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    かけはし2020年2月24日号

東アジアの平和と人権のために


沖縄報告 2月16日

戦争被害者の無念を刻む

沖縄 K・S


2.8-12

健堅「彦山丸」埋葬地で背骨3片収容

韓国・台湾・日本本土・沖縄の共同作業

 本部町健堅に埋葬されたと推定される「彦山丸」被撃事件の犠牲者一四人の遺骨を発掘する共同作業が、二月八〜一二日にかけた四泊五日の日程で、韓国、台湾、日本本土、沖縄の若者を中心に実施された。キャンプの参加者は約六〇人、昼間だけの参加者を含めると一〇〇人をこえる大きな運動となった。
 今回の共同発掘作業を地元沖縄で準備した「本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」は、昨年一一月から、ジャングルのような現場の三回にわたる草木の伐採と一回の試掘を行ってきた。現場は、当時の推定埋葬地の地表から二〜四メートルも数度にわたる埋め土でかさ上げされたため、発掘作業は、まず埋め土の除去から始まった。埋め土を除去していくと、古琉球石灰岩が波濤のように林立しているさまが浮かび上がってきた。
 一四の墓標の痕跡はどこにあるのか、一四人の遺骨はどこに埋まっているのか。発掘チームは懸命に掘り進めたが、墓標の痕跡やまとまった遺骨の埋葬地は発見することができなかった。昨年からの作業を通じて間違いなく埋葬地に接近していることを感じるが、まだ手が届かない。もどかしく、残念だ。発見できたのは一〇代とみられる同一人物の背骨三片。二月七日午後四時四〇分、最初の一片がひときわ高く突き出た岩の周辺で、韓国チームの現場責任者、アン・ギョンホさんの手によって収容された。そばには小さな枝サンゴ数個もあった。沖縄では、遺骨を供養する際、サンゴを共に埋める習慣があるという。おそらく誰かが遺骨を見付けて枝サンゴと共に置いたと想像される。
 海岸寄りの岩のクレバスには、焼かれた腕の骨の一部と思われるものが精密カメラで見つかった。海辺の砂浜で遺体を火葬し遺骨をバケツに入れて運んで岩と岩の間に埋めたのを見たという証言がある。埋められた遺骨が長い年月の風雨にさらされて露わになり、斜面の下方に向かって流れ落ちてきたという可能性もある。木材の火力如何によって腕の骨は焼けたが、体の中の背骨まで火が通らなかったとすれば、岩の周辺の背骨とクレバスの腕骨が同一人物ではないかという推定もあながち否定できない。
 収容された遺骨は二月一四日、摩文仁の戦没者遺骨収集情報センターに託された。このあと、沖縄県を通じて厚労省のDNA調査に回される。一四人の犠牲者の遺族の方々の中には遺骨の帰還を切実に待ち望んでいる人々がいる。一刻の猶予も許されない。遺骨を故郷へ、遺族のもとへ。共同発掘作業に集まった人々は、昼間は発掘とフィールドワーク、夕方は報告会と交流会、夜はさらに親密な親睦会を重ねて、共同作業の内実を深めていった。一一日朝には、静内アイヌ協会の六人が参加し、早朝「カムイノミ(神の祈り)」の儀式を多くの参加者と共に行った。
 一一日夕の全体総括集会の場では、韓国の遺骨発掘団長の朴善周(パク・ソンジュ)忠北大名誉教授の報告と沖縄側の考古学専門家・安里進さんの発言、遺骨を故郷に帰す会の沖本富貴子さんのまとめのスピーチに続いて、参加各団体が発言した。韓国「平和の踏み石」のパク・ジンスクさん、北海道「東アジア市民ネットワーク」の殿平善彦さん、台湾チームのあいさつと「台湾独立」のパフォーマンス、「在日朝鮮留学生同盟」、静内アイヌ協会の葛野次雄会長が発言した。文字通り、国境と民族を越えた東アジアの人々の交流と連帯の場となった。
 会場となった健堅公民館には、日本語、韓国語、中国語が飛び交ったが、全く違和感がない。2チャンネルの通訳機は、韓国チームのスタッフ、沖縄に住む朝鮮をルーツに持つ在日の人々、日本の大学に留学中の台湾の若者が主に担った。
 また、バスを仕立てて連日実施されたフィールドワークは、沖縄側スタッフが綿密な計画を立て、健堅のガマをはじめ北部の戦跡、辺野古ゲート前の現場、伊江島の戦争と基地の現場の三コースで行われ、好評を博した。
 こうして、「彦山丸」犠牲者の遺骨共同発掘作業は、東アジアの人々の国境を越えた協働、平和と人権を共通の価値観とした連帯の貴重な一歩をしるして終了した。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(6)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録には、そうした証言が数多く掲載されている。以下はその一部である(敬称略)。なお、明らかな誤字は改めた。

『糸満市史』資料編7
「戦時資料 下巻」
  ―戦災記録・体験談―

 「昭和一七年(一九四二年)に糸満で徴兵検査を受けた。なるべくなら兵役を免れたいという気持ちもあったが、結果は甲種合格。同年の一二月に熊本の第24連隊第1中隊に入隊し、輜重隊になった。熊本を一二月二四日に出て、下関から船に乗り、朝鮮釜山に上陸。翌年一月一〇日に南京に到着した。その後、三カ月ぐらいの訓練を受けた。輜重隊だから訓練は乗馬が中心だった。
輜重隊はそれぞれ一頭ずつ自分の馬を持っていた。朝起きたら馬小屋に行って、自分の馬の手入れをした。馬の扱い方が悪いと「あんた方が死んでも一銭五厘の切手を貼った赤紙出せば、いくらでも補充はできる。でも馬はそうはいかない。馬は宝だよ」と散々怒鳴られた。乗馬の訓練は裸馬でやった。初めてのことだから、何度も馬から落ちたが、その度に上官がすっとんで来て「命令もしないのに、何で馬から下りるのか」と鞭で打たれた。
訓練も大変だったけど、それ以上に先輩との関係でも苦労した。年は同じでも、一回でも多く軍隊で飯を食べた人が先輩で、何でも先輩の言うことを聞かなければならなかった。靴の手入れや洗濯はもちろん、先輩が「うぐいすの真似をしなさい」と言えばその通りにした。なんでこんなに先輩にペコペコしないといけないかと思うほどだった。あんまり軍隊での生活がきつくて、銃で自殺した人もいた。……
行軍の時には、中国人が仕掛けた地雷も怖かった。地雷探知機で調べてから、部隊は前進するのだが、それでも輜重隊の先輩が進軍中に地雷を踏み即死したこともあった。この人は私の二、三番前から馬を引きながら歩いていた。死ぬも生きるも運次第だと思った。
日本軍が村の近くまでやってくる前に、村人たちは山の中に逃げて行っていた。それで日本兵たちは下士官も一緒になって、留守の中国人の家から、米や家畜を取ってきたりしていた。
日本人は本当に悪かった。年寄りを見付けて、わざと階段から転げさせ面白がったりしているのを見たこともあった。また掘った穴の前に一〇人ぐらいの中国人捕虜を並ばせ、銃剣で後ろから突いて、穴に落とすようなことも、上官が部下に命じてさせていた。向こうの人は本当に気の毒だった。中国人が日本人を恨むのも当然のことと思う。
また部隊には、荷物持ちや労務をさせるために、あちこちの村々から引ったててきた中国人もいた。その中国人たちにちゃんとした食事はあげないで、兵隊たちが食べ残した残飯を食べさせていた。日本軍は本当に精神が悪いなあ、食べ物ぐらいちゃんと上げればいいのにと思っても、上官が恐ろしくて誰もそんなことは口にしなかった。……
日本が降伏したという話を聞いた時には、がっくりきた。でも、今考えると、敗けるとわかっていた戦争だから、天皇陛下はもっと早いうちに降伏すれば良かったのにと思う。そうしていれば、沖縄はこんなにたくさんの犠牲者を出すこともなかっただろうにと思う」(澤岻善之進「輜重兵の中国での体験」)
「昭和一四年(一九三九)、満二一歳の時に徴兵検査があり第一乙種合格だった。しばらくして赤紙(召集令状)が届いたので福岡に行ったが、そこでも検査があって、体調をくずしていた私は一年間待機ということで沖縄に戻された。……
昭和一六年(一九四一)六月、私たち第十六部隊は中支の第六師団歩兵第十三連隊第三大隊第三中隊に配属されたので、船で上海に渡り、そこから汽車で南京、武漢三鎮を越えて第六師団の本部のある岳州に向かった。最初の一カ月間は訓練と軍隊教育、それから警備についた。部隊の近くには慰安所もあって、そこには日本人、中国人、朝鮮人の慰安婦たちがいた。
八月二〇日から第一次長沙作戦に参加した。実際の戦闘である。第十三連隊には歩兵部隊と機関銃部隊、そして野砲部隊と輜重部隊で構成されている大隊が三大隊あり、大隊ごとに前進した。敵を発見したら、まず後方に待機している野砲部隊が敵陣地を砲撃し、それから歩兵部隊と機関銃部隊が突撃するという戦法だった。私たち歩兵部隊はいつも先頭で闘う前線部隊であるが、大隊には四つの歩兵中隊があって毎日交替で戦闘につき、残り三つの歩兵中隊は、後方の陣地に下がってのんびりと休んでいた。敵陣地が大きいときは二つの歩兵中隊が戦闘に出た。前線では敵の弾も雨のように飛んでくるが、戦況は日本軍の勝利でいつも前進、前進であった。……
陣地で警備中、近くの村に食糧調達に出かけた上等兵と一等兵四、五人が戻ってこないので、翌日小隊を出して村に捜しに行った。村人が黙って何も言わないので、隊長が『日本兵が見つからなかったら村人を殺すぞ』と脅すと話し始めた。上等兵たちは待ち伏せしていた支那兵に殺され、真っ黒く焼かれていた。死体は半焼き状態だったので膨れていて、誰なのか判明できないほどだった。死体を陣地まで運び、屍衛兵といって死体の見張りを一時間交替でした。…
翌年昭和一七年(一九四二)二月一日からは浙?作戦に参加した。この戦闘は七カ月間も続いた。
中支から南支まで食糧の入った五〇斤もある背嚢を背負い、弾薬と銃を持って一日平均七、八里ほど行進する。作戦参謀がその日はどこまで進むと決めてあるので、その目的地に着くまで歩かないといけない、夜中だろうが歩き通した。朝は朝で早く出発するから睡眠不足になり、疲れがたまっていた。食糧は現地調達した。住民は避難して村には誰もいなかったので、そこから牛や豚を引っ張ってきて潰して食べた。
私たち三小隊の小隊長が戦死し、許田軍曹がその後任についた。私はその面倒をみる当番だったが、その時支那人の男に荷物持ちをさせた。私は彼をアン苦力と呼んで、家族のように面倒をみていた。ある日彼の姿が見えなくなったので捜し回ったら、村の家の中で首をつって死んでいた。日本軍の手伝いをさせられるのが苦痛だったのか、理由はわからなかった。日本兵の中には、遠くから歩いている支那人を銃で撃ち殺すのもいた。かわいそうに思ったが、戦争だから仕方ないという気持ちだった」(西平英雄「支那から南方の戦場へ」)

2.16

軟弱地盤隠し通せない!

辺野古新基地建設断念を

「埋めるな連」が新宿で宣伝とデモ

 二月一六日午後一時から、新宿駅三カ所で、辺野古に米軍基地建設反対のための宣伝活動を行い、午後二時から新宿駅東口アルタ前で集会。
 埋めるな連首都圏が「国は三月にも埋め立ての設計変更申請を行う予定だと読売新聞が報じた。これを阻止するために、二月一六日から二五日まで首都圏で集中した宣伝など諸行動を行う、今日がその第一段だ」と述べ、「大浦湾の軟弱地盤のデータは取っていないと政府は言ってきたが、昨年三月国会に出した報告書に英語で出していたので誰も気づかなかったがあったのだ。辺野古工事を独自に検証している専門家チームが、このデータを基に護岸の安定性を試算したところ、国の要求水準を満たさないことが分かった。最悪の場合、埋め立てた盛り土が崩れ、護岸が崩壊する恐れがあるという。チームは『安全な施工は保証できない。今からでも地盤を再調査すべきだ』と指摘した(東京新聞、2月16日)。ゼネコンの利権・大儲けのための埋め立てをやめさせよう」と訴えた。

追いつめられて
いるのは政府だ
続いて、沖縄からヘリ基地反対協の安次富浩さんが電話でアピールした。
「安倍政権は桜を見る会支出問題、公文書の改ざんなどとってもひどい政治をやっている。辺野古埋め立てでは、埋め立て予算は三四〇〇億円と言ってきたが九〇〇〇億円に、五年の工期を一〇年に変更せざるを得なかった。これは闘いによって追い込んだ。玉城知事はサンゴの移植を拒否し、埋め立て承認取り消しの裁判を起こし、基地建設を止めるために、真っ向から政府に挑んでいる」。
「首里城炎上、ブタ熱、新コロナウィルスの沖縄での感染と厳しい局面にあるが知事を支持し運動を展開していく。連日、辺野古での座り込み、海での闘いを続けている。マヨネーズ状の軟弱地盤のデーターが隠されていたことが判明した。こんな連中に沖縄の将来を委ねていいのか。中東に軍艦を派遣したり、ヘリ空母を持とうとしている。軍事大国化のためにカネを使うのではなく、原発被災地・災害被災地のためにカネを使え」。
「宮古・石垣・八重山・奄美への自衛隊基地建設を許してはならない。ふたたび沖縄を戦場にしてはならない。普天間基地の即時撤去、オスプレイ配備撤回が必要だ。大きな県民大会を予定している。安倍政権打倒に向けて粘り強く未来に向けてがんばろう」。
沖縄の抗議船の船長が「今年になって、埋め立て状況が変わってきている。昨年一年で埋め立ては一%しか進んでいないと発表されているが、安房・塩川での動きが激しくなっている。ここにきて埋め立てが二%を超えたのではないか。それはカヌーで週三回一〜二時間止めているが、運搬作業は真っ暗になっても行われ、土曜日も返上している。運搬船も二〇〇〇トンから四〇〇〇トンになり、運搬量も倍になっている。危機感をもって、抗議を強めよう」と訴えた。
ストップ辺野古埋め立てキャンペーンが埋め立て予定企業への抗議行動、国会包囲実行委が三月六日、日本教育会館での首都圏集会、埋めるな連がこの一週間の首都圏での宣伝活動の報告を行った。
この後、午後三時から埋め立てを行っているゼネコンの大成建設への抗議を含めて、新宿駅一周のデモを一六〇人が行った。 (M)


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