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    かけはし2020年10月19日号

反改憲の闘いと象徴天皇制批判


「代替わり儀式」で問われたことは何か

天野恵一さんに聞く



  はじめに

 私たちは、一九八八年〜八九年の「昭和天皇」のXデーにあたって天野恵一さんなど、天皇制をメインの課題として闘ってきた反天皇制運動連絡会をはじめとする多くの人びととの共同の闘いに取り組んで以来、天皇制に反対する運動を「実行委員会」の一員として積み重ねてきました。それはもちろん「行動での共同」が中心なのですが、そのためにも、たんにそれだけに止まらない政治的・理論的論議を積み上げて共有していくことが必要でした。
そうした意味からも「かけはし」ではこの間、天皇制をめぐる闘いの節目ごとに反天皇制運動連絡会の天野恵一さんへのインタビューを掲載してきました。この五年間で見れば「『天皇の生前退位メッセージ』をどう見るか」(2016年8月29日号)、「『生前退位特例法』は違憲だ」(2017年7月17日号)、「『天皇代替わり』とどう闘うか」(2018年11月19日号)、「新天皇『即位式典・大嘗祭』に異議あり」(2019年10月14日号)と毎年1回のペースで問題意識を共有するためのインタビューを掲載してきました。
今秋、一連の「代替わり」儀式の締めくくりとして秋篠宮の「立皇嗣の礼」を行うことが予定されています。コロナ・パンデミック危機が続く中で、あらためて「危機の時代」における天皇代替わり儀式の中から見えてくるものについて共有するために天野さんの話を紹介します。(聞き手:本紙編集部)

象徴天皇制の
「改憲形態」へ


現在、コロナ危機の中でさまざまな行動や、イベントを「自制」せざるをえない状況が続いていますが、安倍から菅への政権リレーの中で、来年に延期された「東京オリンピック」に行くまでに「立皇嗣の礼」も準備しなければならない、というスケジュールにそって事態を進めようとするでしょう。天皇が参加する一連の行事は、このプログラムと結びついています。
安倍から菅に変わった政権は、コロナ対策では「部屋にこもって命を守れ」と言って経済的補償もせず、マスク文化もあって東アジア全体として死者が相対的に少なくなっている状況をなんとか利用しようとしています。
「感染対策がそこそこうまくいっている」として、ウイルス感染の規模がそれなりに収まった段階を見計らって秋篠宮の「立皇嗣の礼」を行い、オリンピックで経済の「V字回復」を狙っていました。しかしこの作業は延び延びになっています。
このプロセスで何が起きたか。象徴天皇制の再定義という動きはずっとありました。裕仁、明仁の時代に、これまで「違憲」とされてきた行為を一挙に「合憲」であるとし、明文の改憲前に「象徴天皇制」の下での天皇の行為を限定する規定が外され、「完成形態」としての「象徴天皇制」が「改憲形態」となり、再定義が完了する、ということになっているわけです。

戦後象徴天皇
制の変質形態

 最近、政治学者である御厨(みくりや)貴の『天皇退位 何が論じられたか おことばから大嘗祭まで』という本が中公選書で出版されましたが、彼は「有識者会議」の親玉だった学者です。この本では「象徴天皇制」の「再定義」によって改憲形態をスムーズに実現していく言説のプロセスが明白になっています。この本には多くの学者たちの文章が掲載されていますが、収録された文章の前あるいは後に、いちいち御厨自身のコメントがつくという失礼な本のつくりで、個別の論文を採点するという偉そうな書き方になっています。
彼は「はじめに」の項で「平成の幕引きと共に戦後という時代がようやく『本当に』終わったと実感している」と述べています。
私たちは戦後民主主義の憲法学者がたてた象徴天皇論議の土台が、近代的人権感覚や9条の絶対平和主義とも合わないことにより、天皇制の現実との矛盾が広がっていることを前提としたうえでの天皇制批判を進めてきました。
しかし多くの人びとがこの立場から必然的に出てくる批判も「自粛」してしまったことで、現在がそういう戦後の憲法解釈学の自己崩壊をもたらした局面であると実感しています。戦後民主主義憲法学の終わりを感じざるをえません。
今や「象徴天皇制は民主主義と両立する」ということで、たとえば共産党は天皇制にOKを出し、リベラル民主主義も天皇制を認める。菅孝行さんなんかも「明仁になって象徴天皇制が変わった」としてその流れの中にいる。同様に「政治構造としての象徴天皇制」は明仁で変わったとする憲法学者もいます。
この局面の中で分極化が進んでいくでしょう。政治学者の白井聰も「天皇のお言葉に感激」と奇妙なことを言っている。象徴天皇制と戦後民主主義の「整合性」が強調されて、天皇制批判の認識が全面後退しました。
御厨は「世の中に天皇制批判の運動などない」というふうですが、かなりの全国的連携もふくめて反天皇制運動は決して死んでしまったわけではありません。今後の問題で言うと、御厨の本でも感じたのですが、私たちの運動、すなわち戦後の象徴天皇制の政治性を明確に批判していく運動、つまり、国家との親密感を植え付けるイデオロギー装置、「非政治的」という政治イデオロギーを批判するという課題の重要性は失われていません。
宗教的存在としての関係がそれほど鮮明ではなくなり皇室祭祀のアイデンティティ=「現人神的性格」が後景に退いている中で、「神権的要素」はなくなったというニュアンスのことが語られてきていました。
私たちは「天皇外交」などの政治性を問題にしてきて、その宗教性については十分に対象化できなかったという問題もあります。しかしこの「生前代替わり」の中で、神々の世界のおどろおどろしさが露出していくことから、裏側の宗教性をどのように見定めていくかということも問われるでしょう。前回の時、気づかされたこの二重構造全体を批判し続けていくことが必要です。
象徴天皇制国家は「非政治」という政治性、「非宗教」という宗教性をまとっています。象徴天皇制国家の宗教性を考えるとき「皇統譜」はどういう支配原理、どういう構造で成り立っているのかギリギリのところで自分たちとの関係で捉えていくことが問われるでしょう。

「立皇嗣の令」
は憲法破壊だ


代替わり儀式の最後のところで、今回は立皇嗣の礼が行われるのですが、それは男の子のいない中で秋篠宮が特例法に基づいて皇嗣となる儀式です。安倍政権は「特例法」に基づいて「生前退位」を行い、また秋篠宮を「皇嗣」につかせると規定したわけで、最後まで憲法破壊の儀式となってしまった。その意味で今回の「代替わり」は、「天皇の意向での代替わり」という憲法が否定していたことをやってしまったわけです。
これを批判する声は憲法学者の中でほぼない。このていたらくは戦後憲法学の必然的帰結というべきです。一九七三年、裕仁天皇に、軍備、安保の問題を上奏して、裕仁天皇に「旧軍の悪いところを捨て、良いところを取り入れて頑張れ」と言われたと感激して語り、辞職に追い込まれた閣僚(田中角栄内閣の増原恵吉防衛庁長官)がいましたが、あの時も天皇の言葉を公開した大臣の首は飛んだけど誰も天皇自身の責任は問いませんでした。「天皇無答責」ということが自明の前提になっていますが、特別公務員である天皇には、憲法を守るべき最大の責任があったし、あるのです。
じわじわと腐食が進行し、決壊してしまっても誰も問題にしない。それは現憲法1章(天皇条項)が抱えている矛盾です。護憲憲法学者が天皇におびえてしまったツケがまわってきた、と言うべきです。

運動の歴史を
対象化すべき


状況的に言えば、まずこれらのマイナスを構造的に確認していくことが必要です。立皇嗣の令がその第一となります。運動の社会教育的機能を復活させ、マスメディアの情報や、コンピューターによる情報収集を背景にした思想と論理の後退を克服すること、そして自己教育機能を自覚的に作っていくことが必要でしょう。小さな運動の中でもそうしたところを自覚的に意識すべきです。
反天皇制運動の四〇年の歴史を対象化して、客観的に整理していくことが必要です。その上で、「象徴天皇制国家」への原理的批判を運動としてぶつけていくとともに、その経験を再整理し、未来の運動のために理論的整理を蓄積していくことが必要です。

改憲反対運動
と天皇制批判


確かに今のメディアのていたらくがあり、排外主義を煽る空気がまん延しています。「包囲されている」という反天皇制運動の孤立感も存在しています。しかし否定的にばかり考えないで、孤立を必然化させる支配のあり方を撃ち返す地道な作業に力をつくしていきたい。
最初に挑むべきは、前回の代替わりの時から引き継いでいる、憲法の土俵でとんでもないことが起きていることへの憲法学者の無対応に対して「民主主義」と「天皇制」についての関係を、「自己決定としての民主主義」「運動としての民主主義」「ラディカル民主主義」の観点から、社会の支配的機構に組み込まれるのではない象徴天皇制と対決する民主主義として考える、ということだと思います。
護憲派の民主主義はまだ生きており、私たちは全面的に戦後民主主義を肯定するということはなかったのですが、いま戦後民主主義派全滅で、そういう状況がなくなっている中で、明確な憲法破壊への批判をその土俵に乗ってやる、ということにも関わっていく必要があります。
反天皇制の立場を改憲反対運動の中で提起すること、「護憲」運動の内側から象徴天皇制を批判しぬいていく問題意識、ロジックを明らかにし、反天皇制の課題をこの改憲反対運動の中で訴えていきたい、と思っています。(10月3日)

書評

斎藤幸平著 集英社新書/1020円+税

『人新世の「資本論」』

――エコ社会主義


このような本が新書として出版される背景には、多くの人が「最近の気候は何かおかしい。このままではまずいのではないか」、「問題先送りの小手先の解決策では、異常気象新型コロナウイルスの蔓延に象徴される社会の行き詰まりは解決されないのでは」という危機意識がかなり広まってきているからである。
本書は「はじめに」で、SDGsは気候変動の危機から目をそらさせるアリバイ作りだと批判しマルクスをひいて「SDGsはまさに現代版『大衆の阿片』」であると切り捨てる。ついで、グローバル・サウスや環境に犠牲を外部化(押しつけ)する「帝国主義的生活様式」は限界であると結論し、技術対策による気候対策と経済成長を両立させようとする「気候ケインズ主義」を「絶滅への道は善意で敷き詰められている」と批判し、「経済成長から脱成長」こそが解決策であり、「脱成長資本主義」はあり得ないので資本主義の下での転換は不可能、「脱成長コミュニズム」こそが解決策だと結論。
 そして脱成長コミュニズムの三つの柱として「@使用価値経済への転換A労働時間の短縮 B画一的な分業の廃止」を打ち出し、「帝国主義的生活様式」ではなく「ブエン・ビビール(良く生きること)」を目指すべきという。

マルクスは「脱
成長」論者か


以上本書の内容を要約した。「かけはし」読者には、違和感のない内容なのではないだろうか。「かけはし」読者に違和感がないのは、以上が「マルクス主義と資本論は現代においても有効である」という前提が共有されているからである。ところが社会的にはそうではない。冒頭に紹介した危機感を共有できたとしても、その解決策として「マルクス主義と資本論」は、なかなか共有化できない。そこで著者は多くの人に新しいマルクス像として「進歩史観を完全に捨て、脱成長を受け入れるようになった」、「人新世のマルクス」像を打ち出す。それがコモン主義者としてのマルクスと脱成長コミュニズムである。
しかしこの内容が成功しているとは思えない。著者は、評判の悪いマルクスを受け入れてもらうために、晩期マルクスは「生産力主義の悪魔」ではなく大転換を遂げていたと主張し、その証拠に「ザスーリチ宛の手紙」を引用する。私たちは「マルクスは緑の天使でも、生産力主義の悪魔でもない」1)と考えるが、著者は、晩期にマルクスは「緑の天使」に大転換したという見方である。これは逆に一面的な見方であろう。また民主主義により統制された計画経済ではなく「脱成長」というのも不十分な定義なのではないだろうか。
著者がいう三つの柱からなる「脱成長社会」のイメージは、マルクスが「「共同生産手段を使って労働する、自由な人々の連合体」として理解」したものと重なるはずである。ちなみにこのマルクスの指摘は、著者が生産力主義にとらわれていると批判する「資本論第一巻」の記述である2)。また著者は「エコロジー社会主義」を生産力主義にとらわれている「資本論第一巻」レベルとして切り捨てているが、なぜそうなのかは展開されていない。

問題喚起する
一書として


このように本書の、現代にもマルクス主義・資本論は有効であることを証明しようとする部分は、こここそが著者の独自性なのだけれど、あまり成功していない。また後半部分には「脱成長コミュニズム」へつながる萌芽として世界の運動を紹介し、資本主義に対してコモンの潤沢性を対比させている。
しかしコモンの潤沢性を言うだけでは説得力がないのではないか。資本主義下でコモンを守ろうとした運動は、いずれも困難に直面してきた。私たち的に言えば、三里塚の地球的課題の実験村がそうであるし、ワーカーズ・コープで言えば、七〇年代末から八〇年代初頭に闘われた自主管理闘争の総括などが問われているのではないか。しかし、それは著者の課題というよりもっぱら私たちの課題である。
最後に書名が良くない。「おわりに」で著者もふれているが、気候変動を、資本主義ではなく人類の責任として誤読させてしまう。そのような意味で「帝国主義的生活様式」も気になる。私たちは長時間労働と氾濫する商品に囲まれ「帝国主義的生活様式」を強制されてもいるわけだからだ。また著者が示す「四つの未来の選択肢」は現実的ではない。その四つとは@気候ファシズム(超富裕層だけが特権を享受)、A野蛮状態(大衆の反乱による無政府状態)、B気候毛沢東主義(強権的で気候対策を行う)、C脱成長コミュニズムであるが、A、B等はあり得ない。階級闘争には四択はなく、未来は資本主義かエコロジー社会主義、著者が言うところの脱成長コミュニズムしかない。
しかし、私は著者の危機意識を共有するし、「そろそろ、はっきりしたNOを突きつけるときだ。冷笑主義を捨てて、九九%の力を見せつけてやろう」という決意に共感する。「大洪水を前に」多くの人々とエコロジー社会主義への議論を開始しようとする時に、読むべき一冊である。
(矢野薫)

1)ダニエル・ベンサイド 湯川順夫他訳 『マルクス[取扱説明書]』つげ書房新社
2)ミシェル・レヴィー 寺本勉訳 『エコロジー社会主義 気候破局へのラジカルな挑戦』 つげ書房新社



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