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    かけはし2020年3月16日号

患者の無念の思いが法曹を裁いた


寄稿

ハンセン病・菊池事件国賠訴訟

熊本地裁判決 「特別法廷違憲」と弾劾

磯崎 繁


事件抹殺目的で
国が殺人犯した
 国はハンセン病は恐ろしい伝染病で、患者を探し出して社会から隔離し、収容所の中で絶滅するとして、らい予防法を制定し、国立療養所という強制収容所を作り、全国的に官民一体の無らい県運動を展開した。この運動によって地域にいるハンセン病患者を探し出し、国立療養所内に収容した。
 無らい県運動は、戦前の第一次無らい県運動に続き、戦後国民主権や基本的人権が記された日本国憲法が成立した後でも、らい予防法は存続し、一九五〇年から国立療養所にさらに一万床を増床する計画が立てられ、それを実現するために、第二次無らい県運動を展開することが全国療養所所長会議で決議される。
 菊池事件は、この運動の中で、現況調査を行い、患者を見つけると県に通報していた役場の職員が、殺害された事件である。ハンセン病の自覚がないのに、この職員に通報され、菊池恵楓園に収容されることになったFさんが、通報を逆恨みして、引き起こした事件とされ、逮捕、起訴されることになる。
 Fさんは裁判で、無罪を主張するが、一審の弁護士はFさんの無罪主張に従う立証を行わないばかりか、検察側の立証をすべて認めてしまった。そして、その裁判は、菊池恵楓園内に作られた特別法廷で非公開で審理された。その結果、死刑判決が出され、Fさんの冤罪が作られてしまった。
 その後、Fさんは、弁護士を変え、控訴審、上告審をたたかうが、一九五七年三月二二日上告棄却で、裁判が確定する。最高裁判決まで、菊池医療刑務所内の特別法廷で、非公開で行われた。
 1953年8月29日 一審死刑判決
 1954年12月13日 控訴棄却
 1957年8月23日 上告棄却
 その後、Fさんは、新しい支援者を得て、この冤罪死刑判決に対して、再審を請求。三次にわたって、再審を請求するが、いずれも棄却される。三次の再審は、一九六二年九月一三日に棄却されたが、その翌日死刑が執行される。法務大臣の施行執行指揮所書の押印は、請求棄却前の九月一一日に押されていた。
 この死刑執行は司法が冤罪判決の過程を葬り、Fさんの「口封じ」のために行われた国による殺人である。

司法の偏見に
国賠訴訟対置
司法がハンセン病への差別偏見を正すのではなく、差別偏見に基づく特別法廷で冤罪を作りあげ、さらに再審の道をふさぐ死刑執行を行ったのだ。これは、Fさんだけに加えられた不当な迫害ではなかった。らい予防法による強制隔離で、社会から解除され、偏見差別の中で生きてきたハンセン病患者の皆さん自身の心にFさんの無念は深く刻まれた。
らい予防法によって作られた差別偏見について国の責任を問い、社会的に残る差別偏見を取り除くことを求めるハンセン病患者国賠訴訟、ハンセン病家族訴訟を戦いながら、ハンセン病患者、そして家族はFさんの無念を、再審で晴らす道を探した。Fさん自身が行う再審の道は断たれた。またFさんの家族は、ハンセン病に対して、今も残る偏見、差別を前に、再審の請求者となることができなかった。
日本の再審制度では、請求者の範囲は狭い。この中で、ハンセン病元患者たちは、強制隔離によって収容所の中で疑似家族として生きることを強制されたが、それを逆手に取って、Fさんとは家族同様の関係だとして、検察官が再審請求をしなかったのは、違法でそのため苦痛を受けたという国賠訴訟を起こした。

粘り強い闘いが
司法の偏見撃つ
二月二六日、熊本地裁に全国から二〇〇人を超える市民たちが集まった。判決の法廷には、四〇人が入廷し、残りの人たちは、門前で判決の結果を待った。弁護士が特別法廷を断罪する垂れ幕を掲げると、市民の中から大きな拍手が起こった。判決後、弁護団は、記者会見の場で声明を発表して、判決の評価を示した。
「原告らが、この訴訟において求めたのは、菊池事件について再審請求がなされるべきであるとの司法判断であり、この判断にあたって、裁判所が、菊池事件の審理が行われた、いわゆる「特別法廷」に関して、どのような評価を示すのか、ということこそが、判決の当否を判断する最も重要な指標となるべき、と前置きし、「本日言い渡された判決は、特別法廷に関する先の最高裁調査報告書の見解を次の二点において、大きく踏み越える画期的な判断を示している」。
「その第一は、菊池事件の審理が行われた昭和二七年当時においても、裁判所法の運用を誤った、差別的な取り扱いを認めているということである」。
「第二は、最高裁調査報告が明確にしなかった、特別法廷の違憲性について、憲法一三条(個人の尊重)、一四条(法の下の平等)に違反することを明確に認めたうえで、同報告が否定した、憲法三七条一項(公開の裁判を受ける権利)、八二条一項(裁判の公開原則)に違反する疑いがあることを認めたことである」。
このような判断は、裁判所が、菊池事件の審理における予防着の着用等の著しい人権侵害を具体的に認定したうえでなされたものであり、高く評価することができる。また、重要な争点であった、憲法的再審事由に関しても、明文の規定がなくても一定の場合に、再審事由となることを認めており、初めての司法判断として、注目に値する」と明らかにした。
なぜ、裁判所が、特別法廷に対して最高裁より踏み込んだかについて、徳田弁護士は、「ハンセン病元患者の原告たちが、この裁判はハンセン病差別、偏見に取り込まれ、法曹を裁く裁判だと主張したことを裁判所が受け止めたことによって引き出された」と述べた。そして『違憲』と今後は、この判決を手掛かりに、再審により、Fさんの冤罪を晴らし、無罪を勝ち取るステージに上りたい」と述べた。
マスコミ各紙も社説で取り上げ、「違憲を認めた判断は重い」(熊本日日新聞)とか「違憲と認めたなら再審が筋だ」(東京新聞)と述べている。

ハンセン病隔離法廷における司法の責任に関する日弁連の決議より抜粋

ハンセン病患者たちを非公開の特別法廷で裁き続けた日本の司法は、絶対隔離による絶滅政策に司法総体が囚われ、菊池事件で、Fさんを非公開の特別法廷で裁き、無実の叫びを取り上げず、死刑判決で、冤罪を作り出しただけでなく、三回目の再審却下の前に、死刑執行の指揮書を作成し、却下の翌日に死刑執行の殺人をおこなった。これがどれほど非道不当なものであったか。ハンセン病に対する国の差別政策の検証の中で法曹三者といわれる弁護士、裁判所、検察そして、法務省に問われた。今回の菊池国賠判決で取り上げられた特別法廷と再審によるFさんの無罪による人間としての復権は、今回の熊本地裁の特別法廷の違憲判決から、当然行われなければならないという結論が導き出されることをしめしている。日弁連は、法曹の一員として、自らのハンセン病差別に囚われた姿を検証した決議を出しているが、その中心は、菊池事件―特別法廷におかれている。決議文からの拾い読みでいいので、この点をよみとってくたさい。(筆者より)


ハンセン病隔離法廷とは


 ハンセン病患者とされた者を当事者とする裁判は、裁判所内の法廷ではなく、ハンセン病療養所、刑事収容施設等の強制隔離施設内に特別に設置された法廷で行われ、極めて非人間的な差別的取扱いがされてきた(「特別法廷」とも呼ばれている)。
 ハンセン病隔離法廷は、裁判所法の上記例外規定により、最高裁判所によって認可され続けてきた。

ハンセン病隔離法廷の設置の経緯


 我が国では、まず、一九〇七年、浮浪患者を対象としたハンセン病患者の強制隔離政策が始まり、一九一六年、療養所内の秩序維持のため、療養所長に懲戒検束権が付与され、懲罰として療養所内の監禁室に収容するなどした。
 そして、一九三一年制定の旧「癩予防法」において、強制隔離の対象が全てのハンセン病患者に広げられた後、更に懲罰を強化し、一九三八年、群馬県草津にあるハンセン病療養所栗生楽泉園に「特別病室」と名付けた施設を設置して、全国から特に重い懲罰が必要と考えた患者を収容するようになった。この施設は、その実態から「重監房」といわれている。
 一九四七年、国会において、「重監房」の劣悪な環境のため収容者のべ九三名中二三名が死亡した事実が明らかになったことから、国は、同年、「重監房」を廃止し、ハンセン病患者も、裁判所による裁判を受けることとした一方で、裁判所内の法廷を使用するのは消毒の問題があるとして、当時司法行政権を有していた司法省は、裁判所外に設置した臨時法廷を使用する方針とした(1947年11月13日、衆議院厚生委員会・鈴木義男司法大臣答弁)。
 そのため、最高裁判所は、一九四八年以降、一九七二年までの二五年間、下級裁判所からのハンセン病を理由とする裁判所外での開廷の上申を全て認可し、ハンセン病療養所、刑事収容施設等に特別に設置された法廷で裁判が常時実施されてきた(1954年3月25日、衆議院法務委員会・磯崎良誉最高裁判所総務課長答弁、1975年2月5日、参議院決算委員会・寺田治郎最高裁判所事務総長答弁参照)。

ハンセン病隔離法廷の歴史的背景


 我が国では、戦前・戦後を通じて、ハンセン病患者に対する「絶対隔離絶滅政策」が遂行される中、地域社会から全ての患者をなくすという官民一体の「無らい県運動」が全国展開され、ハンセン病は強烈な伝染病であるという誤った認識による著しい差別・偏見が作出・助長された。
 最高裁報告書によれば、ハンセン病を理由とする開廷場所指定の上申は、一九四八年から一九七二年までで九六件あり、うち一件の上申撤回を除き、最高裁判所は九五件全てを認可して(そのうち94件が刑事事件、1件が民事事件)、ハンセン病療養所、刑事収容施設等に特別に設置した法廷において裁判が実施されたことが確認された。
 また、最高裁報告書によれば、最高裁判所裁判官会議は、一九四八年二月一三日、ハンセン病を理由とする二件目の開廷場所指定の上申を認可した際、ハンセン病を理由とする開廷場所指定の専決権限を事務総局に付与する議決をしたため、それ以後、事務総局の専決により、ハンセン病を理由とする開廷場所指定の上申を定型的に認可する運用がなされた。
 他方、ハンセン病以外の病気及び老衰を理由とする開廷場所指定の上申については、裁判官会議で審議され、一九九〇年までの六一件の上申のうち、認可されたのは九件にとどまっている。ハンセン病と他の疾患などとの取扱いには、歴然とした差異が認められた。
 一九五二年、熊本県で発生した殺人事件(菊池事件)では、ハンセン病患者とされた菊池恵楓園入所者が被疑者として逮捕され、菊池恵楓園及び菊池医療刑務支所に設置されたハンセン病隔離法廷で裁判が行われた。法廷には消毒液の臭いが立ちこめ、裁判官・検察官・弁護人はいずれも予防衣と呼ばれる白衣を着用し、長靴を履き、手袋を付けた上で調書や証拠物を火箸等で扱うという極めて屈辱的で非人間的な扱いがなされたことが確認されている。明らかに個人としての尊厳を害する行為である。菊池事件に限らず、隔離法廷で同様の取扱いをしていたことは、一九五三年に開庁したハンセン病患者専用の(未決・既決の)刑事収容施設「熊本刑務所菊池医療刑務支所」で、職員が出入りする際は防毒衣(帽子・作業衣・予防衣・マスク・手袋・長靴)を着用し、消毒をしていたこと(「菊池医療刑務支所の特殊性について」『矯正医学会誌』第4巻第2号、1955年)、隔離法廷で刑事弁護人を務めた弁護士の回顧録からも容易に推認できる。



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