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    かけはし2020年10月19日号

新基地建設の大義なき現実くっきり


沖縄報告 10月11日

意見書、県を大きく越えて殺到

沖縄 K・S


埋立変更申請に意見書1万8904件

破綻した埋立工事を中止し新基地建設を撤回せよ!


 沖縄県は一〇月九日、沖縄防衛局の埋立変更申請に対して提出された意見書の件数が速報値で一万八九〇四件に上ることを発表した。七年前の埋立承認申請の際の意見書の件数が三三七一であったのと比べると、五・六倍にのぼる。県はこの後、確認作業に入り、住所・氏名のないものを除き、同一人物が複数出しているものは一件として、最終的な確定値を出し、「利害関係の程度を踏まえ、反映させる」という。
 多くの人々が「利害関係人」として自分の問題としてとらえ、議論し、意見書を書いた。辺野古埋立は、単に狭い意味の地元三区や名護市の問題にとどまらず、全県、全国、国外にまで広がりを持った大きな政治・社会問題になっている。政府は冷静に埋立工事の破綻を認識すべきだ。ところが、防衛省はすでに八月、軟弱地盤の改良工事に関して不同沈下についての調査業務を東京のコンサルタント会社など五社の共同企業体と契約したという。国策を進める政府はただ惰性で、米軍につながる国家指導層の利益を優先し、県民、国民の利益を考えない。
 沖縄防衛局は九月三〇日、辺野古側の埋立区域2―1が三・一mの高さまで終わったと発表した。最終的には八・一mまで埋め立てるので、まだまだ先は長い。八月末の土砂投入量は予定全体量の三・二%にとどまるという。破綻した工事をいたずらに続けるべきではない。
 一〇月一〇日は七六年前の一九四四年10・10空襲の日だ。この日、日本軍の中国侵略とアジア太平洋戦争の長い過程の最後の戦場、沖縄戦が始まった。那覇をはじめ沖縄は破壊された。日本政府は戦争をやめる決断をできた筈だ。しかし、しなかった。

10.5

海上行動に抗議船とカヌー10艇

海上から埋立中止を訴え


 一〇月五日月曜日、浜のテント2に集まった海上行動チームは、平和丸とカヌー一〇艇で埋立工事現場に向かった。まず、土砂運搬船の出入りする大浦湾の開口部へ。沖の方から三隻の運搬船が海上保安庁のGB(ゴムボート)に守られて通過していく。航路側でカヌーと船の上から、プラカードを掲げ、「土砂を入れるな」「埋立工事を止めよ」と訴えた。
 そのあと、五艇はK8護岸の土砂搬入に備えて、長島に上陸し待機、残る五艇は平和丸のけん引でK9護岸へ向かった。K9護岸では、ちょうど、土砂を満載した新たな台船が接岸しつつあるところで、護岸入口でダンプが列をなしていた。土砂を積み下ろすまでは二〜三時間かかる。しばらく監視を続けた後、カヌーチームはK8へ戻った。
 気仙沼のOさんの撮影した辺野古・大浦湾の上空写真に写されているように、海の色の濃淡によって海の深さも見てとれる。軟弱地盤が広がっているこの海を埋め立てて軍事基地を造ろうというのが机上の空論。米海兵隊の圧力を受けて防衛省の官僚と政治家が地図の上に図面を引いて作った、現実離れした新基地建設計画なのだ。早く引き返した方がいい。辺野古に固執すればするほど、とてつもない環境破壊、きりのない工期、青天井の工費が膨らむだけだ。長島にはさぎが一羽悠々と飛んでいた。
 長島で合流したカヌー一〇艇はしばらくして、K8護岸での台船の入れ替えのタイミングで、フロートを越え、行動をくり広げた。平和丸からは、沖縄を返せ、島人の唄、岩のように、など色々な音楽をバックに、新基地建設の中止を求めるアピールが流れた。カヌーが全艇拘束され、辺野古の浜に送り返されたのが昼前。午後は波が上がってきたためカヌー行動はとりやめ、ダイビングチームが大浦湾でサンゴの状態を確認する潜水調査を行った。
 なお、安和は先週、台風14号の影響でほとんど搬入はなかった。

宮城県からの参加者にインタビュー

闘い続ける沖縄を少しでも見習いたい


コロナ感染防止のために本土からの参加が控えられている中で、一〇月初めの約一〇日間、毎日元気よく、辺野古ゲート前に姿を見せて座り込みに参加していた男性がいる。宮城県の気仙沼9条の会のOさんだ。Oさんに話を伺った。

〇沖縄とのつながりは?

 関心は若い時から持っていた。一〇年前に初めて、妻と二人で来て、摩文仁や嘉手納、浜のテントを訪れた。以来、一五〜六回、来ている。一昨年は五回、昨年は三回。

〇今回の訪問は?

 今年は三月に来る予定だったが、コロナでダメになったのをはじめ、三回キャンセルになった。今度が四度目の正直だ。辺野古のクッションに宿泊している。一泊二〇〇〇円、朝食の差し入れがある。毎日ゲート前の座り込みに参加し、先日は土曜日の県民大行動にも参加した。月曜日は安和のゴーゴードライブもやった。

〇現地行動に参加しての感想は?

 一部の人ではなく、普通の市民が集まってきていることに感動している。そして、各地域に人前でスピーチできる人がたくさんいることはすごいこと。巨大な権力を相手に闘うために、長い時間継続する行動が大切だ。辺野古ゲート前の闘いは、沖縄の人々は平和的な行動だというが、本土から見れば、実力行動だ。七五年の歴史の蓄積を思う。

〇地域での運動は?

 気仙沼は人口六万余。表立った運動は少ない。9条の会を立ち上げて、超党派で、共産、立憲、社民、左派などが協力して毎月九日は9条の日のスタンディング、一九日は戦争法反対の行動、二五日は沖縄連帯行動と定めて取り組んでいる。大体一〇人前後が定期的に参加している。歩行者があまりいない。ほとんど車だ。沖縄方式を持ち込み、手ふりを始めたところ、反応はとてもいい。
気仙沼を含む宮城6区は元防衛相の小野寺五典の指定席。元秘書が気仙沼市長だ。これを何とか打ち破りたい。震災対策もゼネコン本位になっている問題がある。

〇変更申請に対する意見書の取り組みは?

 文章を書くというのは難しい。それでも会員を中心に取り組み、県に送付した。

〇コロナ感染は?

 気仙沼は四〜五人。それも全員完治した。そこから感染の進行する沖縄に来たものだから、帰ると、仲間たちからは、二週間の待機を求められている。

〇なぜ熱心に行動するのか?

 住民無視の新たな基地建設は絶対反対だから。ずっと闘い続けている沖縄を少しでも見習いたい。

〇最後に一言?

 沖縄に来るとき、飛行機から偶然、辺野古・大浦湾の上空写真をとることができた。FBにも上げたが、よく写っていて、自分でも興奮した。辺野古のためであれば自由に使っていただきたい。その際、一言FBで連絡頂けるとありがたい。

冊子『沖縄戦に動員された朝鮮人―軍人・軍属を中心に―』発刊

 沖縄恨之碑の会の会員で、 沖縄大学地域研究所特別研究員を務める沖本富貴子さんが、沖縄戦に動員された朝鮮人の経過と実態を詳しく調べ上げ、パネル形式にまとめた冊子が先月発刊された。琉球新報二〇二〇・一〇・九付の紙面に紹介されるや、各地からの連絡が絶えない、という。
沖縄戦における朝鮮人の実態については分からないことが多い。日本人の派兵とは全く対照的に、誰がいつ、どのように動員され、いつ、どこで戦死し、あるいは捕虜となったのか、そして何時帰還したのか、などについて、日本政府は詳細な記録を残さなかった。これ自身が朝鮮の人々に対する日本国家の暴力、無責任の極みだが、沖縄戦における朝鮮人研究がいまだに十分進まない大きな原因ともなっている。
竹内康人さんの先行研究の上に、沖本さんは地道に調査・研究を重ね、今回の冊子の発刊にいたった。内容は中高生も理解可能な、分かりやすいパネル形式で、簡潔な文章と写真、図とで全体像をつかむことができるように配慮されている。冊子の問い合わせ先は、発行=アジェンダ・プロジェクト(電話075-822-5035)。編著=沖本富貴子(携帯090-3794-0524)
著者に話を伺うと、「読んだ人からの感想が寄せられている。高校の先生は授業で取り上げたいと言ってくれた。若い人が冊子を見て、これからの日本とアジアの関係を考える材料として欲しい」と語った。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(33)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文通り、省略は……で、補足は〔 〕で示した。

「宜野座村誌」第2巻 資料編1「移民・開墾・戦争体験」(一九八七年発行)

吉田義勝「日中戦争と朝鮮での戦争体験」

 私の家族は古知屋で一八人の大所帯で農業をしていました。私は宜野座尋常高等小学校卒業後、家の手伝いをしていましたが、不作が続き家族が餓死寸前にまでなりました。父は二百五十円の大金を借金し、それで家族の生活の目途は立ちましたが、借金返済に追われる毎日が続きました。大正一五年頃、私は字の小使を日給五銭で四か月間勤めましたが、そのまま沖縄で働いては返せないと思い、大阪へ二、三か年出稼ぎに出ました。
昭和二年、金武村役場から徴兵検査通知が届いたので、大阪から沖縄に帰って来ました。徴兵検査は、名護尋常高等小学校で行なわれました。軍医によって、目や指、淋病などの伝染病、その他、全身の検査が厳密に行なわれました。受検者の中には、親が検査に通らないことを願い、粗末な物を食べさせてやせさせたり、けがをさせたりして、徴兵を免れる者もいました。
昭和二年(一九二七)一月一〇日、熊本県の陸軍野砲隊に入隊、第6連隊第1中隊に配属されました。
入隊後四か月間は訓練期間として、馬乗りや観測班 (敵と味方の距離を計測して大砲の弾をどこに落すのかを知らせる係)としての厳しい訓練を受けました。……
昭和一三年五月二五日、熊本県の野砲隊へ入隊、一か月間の準備期間を終え、汽車で下関へ行き、行き先を知らされず船に乗せられました。船は、中国の武高という町に着きました。そこで、一か月間滞在し、戦争準備に取りかかり、それが完了してから廬山〔ルーシャン、江西省九江市南部にある名山〕へ向かいました。私たちの任務は中国兵の攻撃をくい止めることでした。
私は、観測班として任務を遂行するため常に敵と味方の見える位置で無線や電話、手旗信号で合図を送り、大砲の弾の落下地点を知らせなければならない命がけの任務でした。しかし、私たちの部隊は、とうとう中国兵に包囲され二〇日間も山の中で身動きが取れなくなり、食料もとぼしくなり、モミや唐がらしの葉を食べ命をつなぎました。その間に、マラリアや脚気にかかり死んだ者も多く出ました。
私は戦闘中に胸に弾を受けましたが、妻が持たせてくれた財布の留め金が弾を受けたおかげで九死に一生を得ました。やがて死者も増し、私たちの戦力は衰え、すきをうかがって後方へ退却していきました。その頃私も、すでに、 マラリアと脚気にかかっており、すぐに熊本県の野戦病院に移送されてきました。
日中戦争は、それから泥沼戦争へと発展していきましたが、私は一年間を戦場で、半年は入院生活をして退役しました。日本は中国大陸ではしだいに勝ち戦を展開し、朝晩、旗行列やちょうちん行列が続き、子供から大人まで勝利を喜び戦争ムードは高まっていきました。しかし、戦場では日本兵が中国人に対してとった行動はひどいものがありました。実際、見たわけではないが、耳にした話では、日本兵は軍人、民間人を問わず、刀だめし、ごうかん、略奪など、あらゆる方法で中国人を虐殺していったのです。全ての日本兵がそうだったのではないが、いまだに反日感情が残っているのは無理もないと思います。




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