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    かけはし2020年3月30日号

何のため?南西諸島の軍事拠点化


投稿

宮古島の自衛隊基地を訪ねて

広い青空の下の異空間

尾形 淳(南西諸島への自衛隊配備に反対する会[大阪]会員)


 前号につづき、自衛隊による南西諸島の自衛隊軍事拠点化が進む現実への尾形淳さんのレポートを掲載します。あらためて沖縄本島の米軍基地の再編強化と、南西諸島への自衛隊配備を共に見すえた分析と運動の広がりを追求していくことが必要になっています。なお紙面の関係上、石垣島の地図は省略しました。(編集部)
 

空と交わる宮古島
の地平線から
 白い雲を浮かべた宮古島の空は、遠くの低い丘陵の緑に向かって大きく広がっていた。そう、海の水平線ではなく、地平線に向かって。そんなに大きな島でもないのに、空は地平線と交わっている。長い橋を渡って下地島から宮古島を遠望すると、その理由がよくわかる。宮古島は墨を含んだ筆で水平線に一の字を書いたように低く、平らに浮かんでいる。
 そもそもサンゴ礁からなる琉球弧の島々には高い山がない。その中でも、とりわけ宮古島は低くて平らである。最高地点は一一四メートル。だから内陸部でも、空は大きく地平線に向かって広がっている。
 その広い空を切り裂くように二基の大型レーダーが立つ野原(のばる)岳の標高は一〇九メートル。もちろん、深刻な電磁波被害をもたらしている。野原岳の山麓の千代田には陸上自衛隊の宮古島駐屯地があり、億ションと噂される自衛隊員の家族用住宅や、兵舎が建設中である。
 下地島には、ほとんど使用されていない空港があり、滑走路は沖縄で最長の三〇〇〇メートル。当然、軍事空港化の可能性が語られている。訪問の二日目に下地島を訪れた。朝からの休みなしの行動、その上、夏日の宮古島。私は喉がカラカラに乾き、空港に着くとすぐに飲料水を求めて空港の正面玄関に。しかし、そのドアはピクリとも動かなかった。
 宮古島の海も印象深かった。白い砂浜に岩礁、それを取り巻くライトブルーの海、そして、サンゴ礁に押し寄せる白い波と外海の濃いブルー。私たちはそのきれいな海を、砂浜から、小高い丘から、断崖から、おそらくは普通の観光客よりも堪能したのではなかろうか。

対中戦略の前線
軍事拠点として
海岸といわず、内陸部といわず、基地は島中にある。前述した基地のほかにも、準天頂衛星追跡管理局、弾薬庫建設が進められている保良(ぼら)鉱山跡地、米軍と海上自衛隊の護衛艦、空母を着岸させるための浚渫工事が進む平良港、尖閣諸島監視の海上保安庁の巡視船を係留する伊良部島の長山港、離島奪還作戦の軍事演習を行う渡口の浜等がある。これらの基地のほとんどすべてを、「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」のSさんが車で案内してくださり、その行程は図らずも、宮古島一周の旅になっていたからである。
私は少し宮古島の広い空にこだわりすぎているのかも知れないのだが、その広い空の下の広い窪地で進められている、保良鉱山跡地での弾薬庫建設現場が取り分けて印象深かった。それは数カ月前にテレビのドキュメンタリー番組で見た、オーストラリアの露天掘りの鉱山を彷彿とさせてくれた。
Xバンドレーダー基地がある丹後半島でも、原発の立地地域でも何時も感じるのだが、人は必要のないものを、人に害を与えるものを景観を破壊してまでなぜ、作るのだろうか。
与那国島―監視部隊等、二〇〇人、石垣島―地対艦、地対空ミサイル部隊等、六〇〇人、宮古島―地対艦、地対空ミサイル部隊等、八〇〇人、沖縄島―一五師団司令部、三〇〇〇人、奄美大島―地対艦、地対空ミサイル部隊等、六〇〇人。
中国海軍―兵力二五万五〇〇〇人、駆逐艦二六隻、フリゲート艦四九隻、揚陸艦五八隻、空母一隻(2艦目を建造中)、潜水艦六〇隻(そのうち原潜6〜8隻、2025年には78隻に)を有し、その上、中国はステルス戦闘機も所有しているという。そして何よりも、中国は日本の嘉手納、横田、三沢と在韓の米軍基地を機能不全にすることができる、八〇の中距離、短距離の弾道ミサイルと三五〇の地上発射クルーズ・ミサイルを所有しているという(孫崎亨著―「日本の国境問題」より)。
一〇〇〇キロ以上も距離がある南西諸島に、ゴマのように自衛隊をばら撒いて、日本政府は何をしようとしているのだろうか。
最後になるのだが、この訪問の時にはハンセン病療養所「南静園」も訪問した。その際には戦前から戦後に続く差別の実情だけではなく、沖縄戦時の米軍の空爆時に患者を見捨てた日本軍の実態など大変貴重なお話を伺ったのだが、本文の趣旨とは少し外れるので、その話の紹介は別な機会に譲りたい。

映評

映画「Fukushima50」

50人の英雄が国を救ったのか?

赤井 岳夫


 東電福島第一原発事故直後の現場で、「破局的事態」を回避するために、必死で作業に当たった作業員たちを描いた「Fukushima50」が、三月六日全国公開された。全世界七三の国と地域での上映がすでに決定されたそうだ。
 いわき市の映画館で早速その映画を観た。コロナウイルスの影響で、どれ程の観客が集まるかと危惧していたが、五〇〇人位はいただろうか。幅広い年代の人々が、熱心にスクリーンを見つめている。
 その観客たちの横顔を見ながら、「ああ……この中には双葉郡から避難している人もたくさんいるのだろうな」「実際に原発事故の収束作業に当たった人もいるかもしれない」などと心の中でつぶやいたりした。
 しかし、そんなボンヤリ感は、冒頭の地震のシーンで吹き飛んでしまった。リアルなCGで、三陸沖でのプレート破壊、押し上げられる海面、立ち上がる大津波が再現され、「あの時」の恐怖がよみがえってきた。経験したことのない揺れ、それが永遠に続くかと思うほど続き、そして押し寄せる津波は二万人の命を奪った。
 その大津波が東電第一原発を襲い、原子炉冷却装置を動かすための発電機が水没し、SBO(全交流電源喪失)となり、事態は悪化の一途をたどった。
 原子炉が「空焚き」状態となり、内圧が設計時の許容圧力の二倍となった。このままでは原子炉が爆発してしまう恐れもでてきたため、圧力を逃がすための「ベント」作業が開始された。
 その作業全体を指揮したのが吉田昌郎所長(渡辺謙が演じた)であり、現場でその作業にあたったのが当直長の伊崎利夫(佐藤浩市が演じた)と五〇人の当直員であった。
 高線量の建屋内に入り(実際95ミリシーベルトを浴びた作業員もいたことが描かれている)、二〇分しかもたない酸素ボンベを背負い、全面マスクと防護服を着用しその作業にあたる「決死隊」を募るシーンが,観ていてとても辛かった。迷いながらも「俺行きます」と手を挙げる者、いったん挙げた手を震わせながら下げる年配作業員。

◇  ◇  ◇

 死の恐怖と闘いながら「志願」した者たちの思いは何だったのだろう? 劇中で、家族に「子供たちを頼む」とメールを送る場面があった。
私は、「家族を守りたい」という情愛が「国を守る」にからめとられていった侵略戦争の過程をふと思い出した。先のメールは特攻隊兵士の遺言なのか? 二つを結びつけることは論理の飛躍なのだろうか?

◇  ◇  ◇

 このような危険な状況下で作業を続ける現場に対し、東電本店は優柔不断・右往左往・自己保身に終始した。本店からの電話でいら立つ吉田所長が激高し「だったら現場来いよ!」と受話器をたたきつける場面があった。
一方、時の民主党政権菅総理大臣の「イラ菅」ぶりも、現場をかき回した迷惑な存在として描かれている。東電幹部を怒鳴りまわし、「撤退などしたら東電はつぶれるぞ!」と恫喝。
挙句の果ては、ベント作業準備中の第一原発にヘリコプターで視察に来る(その間はベント着手は見送られた)。はた目には「スタンドプレー」と見えなくもないが、菅総理には、従来の東電への不信感があり、「このまま放っておくと逃げ出すのではないか」という危機感が強かったのかもしれない。菅議員は、この時の思いをもっと社会に語るべきではないか。
そうでないと、東電本店と菅総理が、原発事故収束作業を遅らせたとの歴史的評価が定着してしまうのではないかと思うのであるがどうだろうか。
2号機の爆発となれば、炉内の放射性物質が大量に放出され、東日本全体が人の住めなくなることも想定された。炉内の圧力が急速に減少し、そのような破局的事態にならなかった原因は、今もって不明である。

◇  ◇  ◇

 評論家の池澤夏樹は、三月四日の朝日新聞で次のようにこの映画を批評している。
「たしかに現場の人々の死を覚悟の奮闘は称賛に値する。こういう人たちがいてくれて本当によかった。しかし日本が救われたのは、万策尽きた後で2号炉がなぜか『決定的に壊れずにすんだ』からだ(「福島第一原発事故 7つの謎」NHKスペシャル「メルトダウン」取材班)。この過程は今に至るも解明されていない。
偶然のおかげで死の淵から帰れたのは吉田所長とその配下の人々だけではない。この国そのものがかろうじて生還したのだ。われわれはそれを忘却している。この映画が強烈なリマインダーとなればいいとつくづく思う」。
映画の中で、わたしが一番印象に残ったシーンがある。東電幹部がマスコミから逃れるように本社ビルに駆け込む。その背中に向かって、福島県のローカル新聞の記者が叫ぶ。
「福島はこれからどうなるんですか!福島に希望はあるんですか!」と。

追悼

(一般社団法人三里塚大地共有運動の会のブログからの転載)

石井紀子さんの急逝を悼む

山口幸夫(一般社団法人三里塚大地共有運動の会代表理事)


 突然の悲報が届いた。三月一一日、三里塚で生き、闘い続け、「ワンパック野菜」の運動などで現地と支援の人びとをつないできた石井紀子さんが、交通事故のため亡くなった。三里塚大地共有運動の会の山口幸夫さんの追悼の言葉を転載する。(編集部)

 信じたくないことだが、三里塚の石井紀子さんが三月一一日の夕刻、帰宅途中に交通事故で亡くなった。一九五二年一二月一八日生まれ。六七歳と二カ月の人生を、差別と闘い、三里塚を闘い、全力で駆け抜けていった。
 全共闘運動が盛んだった高校生時代に社会主義研究会に入り、七〇年安保、制服廃止、卒業式粉砕などをたたかって七一年に法政大学に入学。そこは学生運動のメッカだった。田中美津のウーマン・リブ運動に共鳴し、学内に女解放学生戦線をつくって活動した。
 三里塚には七一年の第二次強制代執行阻止闘争に労学連を通して、リブの人たちと一緒に参加。現地に行ってみて、三里塚は男の闘争でしかないとリブの人たちは労学連と分れ三里塚を放棄したが、紀子さんはその理屈に納得せず、独りで三里塚に通った。
 学内で議論に明け暮れている男たちとは違う魅力が青年行動隊にはあり、青行のひとりの石井恒司さんと七五年に結婚。反対同盟の農家の嫁という立場になって、「百姓を一人前になるには一〇年かかる」、「この仕事は二、三年たたないと出来ないから」などと、さんざんに苦労する。
 わたしが紀子さんと出会ったのは七六年にワンパック野菜の産直運動が始まってからである。小泉英政さんが、ベトナム行き戦車を阻止しようとする相模原の「ただの市民が戦車を止める」会と「くらしをつくる会」の運動に共感して、始めたのがこの運動である。誤解を恐れずに言うと、小泉さんは三里塚闘争の行く末を考え、展望がなかった青行に希望を抱かせ、ワンパックという運動を始めたのである。石井恒司・紀子さんはワンパック野菜運動に最初に共鳴した夫婦である。この運動に現地で加わったのは、小泉美代、島寛征・ひさ子、石井新二・順子、小川直克・篤子、山口義人、染谷かつ、田中富美、下野啓子、守田力、外山哲さんらである。
 九七年、小泉さん夫婦はワンパックを離れ循環農場を始めたが、ワンパックという名前は残った。その後、ワンパック農家も入れ替わりがあり、恒司さんと離婚したのち、紀子さんはワンパックに野菜を出荷し続けながら、三里塚の情報を発信し、独自の紀子パックを始めていた。
 ワンパック野菜に初めから熱心に取り組んでこられた近藤悠子さん(元婦人民主クラブ代表)が去年一一月に亡くなった。近藤さんを尊敬していた紀子さんは、お通夜の晩と翌日のお葬式に三里塚からかけつけてくれた。たいへん思いやりのあるひとだった。
 ワンパック野菜に入ってくるチラシ「本日の野菜」には生産者の声が交代で載る。紀子さんが書いた最後の記事は一月二九日付で、「冬の畑」と題して、三里塚の四季の畑の様子とその中の暮らしを生き生きとつづり、「大好きな冬の畑に今日も出かけていける幸せな日々です」と結んでいる。その幸せの日々は終わってしまった。謹んでご冥福を祈る。 二〇二〇年三月

 写真は、今年1月12日、三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人・柳川秀夫)主催の「2020反対同盟旗開き」(横堀農業研修センター)で発言する石井紀子さん。

 


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