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    かけはし2020年3月16日号

違法埋め立てへの不屈な抵抗連日


沖縄報告 3月8日

腐り切った安倍政権から政治を取り戻そう

沖縄 K・S

3.2

辺野古・大浦湾海上行動

埋め立てストップ!
海上から懸命の訴え

 三月二日月曜日、カヌー一五艇と抗議船二隻が辺野古・大浦湾の海上から防衛局による無謀な埋め立て工事ストップ!の声を上げた。カヌーチームがK8護岸の付近でランプウェイ台船の動きを監視している間、不屈号はK9護岸に回った。丁度、土砂を積み降ろしたあと空になった大型の土砂運搬船「第八高砂丸」が本部半島の安和桟橋に向かうため大浦湾の海路を進んで来るところだった。海保の高速ゴムボートが警戒している。沖には海保の巡視船。日本の国家権力のむき出しの支配が現れている現場が辺野古だ。
 K9護岸ではランプウェイ台船が接岸中で、ダンプが列をなして辺野古の埋め立て区域との間を行き来している。県知事も県議会も法律に乗っ取って県民投票で示された県民の総意も埋め立て反対!を示しているのに、なぜ日本の政治は無視し続けるのか。県民ぐるみの声を踏みにじり埋め立てを強行するのか。沖縄に民主主義はないのか。沖縄に民主主義を保障できない政府がすべてにおいて民主主義的でないことはこの間の事態が示している。国家権力を私物化する腐りきった安倍政権から政治を取り戻す以外に解決の方法はない。
 K9護岸からK8護岸に戻った不屈号が見守る中、カヌーチームは一斉にフロートを越えて、K8護岸に向かうランプウェイ台船へと突進した。海保のゴムボート五、六艇があわただしくフロート内を行き来する中、カヌーは台船めざして全力でこぎ続けた。台船はカヌーが接近してくると動きを止めた。しかし、海に飛び込んだ保安官によってカヌーが拘束されると、再び動き始めた。拘束されたカヌーは海保のボートによりゆっくりと辺野古の浜まで送り届けられた。一二時をとうに回っている。カヌーチームは大急ぎで弁当を食べて午後の行動に備えた。
 午後は辺野古の浜から抗議船二隻にけん引されてK8護岸の現場に向かい、再びフロートを越えてランプウェイ台船の動きを止める行動を果敢に繰り広げた。三月に入ったとはいえ、海水はまだ冷たい。毎日朝早くから午後まで、日によっては三回もフロート越えの抗議行動をやり続けるカヌーチームの行動は、県民の諦めない意思を体現するものだ。全県、全国から辺野古ぶるーの海上行動に注目し、連帯の行動をしてほしい。できれば、カヌーに乗って欲しい、抗議船に乗って欲しい。
 辺野古、安和、塩川の陸上の行動と共に辺野古、安和の海上行動の力を集めて、無謀な埋め立て工事を止めよう。

3.4

安和桟橋ゲート前

森を壊し海を殺す
不条理にストップ!


 三月四日水曜日もいつものように、桟橋附近ではカヌーチームの身を挺した海上行動と共に、琉球セメント安和桟橋ゲート前で、赤土土砂を運ぶダンプに対する抗議行動が行われた。沖縄防衛局は相当あせっているように見える。昨年末で一%余りしか埋め立てが進んでいないと新聞に大きく書きたてられた危機感を反映してか、今年に入ってからの土砂搬入・搬出のスピードが尋常ではない。
 安和桟橋では、ゲート前の交通事故の危険を含めた混乱をあえてして右からも左からもダンプを次々と入れ、桟橋構内では昼休み返上、午後八時ごろまで作業を繰り返している有様だ。構内で働く作業員もダンプの運転手も大変だろう。何をそんなに急ぐのか。
 当面の焦点は設計概要の変更申請である。当初三月中にも県への申請が言われたが準備が整わず、四月以降にずれ込みそうだという。
 ここに来ての設計概要の変更は、辺野古・大浦湾での埋め立て・新基地建設が無謀であり不可能であることの証しだ。二つの断層の周辺に広がる深さ九〇mにおよぶ軟弱地盤の改良工事という、これまで日本でも世界でもやったことのない難工事を無理して強行すべきではない。一度立ち止まって引き返すという冷静さを持つべきだ。全国の世論の声を上げて、安倍政権の横暴を止めよう。

〈カヌーチームTさんの報告〉

 三月四日、安和桟橋
晴れ。風は朝約三m/s海は凪状態、昼近くなって風が七m/sほどに上がった。日中で約二二℃とあまり上がらず寒い感じ。
今日はカヌー一六艇の行動。最近になく多い人数である。常時これぐらいはいて欲しい。今日も本土から来た人がカヌーを漕ぐが、海の状態など多くのことを把握してないので結構気をつかう。
午前と午後の行動でそれぞれ約四〇分合計約一時間二〇分のガット台船の出港を阻止した。継続こそ力だ。

2.29

中村哲医師追悼DVD上映と講演

坂尾美和子さんがペシャワールの6年間を紹介

 二月二九日土曜日の午後、那覇市の不屈館で、「中村哲医師追悼、DVD上映と講演」の集いが開かれ六〇人以上が参加した。ペシャワール会の一員として、アフガニスタンと国境を接するパキスタンの病院で六年間検査技師として勤務した坂尾美和子さんが当時の体験を詳しく語った。
進行係は不屈館館長の内村千尋さん。予定時間前から集まった人々は展示を見たり、本や資料を手に取ったりした。はじめに、「アフガンに水を」と題するDVDの上映が行われた。中村さんのチームがアフガンに渡り、病院を建て、井戸を掘り、水路を築いて飲み水と農業用水を確保して荒れ地を緑の土地に変えていくために奮闘する姿は感動的だった。また逆に、テロリストが中村さんを襲った理由も、住民の生活の安定と平和が訪れることを歓迎しなかったのだろうと推測された。
二〇〇二年から二〇〇八年の六年間、DVDで描かれた同じ時期に中村医師と共に勤務した経験を持つ坂尾さんは要旨次のように話した。
「ブーゲンビリアが何時でも咲いて、時間がゆっくり流れるところ。沖縄に似ていると感じる。一九九八年に病院ができた。病院はアフガニスタンとパキスタンの国境のカイバル峠から近いペシャワールにある。私は日本で三〇年検査技師として働き、現地へ行った。わずかな時間だが中村医師と共にした。中村さんには多くの本がある。是非読んで欲しい。
中村さんは白衣と作業服の二刀流だった。病院にはあまりいなかったが、いるときは空気はピンと張りつめていた。中村さんは優しいが厳しい人。私は病院近くの一軒家を借りて住んでいた。停電やガス欠があったが、買い物もできた。しかし、徐々に治安が悪化し自由に買い物もできなくなり、二〇〇八年に撤退した。
高江で夜当番した時、アフガンの月の夜を思い出した。一度カイバル峠を越えて用水路を見に行ったことがある。アフガンの人々がたくさん集まって仕事をしていた。報酬は一日二四〇円とのことだが、雇用をつくる公共事業でもあった。草も生えないと言われた不毛の地が緑豊かな麦畑に変わった。中村さんと一緒に運転のアフガン人ドライバーも亡くなった。守れなくて申し訳ない。残念で悔しい」。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(8)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による殺戮、略奪、泥沼の戦争、上官の暴力、兵士の酷使、虐待など、日本軍の戦争の実態が赤裸々に描かれている。
今回は前回に続き、北中城村の証言を見る。南京事件後、国民党・共産党の反日統一戦線の結成と共同軍事行動により日本軍が苦しめられ、敗戦へと至る途上の姿が手に取るように描かれている(敬称略)。なお、明らかな誤字は改めた。

『北中城村史』第4巻 「戦争・証言編」1(2010年発行)下
伊佐常盛「過酷な行軍」

 私は、昭和一五(一九四〇)年に結婚し、翌年一〇月ころに長女が誕生した。同じころに徴兵検査を受け、長女が生まれてまだ三カ月ぐらいの時に入隊した。
徴兵検査は普天間の農事試験場(現・普天間高校)で受けた。屋宜原の同年の連中は皆不合格になったが、私は合格して、昭和一七(一九四二)年の一月か二月ころに熊本に行って入隊した。…
熊本では二一部隊に配属され、すぐ船に乗って一泊し、翌朝には朝鮮に向けて出発した。朝鮮では民家に分宿したが、食事に唐辛子が入っていたので、辛くて口に合わなかった。朝鮮にいたのは二日間だけだったから、滞在した場所が釜山だったかどうかも定かではない。そこから北支の黎城に行き、一年間も厳しい訓練の日々が続いた。
沖縄でも訓練したことはあったが、銃の構えなどもここでは何の役にも立たず、一からやり直しであった。雪の中での訓練であったから、とても苦しかった。匍匐前進の訓練の時は、「何でこんなことをしなければならないのか」と思ったこともあったが、口に出すわけにもいかず、逆らうこともできなかった。訓練の時にいつもびんたを張られ、古参兵に顔が腫れるほどぶん殴られたこともあった。
冬三五四六部隊に所属していたが、その部隊はほとんど沖縄県出身者であった。私は歩兵ではなくサンポウ(砲を分解して運搬できるようにした火砲を山砲と称しており、その火砲を運ぶ兵をサンポウと呼んでいた)であったから、訓練が終わるといつも馬と一緒に訓練した。一分隊は約十人だったが、分隊で二門ずつ運んだ。馬の背に六十キロのものを載せて毎朝訓練していた。雪の中で馬を引いて川を渡る時は怖かった。降り積もった雪の中を進むのだから、氷の上を馬と一緒に滑ることもあった。割れ目に落ちたら馬もろとも死の危険があった。……
丘陵を上り下りしながら歩き続け、南に向かって来る日も来る日も行軍が続いた。集落に駐屯して休むことはほとんどなかった。歩兵は中国兵を捕まえてくると、銃剣で突き殺すことを命じられていた。我々は、銃剣ではなく棒でやらされた。目をつぶって突くのだが、捕虜を突けずに失敗すると上官にぶん殴られた。日本軍は残酷なことをしたものだと思う。
食料は現地で調達した。中国の集落に入って民家から鶏などを捕って食べた。村人は逃げ去って誰もいなかった。我々は、食料を探して家中をひっくり返したが、穀物などは何も残っていなかった。塩の中に卵が入っていたので、初めにその卵を食べた。豚は担いで帰っても処理に困るので、鶏などを持ち帰った。馬の餌も確保しなくてはならなかった。馬の草を刈っている時に、中国兵に銃撃され、馬を引いて「死に物狂い」で逃げたこともあった。……
昭和一七(一九四二)年から二年間余、我々はほとんど歩きっぱなしだった。戦友のなかには体力が衰えて死んだ者もいる。ぬかるみの中を歩くことが多かったので、足が真っ赤に腫れて歩けなくなった。病院もなかったので治療もせず、腫れた足は悪化するばかりであったから、歩行不能になると落伍せざるを得なかった。体力がなくなって歩けなくなるとそれが最後であった。各自手榴弾を所持していたので、落伍すると間もなく自ら命を絶った。考えると兵隊は哀れであった。
私の同年兵で那覇出身のミヤシロという戦友がいたが、彼も中支までは一緒だったが、足が腫れて落伍した。私は彼に軍靴と地下足袋を与えて、頑張って何とかついて行くようにと励ましたが、彼は「もうついて行けない。自分で何とかしてみるが、足がこんなに腫れてはどうしようもない。私にかまわずに先に行ってくれ」と言っていた。彼も手榴弾で自決したものと思っている。このようにして死んだ戦友が何人もいた。

投書

新型ウィルスあの手この手

K・F

 一昨日の夜あたりからなんか調子悪いなあと感じていたが、昨日熱っぽくはないものの念のため体温測ってみたら三七・三℃。ありゃ。熱が出ると、いやでもアレが頭に浮かぶ。その後、一時間おきくらいに三七・四℃から三六・三℃を上がったり下がったり。
 厚労省のガイドラインでは「三七・五℃以上の発熱が四日以上続く場合に、『帰国者・接触者相談センター』にご相談」せよだから、体温に関してはぎりぎりセーフ。昨日は結局何もできなくて、ボーッと生きていた。
 昨日の段階で[明日の朝に熱があれば、そのとき考えよう]との方針のもと、寝付けない夜をボーッと寝て、今朝は三五・九℃くらい。
 平熱だが、近くの医院に。なにせ電車やバスでうっかり何度か咳をしようものなら、冷たい視線はもとより、緊急停止ボタンを押されたり、引き摺り下ろされるやもしれぬ。
 診断はインフルエンザでもアレでもなく普通の風邪のようだ。安心した。
 それにしても、ちょっと考えてしまった。厚労省によれば、熱が出ても、「三七・五℃以上の発熱が四日以上続く」まで何もせず家に閉じこもっていろというのだ。この医院は近所では評判の良い医院でいつでも多くの患者が待合室にいる。しかし、今日はどういうわけかかなり少なかった。休み明けにも関わらず。もしかして「三七・五℃以上の発熱」を我慢して閉じこもっている人がいるのだろうか。
 医院の壁に貼ってあったものによると、「新型ウイルス感染省の流行地域から帰国したか、または新型コロナウイルス感染症の患者さんと濃厚な接触があった方は」と書いてあり、現在の感染拡大状況からすると二〜三週間前のガイドラインだ。ちょっと、いや、かなり遅れてるよね。
 厚労省によると「発熱等の風邪の症状が見られるときは、学校や会社を休んでください」と指示しているが、診断を受けろとは書いていない。三七・五℃以上の発熱(倦怠感や呼吸困難も)で四日以上経ってはじめて帰国者・接触者相談センターに相談せよという。こんなのでは体力のない人は相談する前に三途の川を渡ることになる。〈運良く〉感染が疑われて「専門の『帰国者・接触者外来』をご紹介」してもらったって、検査はしてもらえないという不運が待っている。
 なんていう国だ。オリンピックを前に、感染者の数を積み上げないための、あの手この手。


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