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    かけはし2020年2月24日号

破局を避ける道は革命的方策以外にない!


エコソーシャリズム

差し迫った環境的破局に関する13のテーゼ

未来のための構想だが同時に
今直面する闘争の戦略として

ミシェル・レヴィ


人類史上前例のない破局の危険


1.環境的危機はすでに二一世紀の最も重大な社会的かつ政治的な問題になっている。そしてこれからの年月にはさらにと言えるほどそうなるだろう。この衛星の、こうして人類の未来は、今後の数十年で決められるだろう。二一〇〇年に向けたシナリオに関する一定の科学者による計算は、以下の二つの理由からそれほど有益なわけではない。
 すなわち
(a)科学的理由。
 計算不可能なあらゆる遡及的作用を考慮した場合、一世紀にわたる予想を行うことは極めて危険である。
(b)政治的理由。
 世紀末には、われわれ、われわれの子ども、さらに孫たちのすべてはいなくなっているだろう。そうであれば気づかうのは誰だろうか?

2.IPCCが説明するように、平均気温が前産業革命期を一・五度C超えれば、不可逆的な気候変動プロセスを始動させる危険がある。環境的危機には危険な結末を伴ういくつかの側面が含まれている。しかし気候問題は疑いなくもっとも劇的な脅威だ。この結末はどうなるのだろうか?
ほんの二、三の例を挙げれば、オーストラリアのような大火災の増加、河川の消失と農地地域の砂漠化、極地の氷の融解と崩壊、数十メートルに達する可能性もある海面上昇がある。それでも二メートルだけで、バングラデシュ、インド、タイの広大な地域は、人間の文明の一部をなす大都市――香港、カルカッタ、ベニス、アムステルダム、上海、ロンドン、ニューヨーク、リオ――同様海面下に消えることになる。気温はどれだけ高くなる可能性があるのだろうか? この地球上での人間の暮らしが脅かされるのは何度になるのだろうか? これらの問題に解答をもつ者は皆無だ。

3.これらは人類史上前例のない破局の危険だ。気候変動を原因として未来の現実になり得るものに似た気候条件を見出すためには、人は、数百万年前の鮮新世にまで戻らなければならないと思われる。ほとんどの地質学者は、われわれは新たな地質学的時代、人新世に入り込んでいる、と考えている。これは、地球上の諸条件が人間の行為によって変えられた、という時代だ。それはどのような行為だろうか? 気候変動は一八世紀の産業革命で始まった。しかし、それが質的飛躍の性格を帯びたのは、一九四五年後、新自由主義的グローバリゼーションによってだ。換言すれば、現代資本主義の産業的文明化が、大気中の二酸化炭素蓄積に、こうして地球温暖化に責任がある。

資本主義システムの責任は明白

4.差し迫った破局における資本主義システムの責任は広く認められている。教皇フランシスは彼の回状である「ラウダート・シ」の中で、「資本主義」という言葉を発することなく、「われわれの共通の家、自然」の破壊と社会的不公正双方に責任があるものとして、もっぱら「利潤最大化原理」を基礎とした商業と財産の関係からなる構造的に正道を外したシステムに反対して、遠慮無く話した。環境の諸々のデモにおいて世界中で普遍的に唱和されている一つのスローガンは、「気候ではなくシステムを変えろ」だ。
このシステムの主な代表者たち、「いつも通りのビジネス」の主唱者たち――億万長者、銀行家、「専門家」、寡頭支配層、政治家――が示す姿勢は、ルイ一五世に帰せられている章句、「わが亡き後に洪水は来たれ」によってまとめることができる。

5.問題の体系的性格は政府のふるまいによって冷酷に示されている。すべてが(極めてまれな例外があるとしても)、資本蓄積、多国籍企業、化石燃料寡頭支配者、全般的商品化と自由貿易の役に立つように行動中だ。その何人か――ドナルド・トランプ、ジャイル・ボルソナロ、スコット・モリソン(オーストラリア)――は、公然とした環境破壊者であり、気候変動否認派だ。他の者、「合理的な者」は例年のCOP会合で基調を定め、それは曖昧な「グリーン」のレトリックと全面的な惰性を特色としている。
そのもっとも成功した例はパリでのCOP21だ。それは、全政府からの排出削減に参加するとの荘厳な約束で閉幕した――例外的な二、三の太平洋諸島によって引きとどめられることなく――。それらの約束がたとえ守られたとしても、気温はなお三・三度Cにまで、もっと高くまで……上昇するだろう、科学者たちはこう計算している。

6.「グリーン資本主義」、「炭素市場」、「相殺メカニズム」といわゆる「持続可能な市場経済」に関する他の操作、これらは完全に役立たずであることが明らかになった。他方で、極端な「だましを行いつつ」、排出は急上昇中であり、破局は刻一刻と近づいている。
資本主義の枠内では、生産力主義、消費主義、「市場占有」を求める残忍な闘争、資本蓄積と利潤最大化、これらに全面的に委ねられたシステムの枠内では、環境危機への解決策はまったくない。その本質的に非道な論理は不可避的に、環境的な均衡の崩壊とエコシステムの破壊に導く。

生産力それ自身の転換に向けて


7.破局を避けることができる唯一の有効なオルタナティブは、急進的なオルタナティブだ。「急進的」が意味するところは、悪の根源に対する攻撃だ。根源にあるものが資本主義だとすれば、われわれが必要とするのは反システムのオルタナティブ、すなわち反資本主義のそれであり、その例が、二一世紀の挑戦課題に耐えることができるエコソーシャリズム、エコロジカルな社会主義だ。
エコフェミニズム、社会的エコロジー(マレイ・ブクチン〈米国の社会理論家〉)、アンドレ・ゴルツ(オーストリア、フランスの社会哲学者)の政治的エコロジー、あるいは脱成長のような他の急進的オルタナティブは、エコソーシャリズムと共有するものを多くもっている。近年その相互影響関係は発展を見た。

8.社会主義とは何だろうか? 多くのマルクス主義者にとってそれは、生産力の自由な発展を可能にする、生産関係の転換――生産手段の集団的収用による――だ。エコソーシャリズムは、マルクスに依拠していると主張するものの、この生産力主義モデルとははっきりと決別する。もちろん集団的収用は不可欠だ。しかし生産力それ自身もまた転換されなければならない。すなわち(a)そのエネルギー資源の変更(化石燃料に代えて再生可能なものに)によって、(b)世界のエネルギー消費の削減によって、(c)商品生産の削減(「脱成長」)によって、また無益な活動(広告)と有害な商品(殺虫剤、戦争の兵器類)の除去によって、(d)計画的な旧式化に終止符を打つことによって、だ。
エコソーシャリズムはまた、消費モデル、交通形態、都市化と「暮らし方」の転換をも巻き込む。すなわち、それは財産形態の変更をはるかに超えている。それは、連帯の価値、平等、そして自然に対する尊重を基礎に置いた文明的変更なのだ。エコソーシャリズムの文明化は、より短い労働時間、こうして社会活動、政治活動、娯楽活動、芸術活動、性愛その他の活動に捧げられるもっと多くの自由時間の方を選ぶこととして、生産力主義と消費主義から決別する。マルクスは、「自由の王国」という用語によってこの目標に言及した。

民衆諸階級の民主的意志への賭け

9.エコソーシャリズムに向けた移行の達成は、二つの基準、つまり現実にある必要を満たすこと、および地球の環境的均衡に対する尊重、に導かれた民主的計画化を必要とする。民衆は、広告の猛襲と資本主義市場により生み出されている消費の強迫観念が一旦取り除かれるならば、彼らの本当の必要が何であるかを民主的に自ら決めるだろう。エコソーシャリズムは、民衆諸階級の民主的合理性に対する一つの賭だ。

10.これは真の社会革命を必要とする。そのような革命はどう定義され得るだろうか? エコソーシャリズムの構想をやり遂げるためには部分的改良では十分ではないだろう。
われわれは、ヴァルター・ベンヤミン(ドイツの哲学者)が彼のテーゼ、「歴史の概念について」(一九四〇年)の余白に書きつけたものに言及してよいと思われる。それは、「革命は世界史の機関車である、とマルクスは語った。しかしものごとは別のやり方でもうまくいくかもしれない。列車で旅する人間が非常ブレーキを作動させるという行為が革命である、ということもあり得る」というものだ。
二一世紀の条件での翻訳は次のようになる。つまり、われわれすべては、現代の産業資本主義文明と名付けられた自殺列車に乗っている旅客だ。この列車は破局的な深い淵、気候変動に向け猛烈な速度で驀進中だ。それを止める――遅すぎないうちに――ことを目的にするのは革命的行為だ。

11.エコソーシャリズムは未来のための構想であると同時に、今ここにある闘争に向けた一つの戦略だ。「機が熟す条件」を待つことに可能性はまったくない。社会的闘争と環境の闘争間に収斂を巻き起こし、資本に奉仕する権力によるもっとも破壊的なイニシアチブと闘うことが必要だ。これを、ナオミ・クラインはブロッカディアと名付けた。
このタイプの決起の枠組み内部で、反資本主義意識とエコソーシャリズムに対する関心は闘争の中で現れる可能性がある。グリーン・ニューディールのような諸提案は、化石燃料の実質的な放棄を必要とするそれらのもっとも急進的な形態――「グリーン資本主義」の再利用に限定されたものではない形での――において先の闘争の一部になる。

12.この闘争の主体は誰か? 前世紀の労働者主義的/工業主義的教条はもはや通用しない。衝突の最前線に今いる勢力は、若者、女性、先住民衆、農民だ。女性は、グレタ・トゥンベリの呼びかけによって始められた恐るべき若者の反乱――未来に対する希望の大きな源の一つ――の中にまさに存在している。エコフェミニズムがわれわれに説明するように、諸々の決起に対するこの巨大な女性の参加は、彼女たちが環境に対するシステムが加える打撃による第一の犠牲者、という事実から来ている。
諸労組もまたそこここで関わり始めつつある。これは重要だ。なぜならば、最終的分析においてわれわれは、都市と田舎での労働者の活発な参加がなければ、システムの克服が不可能だからだ。彼らは住民の多数を構成しているのだ。その最初の条件は、各々の運動の中で環境的目標(炭鉱や油田、あるいは火力発電所、その他の閉鎖)を関係労働者の雇用保障と関連づけることだ。

13.われわれには、遅すぎないうちにこの闘いに勝利するチャンスがあるのだろうか? 破局は不可避であり、どんな抵抗も無駄だと騒々しく主張するいわゆる「崩壊主義者」とは異なり、われわれは、未来は決まっていないと考える。この未来がエコソーシャリズムになる保証はまったくない。つまりこれは、パスカル的な意味で一つの賭を含んだ構想なのだ。そしてその中にわれわれは、「不確実なものを求める労苦」としてわれわれのもてるすべての力を注ぎ込む。しかし、ベルトルト・ブレヒトが偉大で単純な叡智に基づいて語ったように、「闘う者は負けるかもしれない。しかし闘わない者ははじめから負けているのだ」。(「インターナショナルビューポイント」二〇二〇年二月号)

ドイツ

テューリンゲンの反逆

意外ではまったくない

断固とした反撃を

アンゲラ・クライン

 トーマス・ケメリッヒは、エアフルトの州議会でテューリンゲン首相としての彼の選出を受け容れたとき、彼が何を行ったかを分かっていた。彼はその結果に驚きはせず、それはむしろ彼の政治的思惑の一部だった。つまり、AfD(ドイツのための選択肢、現在はほぼ極右政党の性格に純化している)の助けを得て首相になり、次いでいわゆる政治的中道の少数政権を形成する、ということだ。
 この常軌を逸した戦略は、AfDが大目に見る場合にのみうまくいく可能性があったと思われる。そしてそのような政権は、AfDが永続的に引き締めるその諸要求によって進むよう圧力を受けることになっただろう。CDU(キリスト教民主同盟、現連邦政府与党)とFDP(自由民主党、連邦議会では野党)というブルジョア政党が形成する少数政権は、そのようなシナリオにとって理想的な配列になったと思われる。

ブルジョアジーが抱える大難問


 一つのタブーとの決裂になっているものがこの思惑だ。アンゲラ・メルケルが強調していたように、したがって彼女が先のできごとを「許し難い」と呼んだように、三回目の投票は予想できたことなのだ。
 FDP指導者のリントナーがそれを思いがけないことと後になって描くもくろみすべては、むしろ、FDP指導部には彼らの思惑の中にAfDを含める準備が基本的にできている、という疑いを確証する可能性を高めているにすぎない。実際先頃の世論調査によれば、FDP支持者の六二%は、政党はAfDとの協力について個々のケース毎に決めてよい、と考えているのだ。こうして彼らは原理的に、あらゆる協力を排除していない――今までのところのCDUとは異なり――。
 一方CDUは、AfDの諸部分はCDUをまさに両親とする生き物だという根本矛盾に、そしてCDUはその支持者を急速に減らしているという観点から、権力に留まるためには極右を必要としている、という基本的な矛盾にぶち当たっている。
 他方でCDUは、世界的大国としての役割を演じるドイツを強く求めている。しかしこれは、彼らがAfDから支援されるならばあり得ないのだ。他の諸国における保守派とは異なり、過去第二次世界大戦で対ドイツで連携した諸国やEU――それなしにはドイツはほんの政治的小物にすぎない――はドイツに、世界的大国の野望と極右過激派との組み合わせ、を許していないからだ。
 ドイツブルジョアジーに長く続いている歴史的苦境は、テューリンゲンでの投票翌日の、国際アウシュビッツ委員会が強い言葉で発した抗議によって激烈に象徴されている。つまり同委員会はテューリンゲン州議会の民主派を名乗る諸政党を、政治的無定見と日和見主義として告発したのだ。
 同委員会にしたがえば、彼らは極右との対決の点で全面的に破綻した。同委員会副代表のホイブナーは「FDP全国指導者のリントナーがケメリッヒの戦術的な考えを知っていたのであれば、彼は自由党の代表から降りるべきだ。もしリントナーがその考えに加わっていなかったら、党に害を与えたふるまいを理由に、彼はケメリッヒを党から除名しなければならない」と主張している。

「全体主義」歪曲こそ問題の根源


 CDUは同委員会の抗議を無視することはできない。したがってCDUの全国指導部は、AfDとのあらゆる協力に対する原理的な拒絶を確認することになった。しかし彼らは、AfDのスローガンを一層採用することを通して、このジレンマから抜け出そうと試みるだろう。彼らは、極右が政治的抑圧によって大きく妨げられることなく行動できる一方で、警察、秘密諸機関、さらに司法システムの諸部分が左翼の抗議活動を犯罪視している状況、に対する容認をこれからも続けるだろう。彼らはそれによって、AfDを一層強くし、より受け入れやすいものにするだろう。ともかく現場レベルでは、問題のタブーは着実に壊されているのだ。
 FDPとCDU内極右潮流のヴェルテウニオンは彼らの正当化論として、いわゆる蹄鉄論を押し出している。すなわち彼らは、左翼と右翼両者の過激派が成功しないように防止することが彼らが想定した目的だった、と語っている。
 この「全体主義」というイデオロギーは、人権、および市民的かつ社会的諸権利の擁護者と、それらを消し去りたい者たちの間に等号を引くものだが、実はそれが、ドイツ連邦共和国の政治的構築の根源にあるのだ。それこそ問題の一部であり、それは極右に道を清めているにすぎない。そしてそれは、テューリンゲンにおけるこのところのできごとによってはっきりと見せつけられている。
 これはもう終わらなければならない! テューリンゲンの人々が行ったタブー破りは、われわれがわれわれの社会内にある原理的な総意に関し新しい論争の機会にできるならば、もしかしたら建設的な側面を見せるかもしれない。その時この総意は、曖昧さを残さずに反ファシズムと環境的持続可能性に基礎を置かなければならない。
 テューリンゲンの反逆は、全国規模の、また国際的な自然発生的抗議の波によって失敗に終わった。この種の用心を絶やさないようにしよう!(二〇二〇年二月七日)

▼筆者は、第四インターナショナルドイツ支部のISOのメンバー。同組織は、以前の二つの公式支部、国際主義社会主義左翼(ISL)および革命的社会主義者同盟(RSB)の合流により二〇一六年に形成された。彼女は月刊誌『ソツイアリスティッシェ・ツァイトゥング』(SoZ)の編集者であると共に、ドイツ内の欧州行進ネットワークでも活動している。  



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