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    かけはし2020年3月16日号

被災原発を動かさず廃炉へ


女川原発2号機の再稼働許さない

県民の総意を踏みにじるな

むりやり動かす規制委員会

2・26原子力規制委が
決定した「審査書」

 東北電力女川原発2号機の設置変更申請を新規制基準に適合するとして、原子力規制委員会は、二月二六日「審査書」を決定した。
 東北電力が二〇一三年一二月原子力規制委員会に適合性審査を申請して以来、一七六回というこれまでにない審査会合を重ね、昨年の一一月二七日「審査書案」を公表、一二月末まで一カ月間のパブコメ募集(九七九件)を経て、今年二月二六日「審査書」を決定した。再稼働に合格したとしているが、今回の設置変更に関わる審査は、「基本設計ないし基本的設計方針を確認したこと」に過ぎない。
 三・一一東日本大震災の地震で女川原発2号機の原発建屋のひびは、一一三〇箇所に及び、上部の剛性は七割低下したことが報告されている。「コンクリート強度は建屋の耐震壁から抜きとり試験で強度低下がないことを確認している」としているが、剛性が七割減した建物を補強で耐震性が本当に保証されるのかはなはだ疑問である。
 基準地振動の策定については「最近の知見を踏まえて適切に対応している」としているが、将来の地震をすべて予想できるわけがなく、震源から最も近く、被災原発であることへの認識が欠けていると言わざるを得ない。
 新規制基準をクリアするために東北電力が投じた対策工事費用は、防潮堤(高さ二九m 幅八〇〇m)をはじめとして三四〇〇憶円といわれており、新設するくらいの費用をかけているが、総括原価方式により電力料金に上乗せされているので東北電力にとっては痛くも痒くもない。

宮城県設置の「安全性検討会」
規制委員会の後追いは許されない!


 宮城県が原子力規制委員会から「独立」して、独自に安全性を検討するとして設置された「女川原発2号機の安全性に関する検討会」は、津波工学、原子炉工学、地震工学、耐震工学など専門分野の大学教授で構成されていて、東北電力が説明し構成委員から質問、意見、要望するという形式で進められてきた。二月七日まで二二回の検討会を開催し、八五項目の課題を検討したとして三月二三日に「まとめ」の検討会を開催するとしている。
 原子力規制委員会が審査書決定を公表した現在、女川原発2号機再稼働に向けた手続きは「地元同意」が重要な位置をしめるものになっているが、村井宮城県知事は「『女川原発2号機の安全性に関する検討会』の検討結果を判断材料にする」と繰り返し述べており、宮城県と立地自治体(石巻市、女川町)が再稼働の是非を判断するいわゆる「事前了解」の参考にするということであり、検討会がどの様な内容の検討結果をどの様な形で出すのかが、大変重要な意味を持つものとなる。
 二月七日に開催された二二回検討会では、「重大事故対策」として「格納容器破損防止」について審議されたが、「水蒸気爆発の危険性」については、「その可能性は極めて小さい」という東北電力の説明のみ。「ベントによる放射能放出」については、新規制基準では、セシウムの放出量は最大一〇〇Tbq以下としているが、女川原発では放射性物質をろ過して放射能を低減する「フィルター付きベント」の新設置で一・四Tbq程度であり、福一事故の七〇〇〇分の一だと東北電力の説明。
 しかし、「フィルター付きベント」が機能しなかったら、既存の「耐圧強化ベント」を使い環境へ放射能を放出することになるわけで、その時の放射能放出は、東北電力の試算によると三六〇Tbqとしており、新規制基準をはるかに超える量が放出されることになる。このようなことを知りながら規制委員会は「合格」を出したのであれば即時、撤回すべきである。
 検討会の納得いく審議が行われなかったことを受け、「脱原発をめざす宮城県議の会」と県内一七の住民団体は、宮城県知事と安全性検討会に十分な審議を尽くすよう求める要望書を提出している。

二度にわたり、県民投票条例案を否決! 宮城県議会は、県民の意見を聞く方法を示す責任がある。


 二〇一七年九月に河北新報が行ったアンケート調査によると女川原発の再稼働に反対六八%、賛成二八%という結果だった。県民の意志は、再稼働に慎重であるべきだというのがこのアンケートから見て取れる。
 二〇一八年一〇月に呼びかけられた「女川原発2号機再稼働の是非を問う県民投票条例」制定署名運動は、二カ月で一一万三千筆(有権者の五・八%)を集め、これは法定投票数の三倍であり、立地自治体である女川町民は二割が署名した。この署名を基に宮城県議会に提案された「県民投票条例案」は、二択(賛成、反対)では多様な意見が反映されないと昨年三月、自公の反対で否決された。
 今年に入り二月二八日、「脱原発をめざす県議の会」の野党四会派が投票条例案を議員提案したが、自民党が「全会派への事前説明がない」と“イチャモン”を付け、議会運営委員会で、本会議での条例案趣旨説明もさせない、委員会での審議を行わせない、三月三日の本会議冒頭で採決することを決め、多数を持って押し切り、本会議冒頭に採決を強行し、満席の傍聴席からの怒りと抗議の声のなか、賛成少数で否決したのである。
 議員提案の条例案は、自民党などから前回の二択について反対の意見があったことを踏まえ、「どちらかといえば賛成」「どちらかといえば反対」も含め四択とした。自民党の言論封じと「条例案潰し」は、逃げ場を失い、実施すれば反対が過半数を超えることに恐れたものであり、自信のなさがこのような暴挙にでたのであろう。県民の意志表示を二度にわたり阻止した宮城県議会は、どのような方法で、県民の意見を集約するのか県民に説明する責任がある。

再稼働は、県民の民意で決める!
知事と立地自治体首長だけでの同意は許さない!


 石巻市民一七人が宮城県と石巻市を相手取り、「女川原発再稼働同意差し止め仮処分申立」は、住民の人格権(生活平穏権)に基づき、避難計画に実効性が欠けているなかでの同意を差し止めるという建付けで闘われている。
 申立は、宮城県が作成した「ガイドライン」を基に作成された石巻市の「原子力防災避難計画」について検証し、交通渋滞、バスの確保困難、要介護者避難困難、複合災害時の対策(二次避難先)石巻市の行政機能移転先(代替施設)確保困難など七項目を主張して、避難計画の実効性の欠如を指摘している。さらに、一四万人市民を県内二七自治体に振り分けただけの机上のプランであり、避難させる側の視点でしか作成されていないこと、実効性に欠ける避難計画は、大川小学校判決で示された「事前防災義務」違反であることを強く訴えている。
 二月一二日に開催された第二回審尋での宮城県と石巻市の反論は、「同意と避難計画は関係ない」と債権者(住民側)の主張への認否を拒否、「申立は失当である」として却下を求めてきた。認否の拒否は、債権者(住民側)の主張への反論が不可能であること、実効性に欠けていることを債務者(宮城県・石巻市)自ら認めたことになる。
 さらに、「避難計画の策定を再稼働前に果たしておく法的義務はない」とまで言い切っており、地方公共団体の使命である住民の生命、健康を守る責務を放棄しているのである。その意味でも、この訴訟に負けるわけにはいかない。
 三月二日、資源エネルギー庁長官が村井宮城県知事を訪れ、女川原発2号機の「再稼働を進める」政府の方針を伝え、「地元同意」手続きを要請したが、今後、地元同意(石巻市、女川町、宮城県)の動きが加速するだろう。
 宮城県議会は六月議会で審議される模様で、女川町議会、石巻市議会も六月議会が焦点になるようである。女川商工会は、女川町議会に「再稼働推進請願書」を提出しようとしたが町議から紹介議員要請を断られ「嘆願書」にしたという。反対請願書も女川町議会に提出され六月議会で審議されるという。
 再稼働の是非を巡る攻防は、最大の正念場を迎える。県内の仲間とともに、「再稼働は県民の民意で決める!」ことを訴え、あらゆる手段と機会を捉えて再稼働阻止の取り組みを進めていく。       (m)

コラム

寅さんと「社会学の大家」

 年末に私の大好きな「帰ってきた寅さん」を観に行った。「寅さん」を見てると露店商人であった父の苦労の人生と奮闘努力を思い起こすからだ。
 「差し押さえが来る!」と長屋中に話が拡がり、井戸端会議が始まった。過去の体験が披露され「何持っていくのかな?」「○○さんとこは何かあんの?」と八畳一間の「夏涼しく冬厳寒」床下を風が舞う我が家を覗き込む。「ああ!大丈夫。何にも持っていかね」「なんもねーもんな」と大笑いのなかで長屋住人の「査定完了」。
 翌日、税務署の「差押え班」三人が路地をやってきた。おばちゃんたちの厳しい目のなか、押し入れを開けたり、物入れを物色しても「金目」のものは何も出てこない。唯一、古びた「三極真空管ラジオ」を品定めしたが「競売」にかけても?と言うことで一五分ほどで「赤紙」と共に去って言った。「なぁ!言ったとおりだべ」「貧乏人は何もね〜から」と勝利の大笑い「あはははは!」で御終い。
 長屋の住人は「失対」「ボロ買い」「手間大工」「土方」「小作」と「露天商」等で働いていた。我が家は「露店商人」。町や村での「祭り」を仕事場とし開閉店自由。コメの出荷が終わった頃の「秋の市」が年を越せるかどうか勝負の分かれ目だ。懐具合が良くなった近郊の農家の人が「秋の市」に押しかけ、露店が立ち並び、サーカスや見世物小屋、「ヤマガラ」のお神籤引き、長口上のガマの油売り、押すな押すなの賑わいである。
 父は「香具師」の世界で生きて来た。土地を仕切る親分にあいさつし地割によって出店場所が決まる。叩き売りの道具作りは子どもの仕事。儲かれば駄賃が増える。
 二尺程の竹を割いて「粘着布テープ」を巻き空き箱を叩いて「しなり」と「打音」を確認。「チンケ」「ニタコ」に「サンスケ」「ヨツヤ」「ゴスケ・ロッポウ勝負無し」「7つナキヤ」で「オイチョ」「カブ」と来て「ブタ」になっちゃ御終よ!いつの間にか覚えた「おいちょかぶ」の台詞。
 忘れえぬのは小学校の「長ドス事件」。「工作に使うナイフ持ってきて」と先生。我が家には洒落た名まえのものなどない。「父ちゃん。ナイフがない」と言うと押しいれを探し「こいつ持ってけ!」と渡してくれた。いよいよ工作の時間。父ちゃんが渡したのは、さらし巻き白鞘の「短刀(ドス)」だった。かっこよく「短刀」を抜いた瞬間、担任の先生の大きな声。あっという間に取り上げられた。今じゃ「警察沙汰」にもなる話、事の顛末は全く記憶がない。
 一五歳で故郷を離れ戦争を経験し、露店商を始め生涯三〇以上の仕事(親父の自慢話の一つだったが)をしたという。家族を持ち「まるこくなって」働いてきた父が私に「いろんな仕事をしたが泥棒はしない」と。思えば「生きる知恵」は大したものだった。
 時を経て家に「学生インター」五〜六人が宿泊した。明日は、早朝からの選挙応援。そんなことはお構いなしに手作りの料理と酒を振る舞う話好きの父。夜中までワイワイガヤガヤ……。翌日は雨!去る若者に「また来いや」と。四角い顔が大写しになり「男はつらいよ」が流れる。政治家の嘘や悪どさ、酷さを肴に酒を楽しむ「社会学の大家(自称)」の薀蓄をもう一度聞いてみたい日々だ。        (朝田)


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