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    かけはし2020年10月12日号

われわれは不屈だ! 負けないぞ


沖縄報告 10月4日

辺野古埋立変更申請に1万5千の意見書

沖縄 K・S

10.3

辺野古ゲート前に700人

7カ月ぶりにオール
沖縄会議の県民大行動

 

 一〇月三日第一土曜日、三〇度を超える真夏日となった辺野古ゲート前で、七カ月ぶりに、オール沖縄会議による県民大行動が行われ、全県各地から七〇〇人が結集した。会場のあちこちでは、しばらくぶりで会う人々同士のあいさつと談笑の輪が広がった。辺野古のバス停には大型バスやマイクロバスが次々と停車し、参加者の列がテント前に続いた。久志の駐車場は参加者の乗用車で満杯となり、送迎車がピストン輸送で参加者をゲート前に運んだ。
今回は、コロナ感染防止対策を徹底して開催され、事前事後の行動を省き、午前一一時から一二時までの集会のみで実施された。バス乗車にあたっての参加者の体温チェック、手指の消毒、バス内のマイクの消毒、集会中の人と人との距離の確保なども実行された。この日朝の「新報」、「タイムス」は、辺野古埋立変更申請に対し県に提出された意見書の総件数が一万五千件を越えたと県が暫定集計したことを伝えた。

共同代表4人
のあいさつ


集会は一一時、現地闘争本部事務局長の岸本さんの司会で始まり、はじめに、主催者のオール沖縄会議の共同代表のあいさつが行われた。高里鈴代さんは「埋立変更申請に対する意見書は一万五千件以上寄せられた。玉城デニー知事が自信をもって不承認を出すことができる。ゲート前座り込みの七年間に亡くなった方々を思い起こし、遺志を受け継ぎ、工事を止めるまで頑張っていこう」と呼びかけた。
衆院議員選挙4区のオール沖縄候補の金城徹さん(新しい風・にぬふぁぶし)は、「ハイサイ、グスーヨー、チュウウガナビラ(みなさん、こんにちは、お元気ですか)」と切り出し、「活断層、軟弱地盤で辺野古の工事は絶対にできない。沖縄の民意は確固としている。辺野古新基地計画を撤回させよう」と述べた。前連合沖縄会長の大城紀夫さんは「変更申請に反対する意見書の運動は全国、全世界に広がった。私もメールで意見書を提出した。必ず工事を止め、原状回復させる」と訴えた。前名護市長の稲嶺進さんは、「菅政権による学術会議の会員六人の任用拒否は大問題だ。この国には未来がない。ウチナーから変えていくという強い決意をもって闘い抜こう」と述べた。
玉城デニー知事のメッセージはオール沖縄会議事務局長の福元さんによって読み上げられた。玉城知事は「意見書が一万五千件を越えたことは多くの人々が関心を持っていただいた結果だ。政府は民意を無視して工事を強行している。辺野古に新基地は造らせないという公約を実現するために全力をつくす」とアピールした。

国会議員4人
も連帯の発言


そのあと四人の国会議員の発言が続いた。参院議員で社大党委員長の高良鉄美さん「国会で感じることは、政権が憲法違反を繰り返しているということ。憲政七〇年の今年、憲法違反を繰り返すのは大変な問題だ。菅政権は墓穴を掘っている」。
参院議員の伊波洋一さん「集会参加の皆さんは本当に元気そうだ。安倍は七年八カ月で退陣した。われわれは安倍に勝った。菅にも勝とう。海兵隊の大半がグアムへ移転するのは既定の事実。一四〜五年かかる辺野古を造ってどうしようというのか。沖縄に犠牲をしわ寄せするな。環境破壊をやめよ」、衆院沖縄1区選出で、共産党県委員長の赤嶺政賢さん「先の県議選で当選した七人全員が参加している。感謝する。辺野古は行き詰っている。日本の政治を変えよう」、立憲民主党に合流した衆院3区選出の屋良朝博さん「学術会議の問題を見よ。イージス・アショアが中止されても辺野古唯一で工事が強行される。九三〇〇億ではおさまらない。なんという税金の無駄遣い。すべて、もはや政権交代以外ない。住民の手に政治を取り戻そう」と、それぞれ訴えた。
さらに、県議会会派の「てぃーだネット」(立憲・国民・にぬふぁぶし・無所属)の山里将雄さん、会派「おきなわ」の平良昭一さんが決意を述べた。
そのあと、北上田毅さんが埋立変更申請の問題点について説明し、「このあと名護市との協議がある。玉城知事は不承認とするだろうが、その間も防衛局による工事は続く。県は毅然とした対応をすべきだ」と述べた。

市民団体報告
と決意の表明


最後に、現場で闘う各団体の報告と決意表明が行われた。うるま市島ぐるみの宮城事務局長は「意見書の取り組みを報告する。学習会に九〇人集まった。一〇〇〇人の会員に対し意見書提出用のハガキを送った。うるま市の宮城島から土砂搬出が計画されている。安和鉱山の写真はショックだった。止めなくてはいけない」と述べた。
ヘリ基地反対協議会の仲本興真さんは、カヌーチームと共に前に立ち、「座り込みは六〇〇〇日を越えた。今日も辺野古の海でカヌーと抗議船が行動を続けている。これからも長い闘いになる。子や孫に負の遺産を残したくない。頑張り抜こう」と述べた。本部町島ぐるみ会議の高垣さんは、琉球セメント安和桟橋と本部塩川港からの土砂搬出に関して詳しく報告した後、「ともに土砂搬出を止めるため、塩川に、安和に来てほしい」と訴えた。
島ぐるみ八重瀬の会の沖本さんは、島ぐるみ南部を代表する形で、安和の闘いの報告と決意を述べた。
「塩川と安和から、毎日、ダンプ一〇〇〇台以上の土砂が運ばれ、辺野古の海に投入されている。埋立を止めるためには本部半島からの土砂搬出にストップをかけなければならない。安和は、九時、一二時、三時と搬入時間が決まっている辺野古ゲート前と違って、朝から夜まで休みなく土砂の搬入がある。安和の現地に結集しよう。各地の島ぐるみは、県民民意を体現する実働部隊として、現場で力を発揮しよう」。
そのあと、現地闘争本部の山城博治さんの「沖縄は不屈だ。負けない」とのアピール、泰さんリードによる歌「今こそ立ち上がろう」、ガンバロウ三唱で集会の幕を閉じた。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(三二)

日本軍による
戦争の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回紹介する城間さんの体験記は、県民にとって、日本軍の中国侵略と沖縄戦が一つのつながりを持ったアジアの戦争であったことを浮かび上がらせている。引用は原文通り、省略は……で示した。

「西原町史」第3巻資料編2
「西原の戦時記録」(一九八七年発行)

城間精徳
「私の十五年戦争」


私は人生で最も大事な時期である働き盛りを戦争によって翻弄された。昭和一一年、徴兵検査を受け甲種合格した。翌年の一月一〇日、久留米第48連隊3中隊に入隊した。その後、私たち三年兵だけは北海道部隊に転属になった。北海道部隊の留守部隊はチチハルに駐屯していた。旭川第26連隊である。その連隊は少数の留守隊だけを残して、ほとんどがノモンハンに出動していた。……
ノモンハン事件(満蒙国境で日ソ両軍衝突)は五月から勃発していた。私たちが現地に着いたころは小康状態で、日ソ両軍が対峙していた。ハルハ河という川をはさんで何十万の日ソ両軍が対峙していた。日本の地図ではハルハ河が国境になっているが、ロシアの地図ではハルハ河を越えて満州領内に国境線が引かれていた。蒙古は形式的な独立国で、実際はソ連の属国であった。そこの国境紛争からノモンハン事件が勃発した。
最初、ロシア兵がハルハ河を越えて満州領内に進攻してきたので、わが日本軍は応戦してハルハ河まで追い返した。そこで、ハルハ河を境に両軍が対峙することになった。川向う側にソ連軍が陣地を構え、こちら側には日本軍と満州軍が陣取っていた。
八月に、ソ連軍は再び領土を取り戻そうとして進撃してきた。私たちは、この戦争に参戦した。私は七月から参戦したので、六月の応戦(ソ連軍をハルハ河向うに追い返す戦い)には参加していない。その時、日本軍は甚大な損害をこうむったので、その兵員の補充として我々が呼ばれたのである。
八月にはソ連軍が進攻してきて、日本軍は再び壊滅的打撃を受けた。ソ連軍の戦車は蟻が群がっているようであった。その戦車部隊の総攻撃を受け、友軍(日本軍)は全滅させられた。あそこの地形は、一見地平線の彼方まで平坦なように見えるが、実際はあっちこっちに窪地がある。ソ連軍は現地の地形に詳しいので、その窪地を利用し、突然日本軍の真前に現れて攻撃した。……
その後、満州各地から我々の応援部隊がきた。本土からも支那からもノモンハンめがけて、続々と応援部隊が送り込まれた。ソ連が進撃してきたので、それを追い返すために大勢の応援部隊が来た。
その時、外務大臣がモスクワに飛び、停戦協定を結んだ。昭和一四年九月一六日午前七時、停戦協定が下された。ノモンハン戦は止んだ。……
停戦成立後、日ソ両軍の捕虜交換が行われた。また、両軍の戦死者の収容が行われた。元の陣地に行って置き去りにした負傷兵や戦死者を収容してきた。この収容作業は、ソ連軍の立ち合いのもとで行われた。停戦協定はソ連軍が進攻した線を国境とする案であった。
停戦後、ノモンハンで一か月ほど警備につき、その後チチハルへ行った。
昭和一五年三月末頃、チチハルから北海道に移った。北海道の小樽港に着き、そこから汽車で旭川に行った。
旭川に約一週間ほどいた。その時、旭川連隊で満期になり除隊となった。昭和一五年四月のことである。その足ですぐに、故郷沖縄に帰って来た。
私が乗っていた船が那覇港に着くと、誰も下船させないで憲兵が船に上がって来た。下船するため、みんな甲板に出ていた。各部隊から満期兵らも多数この船に乗っていたので、憲兵から満期兵だけは一か所に集合するよう命令された。
二、三〇人の除隊兵が集合した。そこで、憲兵が「その中にノモンハン帰りがおるか」と言った。私と別の人の二人が手を挙げた。憲兵が「よし、あんたたち二人はここに残り、他は解散してよい」と言った。私は何かなと思ったら、憲兵から、ノモンハン戦のことを口止めされた。家に帰って、銃後の国民にノモンハン戦のことを絶対に話してはならない。その戦闘状況は極秘になっているから、家族にも口外してはならないということであった。
私は満期になって帰った後、再び農業に従事した。私の家族は出征する前、両親と私の三人であった。父親は城間加那、母親は城間カナである。昭和一二年、私が兵隊にとられて半年後、四月に父親が亡くなり、それから一年後の一三年七月には母親も亡くなった。私が家に帰るまで家には誰もいなかった。妻とは私が満期になって帰る前に、手紙などで連絡しあって婚約していた。妻は那覇港まで迎えに来てくれた。帰郷後、結婚した。
……
昭和二〇年三月上旬頃、防衛隊に召集され、与那原に駐屯していた球部隊に配属された。現在の与那原テック跡付近に、友軍の海上特攻隊があり、そこに配属された。
その山から海岸までトロッコ用のレールを敷き、トロッコに特攻艇を乗せ与那原海岸まで運んだ。そこから敵の艦船を攻撃する予定であった。しかし、一隻も出撃しないうちに破壊されてしまった。……
私は三月に防衛隊に召集されてから家族とは全然連絡がとれなかった。妻は、旧五月五日に真玉橋付近で砲弾の直撃を受けて即死したことを後で親戚の人から聞いた。終戦後、妻の遺骨を取りに行った。



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