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    かけはし2020年3月23日号

「既成事実」先行政治の破たん


沖縄報告 3月15日

欺まんのキャンペーンに屈しない!

沖縄 K・S

辺野古新基地の軟弱地盤

防衛局は設計変更申請を

 大浦湾に存在する辺野古断層と周囲に広がる軟弱地盤は、九〇mにおよぶ深さと大浦湾側の埋め立て予定区域の大半を占める広がりを持ち、埋め立て工事の最大の難関として立ちふさがっている。日本はもちろん世界でもかつて施行したことのない未経験の難工事だ。この先何年かかるか予算がいくらかかるか、正確なところは誰にも分らない。
そのような埋め立て工事を強行して辺野古・大浦湾に米軍基地を新たにつくる必要があるのか。県知事も県議会も県民投票で示された県民の総意もこぞって県民ぐるみで反対している辺野古・大浦湾の埋め立てを安倍政権はなぜ強行できるのか。日本の政治において、住民意思はそんなにも軽いものなのか。

サンゴ特別採捕と設計変更申請

 間違っていてもいったん動き始めたらその歯車を止めることができない日本の政治。政治家、さまざまな公務員、学者、業者たちがグルになって辺野古の埋め立て工事に群がっている。
江藤農水相は沖縄県に対し、沖縄防衛局が出したサンゴ特別採捕許可申請を許可するよう指示した。前回の勧告から指示へと水位を上げたため、県は法的対応を迫られる。防衛省も国交省も農水省も束になって沖縄県に攻撃をかけてきている。玉城デニー知事は国地方係争処理委員会へ審査を申し出る方針だという。期限は三月三〇日である。
また、政府は三月一〇日の閣議で軟弱地盤の新たな調査・検討をしないことを決め、翌日の技術検討委員会で追認させた。設計変更申請へのステップである。何もかもあべこべ。辺野古調査団の立石雅昭新潟大名誉教授は、「一九九五年以後地震活動期にある日本で再調査は絶対に必要」と警鐘を鳴らした。
政府防衛局は当初の三月末から四月にずれ込んで、埋め立て工事の設計変更申請を出す予定だ。防衛局の計画によると、知事の許可を得てから工事完成まで一二年、九三〇〇億円かかる。沖縄県は二兆六五〇〇億円と試算している。日本には金が余っているのか。国民は裕福か。新基地建設をやめて国民一人ひとりの生活の向上へ金を回せ。

安和の旧桟橋と塩川港のベルトコンベヤー

 他方で、政府防衛局は土砂投入に血まなこになっている。本部塩川港での土砂搬出のためのベルトコンベヤー設置の許可申請をすでに県に提出した。最近になって、三月三一日で切れる安和の旧桟橋の使用継続許可申請も出した。
旧桟橋の継続使用は絶対に認められない。本部塩川港のベルトコンベヤーは沖縄県の行政姿勢にかかってくる。沖縄県は現在、港湾法や県港湾管理条例に基づき審査中で、決裁権を有するのは県北部土木事務所長だという。問題は「ベルトコンベヤーを使って何をどこへ運ぶのか」ということが審査の対象に含まれないということだ。そうすると「赤土土砂を辺野古の埋め立て地へ運ぶ」ということの是非が問われなくなる。
沖縄県は「辺野古に新しい基地をつくらせないことは県政の柱」としている。しかも県は「一昨年の埋め立て承認撤回により埋め立て工事は違法」との立場をとっている。ベルトコンベヤー設置を許可し土砂搬出に手を貸すことは玉城デニー県政の方針に反することにならないか。
政府防衛局は「平等の取り扱い」の圧力をかけている。埋め立てをやるかやらないかに平等はない。欺瞞のキャンペーンに屈してはならない。県は県民の総意を受け止めて、ベルトコンベヤー設置や旧桟橋の延長使用を断固拒否せよ!

風波をついて頑張るカヌー隊

連日の行動の積み重ねが
新しい局面を切りひらく

3・9 辺野古海上行動

 朝から風波が強く、ミーティングのあと全員で海の状態を確認した後、カヌーは出さず抗議船二隻で現場の監視抗議行動を行うことを決めた。
カヌーメンバー数人を乗せた平和丸が辺野古漁港を出ると強い風と波が吹き付けてきて、海水が降りかかってくる。いつもよりエンジンの回転数を落としゆっくりと埋め立て工事現場へ向かった。フロートの中では海保のボートが待機しており、「コンディションが悪いので注意してください」とのこと。
平島から長島、K8護岸に行くと、ダンプがずらりと並んで赤土土砂を運ぶ作業中。大浦湾に回ると、波風は一層激しくなったが、本部半島の赤土土砂を積んだ運搬船が三隻、フロートの中に入ってくるところだった。しばらく監視を続けた後、船は港へ戻った。

カヌーチームTさんの報告

3月9日(月)大浦湾

 私は汀間港から抗議船に乗り、K9護岸方面に向かった。K9護岸には赤土満載のランプウェイ台船が接岸していて、ダンプカーが休みなく乗り込み赤土を運んでいる。とても見たくない。
右手の弾薬庫のがけ下に小さな砂浜がある。ここに大きな建設機械が入り、海上には「ウミガメ産卵場整備中」と横断幕を掲げた大きな船が停泊している。作業員は二〇人ほど、かなりのお金(税金)をかけていると思われる。
私は「なんと日本は自然に対して考慮する優しい国だろう」と一瞬思った。
しかし、辺野古では幅一qに及ぶウミガメが毎年産卵する砂浜を破壊して、そこからぐるっと泳いで七qほどの大浦湾の奥に、そのような場所を作るのは、後付けのコロナウィルス対策なみのアリバイ作りのように思う。そもそも、私は何年もこの海に出ているが、大浦湾のこの地域でウミガメを見た記憶はない。
皮肉を込めて言えば、「カメ新報」や「カメタイムス」にカメ語で「新築、環境抜群!騒音あり、頭上に弾薬庫あり、一〇〇年間無料、詳しくは地図を見て現地まで」などの広告でも出さないと、とてもカメさん達には場所はわからないだろう。

3月11日(水)安和

 海は大きなウネリが入っているが比較的穏やか、昼近くなって風が上がってきた。気温は低く寒い。
カヌーは一二艇。一〇人以上だといろんなことができる。今日は初心者の人もいて、桟橋の下で転覆した。このような状態が実は一番怖い。ウネリで桟橋の橋桁に叩きつけられるかもしれないし、ガット台船に叩きつけられるかもしれない。
しかも、多くのメンバーが自分のカヌーをロープで縛っているので、すぐの救助は難しい。カヌー訓練を終了して参加することが望ましい。今後の対応をしっかり考えたい。
本日の成果は、午前約一時間、午後約五〇分、合計約一時間五〇分であった。
旧桟橋に大きな船が接岸している。これは琉球セメントから製品のセメントを運ぶ輸送船である。旧桟橋は築五〇年と古くボロボロであり、使用期限が今年三月三一日となっている。四月以降も使わないように県は毅然とした態度でやって欲しい。

3月12日(木)大浦湾

 曇り。風、波とも高い。
本日はカヌー一〇艇で二班体制、そのうち六艇が女性であった。
朝、松田ぬ浜(辺野古の浜)から沖を見るとガット台船(赤土輸送船)が五隻見えた。私たちは急いで出艇、抗議船に乗り込み大浦湾に急行した。大浦湾に着くとガット台船の先頭の船はかなり近くまで迫っている。
二班が抗議&阻止体制に入ったが、すぐに全員が拘束された。
私たちの一班は別の任務だったので、抗議するが拘束されないように離れていた。一班は入港したガット台船がランプウェイ台船に横付けする直前に抗議&阻止活動を展開した。結果はすぐに拘束されるが、このような相手が予期してないような行動も必要だと思う。
全員が松田ぬ浜に送り返されると、またすぐに抗議船に乗ってK9護岸に向かった。拘束された後もめげる事はない。空のランプウェイ台船がそろそろ離岸の構えである。タグボートが接続され離岸のタイミングで私たちは全員フロートを越えた。かなり迫ったものもいたが全員が拘束された。
非常に寒く小雨も降ってきたので、海上行動はこれまでとした。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(9)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は名護市の証言を見る(敬称略)。
今回の証言者、名護市の末吉業明さんは屋我地島の我部出身。二年と九か月、中国の中部、北部、北東部を転戦したが、山東省で二か月滞在したときの中国軍との戦闘と日本軍の残虐行為を詳しく証言している。原文をそのまま引用しているが、適宜、行替えをした。

名護市『語りつぐ戦争―市民の戦時・戦後体験記録―』第1集(一九八五年発行)
 末吉業明「大陸の日本軍」

 丁度、支那事変の最中だった昭和一二年一月五日、私は、沖縄から現役兵として九州各県の部隊に入隊する千二百人と一緒に那覇港から出発、鹿児島へ着いたのは九日だった。其の日は休養をとり、一〇日には鹿児島・宮崎。大分・熊本の各歩兵隊へ出発。私は他の七名と小倉の野戦重砲兵第五連隊に入隊した。
軍隊は厳しいからと、私の親父も明治年代末の兵隊帰りだったので、ある程度の話は聞かされていたので余り気にしてなかった。……一個連隊の構成は三個中隊で、一個中隊一〇班で、一班二〇名、中隊長班長で二一五人位だった。三日過ぎてからは毎日のように野外演習に引っぱり出され、訓練は厳しく、後に話を聞いてわかった事だが、今年入隊した初年兵は全員支那の戦場行きだから特訓せよと、連隊長命令だったらしい。どうにか四カ月間の特訓を終り、戦場行きの日程が決り、門司港から貨物船に大砲や馬を積み込み、一個連隊約六〇〇人以上、連隊長以下が乗り込んだ。五日位して支那の青島(チンタオ)の港につき、上陸。それから貨物車に乗り戦場へ。途中済南(チーナン)、済寧(チーニン)、徐洲((ジョシュウ)を過ぎ南京に着く。其の時は中支は日本軍に占領されていたので、北支の戦場へ。南京で二日位休養をとり北支へ出発。……
山東省のどこの部落だったか思い出せないが、二カ月間の滞在期間にはいろんなことがあった。ある日、夜襲にきた二、三〇人の支那人のうち逃げ遅れた六人を捕虜にした。中隊長より、ただちに銃殺せよとの命令がくだった。……
一人の捕虜は、軍曹により日本からとりよせた日本刀の“ためし切り”のため倒された。捕虜を、軍曹の左側に立たせて、日本刀を右肩最上段にかつぎあげ、気合もろともに捕虜の首筋に振り降ろした。一瞬だった。捕虜の首はうなだれたまま、五六歩力なく歩いて前に倒れた。首のノドのところの皮だけが切れずに残ったように思う。
あとの五人は一列に立たされ、その前に歩兵隊が銃剣を持って構えた。「突け!」の合図で捕虜の腹に同時に突き刺した。その間捕虜は無言だったように思う。ただ、突き刺された瞬間だけ低いうめき声をあげた。赤い血が一斉に流れ落ちた。人間の血はすぐ凝固するらしい。一人の歩兵は突きなれないのか、銃剣を捕虜の腹に刺したまま抜けなくなった。焦った歩兵は息絶えた捕虜を押し倒し、左足を捕虜の腹にのせて引き抜いた。死体はその場で穴を掘られ、投げこまれ、埋められた。
二ヶ月もいると兵隊たちも退屈しだし、民家にはいりこむようになった。そこの村では、豚・鶏は放し飼いであったので、兵隊は自由に食べた。牛などは、片方の兵が銃剣をつきつけ、もう一人が一〇銭(イモ銭と呼んでいた)を差しだし、どっちを選ぶかと手真似で示し、無理やり引っぱっていった。朝鮮人の慰安婦も一緒についてきたが、足りずに、若い兵隊たちは民家を探しまわり、その父母を脅かし娘を強姦する始末であった。これらは夜数人で襲い、一人で行動した者は帰ってこない者もいた。それらも戦死とみなされた。
しばらく残留している内に、今度はソ連・満州国境の警備にあたれとの命令が下り、山東省の部落から移動してソ満国境に着き、黒龍江を境にしてソ連軍と相対して警備についた。零下三〇度以下の寒さで、手や足の指の感触がわからない位の寒さだった。向う岸にはソ連兵が警備しているのを肉眼でも見える位だ。警備期間中ノモンハン事件が始まり、ソ連軍と交戦中との情報が入った。……何日位で戦場に着いたか不明だが、着いた一日交戦し、あくる日停戦協定になり、命は助かった。
それからしばらくして北支の天津へ集結せよと命令が下り、歩兵部隊は残留し、野戦重砲兵は天津に向けて出発し、そこで次の命令が下るまで待機するようにとの事だった。馬の頭数も減り、大砲を引っぱる事ができず、内地からの馬の補充もできない状態だった。何カ月か待機している内に内地への帰還命令が下った。
戦争を体験したのが二カ年と九カ月だった。それから青島港から門司港に上陸し、昭和一五年二月、野戦重砲兵五連隊に帰り、五カ月位初年兵の訓練をし、一五年七月に除隊した。後、呉の知人を頼って行き、呉の海軍工廠で軍属として働き、日米戦争に召集されずに済み、終戦まで働き、昭和二一年沖縄に帰ってきた。


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