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    かけはし2020年3月9日号

命を粗末に扱う政権は立ち去れ


沖縄報告 3月1日

辺野古埋め立てとコロナウィルス

沖縄 K・S

辺野古・大浦湾の無謀な
埋め立て計画を中止せよ!

安倍のパフォーマンス


 新型コロナウィルスの感染が広がっている。国家権力を掌握する政治家にとっては、災害の混乱は支持を広げる絶好の機会だと受け止められる。安倍首相による唐突な「小中高校の一斉休校」要請がまさしくそうだ。動機が不純だ。学校は比較的安全な場所だった。全国一千万人の小中高生が学ぶ学校から新型コロナウィルスの感染は広がっていない。学校には保健師・看護師もいて応急の対応も可能だ。休校によって子供たちはむしろ、安全な学校から排除され、感染の危険がより多い社会へ放り出されることになる。
 安倍首相には子供たちの健康や安全など眼中にない。二月二九日夕に行われた記者会見の芝居じみた演説。「子供の健康と安全が一番」と言うのも口先だけ。感染予防には的外れの全国一斉休校の要請を行って、一国のリーダーシップを誇示したいだけだ。しばらくすれば、あちこちから問題が噴き出し政府の無責任さが浮き彫りになるに違いない。

遅れた日本、進んだ台湾・韓国

 台湾や韓国を見習うべきだ。いち早く感染防止の諸対策を実施し新型コロナウィルスを抑え込んだ台湾、一日一万件以上の検査体制を確立し感染防止に努力する韓国。日本はまず検査さえも出来ていない。公表される感染者や死亡者が韓国より少ないということは感染が広がっていないことを全く意味しない。把握できていないだけなのである。韓国並みの検査体制ができれば、感染者数はうなぎ上りに増えることが予想される。
台湾や韓国の政権は、軍事独裁政権に対する長く厳しい闘いを経てつくられた、より民主主義を体現する政府だ。日本の政権は違う。民主主義の憲法や法律はあっても、内実は国民主権とは程遠い、民主主義を空洞化している政権だ。台湾や韓国に追いつくためには日本に民主主義革命が必要だと思う。

沖縄に民主主義を!

 辺野古新基地建設の問題解決に求められるものもまさに民主主義である。何年にも渡って県知事が反対し中止を求めているにもかかわらず、県議会が何度も反対決議をあげ続けているにも関わらず、衆参両院議員選挙で反対派が当選し続けているにもかかわらず、県民投票という法律に則った手続きを経て県民が明確に「埋立反対」の意思を示したにもかかわらず、中央政府により辺野古新基地のための埋め立てが強行される現状は何なのか。
沖縄に民主主義を保障しない政権は日本本土でも民主主義的であり得ない。「外交・国防は国の専権事項」という欺瞞はもう通用しない。国民の生活や人権は、政治家のここちよい言葉の数々とは裏腹に、真綿で首を絞められるように静かにゆっくりと無きものとされていく。沖縄に民主主義を! 声を上げよう。沖縄に民主主義をもたらす闘いが日本本土にも人権と民主主義をもたらす。

森を壊し海を殺す
理不尽な土砂投入

 安倍政権による埋め立て工事は破綻に向かって一直線に進んでいる。一%のトラウマからの脱出を図るため、沖縄防衛局は赤土土砂の投入を加速させている。土砂を搬出する琉球セメントの安和桟橋と本部塩川港からは毎日合わせてダンプ一千台分の土砂が辺野古へ運ばれている。沖縄の森を壊し海を殺す。自分で自分の首を絞めるような理不尽はやめよう。埋め立て総量二一〇〇万?、一〇トンダンプ約三〇〇万台から見れば、埋め立てはまだ途に就いたばかりだ。
農水相が再び県に対しサンゴ移植許可促進の要請を出した。国交相は防衛相の要請を受けて埋め立て承認撤回を不法に取り消し、裁判中だ。破綻した埋め立て計画をさらに工期も予算も大幅に拡張した変更申請を三月中にも沖縄県に提出するといわれている。もちろん玉城デニー知事は承認しない。すると、政府はまた裁判所を動員して沖縄の県民ぐるみの民意をつぶしにかかってくるだろう。負けられない。国家権力を私物化し行政をもてあそぶ政治家たちに決して負けられない。

辺野古県民投票一周年


二月二四日の辺野古県民投票一周年にあたり、玉城知事は「辺野古に新基地を造らせない。県民投票で示された民意の実現のために全身全霊で取り組む」との談話を発表した。元山仁士郎さんたちはシンポジウムを開き、意見を交わした。琉球新報の新垣政治部長は「主権者たる国民が沖縄に基地を押し付ける政権を選んでいる。沖縄に対する不正の責任は国民一人ひとりにある」と述べた。また、県民投票連絡会の共同代表、金秀グループの呉屋守将さんは「正面突破しかない。何度も何度も民意を示し続ける。それが日本全体を変える突破口になる」とインタビューで語った。確信を持って闘い続けよう。

2.26

琉球セメント安和桟橋
出口ゲートと入口ゲートで抗議を継続


土砂搬出港となっている安和桟橋と塩川港では、本部島ぐるみを軸に毎日抗議行動を続けている。この日も、島ぐるみ南部や普天間爆音のメンバーが朝から出口ゲートと入口ゲートでノボリとプラカードを掲げて抗議の意思を示し続けた。
一週間の連続行動を呼びかけた「あつまれ辺野古」の参加者たちも全県全国から駆けつけ、安和桟橋ゲート前、塩川港、ゴーゴードライブに奮闘した。桟橋附近ではカヌーチームが海保の拘束にめげず、土砂運搬船を止める海上行動を展開した。入口ゲートも五〇人以上が陣取り活気ある行動をやり抜いた。
午前中の総括集会で、マイク指揮の山城博治さんに続き、北上田毅さんは現在の局面について要旨次のように発言した。
「昨日信州から帰ってきた。九州・中四国からの土砂調達先がほぼ県内とされた最大の理由は利権だ。一?あたり五三七〇円というべらぼうな高値は、三年前の岩ズリ価格の三倍、JIS規格のグリ石価格の二倍だ。ぼろ儲け。沖縄防衛局が一三社に見積依頼して一二社が辞退、一社のみ回答の価格を丸呑みしたもので、その一社とは琉球セメントだ。
政府が隠そうとした九〇mの軟弱地盤が明るみにでた。一万ページに及ぶ防衛局の提出資料の中に英文資料が添付されていた。訳して読むと、B27地点で、七〇m以下の力学試験のデータだった。はじめ政府は試験をしていないしデータはないといっていた。ウソがばれると今度は、この数字には何の意味もないといい始めた。インペイとゴマカシ。新潟大の立石さんたち専門家チームは技術検討委員会に公開質問状を出す予定だ。設計変更を出せる段階ではない、きちんと調査をやり直せ、ということを政府に強く要求していく」。

2.15

名護で学習会
「ヨコスカ平和船団」の
新倉さんが講演

 二月一五日、「自治体の港湾管理権と日米地位協定」に関する学習会が名護市労働福祉センターで開かれた。講師は「ヨコスカ平和船団」の新倉裕史さん。横須賀で三〇年以上にわたって地道に続けてきた運動の中で得た経験を語った。
昨年三月、横田基地、厚木基地を回ったあと横須賀に行き、新倉さんと平さんに「ヨコスカ平和船団」の抗議船「コスモ」で米軍艦、自衛艦が停泊する港内を案内していただいた。自衛艦まで約一〇m。甲板上の隊員の表情までよく見える。港内で潜水訓練をしている場面にも遭遇した。米原子力空母「ロナルド・レーガン」もかなり近くで見ることができた。驚きだった。市民には市が管理する港を航行する権利があると、船上で落ち着いた口調で話した新倉さんの姿が印象的だった。
講演はスライドを使って進められた。一九九四年の朝鮮半島危機を語るペリー元国防長官、一九九六年の日米安保共同宣言、新ガイドライン、周辺事態法制定と続いた日本の「後方支援体制」の確立、カギは自治体及び民間の活用でその第一は港湾の使用だと述べ、それ以後の小樽港、横浜港、富山新港、青森空港、新潟港などでの具体例を紹介しながら、地方自治体は国の軍事協力を拒む権利があると語った。そして、「港湾法は民主化への画期的変革」であり、「地位協定5条にも有事法制にも米艦船の民間港入港の強制力がない」と述べた。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(7)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


これまで、西原町、宜野座村、北谷町、東風平町、嘉手納町、糸満市を取り上げたが、今回と次回は北中城村の証言を二回に分けて見る。
『沖縄県史』各論編第6巻「沖縄戦」(二〇一七年発行)「日中全面戦争開戦と沖縄出身兵」によると、
「戦地に投入された沖縄出身兵数は、軍事扶助法による生活等の扶助を受けた戸数が目安となる。それによれば、一九三七年(開戦後)二一九八戸、一九三八年が大幅に増えて五四三三戸、一九三九年六八一二戸、一九四〇年六五三二戸、一九四一年五八二一戸と推移する。この数字が、その時点で戦地に投入されていた兵員の最低限を示していよう。一九三九年まで一挙に増え、その後は横ばいとなるがアジア太平洋戦争の開戦により一九四二年の生活扶助戸数は一万三一四四戸に倍増した。沖縄出身兵の現役者は一九三〇年代の「平時」では年間一五〇〇人程度であり、主として二年間の在営として現役数を二千数百人程度とすると、日中戦争期でも少なくとも同数以上の応召者があったものと思われる。
日中戦争開戦後、アジア太平洋戦争開戦初期の一九四二年三月までの戦没者数は一六二二人、傷痍軍人数(除隊者)は七三〇人、また、同時期の召集解除による生業援護者は一九二七人であった。これ らを勘案すると、日中戦争期の沖縄出身兵の動員実数は、日露戦争従軍者の二倍以上、一万人を超えると見積もられる。全県一二万余の世帯数を考えると影響と負担は多大であった」という。
中国との戦争に動員された数千から万余の沖縄の青年たちの多数が戦死した。たとえば、『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録下巻」の戦没者名簿から見た戦没状況をみると、読谷村の戦没者総数は三九二四人、地域別では、沖縄二九四七人、日本本土二一二人、海外七〇六人、不明五九人となっている。海外の内訳は、フィリピン二三一人、中国・満州一一九人、サイパン八八人、テニアン五六人、パラオ二九人。一九三八〜一九四二年の戦没者は大半が中国、ほとんど軍人である。県全体でどれほどになるのか。
また、帰還した人々は、中国での戦争体験を家族や友人に話し、記録すると共に、一部の人々は強いトラウマに捕らえられてPTSDを病むに至ったのではないか。公式の沖縄戦記録の表面にはなかなか出て来づらい中国戦の真実の姿を明るみに出し、認識を共有することが必要だ。

『北中城村史』第4巻 「戦争・証言編」1(2010年発行)
宮城善八「中国戦線も体験して」


結婚は昭和八(一九三三)年にしたのですが、式は挙げませんでした。翌年には長男が生まれ、その子が二カ月の時、兵役につきました。徴兵検査は昭和九(一九三四)年に受け、甲種合格していました。沖縄では甲種合格は少ないほうだったかもしれませんが、特にうれしいという気持ちもありませんでした。出征は昭和一〇年(一九三五)年一月で鹿児島の四五連隊、機関銃隊に入隊しました。鹿児島の伊敷というところでしたが、沖縄から同じ機関銃隊には国頭出身の人と二人だけでした。
訓練期間では何かというと有無を言わさず叩かれました。軍隊はそれが普通で理由などなくてもやるところです。一人が悪ければ連帯責任でみんな叩かれました。そんなことに対し、疑問に思い、反発心もありましたが、そんなことはおくびにも出せません。
それと言葉ではずいぶん苦労しました。方言は通じないし、みんなが言っていることが全然分からなかったからです。二カ年で除隊になったのですが、その頃やっと慣れてきたという感じでした。軍隊生活の中ではやはり沖縄は差別されていると思うことは多かったので、沖縄に連隊があったらいいのにと思っていました。
沖縄に昭和一一(一九三六)年の暮れに戻ってきて、八カ月経ったときまた動員されました。昭和一二(一九三七)年七月再入隊して、除隊になったのが昭和一五(一九四〇)年一〇月でしたから私の二〇歳代は仕事に就けなかったのです。
再召集されたときは長男が二歳、そして妻は次の子を妊娠していました。……
私が実際に戦闘に加わったのは杭州湾に上陸してからです。この湾は潮の満ち干が早いので、相手側はまさかここから上陸してくるとは予想もしていなかったようで、ほとんど無防備でしたから撃ち合うことはありませんでした。そこから南京に向かいました。私はここで負傷しました。鉄かぶとに弾が貫通してその弾がぐるっと回り後ろから抜けていきました。鉄かぶとにはその弾跡が残っていましたから何ミリの差で助かったといえます。でも撃たれた瞬間はバットでガーンと殴られたような感じがして脳震盪を起こし、気がついてから痛くなりました。それで南京から上海の病院に送られ五二日間入院しましたが思ったより早く治り、連隊復帰しました。
私自身もこの戦争で速射砲を実際に使いました。南京攻略前の牛首山というところでした。陣地目がけて撃ったのですが命中したかどうかは分かりません。戦闘で死んでいる人はあちこちで見ましたが、自分が撃った弾で死んだとはっきり分かるのは見たことはありません。……
昭和一五(一九四〇)年、真珠湾攻撃の一年前に除隊になり沖縄に戻ってきました。……
真珠湾攻撃が始まったときは村人はこぞって喜んでいましたが、私のように中国戦線から帰ってきた者にとって日本は弱ってきているのにと寂しいような気持ちで見ていました。戦争に行くときは歓呼の声に送られて、遺骨と一緒に帰ってくるのを経験しているとどうしても皆のように喜ぶ気持ちにはなれませんでした。まもなく日米開戦ですから日本は手をのばしすぎていると思いました。私だけでなく兵隊帰りの人なら誰でもそう感じたはずです。

【訂正とおわび】本紙2月24日号5面、秋田のイージス反対署名記事の2段目2行「岩手県市町議員」を「若手県市町議員」に訂正します。同号3面「北方領土の日」に異議あり集会記事下から3段「小坂さんの講演と質疑応答の後」以後5行を削除します。当日の集会後にデモは行われませんでした。本紙編集部の記憶違いによるものです。同集会主催者および読者の皆さんにお詫びします。



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