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    かけはし2020年3月30日号

沖縄県は勇気ある決断を


沖縄報告 3月22日

ベルトコンベアー設置認めるな

沖縄 K・S

3.19

県庁前で、知事に懸命の訴え

県は辺野古への土砂搬出に
協力してはならない!

 三月一九日午前八時から午後五時まで、那覇市の県庁前広場で、琉球セメントの土砂搬出に協力しないよう訴えるアピール行動が行われた。朝から雨が降ったり止んだりのあいにくの天気の中、辺野古、宜野湾、本部など各地の人々が入れ替わり立ち代わり集まり、のぼりやプラカードを掲げて、道行く人や車に訴えた。
 横断幕には大きく「デニー知事、埋め立てを加速させる塩川港のベルトコンベアー設置を認めないで!」と書かれている。マイクからは、「みんなが見守っています。沖縄県は勇気ある決断を」との訴えが響きわたった。また、ジュゴンとウミガメが「命どぅ宝」のカードを持って「デニー知事チバリヨー!」と言い、「防衛局からの二つの許可申請にNOを」と呼びかけるチラシも配布された。
 
塩川港のベルトコンベアー設置反対!

 辺野古新基地の埋め立て工事計画はすでに破綻している。海面下九〇mにおよぶ軟弱地盤の改良工事はめどが立たない。埋め立て予定地の下方に広がる辺野古断層には手の施しようがない。工事は何ら影響がないと強弁していたジュゴンは住処を追われ、一頭は死に他の二頭は行方不明となった。移植を行ったサンゴは死んでいる。ウミガメは産卵場所を失った。県知事、県議会、県民投票で示された民意がすべて県民ぐるみで異議を唱えている。
しかし、政府防衛局は破綻した計画にしがみついて埋め立て工事をやめず、埋め立ての速度を速めようと躍起になっている。本部塩川港でのベルトコンベアー設置と琉球セメント安和桟橋の旧桟橋の継続使用がそれだ。政府防衛局の役人たちは、港湾法の条文を盾にベルトコンベアー設置の認可を迫ってくる。港湾法 第一三条二には「港務局は、何人に対しても施設の利用その他港湾の管理運営に関し、不平等な取扱をしてはならない」とある。
例えば、A社とB社がともに辺野古への土砂搬出のための港湾使用を申請したと仮定した時、A社には許可、B社には不許可とするような取り扱いを「不平等」というのであって、「辺野古行きの土砂」と「それ以外の土砂」の扱いを区別するのは「辺野古新基地反対は県政の柱」「埋め立て承認撤回は生きており、埋め立て工事は不法」とする県の立場からして当然だ。
国は県の自治、自主的な行政を奪おうとしている。屈してはならない。

3.16

辺野古・大浦湾

強い波風に抗し、
カヌー12艇が海上行動


夜が明けると、雲が広がってはいたが、ところどころ青空が顔を出し風もなく穏やかな天気だった。絶好の海日和かなと思いきや、海上は風が強く波も立つ難しいコンディションだった。しかし、波風に抗し、カヌー一二艇は辺野古の浜を漕ぎ出してK8護岸へ向かい、平和丸、勝丸も現地へ向かった。
平和丸がK8護岸付近に着くと、ちょうど空のランプウェイ台船が離岸していくところだった。土砂を満載の別の台船は長島の島陰に隠れていてよく見えなかったが、入れ替わりにK8護岸に向かってゆっくりと進んできた。ダンプはまだ来ない。土砂を降ろすのにはまだ大分時間がかかりそうだ。
カヌーチームは船に乗り込みカヌーをけん引してK9護岸に向かった。K9では、土砂の積み下ろしが進行中だったので、時間調整のため、弾薬庫崖下のウミガメの産卵場造成の現場を確認した。フロートで囲われた現在埋め立て工事中の浜には、以前ウミガメが産卵していた場所がいくつかある。防衛局はそれらを破壊した代償に弾薬庫崖下に新たにウミガメ産卵場をつくっているのだ。
ウミガメは生まれた場所に戻るDNAをもっている。人為的に産卵場を作ってもやってこない。ウミガメを呼び戻すには埋め立て工事をやめる以外ない。
カヌーチームはK9、台船の離岸に合わせて、いっせいにフロートを乗り越えて台船に突進したが、海に飛び込んだ海上保安庁の職員にカヌーをつかまれ拘束された。一時間近くも現場で拘束されたのち、海保のゴムボートに乗せられ、ゆっくり大浦湾の海側の開口部まで運ばれ解放された。その後、平和丸に乗り込みカヌーをけん引して辺野古の浜に戻った。
第二テントに戻り弁当を食べて後片付けを済ますともう、三時前。本日の海上行動は終了した。

<カヌーチームTさんの報告>


3月16日月曜日 大浦湾

晴れ、風は八〜一〇m/s、波高は約1・5m

本日はカヌー二班体勢、K8までカヌーを自力で漕ぎここから抗議船に乗りK9護岸に向かった。途中、防衛局がウミガメの産卵場所を作っているので立ち寄る。
前もこのことを取り上げたが、今日再び現地を訪れ「この茶番はなんだ」と強く思った。巨大な台船を砂浜に近づけ、砂浜に上陸したユンボが砂を掘り返し、近くの木をなぎ倒し、ウミガメのお家を作っている。少なくとも国民の税金を使い、このような工事を大々的にやるならば国民に詳細を説明する義務と責任があると思う。
いったん瀬嵩の浜に上陸し休憩を取った後、K9護岸に向かった。すでに赤土を下ろし終えた空のランプウェイ台船が接岸している。そろそろ入れ替えのタイミングである。私たちは波風強い海にカヌーを進めた。離岸のタイミングで、全員フロートを越えて抗議活動&阻止行動を展開した。しかし、多勢に無勢、あえなく拘束されたが、カヌーと海上保安庁がこの辺でごちゃごちゃしていることにより、推定では三〇〜四〇分はランプウェイ台船は遅れたと確信する。

3.18

琉球セメント安和桟橋ゲート出入口で、赤土土砂の搬出に抗議


本部半島の山を削った赤土土砂を辺野古の海に運搬することに反対する抗議行動は連日行われている。三月一八日木曜日も島ぐるみ南部を始め地元本部や宜野湾、本土からの参加者により、琉球セメント安和桟橋の出入り口で、抗議行動が行われた。入口ゲート前では、数人の防衛局職員、数人の警官、一〇人ほどの警備員が出て、抗議行動を規制しながら土砂運搬ダンプを誘導した。
左側から右折で入る車両も、右側から左折で入る車も入口ゲートに殺到した。一回の信号の変わり目に、ゲート前を通過するたくさんの車の合間をぬって、多い時には四台ものダンプがぞろぞろとゲートに入ってくる。そのたびにゲート前の抗議の行動にさえぎられ、直進車両が車線を変更したり、急ブレーキをかけたりと、ゲート前は一触即発の状態に陥る。しかし、防衛局や警官はお構いなしだ。いくら工事を急げ、との指示があったとしても危険すぎる。安全のため、右側からの左折を止め、左からの右折は一回の信号に一台とすべきだ。
ゲート入り口と出口では、のぼりとプラカードを掲げ、マイクで「土砂を辺野古の海に運ぶな」と訴えながら抗議行動をやりぬいた。
他方、海上では、カヌー一四艇が桟橋横の砂浜にそろい、土砂運搬船の出航を止める行動をやりぬいた。この日、ベルトコンベアーの状態が悪いようで作業が九時過ぎから始まったため、運搬船の土砂の量が満杯になるのに午後までかかった。海上行動は午後の一回のみだった。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(10)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は竹富町の証言を見る。(敬称略)引用は原文通り、抜粋。省略は……で示した。
宮良さんは、一九三七年七月七日の盧溝橋事件のあと、日本軍拡大派兵の日本政府方針のもとで、同年九月歩兵として上海に上陸参戦した。この部隊は、上海、蘇州、武漢、杭州、海南島などと常に戦闘の第一線に身を置いて戦ってきた部隊である。それゆえ、日本軍の戦時暴力の数々を身をもって体験してきたはずだが、いっさい触れられていない。
しかし、二度目の召集でニューギニアへ送られた時の悲惨な状態については簡潔に書かれている。まさしくニューギニアは地獄の戦場であった。兵隊一人ひとりの命を粗末にする天皇の軍隊の非人間性について、飯田進『地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相』(新潮新書、2008年)などに詳しいが、やはり、「ニューギニアの密林で、極限の状況裡にあって、飢え渇えた末に、孤独に淋しく空しく死んでいった名もなき多くの兵士たちの亡霊に向かって、私は『天皇を撃て!』と、死ぬまで慟哭しつつ叫びつづける」と書いた奥崎謙三の訴えに耳を傾けてほしい。『ヤマザキ、天皇を撃て!』(三一書房、1972年)

『竹富町史』第12巻 資料編「戦争体験記録」(1996年発行)
宮良透「日中戦争から太平洋戦争へ」

 私は昭和十二年九月一日、台湾歩兵第一連隊第四中隊 に入営した。予備役召集訓練中の九月十日、日支事変の拡大に伴い、出動の命令を受けたので九月十一日、基隆港から軍艦「鹿島」に乗船して同十二日午前四時三十分、中国上海港ウースン砲台付近に上陸した。船内で配備されたのは、三八式歩兵銃に実弾二百発だった。
 第十五師団大阪連隊と交替し、上海城内に入城した。
 海軍陸戦隊の苦戦の様子が窺われた。……その途中に敵の一斉射撃を受け、鹿児島出身の肥後上等兵は腹部貫通という重傷を負い戦死した。
 敵は、手榴弾を使用して接近戦を挑んで来ていた。クリーク川の中で夜を待ち退却した。遺体を中隊本部に安置して全員で通夜を執り行った。翌十九日午後二時、総攻撃を開始したが、まもなく竹富島出身の戦友である大山昌夫上等兵が首を貫通されて戦死した。攻撃開始後七時間余、ようやくにして羅天鎮要塞のトーチカ陣地が攻略した。この戦線における中隊の戦死者は八人という尊い犠牲者を出して上海羅天鎮戦を終えた。
 部隊は上海市内に集結し三日間の休養が与えられた。その後九江蘇州戦へ追撃を始め、敵味方の激しい戦闘があって、小野中隊長が頭部貫通で戦死した。中隊長代理として村上少尉を迎え、中隊は本部付きとなり、揚子江上流に前進した。漢口、漢陽、武昌県を占領した。武昌の飛行場には一番乗りを果たし、二週間の北京城内の警備に当たった。
 私たちはこの辺で台湾に帰るものだと思っていたが、汽車に乗せられ、広東に滞在し警備を命ぜられた後杭州省に入った。……
 知事の依頼で、「平和な城内を荒らす賊軍を退治してほしい」という要請を受けて山岳戦を行い、その方面の民家全部焼き払うことにした。杭州城内の警備の中で、台湾部隊は海南島作戦の命令を受けて海南島を占領し、軍命令により、復員をすることになり帰還を果した。
 昭和十七年八月三十日、再び赤紙の召集令状を受領した。当時の台湾総督府の海軍大将は長谷川清であった。『同日午前十時に総督府に出頭せよ』との命令であった。任務は、台湾特設勤労団を引率して南方ニューギニア派遣団として送ることであった。……
 ウェワク半島には台湾の警察官の引率した高砂義勇隊が海軍部隊に配属されていた。……
 隊員は食べ物もなく栄養失調のうえ、熱帯の風土病、特にニューギニアは悪性のマラリアが猛威を振るい、隊員の死亡が続出した。日課は、死体の埋葬を行うことだった。このような状況が二十日間も続けば全滅するのではないかと思っていた矢先に、米兵が上陸して来た。そして、「日本兵は全員向かいの小島・ムシュ島に集結せよ」との命令を受けた。
 その時私は敗戦を知った。ただ、残念なことは、ハンサ地域に配置された下地中隊長以下五十人は、その地で全員玉砕してしまったことである。他の三個中隊は半数が生還したと聞いた。

3.2

東京・防衛省申し入れ行動

辺野古基地建設 土砂投入ヤメロ

 三月二日午後六時半から、辺野古への基地建設を許さない実行委員会の呼びかけによる月例防衛省申し入れ行動が行われた。
 辺野古実の仲間が最初に訴えた。
 「@県は埋め立て承認撤回のための裁判を起こしている。A国は埋め立て設計変更申請を三月中にも出そうとしているが認めるわけにはいかない。政府は昨年末に、工期の大幅延長、工法の変更、工費の大幅増加を認めた。護岸を作らなくて、直接土砂を投入することなどを技術検討委員会に出し、そのお墨付きを得ようとしている。大浦湾の軟弱地盤の問題についても、問題ないと言っている。設計変更を認めず、埋め立てを中止せよ」。
 沖縄から安次富浩さん(ヘリ基地反対協共同代表)が電話でアピールした。
 「コロナウィルスで混乱が生じている。沖縄は米軍基地を抱えているので、海外で訓練した米兵が戻って来る。新たな危険が迫っている。中国・台湾・韓国からの観光客は減っているのに、米軍は出入り自由だ。こうした矛盾を沖縄は持っている。この問題をどうするのか、政府に突きつけていこう。埋め立ては続いている。機動隊による座り込みに対するごぼう抜きは続いている。濃厚接触そのものだ。機動隊は辺野古に来るな」。
 「軟弱地盤の調査結果が出ているのに、御用学者を使って埋め立ては大丈夫だと結論づけている。これはコロナウィルス、技術検討委員会、国会での答弁と同じ構造を持っている。首相単独で決定する。こんなことはありえない。民意を無視し、埋め立てを強行するアベを許さない」。
 「六月に県議選がある。知事を支える県議を過半数獲得する。安倍政権を変えていくエネルギーを皆さんも発揮してほしい。アベをいつまでも続けさせるわけにはいかない。沖縄・日本の輝く未来のために」。
 次に参加した「沖縄に基地はいらない川崎」、沖縄と結ぶ八王子、琉球遺骨返還訴訟、沖縄の女性が殺害された四月二九日を忘れない仲間、大軍拡予算を批判するアクションなどのアピールが行われた。(M)


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