーマに関する私自身の著作に対する斎藤の批判について、ここでは論じないでおく。斎藤によれば、「ダニエル・タヌーロは、マルクスの時代は技術や自然科学の点から見ると遠い過去なので、その理論は最近の環境問題の体系的な分析にはふさわしくないと主張し、その理由として特に、マルクスが他の再生可能エネルギーの形態と比較したときの化石燃料の特殊性に十分な注意を払っていなかったことを挙げている」。ここで批判されている見解は二〇年以上にわたる私の著述とは正反対のことなので、答える必要もないだろう。
私の意見では、「マルクスのエコロジー」と言われるようなものは実際に存在しているが、それは不完全なものであり、ときには矛盾したものである。もし、私が本書(『マルクスのエコ社会主義』)を高く評価しているとすれば(実際にそうなのだが)、それはまさに斎藤がこの不完全で矛盾した性格を、力強く、歴史的に、それゆえに弁明の余地なく説明しているからである。さらに斎藤は、マルクスの思想の発展におけるいわゆる「認識論的切断」というアルチュセール主義者の(私の意見では誤った)理論に陥ることなく説明している。
エコ社会主義者が、マルクスのエコロジーにおける不完全さと矛盾の程度について、さまざまな意見を持っていることは確かである。最終章「物質代謝理論としての資本論」の最後で、斎藤は「資本の本質的な矛盾」に数ページを割いている。私はこの文章の内容に一般的に合意するが、それは基本的には斎藤自身がマルクスのエコロジーを(再)構築したものになっている。私は、マルクスがひょっとしたら人生の最後にこのようなものを書いたかもしれないことは認める。しかし、彼は書かなかったし、その理由はおそらく彼が世界的な環境危機に直面していなかったからだろう。
斎藤によれば、マルクスは「自然資源の浪費については、労働力の恐るべき搾取について述べているほどには詳しく述べていなかった」。われわれに言えることはせいぜいそれくらいである。それゆえ、私の意見では、マルクスが「環境危機の問題を資本主義生産様式の中心的矛盾」だと分析しただろうと言うのは誇張であるし、非生産的でもある。
私には「マルクスのエコロジー」を未完のプロジェクトと考えるほうが好ましく思える。それゆえ、実践的な問題とは、「エコ社会主義者として、その業績を継続するために、われわれが何をするべきか?」ということである。優先されるべきことは明らかに、資本主義による物質代謝の亀裂という卓抜な概念を、マルクスが焦点を当てていた土壌劣化にではなく、エコロジー的不均衡に適用することである。私が知る限りでは、化石燃料を燃やすことによる地球システムにおける世界的なエネルギー不均衡の可能性は、マルクスの関心をとらえなかった。実際にはそうではなかったかもしれない。なぜなら一八五九年にはジョン・ティンダルが二酸化炭素や他の気体の放射力(温室効果)を発見していたからである。しかし、マルクスの科学に対する関心は、主に他の研究分野に向けられていた。(フラースが地球温暖化ではなく、森林伐採によって引き起こされる地域的な気候変動について述べていたことを付け加えよう。)

新たなエコ共産主義綱領の議論と共同の実践のために

 しかし、最も重要なエコ社会主義者の任務は明らかに、新たな研究分野を明確にして、新たな綱領的発展に勢いを与えることである。私の見解では、エコ社会主義的見地から見て、三つの分野がとりわけ有望である。
第一の分野は、自然の搾取、労働の搾取と家父長制社会による女性の抑圧との間にある深いつながりである。「全ての富の二つの源泉である自然と労働者」に関する(『資本論』における)マルクスの公式は、主に女性によって担われている再生産労働や女性労働者に特有の搾取について全く考慮されていない。この特有の搾取や抑圧は資本主義の柱を構成していて、一般的な自然の搾取や労働の搾取と同じくらい重要である。
第二の分野は、科学万能主義との不可欠な決別である。科学万能主義はマルクスに影響を(そして二〇世紀のマルクス主義者にはより大きな影響を)与えたがゆえに、これは重要な問題である。この影響の例として、私は、マルクスが特定の植物が大気中の炭素を土の中に固定することができるという見解を作り話だと考えていた事実を挙げたことがある。斎藤は、「この一点でマルクスを批判するのは早急すぎる」と答える。斎藤によれば、マルクスが作り話として拒絶したものは、このメカニズムの可能性ではなく、それが短期的な作物生育を促進するというラヴェルニの考え方だった。しかし、私の解釈を述べてみよう。私は、この引用の中で、マルクスが農民の迷信(そして先住諸民族の迷信)だと考えるものに対する侮蔑を表していることには、ほとんど疑いがないと思う。化学的な栄養素が土壌の肥沃さの主要な原因であるとするリービッヒの理論をマルクスが賞賛するとき、この科学万能主義の痕跡が見られる。農民がミミズや土壌動物相における他の有機体が果たす重要な役割―一八八一年にダーウィンによって確認された役割―を知っていたことは明らかだ。しかし、農民の知識はマルクスの関心を引かなかった(他方では、マルクスは熟練工の知識についてはよく知っていたのだが)。
第三の分野は、現代資本主義における農民の位置と役割である。マルクスは、農民が資本の発展によって消滅する運命にあると信じていたが、現実は違っていた。(マルクスによって定式化されたように)農業における生産期間と労働期間の間にギャップがあるために、資本は農業に直接投資することを選択せずに、上流(農業機械、種子など)と下流(加工、配送など)を間接的に支配するほうを選んだ。このプロセスがすすんだ結果として、農民の多く(土地なき農民のさらに多く)がブルジョアジーとプロレタリアートの間で揺れ動く中間階級として機能するのではなく、むしろ多国籍企業や金融資本と対立する層として機能している。これは、エコ社会主義的闘いにおいて、ビア・カンペシーナの行動に見られるように、農民がしばしば前衛的役割を果たしている理由である。このことの戦略的影響は、エコ社会主義者によって注意深く議論されるべきである。
『ドイツ・イデオロギー』の中で、マルクスとエンゲルスは、共産主義を「現在の状態を止揚する現実的な運動」であると定義した。二人は「この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」と付け加えた。斎藤幸平の諸著作は「マルクスのエコ社会主義」を「未完の政治経済批判」と定義し、その発展の一般的方向を強調しているがゆえに、新たなエコ共産主義綱領の詳細を議論し、共同で実践するために、エコ社会主義者に団結を呼びかける力強い招待状となっている。



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